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「いいぞいいぞ、相手の化け物を押さえ込めてる」
 ベンチに戻ると曜さんが千屋さんに抱きつかんばかりに大袈裟に身振り手振りであたしたちを称えて出迎えた。
 千屋さんはそれを受け流し、和食さんから飲み物を受け取った。おそらく曜さんの相手をする体力すら残しておきたいのだろう。
 あたしが和食さんから飲み物を受け取ると、その手は少し震えていた。
「次が最後ですね。試合に出てもいないのに緊張しちゃって」
「安心しなって。必ず勝つから。それと試合を見ていて。来年は和食さんがコートにいるんだから」
 和食さんが顔を輝かせ、はい、と大声で返事をした。
 試合の鍵であるニーさんを見ると、手足を投げ出し、背もたれに全体重を預けるようにパイプ椅子に座っている。かなり消耗していると見ていいはずだ。
 短く笛が吹かれ、両チームがコートに入ることを促された。
「残りの試合に全てを懸けるよ。試合後動けなくなるまでコートに置いてこよう」
 あたしの言葉に千屋さんも北原さんも頷いた。
 最終セットはあたしたちのサーブからだ。北原さんには相変わらずニーさんを狙ってもらう。ニーさんは息が上がっているのに全然ミスをしない。北原さんのサーブがだめなわけではない。これまでは一試合平均で一〇点前後は決めている。今回は相手が悪く、まだサーブで点を取れていない。
 試合開始早々、ニーさんがアタックで三連続得点とし、少し嫌な流れになった。
 そんな雰囲気を察してか千屋さんが手を叩いて大きな音を出した。
「三点差はあってないようなもの。ここからはアタックが三回打てるから取り返す」
 そのことはもう分かっているつもりだ。今回は第二セットと逆で、あたしたちからサーブだった。このままだと……。
 あたしは嫌な考えを追い払った。今はとにかく目の前に集中しなくてはならない。
 あたしがレシーブ、トスをして千屋さんがアタックを打つ。ボールがニーさんのブロックの上をすり抜け、あっさり決まった。
 これには千屋さんもすこし拍子抜けした顔をしている。
 ニーさんを見ると膝に手を置き、顔だけは上げて千屋さんを睨んでいる。
「体力残ってる? ブロック低くなってるよ?」
「たまたま決まったからって調子に乗るな」
 タイ代表になるくらいなのだから相当な練習をしていて、体力に問題はないはずだ。あたしたちの作戦がここにきてじわじわとニーさんを追い詰めているようだ。
 次も千屋さんがアタックを決めた。ニーさんはさっきより強く千屋さんを睨み、千屋さんは涼しい顔で受け流した。
 銀渓最後のサーブはネットに引っかかり、3対3となった。
 ニーさんが銀渓のサーバーである北原さんの幼馴染みを睨んだが、北原さんの幼馴染みは目がうつろで、限界が近いことが覗えた。
 あたしたちにサーブ権が移る。北原さんのサーブはニーさんがレシーブし、アタックへつなげた。
 ニーさんがアタックを打ち、千屋さんがブロックに跳ぶ。ボールが相手コートへ返り、一瞬千屋さんがブロックに成功したかと思ったが、ボールが落ちる前に笛が吹かれ、あたしたちに点が入った。
 よく見るとネットが大きく揺れている。どうやらニーさんがネットに触ってしまったらしい。
 ニーさんは苛立ちを隠そうともせず、バウンドしたボールを天井に向かって蹴り上げた。なにやらぼそぼそ呟いているが、日本語でも英語でもなさそうだ。タイの母国語をあたしは知らないが、おそらくタイ語だ。
 相手がすかさずタイムを取り、あたしたちはベンチへ戻った。
 和食さんから飲み物を受け取り、流し込んだ。胃が受け付けないということにはなっていない。まだまだ動ける。
「4対3の一点リード。全然安心できないし、相手のミスに助けられているけど、流れは来ている。勝ち切りな」
 曜さんが興奮気味に捲し立てた。光明が見えてきたのが大きいようだ。
「相手のサーバー、今まで正確に打ち続けていたのに、どうしたんですかね」
 北原さんは相手コートにいる幼馴染みを少し心配そうに見ていた。千屋さんもチラリと相手ベンチに視線を送り、
「疲労だね。右の視力が弱いんでしょ? ちょっとしたプレーにも神経使うだろうし、ニーさんのアクロバティックなプレーにも注意を払わないといけない。おまけに三試合目。今まで動けていたのが不思議なくらいだよ」
「もう一度北原さんの幼馴染みを狙おう。おそらくニーさんがカバーするはず。そうすればより体力を削れるし、あわよくば点も取れる」
 あたしの提案に千屋さんが意地の悪そうな笑みを浮かべた。
「いい性格してるじゃん」
 笛が吹かれコートに戻り、試合再開。
 あたしの提案通り、北原さんがサーブを打ち、ニーさんが大股で二歩移動し、レシーブした。ニーさんはまたも自分でトスをし、ローリングを打った。
 千屋さんがブロックし、ボールがあたしの目の前のネット上に飛んできた。あたしはすかさず助走をつけ、跳んだ。
 ニーさんが走ってくるのを視界の端で捉えたが意に介さずボールを相手コートへ叩きつけた。これで5対3、流れをつかみかけている。
「あー、分かった」
 ニーさんがあたしたちの方を向きながらネットに体重を預け、両腕をこちら側のコートへたらし、振り子のようにぶらぶらさせた。
「きみたちは強い、認める。楽に勝てる相手じゃないのはよく分かった」
 ニーさんは千屋さんを、そしてあたしを見た。
「ところで、どうかな。二人ともタイに来ない? 本場でセパタクローをやろうよ。こんな島国じゃなくてさ。二人ともきっといい選手になれる」
「ニーさんより強い人はいるの?」
 あたしの質問にニーさんは首を強く横に振った。
「いるわけないじゃん。私が一番強い」
「じゃあ、タイには行かない」
 あたしがそう言うとニーさんは怪訝な顔をした。
「あたしより強い人がいない場所に、興味はない」
「私より強い人がいない場所に、興味はない」
 あたしと千屋さんが同時だった。あたしは千屋さんを見つめ、千屋さんはあたしを見つめた。しばらくしてどちらからともなく吹き出した。
「その言葉、後悔させてあげる」
 ニーさんがそう言うと、ニーさんの纏う雰囲気が変わった。仲間の失点と自分のミスに苛立っていたニーさんはもういない。弾んでいた息も、こころなしか落ち着いている。灰色の目は冷たく、あたしは思わず生唾を飲み込んだ。
 今まで手を抜いていたわけではない。たった今あたしたちを敵と認定した、そんな感じだ。
 北原さんのサーブで試合が再開された。またもニーさんがレシーブ、トスと一人でこなす。ニーさんがジャンプし、空中で回転すると同時に千屋さんがジャンプしたが、ボールはすでにネットのほぼ真下に叩きつけられた。
 今までのアタックよりワンテンポ速い。ボールの軌道も、そんな場所レシーブできるわけがないと思わせる。
 ニーさんが本気になったところで、バスケみたいに二点も三点も入るわけではない。取られたら取り返すだけだ。
 ニーさんが点を取れば、あたしと千屋さんで取り返す。それを何度も繰り返した。

 19対19、サーブ権はあたしたちにあり、三本目だ。勝負所と見てか、曜さんがタイムを要求し、あたしたちはベンチへ戻った。
「大事な場面だよ」
 あたしたちの勝負を楽しんでいるのか、曜さんは鼻息を荒くしている。
「ここで一点取る。次はサーブ権が相手に移って、ニーさんのアタックを受けなくて済むからグッと点が取りやすい。絶対取りな」
「作戦があるから、寄って」
 千屋さんがそう言い、あたしと北原さんは千屋さんの近くへ顔を近付けた。
 千屋さんが説明する作戦を聞いてあたしは思わず笑った。
「千屋さんもいい性格だよ」
 各々ストレッチをしたり飲み物を補給したりして試合再開に備えていると、曜さんが二度手を打ちあたしたちの注目を集めた。
「銀渓はニーさん以外がもう少し強かったらこっちに勝ち目はなかったけど、実力はなんとか五分五分。指導者としてこんなことは言いたくないけど、こうなると精神面が勝敗を左右する。執念を見せな」
 タイムが終わりコートへ戻り際千屋さんが、
「三年」
と呟いた。
 言わんとすることが分からず聞き返そうとしたが、千屋さんはこちらを見ることなく続けた。
「日本一を目指した。だから私たちのほうが強い」
 あたしもなにか言おうかと思ったが、笛の音にそれは遮られた。
 北原さんの最後のサーブはニーさんがレシーブ、トスをした。ここまでは予定調和だ。ニーさんがアタックのためにジャンプした瞬間、あたしと北原さんがネット際へ駆け寄った。
 千屋さんの右に北原さん、左にあたしが位置し、千屋さんがネットを背にジャンプすると同時にあたしと北原さんも後に続いた。全員で背面ブロック、去年銀渓が使った奇策だ。
 ボールが千屋さんの背中に当たったのを横目で確認すると、今度はあたしの背中に当たった。顔を素早く右へ動かし、ボールの行方を追うと、相手コートに落ちる寸前だった。
「去年のお返し」
 千屋さんが雪辱を晴らしたかのような晴れ晴れとした表情をしている。まだ根に持っているのだから、いい性格と言わざるを得ない。
 ニーさんは着地し、必死の形相で足を伸ばした。ギリギリのところでボールに触れ、山なりにあたしたちのコートへ返ってきた。
 北原さんが確実にレシーブし、あたしは千屋さんへトスを上げた。
 千屋さんがジャンプすると同時に、ニーさんもジャンプした。千屋さんのジャンプは途中で勢いが衰え、ジャンプしてすぐに着地した。かと思えばもう一度ジャンプし、ローリングを繰り出した。
 ニーさんは完全に意表を突かれ目を丸くし、落ち際にブロックの上を千屋さんのアタックが通過し、ボールは床に強く叩きつけられた。
 バレーボールで言うところの一人時間差、だ。あたしの全身に鳥肌が立った。この土壇場でこんな大技を繰り出すなんて……!
「右足で打つと見せかけて左足で打つ、なんてちゃちな小技、私は使わない」
 千屋さんがニーさんを見下ろしながら言うと、ニーさんは大きく舌打ちをした。
 20対19、マッチポイントだ。
 すかさず銀渓がタイムを取り、あたしたちはベンチへ戻った。
 曜さんはもうなにも言わない。あたしたちの集中力が切れることを危惧してのことだろう。
「阿河さん、作戦がある」
 千屋さんの言う作戦を聞いてあたしはまたも度肝を抜かれた。

 銀渓のサーブがゆっくり山なりに飛んできた。北原さんの幼馴染みは限界だが、控えがいないため出ずっぱりだ。
 あたしはダイレクトに千屋さんにトスをした。千屋さんとニーさんが跳ぶ。
 千屋さんは空中で回転せず、体勢を崩したまま右足であたしにトスを上げた。あたしの目の前のネット際に綺麗に上がってきた。千屋さんはどんな無茶でもできてしまう。
 あたしはボール目がけ一直線に走り出した。
「最後の最後に使うから奥の手っていうんだよ」
 千屋さんに釣られて跳んだニーさんに、千屋さんは勝利宣言をした。
 当のニーさんは冷静で、それどころかむしろ千屋さんより勝ち誇った表情をしている。
 あたしはクロス方向に狙いを定めジャンプした。後はボールを叩きつけるだけだ。
 突然、打つコースを塞ぐようにニーさんの足が壁のように現れた。
「最後は勝負にこないって思ってた。弱い人間の考えることは手に取るように分かる!」
 ニーさんならきっちりブロックに跳んでくる、そんなことは知っている。千屋さんの作戦を聞いたときからそう思っていた。
 だから、あたしも奥の手を使う。
 空中で打つコースをむりにストレートへ変えるため体をひねった。首の右根元が、背中が、脇腹が、右足の付け根が痛いが構いやしない。
 ボールを打ち抜いた。千屋さんが曜さんを越えたあの日のように。
 ボールが床に触れ、あたしたちに一点入るのを見届け、あたしは右肩から着地した。一瞬激痛が走ったがそんなことどうでもよかった。汗も涙も痛みも歓声も勝利も全部あたしたちのものだ。
 仰向けになると、体育館の照明があたしの視界を覆った。世界がぐらぐらしている。
 黒い影が現れ、あたしに手を差し伸べた。あたしはそれを掴み立ち上がった。千屋さんだ。
 手を離し、あたしは両腕を高く掲げた。千屋さんも両腕を高く上げ、ハイタッチした。続いて北原さんともハイタッチをした。
 千屋さんをちらりと見た。そこには自然で本当の笑顔があった。
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