【本編完結】明日はあなたに訪れる

ぶんゆ

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こぽこぽと注がれる湯飲みから真っ白な湯気が立つ。

見慣れた、数年前まで暮らしを営んでいた景色も今日はいささか違って見える。

「はい、どうぞ」

「ありがとうございます」

「ありがとう」

目の前に差し出されたのは、洋子さん手ずからいれた緑茶。
客人をもてなすときや大事な話をするときはコーヒーとかではなくて緑茶なのが塩沢家のお決まりだ。

今日はいよいよ、おれの実家、つまり洋子さんとの顔合わせ。
顔合わせといってもおれ達二人とも毎日のように会ってはいるんだけども。

朝から死にそうな顔をしていた理央を連れて久々の実家帰りだ。

「ふう…いつでも帰ってこいとは言ったけどさすがに予想外だったよ」

湯飲みを口から離して洋子さんがポツリと言う。

「で?一応要件をきちんと聞かせてもらおうか」

くりっと首を傾げた洋子さんを前に、隣からゴクリと唾をのむ音が聞こえた。


「私、柳理央は雪惟さんと真剣にお付き合いをさせていただいております。今日はその報告と交際を認めていただきたく伺いました」

背筋をピンと伸ばした理央がはっきりと声を通す。
正直なんか面接みたいだけど、朝とは別人のようなその態度はおれを惚れ直させるには十分だ。

「…もし私が認めないって言ったら?」

(おっと…)

元々飄々とした人だけど、我が母ながら今回もなんとも掴みづらい。
理央の心臓は縮み上がってしまったかもしれない。
ここはおれが答えようかと口を開いた、のだけれど。

「認めてもらえるまで必死で努力しますよ。…でも男だから認めてもらえないというなら。…貴女には悪いとは思いますが遠くへ逃げてでも、ゆきは離しません」

その視線と声の硬さに、ぞくりと背筋が凍るような気さえした。

「本気?」

「ええ、もちろん」

にこりと余裕さえ感じさせる笑みまで浮かべる理央。

下腹部から頭のてっぺんまで、ぞくぞく、いやビリビリと刺激が走る。
さっきとは違う。
これは恐怖じゃない。快感、そして幸福だ。
狂気の片鱗さえ感じさせる執着を、愛情を、向けられている。そのことに身もだえんばかりの幸福感が溢れる。

「…洋子さん。そうなったらおれもこいつにしがみついて一緒にいくよ」

隣のでかい身体がピクリと動くのが分かる。
顔を向ければ手を握られて、それに返すように微笑む。
おれはきっと、うっとりという言葉がぴったりな顔をしているだろう。

黙って見守っていた洋子さんが、背もたれに体を預け軽く鼻を鳴らす。

「ふん。私が認める認めないって話じゃないだろう。ふたりが幸せと感じて、共に生きようって強い決意があるってんなら、私が言うことは何もないさ」

にかっと笑う彼女は、おれが尊敬してやまないいつもの洋子さんで、ほっと肩の力が抜ける。同じようにきつく握られていた手も少しだけ緩んだ。

「…雪惟を引き取って、育てて愛してきたことを後悔したことなんて一度もない。はっきりといえるね。だけどこうやって、誰かを愛してくれるようになったんだと思うと、やっぱりなにも間違っちゃいなかったんだって思えるよ」

洋子さんと雪子さん。見た目は全く違うのに、ふと二人が重なって見えた。

「洋子さん…さっきあんな事言ったけど大好き。離れたくなんてないよ」

「ふふ、忠義さんと一緒に心から祝福するよ」

「ただよしさん…?」

「ああ、この子の父親で私の旦那様さ。…そうか。雪惟、どこまで話した?」

おれの生い立ちの話だろう。

「洋子さんから聞いた話は全部」

「そう。じゃあ私から話すことはないかな。嘘偽りなく祝福するよ
…でも、それは個人としての話だ」

緩みかけた空気にまた緊張が走る。

「…仕事のことですか」

「そう。母親としては応援したい。でも社長としてはそういうわけにもいかない」

洋子さんは湯飲みを傾け冷めかけた緑茶を飲み切って話を再開させる。

「今のご時世、男同士だって関係を疑われるのはわかってるだろう?」

「はい」

「柳がうちのタレントで、そうなる可能性がある以上、呑気に見逃すわけにもいかない」

実はおれ達の間でも、この件を追及されるであろうことは話にのぼった。
そもそも勝手に同棲まで始めてしまっている。その可能性を示されると痛い。

「洋子さっ…
「でも。今までの言動をみて、プライベートとの割り切りはちゃんとできてるみたいだし、雪惟も隼人の担当できなくなるようなことはやらかさないでしょ」

ここで断ち切られてたまるかと必死で言い募ろうとしたのを遮って告げられたのは、予想外に肯定的な言葉たちだった。

「え…?」

理央もきょとんとしている。

「とりあえず今後も様子は見させてもらうよ。もしすこしでも緩みが見られるようなら引き離すこともあると思って。特に柳は1回撮られてる分、警戒を怠らないように」

「はい!」

「どーせ、ここで反対したってさっきみたいに脅しみたいなこと言ってくるんだろうし。私にとって雪惟は最も効果のある人質だもんな」

声をあげて笑う洋子さんはすっかり母親の顔だった。



「そういえば、あんたたち」

洋子さんを制して久々に立った台所でおれがいれたお茶をすすりながら、三人で会話を弾ませていればふと洋子さんが声をあげた。

「ん?なに?」

「結婚は考えてんの?」

「え…っと」

(結婚、けっこん…?)

思わず理央と顔を見合わせる。

「考えてなかったのかい?挨拶に来るってそういうことかと思ったのに」

「あ~」

おれとしては、考えたことないと言えばウソになる。

理央と、愛する人と家族になる。
幸せなことなんだろうとは思うけど、『ピンとこない』というのが正直なところだ。
同じ家で共に生きて、お互い愛し合って。結婚という契約を結ぶことでそこに一体何が加わるのか、いまいちわからない。元々結婚願望がなかったこともあってそこまで真剣に考えを巡らせたことはなかった。

「…まあ、あんた達はまだ若いわけだし分からんでもないけど。でもね、せっかく制度も法律も恵まれた時代に生まれたんだから、それを活用しない手はないと思うよ」

じっとおれ達の顔を交互に見つめる彼女の真剣な雰囲気に呑まれて唾をのむ。

「私も結婚なんて紙切れ上の約束事だと思ってたし、そんな興味もなかった。でも、その紙切れが力を発揮してくるのはね、どちらかに何か起こった時だよ。忠義さんが倒れて入院した時、あの紙切れによってつくられた肩書があったことにホントに感謝したよ。それがあるだけで、いろんな手続きもできるし立ち合いも…最期の時に真っ先に連絡をもらうこともできた」

幼い俺の目からみても洋子さんと忠義さんはとても仲が良い夫婦だった。
ふたりともお互いが一緒にいる時が一番よく笑ったしよく喋った。
まるで気の置けない兄妹のようでもあり、確かに愛し合っている夫婦でもあった。
忠義さんが入院していた時期、彼女はとても気丈にかつ献身的に夫を支えていた。
彼が旅立った時、おれは初めて洋子さんの涙を見た。


「ふたりでちゃんと話し合いな」

あの日から1度も涙を見せない女性は、視線の鋭さを緩めておれ達に微笑みかける。

理央はじっと膝に置いた自分の手を見つめていた。
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