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1章

7話

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「今日はなんて一日だろうかねえ。怖がるべきか楽しむべきか…」

1人になった部屋で山本さんは苦笑をもらします。
ごろりと畳に大の字で転がると、鼻を通る新鮮ないぐさの匂い。自然と大きく息を吸い込みました。
しばらくして満足するともそもそと身体を起こし、机の上の湯呑みを手に取ります。

「なになに…思えば叶う、だったか。到底信じられんがまぁ…どれひとつ、やってみようかねえ」

両手で包み込むようにして湯呑みを持ち上げ、目を閉じます。

胸はドコドコと激しく打ち、先程「おまじない」をした時の何倍もワクワクとした気持ちが溢れてきます。無意識に上がる口角は抑えきれないものの、山本さんは一生懸命
(茶が飲みたい茶が飲みたい……)
と念じ続けました。

10秒ほどそうしていた時、山本さんは手のひらがじんわりと温かくなるのを感じて、ハッと目を開けました。

「おお…!!!茶が…!」

手にしていた湯呑みには熱々の茶がなみなみと入っていました。

しかも、緑茶ではなく心地よい香ばしさの立ちのぼるほうじ茶です。
美代子さんの好みの影響で、2人の家では「お茶」といえばほうじ茶のことですから、そこがしっかり反映されたのでしょう。
火傷しないようにとそろりそろりと口をつけ、香ばしさを口に含みます。

「ああ、これはすごいねえ。もう何だか分からんがいいもんだ」

山本さんの顔がほころびます。

「はあ…。そもそもなんでこんなところに来たんだったか…。歳を食うと忘れっぽくなるのがいけないね」

ずずっ…また一口茶をすすりました。

「…ああ、そうそう。美代子の鍵を探していて、あまりにも見つからないもんだからギンキョウサンに頼ろうと…。…美代子、鍵……鍵!!」

山本さんは湯呑みをガン!と机に置いて、勢いよく顔を上げました。
本当にすっかり、驚くほどごっそり、抜け落ちて忘れていましたが、山本さんは大層困っていたのでした。
その原因は、大切な伴侶の美代子さん、彼女が大切にしている鍵です。

美代子さんは山本さんの中学からの同級生ですが、その頃からずぅっと大切にしている箱があります。
今ではもうすっかり剥げてしまいましたが元はとても綺麗な塗装のしてあった赤い木箱で、ちょうどノートなんかがすっぽり入るぐらいの大きさです。
高さは4,5センチほどとかなり使い勝手のいいものだったので、美代子さんはいつからか宝物をその箱にしまうのが習慣になっていました。

時々職人に修理してもらいつつ大事に使っていたその箱に、頑丈な鍵をつけてもらったのは何年前だったでしょうか。山本さんはバリバリ現役で働いていたので15年は前の話です。
中に何が仕舞われているのかは決して教えてくれませんでしたが、あんまり大切にしているもんだから、それなら鍵をつけたらどうだと山本さんが提案したのです。

美代子さんは早速翌々日ぐらいにはお店に木箱を持っていき、数日後に長辺にそれぞれ1つずつ鍵をつけられたものを持ち帰ってきました。木箱に取り付けられたのは、ちゃちな南京錠などではなく、わざわざ厚みを足して付けられた本格的な鍵穴です。専用の鍵はひとつっきりで、美代子さんはそれをまた大切にヒミツの場所に隠しました。

山本さんは美代子さんの宝物箱をこっそりと暴こうなんて下品なことは考えませんでしたし、美代子さんも山本さんを信じていました。

それなら何故鍵をつけたのかと聞かれれば、ただそっちの方が「宝物」らしかったからというだけです。山本さん夫婦はそういう子供のような楽しみを追い求める部分がそっくりでした。

とはいえ、鍵をつけたということは当然鍵がなければ箱は開きません。それに鍵がひとつしかないということは、その鍵をなくせば一巻の終わりというわけです。

ある日、いつもの場所にきちんと仕舞っていたはずなのに鍵がないの、と山本さんに相談してきた美代子さんの目は涙の膜が張っていました。
可愛い奥さんを悲しませたままではいられません。その日の予定を返上して2人で1日中鍵を探し回りましたが見つかりませんでした。

残念だが諦めて新しく鍵を作ってもらおう、と考えましたが肝心の職人さんに断られてしまいました。そもそも自分は鍵屋ではないから、箱に鍵と言う細工を取り付けることはできても鍵自体をどうこうすることはできない、と。言われてみればその通りです。その後訪ねた鍵屋さんにも元となる鍵がなければ難しいと言われてしまいました。

それに20年近く愛用しているうちに美代子さんは鍵自体にすっかり愛着を抱いているようです。元々美代子さんは物を大事にする質で、大事にし過ぎてゴミ同然のものを山のようにため込んで山本さんに怒られるような人でしたから、それも当然と言えました。

そんな彼女も1週間2週間と見つからないまま時が過ぎるうち諦めが付いたとみえて、つい先日「ごんちゃんありがとう。もう大丈夫よ」と微笑みながら言ってきました。なので山本さんも頭の片隅では気にしつつも積極的な鍵探しは終いにした、のですが。

あれは3日前の深夜、寝床から出て廊下を歩いていたときのことです。

台所までの道すがら、山本さんは目にしたのです。
ぼうっと電気の漏れる居間で、開かない木箱を前にポロポロと静かに涙を流す美代子さんを。
その後山本さんは寝ることも出来ず、朝になると美代子さんの顔すら見ないまま何かに急かされるように家を出ました。

なんの当てもないけれど、ただ鍵を探すために。

しかし、長い間探しても影も形もなかったのです。町をどれほど歩き回ろうがちっとも鍵は見つかりません。

そうして「今日こそ」「今日こそ」と毎日町を歩き回り、今日偶然にもやってきたのが「ホテルいちょう」なのでした。

「私は何をのんびり寛いでいるんだか…全く」

山本さんはすっかり目的を忘れ去っていた自分自身を叱咤しました。
苦い顔で乱暴に置いたせいでお茶が飛び散ってしまった湯呑みの周りを、近くにあった布巾で拭います。

「……。…はて?布巾なんてあったか?
 …あ、そうか。私が欲しいと思ったから、」

そこまで呟いて山本さんはハッとします。

握りしめた布巾を見つめ、半分ほどお茶の残った湯呑みを見つめ…おもむろに立ち上がりました。

「ここで鍵が欲しいと望めば鍵が手に入るじゃないか!」
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