1 / 1
今日、離婚届に判を押す
しおりを挟む
十年付き合っていた大地が夫になったのは四年前、二十八歳の時だった。十代の終盤から二十代の終盤まで全てに彼氏としてその存在があって、三十代以降は夫として、生涯私の隣には大地がいるのだと信じて疑わなかった。お互いもう知らない部分などないと思うくらい一緒に過ごしてきて、他の相手なんて考えられないくらいしっくりきていて、刺激はないけれど結婚は生活だと考えれば穏やなこの関係がベストなのだと思っていた。
けれどどれだけ長い間付き合っていても、一緒に暮らさなければ見えてこない部分があると知ったのは新居に越してすぐ、それこそ結婚式が終わってまだほんの一カ月の頃だった。
結婚前、周囲には強く同棲を勧められた。一緒に暮らしてから合わなかった時に、別れたいと思ってもただの同棲と婚姻関係にあるとでは全く異なるからと。けれど大地の母親から、一緒に住むならばまずは籍を入れることを条件とされていたことと、私たちは社会人になってからの数年、互いに自分の家はあるけれど半同棲状態だったのもあって全く問題ないと思っていたため、同棲と籍を入れるのタイミングがほぼ同時となった。それに保険的な意味合いの婚前同棲に、私も大地も否定的だったのだ。合わなかったら別れるって何?私たちに限って今更合わないから別れるという選択肢はありえないでしょう、そう思っていた。
私たちは何もわかっていなかった。半同棲と同棲には天と地ほどの差があることを。恋人が夫婦になるだけで、修復不能な亀裂が入る事があることを。
結婚は生活とはよく言ったもので、ひとつひとつの亀裂は些細なことだった。洗濯ひとつをとってみても、使用する洗剤や柔軟剤が合わない、干し方が違う、畳み方が違う。それで大地は私をまるで非常識な人間であるかのように責める。私からすれば大地のやり方が間違っているので、結果互いに互いを非常識だと罵り合うことになってしまう。今までだって大地の家で洗濯をした事がないわけではないのに、なぜ今更こんなことを言われなければならないのかと問えば、今までは他人だったから仕方がないと思っていたけれど、これからずっとこのやり方を通されたらストレスが溜まるので最初に修正したいと言い出す。修正って何よ、そっちがおかしいんだからあなたが正しなさいよ。と、終始このような感じだ。洗濯に限らず、料理の味付けも、掃除の仕方も、何もかも合わなかった。今までは目を瞑っていられたことにいちいちめくじらを立てて、互いに妥協することもできず、話し合いではなく喧嘩になってしまう。
たまらず友人に相談をした時、結婚して七年になるその人は「一緒に暮らしはじめた頃はうちもいっぱい喧嘩したわ。今は穏やかなものよ、他人同士が一緒に暮らすのだから当たり前よ。優子たちもそのうち妥協するポイントに落ち着くわよ」と言ってくれた。そうかそのうち落ち着くのか、ならば少し待ってみよう。きっと結婚前に同棲をして別れるカップルは、この我慢のポイントを乗り越えられなかったのね。こっちはもう結婚しているのだから離婚なんて簡単に出来ないし、少し辛抱したのちに穏やかな彼との日常が待っているなら乗り切って見せようじゃないか。そう思うと、やはり結婚前の同棲はしなくてよかったのだ、これでもしただの同棲だからと喧嘩の勢いで別れてしまっては勿体ないと、その時は謎の自信に満ちていた。
大地も私と同じように、この不毛な争いにもいつか終わる日がやってきて、付き合っていたころのように軽快な会話をする日々がまた戻ってくると思っていたらしい。珍しく穏やかに過ぎた休日の午後、二人でソファーに寄り添いながら、大地がはやく普通に戻りたいねと言っていた。なんだやっぱりそういうことよね、今は慣れないことに戸惑っているけど、私たちは大丈夫、そう信じていたのに、一番大事なことを見落としていた。私たちはとてもよく似た思考を持っていて、二人とも、いつか相手が自分に合わせてくれると思い込んでいた。おかげでいつまでたっても、妥協もすり合わせもできなかった。
「合わない、根本的に、絶望的に合わない」
「合わせる気がないんでしょ」
「あっちがね。こっちが一度でも合わせてみなよ、あいつ絶対に全部自分の良いように仕切ろうとするわよ」
「間を取れないわけ?」
「無理無理、あいつの中に妥協という文字は存在しない」
「お互いさまなんじゃないの?」
「私は歩み寄ろうとしてるわよ、でもあっちは歩み寄りじゃ満足しないの。本当何様のつもりなんだか」
友人への愚痴が止まらなくなったのは結婚して一年が過ぎた頃だった。今になってみれば私も全く歩み寄っていないことがわかるのだけれど、当時の私は自分にも悪いところがあるなんてこれっぽっちも思っていなかった。この頃には既に十年共に過ごした男への愛は遥か遠い思い出になっていて、毎日家で顔を合わせる夫を煩わしく思う日も増えた。そのうち落ち着くと言っていた友人も、さすがに一年経っても喧嘩がなくならないのは長すぎると呆れ顔だった。
「喧嘩の内容は相変わらずなの?」
「とりあえず、家事のことで喧嘩するのはいい加減うんざりだから、今は洗濯物と食事は各自でやってる。掃除も共有部分は役割を分けて、自室は各自」
「寝室別なんだ」
「はじめは一緒だったんだけどね、途中で客間を私の部屋に変えたわ。隣でなんてもう寝られないわよ」
「家庭内別居じゃん」
「まさにその通り」
相変わらず些細なことで喧嘩をするものの、部屋を分け家事を分けてからはグッと減ったので、ストレスは少なくなった。しかし会話をすることも極端に減って、一緒に住んではいるが一緒に暮らしてはいない、そんな関係になっていた。これならまだシェアハウスに暮らす他人同士のほうが良好な関係を築けているだろう。
「別れるの?」
「正直、今更別れたところで、じゃあどうすればいいのって思うと踏ん切りがつかないんだよね」
「付き合ってる期間が長過ぎた?」
「そうかも。十年分の思い出が、しがらみになってる感じがする」
今更大地と別れたところで、残るのは三十代が差し迫る自分だけ。今時バツイチなんて珍しくもないけれど、この歳で離婚して、一人で生きていく覚悟もないし、新しい恋のはじめ方なんてもう忘れてしまった。何より十年大地と過ごしてきた時間を無駄にするようで、勿体ない気がして、まだ諦められなかった。
こう着状態のままもう一年が過ぎた結婚三年目、大地が変わった。それまではたとえ会話が減っても、喧嘩をしても、それでも私たちは夫婦で、時には仲良く過ごす日もあったのに、あからさまに私を邪険にするようになった。理由はとても簡単で、女が出来たことはすぐにピンときた。私は大地とのこれまでを無駄にしないよう努めてきたのに、彼はいとも簡単に、私との思い出を丸めてゴミ箱に捨ててしまったのだ。
腹が立って悔しくて大地を責めた。彼がそれでも私をぞんざいに扱うのをやめないと、今度は相手の女を突き止めて大地と会っている最中の家に押し入って相手に掴みかかったし、その後も交際をやめない図太さに苛立って女の会社にも乗り込んだ。まだ彼を好きだからとか、他の女に取られた事が悲しいだとか、そんな可愛いものじゃない。私は我慢しているのにどうしてあなたは出来ないの、いつも私が損をしている、こんなの不公平だと当たり散らしただけだ。当然そんなことで大地が戻ってくるわけもなく、彼は私をこの部屋に残して、必要最低限の荷物だけを持って女の家へと逃げていった。
彼が出て行った後のリビングには、離婚届と共に簡単なメモが添えられていた。男の人にしては丸みのある大地の字で、次の更新が来るまでの一年半はこの部屋の家賃を払うことを約束するので、それまでの間に新しい家に引っ越してほしい事と、離婚届に判を押して提出してほしい事が書かれていた。離婚届には既に大地の名前が書かれていて、証人欄もひとつ埋まっていた。つまり一年半分の家賃が慰謝料兼手切金というわけだ、ずいぶん用意周到なうえに安上がりじゃないか。一方的に別れを決めて逃げていった夫に呆れたものの、半分記入済みの緑色の紙切れを見つめていると、なぜか少しだけ冷静になれた。
大地と私は同い年でほぼ同じだけの稼ぎがあり、貯金は各々個人の通帳に入れていたので私にもそれなりの蓄えがあった。何も大地と暮らしたこの部屋にそのまま住み続ける必要はなく、離婚届だって今すぐ書いて提出しても良いとさえ思った。けれど冷静になったからこそ、貰えるものは貰っておいて、浮いたお金を自分のために使おう、いつ提出されるかわからない離婚届にやきもきするあの人たちをせせら笑ってやろう、そんな気持ちの余裕も生まれた。
「星野さん、結婚してるって本当?」
「誰から聞いたの。私が結婚してる事を覚えてる人がいるなんて意外」
残業中、隣の席の佐野くんがおにぎりを頬張りながら私に聞いてきた。彼はこの春支社から異動してきた人で、まだ三カ月しか隣で仕事をしていないものの、人たらしという言葉がよく似合うほど、あっという間に部内の人気者になった。私自身、仕事にいつでも前向きで、楽しそうに他人の話を聞く佐野くんの姿勢に好印象を持っている。歳は私の二つ上だけれど、中途入社なので同期にあたる彼とは、はじめこそお互い敬語で話していたものの、隣同士ということもあってすぐに打ち解けて、どちらともなく終業後やこうして残業をしている時に限り、敬語を使う事をやめるようになった。
「マジで結婚してんだ、全然そんな雰囲気ないね」
「旧姓のまま仕事してるしね、指輪もしてないし、何より来月離婚予定だからね」
「え。来月って、もうすぐじゃん」
「ふふ。今年で四年なんだけどさ、最初からつまずいちゃって、もう一年半も別居してるの」
「そうなんだ、じゃあ今一人暮らし?」
「そう、そこも今月中に引っ越して、離婚届を提出したら、名実共に独身に戻ります」
サバサバと答える私に佐野くんは呆気に取られたようで、口に運ぶ予定のおにぎりが五センチ下で止まっている。
「離婚する人ってこんなにサッパリしてるもんなんだなあ」
「暴れるのも落ち込むのも、もうひと通り終わったからね」
私は丸々一年半、大地と暮らした部屋に一人で住み、身辺を片付けながら悠々自適に過ごしてきた。仕事にいかせる資格も取ったし、今まであまり気にしてこなかった自分の見た目も見つめ直した。三十代になってたるんできた身体を引き締めるためにジムに通って、二十代半ばから停滞していたメイクの道具も方法も、流行りと年齢に合わせたものに変えた。自分に自信が持てるようになると心が軽くなって、余計な雑念が消えた分仕事にも一層打ち込めた。多分これまでの人生でいちばんメリハリを持って過ごせた一年半だったと思う。ただ一点、新しい恋だけは、やはりはじめ方がわからないままだったけれど。
「佐野くんは、独身だっけ」
「そーだよ、最近親が嘆き始めた」
「それは大変だね。彼女もいないんだ?」
「いないねー。星野さんは?」
「いないいない」
「やっぱ離婚してからじゃないと恋愛解禁はできないって事?」
「そういうのではないんだけど、夫とは結婚する前十年付き合っていたから、新しい恋なんて、もうやり方がわかんないのよね」
「それは勿体ない。どう?試しに俺と恋愛してみるっていうのは」
あら意外、そういう冗談言うタイプなのね。
「社内の人は、ちょっとなー」
「ちょっとなんだよ、ダメなの」
「面倒くさそうじゃない?」
「そう?俺は良いと思うけどな、社内恋愛」
何か想像をしはじめた佐野くんをよそに、私は残っていたハムとたまごのサンドイッチを口に押し込んで、キーボードをカタカタと鳴らす。学生時代からずっと大地と付き合っていたから、社内恋愛なんて当然考えたことがなかった。それにもし仮に今後新しい恋をするとしても、同じ職場の人とは想像がつかない。職場を除外してしまえば新しい出会いなどないに等しいかもしれないが、仕事もプライベートも一緒というのは、息が詰まりそうなのでできる限り遠慮したい気持ちになる。せめてフロアが違うか部署が違うかしていないと、家でも仕事の話をしてしまうだろう。そう思うと、佐野くんは私にとっていちばん恋愛対象から遠い存在という事になる。
「星野さん、俺の話聞いてる?」
「ああ、ごめん聞いてなかった。何?」
残務を片付ける私の横で、佐野くんは社内恋愛について語り続けていたらしく、一人で喋ってた俺、恥ずかしい……と顔を覆った。
「いや、仕事中に話してた俺が悪いわ。仕事しまーす」
「今度飲みに行った時にでも聞かせてもらうことにするわ」
「お、星野さんからの飲みのお誘い、言質取りました」
「誘ったわけではないけれど、そうね。離婚が成立したら一杯付き合ってもらおうかな」
「喜んで。引っ越しでもなんでも、男手が必要ならいつでも手伝うからね」
「あ、それならひとつお願いがあるんだけれど」
なになに?と目を輝かせた佐野くんの瞳は、私の次の言葉で一瞬にしてなんとも言えないほどどんよりと曇った。
三日後の土曜日の午後、荷作りに区切りをつけた私は、仕事に行く日よりもほんのり甘めにメイクをして、いつもより少し高いヒールを履き、ミモレ丈のプリーツスカートをなびかせながら家を出た。結婚して以来ずっとショートヘアの髪も、軽く巻いて毛先を遊ばせてメイクと服の甘さに合わせた。これで会社の人に会うと思うと少し恥ずかしかったけれど、久々のデート仕様に気分が上がったのも確かだ。
待ち合わせのカフェに着くと既に佐野くんが座って待っていて、私の装いに目を丸くしていた。自分が指定したんだから、そんなに驚かなくても良いではないか。
「なんか、変?」
「いや、めっちゃ可愛い。普段の星野さんてどっちかというとカッコいいから、ギャップ萌えだわ」
「そりゃあ、仕事とデートじゃ差が出るもの」
可愛いなんていつぶりに言われただろうか、ちょっとやそっとじゃ思い出せないくらい前なのは間違いない。頬が熱を持つのを感じて、恥ずかしくてわざと可愛げのない受け答えをしてしまった。
私の格好を上から下まで吟味した佐野くんが満足げに笑ったので向かいの席に腰を下ろし、先に済ませてしまおうという彼の提案に乗って、家から持ってきた離婚届を差し出した。
「本当に、まだ結婚もしていないやつに離婚届の証人欄をお願いするなんて、ひどい話だと思わない?」
「既婚の友達にも断られて困ってたの。引き受けてくれてよかったわ」
婚姻届と違って、相談した友人には縁起が悪いからと渋られた。だから本当は帰省の際に母親にお願いするつもりだったけれど、去年の暮れはいろいろあって帰省できずにいたため、猶予のひと月前になっても証人欄は空欄のままだった。
「それにしてもまさか、引き受ける代わりにデートの格好をしてきてって言われるなんて思わなかったよ。佐野くんて変わってる」
証人欄に名前を書いていた佐野くんが顔を上げて、こちらをじっと見た。
「だってせっかくなら、何かご褒美になるようなものがあるほうがいいじゃない」
「これ、ご褒美になるの?」
「なるなる。事実俺は今、普段じゃ見られない星野さんの一面を見ることができているからね」
「それにしてもこんな格好、本当にいつぶりにするかわからないわ」
おかげでおとといはショップに駆け込んで、新しい服を見繕うことになった。デートの格好で会うことを指定された日の夜、家に帰ってクローゼットを開けてみたはいいものの、とてもじゃないがデートに着て行けるような服は入っていなかったからだ。仕事を定時で終わらせて、化粧室でメイクをオフ仕様に直してから買い物に行くなんてこと、もう何年もしていなかった。いざショップについても服だって何を選んだらいいかわからず、店員と「デート服とはなにか」について一時間も喋りながら選ぶことになったし、今日着ている服以外にもたくさん、デートの時の女らしい、明るくて可愛い服を何着も買い込んだ。今日以外に予定もないのに、この後引っ越しのために全部段ボールに詰めなければいけないのに、荷物を増やして馬鹿みたいだと思ったけれど、服を選んでいるとき、私はとても楽しかった。男の人と会うために、どんな格好をしていこうか悩むことも長い間していなかったから、それだけで心はときめいた。このときめきは一年半前にメイク道具を一新して、自分が一番よく見えるメイクの研究をしはじめた時とよく似ているけれど、それとはまた違う高揚感だった。
「星野さんは、ここまだ書いてないんだね」
住所もすべて書き終えて印鑑を押した佐野くんが、空欄のままになっている私の署名押印欄に目をやった。
「うん、ここは最後の意地みたいなもんかな」
マンションの管理会社に確認したとき、部屋は来月大地が立ち会って引き渡すことになっていた。だから私がいつ出て行っても関係ない。離婚届だって、早く出そうが遅く出そうが関係ない。けれど私はどちらもぎりぎりまで時間を使った。大地が帰ってくるのを期待したわけでも待っていたわけでもないのに、手放せなかった。この紙が私の手元にあるうちは、わずかでも、ほんの一ミリ程度でも、まだ大地との縁が切れていないことが、私を安心させていた。
「旦那さんのこと、まだ好きなんだ?」
「どうだろう。好きとは違う気がする」
「違うの?」
「私ね、十代の頃から夫と付き合ってたの。夫の前に付き合った人もいたけれど、一年にも満たない付き合いばかりで、私の中で男の人は夫がすべてだった。ここに判を押したら、そのすべてが無駄になるんだと思ったら、なかなか押せなくて」
これは夫への未練ではなくて、自分への執着だ。ひどく醜くてみじめな執着は、自分を見つめ直すために費やした一年半の生活を経ても、残念ながらなくなることはなかった。
「そっかあ、俺はそんなに長く付き合った人はいないから、その辺りはわからないけど」
「実は、心はそんなにサッパリしてないのよね」
「逆に安心したかも」
「なんで?」
「そのほうが人間らしいじゃん。長く一緒に過ごしてきたのに、いくら時間を置いたからって、あっさり忘れられるほうが寂しいよ」
ああ、そうか。佐野くんの言葉に、ストンと落ちるものがあった。
私、寂しかったのね。
自分の中にあった寂しさに気づいた途端、いつもより入念にマスカラをつけた下まつげから涙が滑り落ちた。結婚してからこれまで、どんな喧嘩をした時も、女を作って出て行った時でさえも、泣いたことなんてなかったのに。止まらない涙に困惑して指で拭おうとする私に、佐野くんが待って待ってとハンカチを渡してくれる。
「せっかく可愛くしてるのに、指でこすったら崩れちゃうよ」
「ごめん、ありがとう」
借りたハンカチで涙を拭いた。そういえばこの後デートらしく映画を見に行く約束をしていたんだった。
「映画、何時だっけ」
「一時四十五分、まだ余裕があるから、もう少しゆっくりしていこう」
「そうね。映画も久々だなあ。楽しみ」
「俺でよければいつでも付き合うよ」
「嬉しい。こうやって遊ぶ男友達なんてはじめてできたかも」
「そこは、彼氏候補じゃないの?」
「だって、同じ会社の、隣の席だし?」
「これは本格的に社内恋愛の良さをプレゼンしたほうがよさそうだな」
また言っている。きっと女性にモテるだろうに、わざわざこれからバツイチになる女を口説かなくてもいいのに。
映画は流行りのアクション映画だった。ちょっとコミカルで、恋愛要素もある王道ストーリー。愛し合う二人が互いの組織を裏切って共に戦うシーンは、ハラハラドキドキ、思わず両手を握って食い入るようにスクリーンを見た。そんなことを観終わってからカフェに戻って佐野くんと語り合っていたら、気づけば外の色が変わり始めていた。
「夕飯も一緒に食べられたらよかったんだけど」
「もともと先約があるところに私が割り込んだんだから仕方ないわよ、また今度行こう」
「離婚が成立したらの一杯?」
「ふふ、そうね」
笑う私とは対照的に、一瞬佐野くんが真剣なまなざしを向ける。私をまっすぐ見つめるその瞳に、心臓が強く跳ねた。
「星野さんの離婚が成立したら、もっとガツガツ口説くから」
「え?」
「既婚だって聞いた時、本気でショックだったんだから」
「ええ?」
「異動してきたときから、ずっといいなって思ってたよ」
「ちょっと待って……本気?」
「超本気」
次の言葉を紡ぐ暇もなく、帰ろうかと言って、困惑したままの私の手を引いて佐野くんはカフェを出た。駅まで歩く道のりはずっと無言で、私も何も聞けなくて、けれど手だけはずっと繋がれたままで、彼の体温が私の指先に流れてきた。
「じゃあ、また月曜日に」
「あ、うん」
駅に着いてようやく口を開いた佐野くんは、ちょっと照れた笑顔で小さく手を振った。私も小さく手を振り返して、改札に向かって歩き出す。まだ何も答えられていないけれど、何も答えられそうにもなくて、背を向けたまま振り返ることもできない。けれど改札を抜けたところでスマホに着信があって、画面を見て思わず笑みがこぼれた。
「飲みに行くんじゃないの」
壁際まで行って電話を取ると、改札の向こうで笑う佐野くんに振り返った。
『言い忘れたことがあって』
「なによ」
『好きだよ』
「ベタだなあ……」
耳からダイレクトに伝わる彼の告白は、キザだしストレート過ぎてくすぐったい。だからこそ、私の寂しさを吹き飛ばしていくような刺激があった。
ああ、困ったな。だからそういうの、慣れていないんだって。
家に帰ったら真っ先に、離婚届に判を押そう。今なら迷いなくできる気がする。帰りの電車に揺られながら、火照る頬をおさえてそう思った。
けれどどれだけ長い間付き合っていても、一緒に暮らさなければ見えてこない部分があると知ったのは新居に越してすぐ、それこそ結婚式が終わってまだほんの一カ月の頃だった。
結婚前、周囲には強く同棲を勧められた。一緒に暮らしてから合わなかった時に、別れたいと思ってもただの同棲と婚姻関係にあるとでは全く異なるからと。けれど大地の母親から、一緒に住むならばまずは籍を入れることを条件とされていたことと、私たちは社会人になってからの数年、互いに自分の家はあるけれど半同棲状態だったのもあって全く問題ないと思っていたため、同棲と籍を入れるのタイミングがほぼ同時となった。それに保険的な意味合いの婚前同棲に、私も大地も否定的だったのだ。合わなかったら別れるって何?私たちに限って今更合わないから別れるという選択肢はありえないでしょう、そう思っていた。
私たちは何もわかっていなかった。半同棲と同棲には天と地ほどの差があることを。恋人が夫婦になるだけで、修復不能な亀裂が入る事があることを。
結婚は生活とはよく言ったもので、ひとつひとつの亀裂は些細なことだった。洗濯ひとつをとってみても、使用する洗剤や柔軟剤が合わない、干し方が違う、畳み方が違う。それで大地は私をまるで非常識な人間であるかのように責める。私からすれば大地のやり方が間違っているので、結果互いに互いを非常識だと罵り合うことになってしまう。今までだって大地の家で洗濯をした事がないわけではないのに、なぜ今更こんなことを言われなければならないのかと問えば、今までは他人だったから仕方がないと思っていたけれど、これからずっとこのやり方を通されたらストレスが溜まるので最初に修正したいと言い出す。修正って何よ、そっちがおかしいんだからあなたが正しなさいよ。と、終始このような感じだ。洗濯に限らず、料理の味付けも、掃除の仕方も、何もかも合わなかった。今までは目を瞑っていられたことにいちいちめくじらを立てて、互いに妥協することもできず、話し合いではなく喧嘩になってしまう。
たまらず友人に相談をした時、結婚して七年になるその人は「一緒に暮らしはじめた頃はうちもいっぱい喧嘩したわ。今は穏やかなものよ、他人同士が一緒に暮らすのだから当たり前よ。優子たちもそのうち妥協するポイントに落ち着くわよ」と言ってくれた。そうかそのうち落ち着くのか、ならば少し待ってみよう。きっと結婚前に同棲をして別れるカップルは、この我慢のポイントを乗り越えられなかったのね。こっちはもう結婚しているのだから離婚なんて簡単に出来ないし、少し辛抱したのちに穏やかな彼との日常が待っているなら乗り切って見せようじゃないか。そう思うと、やはり結婚前の同棲はしなくてよかったのだ、これでもしただの同棲だからと喧嘩の勢いで別れてしまっては勿体ないと、その時は謎の自信に満ちていた。
大地も私と同じように、この不毛な争いにもいつか終わる日がやってきて、付き合っていたころのように軽快な会話をする日々がまた戻ってくると思っていたらしい。珍しく穏やかに過ぎた休日の午後、二人でソファーに寄り添いながら、大地がはやく普通に戻りたいねと言っていた。なんだやっぱりそういうことよね、今は慣れないことに戸惑っているけど、私たちは大丈夫、そう信じていたのに、一番大事なことを見落としていた。私たちはとてもよく似た思考を持っていて、二人とも、いつか相手が自分に合わせてくれると思い込んでいた。おかげでいつまでたっても、妥協もすり合わせもできなかった。
「合わない、根本的に、絶望的に合わない」
「合わせる気がないんでしょ」
「あっちがね。こっちが一度でも合わせてみなよ、あいつ絶対に全部自分の良いように仕切ろうとするわよ」
「間を取れないわけ?」
「無理無理、あいつの中に妥協という文字は存在しない」
「お互いさまなんじゃないの?」
「私は歩み寄ろうとしてるわよ、でもあっちは歩み寄りじゃ満足しないの。本当何様のつもりなんだか」
友人への愚痴が止まらなくなったのは結婚して一年が過ぎた頃だった。今になってみれば私も全く歩み寄っていないことがわかるのだけれど、当時の私は自分にも悪いところがあるなんてこれっぽっちも思っていなかった。この頃には既に十年共に過ごした男への愛は遥か遠い思い出になっていて、毎日家で顔を合わせる夫を煩わしく思う日も増えた。そのうち落ち着くと言っていた友人も、さすがに一年経っても喧嘩がなくならないのは長すぎると呆れ顔だった。
「喧嘩の内容は相変わらずなの?」
「とりあえず、家事のことで喧嘩するのはいい加減うんざりだから、今は洗濯物と食事は各自でやってる。掃除も共有部分は役割を分けて、自室は各自」
「寝室別なんだ」
「はじめは一緒だったんだけどね、途中で客間を私の部屋に変えたわ。隣でなんてもう寝られないわよ」
「家庭内別居じゃん」
「まさにその通り」
相変わらず些細なことで喧嘩をするものの、部屋を分け家事を分けてからはグッと減ったので、ストレスは少なくなった。しかし会話をすることも極端に減って、一緒に住んではいるが一緒に暮らしてはいない、そんな関係になっていた。これならまだシェアハウスに暮らす他人同士のほうが良好な関係を築けているだろう。
「別れるの?」
「正直、今更別れたところで、じゃあどうすればいいのって思うと踏ん切りがつかないんだよね」
「付き合ってる期間が長過ぎた?」
「そうかも。十年分の思い出が、しがらみになってる感じがする」
今更大地と別れたところで、残るのは三十代が差し迫る自分だけ。今時バツイチなんて珍しくもないけれど、この歳で離婚して、一人で生きていく覚悟もないし、新しい恋のはじめ方なんてもう忘れてしまった。何より十年大地と過ごしてきた時間を無駄にするようで、勿体ない気がして、まだ諦められなかった。
こう着状態のままもう一年が過ぎた結婚三年目、大地が変わった。それまではたとえ会話が減っても、喧嘩をしても、それでも私たちは夫婦で、時には仲良く過ごす日もあったのに、あからさまに私を邪険にするようになった。理由はとても簡単で、女が出来たことはすぐにピンときた。私は大地とのこれまでを無駄にしないよう努めてきたのに、彼はいとも簡単に、私との思い出を丸めてゴミ箱に捨ててしまったのだ。
腹が立って悔しくて大地を責めた。彼がそれでも私をぞんざいに扱うのをやめないと、今度は相手の女を突き止めて大地と会っている最中の家に押し入って相手に掴みかかったし、その後も交際をやめない図太さに苛立って女の会社にも乗り込んだ。まだ彼を好きだからとか、他の女に取られた事が悲しいだとか、そんな可愛いものじゃない。私は我慢しているのにどうしてあなたは出来ないの、いつも私が損をしている、こんなの不公平だと当たり散らしただけだ。当然そんなことで大地が戻ってくるわけもなく、彼は私をこの部屋に残して、必要最低限の荷物だけを持って女の家へと逃げていった。
彼が出て行った後のリビングには、離婚届と共に簡単なメモが添えられていた。男の人にしては丸みのある大地の字で、次の更新が来るまでの一年半はこの部屋の家賃を払うことを約束するので、それまでの間に新しい家に引っ越してほしい事と、離婚届に判を押して提出してほしい事が書かれていた。離婚届には既に大地の名前が書かれていて、証人欄もひとつ埋まっていた。つまり一年半分の家賃が慰謝料兼手切金というわけだ、ずいぶん用意周到なうえに安上がりじゃないか。一方的に別れを決めて逃げていった夫に呆れたものの、半分記入済みの緑色の紙切れを見つめていると、なぜか少しだけ冷静になれた。
大地と私は同い年でほぼ同じだけの稼ぎがあり、貯金は各々個人の通帳に入れていたので私にもそれなりの蓄えがあった。何も大地と暮らしたこの部屋にそのまま住み続ける必要はなく、離婚届だって今すぐ書いて提出しても良いとさえ思った。けれど冷静になったからこそ、貰えるものは貰っておいて、浮いたお金を自分のために使おう、いつ提出されるかわからない離婚届にやきもきするあの人たちをせせら笑ってやろう、そんな気持ちの余裕も生まれた。
「星野さん、結婚してるって本当?」
「誰から聞いたの。私が結婚してる事を覚えてる人がいるなんて意外」
残業中、隣の席の佐野くんがおにぎりを頬張りながら私に聞いてきた。彼はこの春支社から異動してきた人で、まだ三カ月しか隣で仕事をしていないものの、人たらしという言葉がよく似合うほど、あっという間に部内の人気者になった。私自身、仕事にいつでも前向きで、楽しそうに他人の話を聞く佐野くんの姿勢に好印象を持っている。歳は私の二つ上だけれど、中途入社なので同期にあたる彼とは、はじめこそお互い敬語で話していたものの、隣同士ということもあってすぐに打ち解けて、どちらともなく終業後やこうして残業をしている時に限り、敬語を使う事をやめるようになった。
「マジで結婚してんだ、全然そんな雰囲気ないね」
「旧姓のまま仕事してるしね、指輪もしてないし、何より来月離婚予定だからね」
「え。来月って、もうすぐじゃん」
「ふふ。今年で四年なんだけどさ、最初からつまずいちゃって、もう一年半も別居してるの」
「そうなんだ、じゃあ今一人暮らし?」
「そう、そこも今月中に引っ越して、離婚届を提出したら、名実共に独身に戻ります」
サバサバと答える私に佐野くんは呆気に取られたようで、口に運ぶ予定のおにぎりが五センチ下で止まっている。
「離婚する人ってこんなにサッパリしてるもんなんだなあ」
「暴れるのも落ち込むのも、もうひと通り終わったからね」
私は丸々一年半、大地と暮らした部屋に一人で住み、身辺を片付けながら悠々自適に過ごしてきた。仕事にいかせる資格も取ったし、今まであまり気にしてこなかった自分の見た目も見つめ直した。三十代になってたるんできた身体を引き締めるためにジムに通って、二十代半ばから停滞していたメイクの道具も方法も、流行りと年齢に合わせたものに変えた。自分に自信が持てるようになると心が軽くなって、余計な雑念が消えた分仕事にも一層打ち込めた。多分これまでの人生でいちばんメリハリを持って過ごせた一年半だったと思う。ただ一点、新しい恋だけは、やはりはじめ方がわからないままだったけれど。
「佐野くんは、独身だっけ」
「そーだよ、最近親が嘆き始めた」
「それは大変だね。彼女もいないんだ?」
「いないねー。星野さんは?」
「いないいない」
「やっぱ離婚してからじゃないと恋愛解禁はできないって事?」
「そういうのではないんだけど、夫とは結婚する前十年付き合っていたから、新しい恋なんて、もうやり方がわかんないのよね」
「それは勿体ない。どう?試しに俺と恋愛してみるっていうのは」
あら意外、そういう冗談言うタイプなのね。
「社内の人は、ちょっとなー」
「ちょっとなんだよ、ダメなの」
「面倒くさそうじゃない?」
「そう?俺は良いと思うけどな、社内恋愛」
何か想像をしはじめた佐野くんをよそに、私は残っていたハムとたまごのサンドイッチを口に押し込んで、キーボードをカタカタと鳴らす。学生時代からずっと大地と付き合っていたから、社内恋愛なんて当然考えたことがなかった。それにもし仮に今後新しい恋をするとしても、同じ職場の人とは想像がつかない。職場を除外してしまえば新しい出会いなどないに等しいかもしれないが、仕事もプライベートも一緒というのは、息が詰まりそうなのでできる限り遠慮したい気持ちになる。せめてフロアが違うか部署が違うかしていないと、家でも仕事の話をしてしまうだろう。そう思うと、佐野くんは私にとっていちばん恋愛対象から遠い存在という事になる。
「星野さん、俺の話聞いてる?」
「ああ、ごめん聞いてなかった。何?」
残務を片付ける私の横で、佐野くんは社内恋愛について語り続けていたらしく、一人で喋ってた俺、恥ずかしい……と顔を覆った。
「いや、仕事中に話してた俺が悪いわ。仕事しまーす」
「今度飲みに行った時にでも聞かせてもらうことにするわ」
「お、星野さんからの飲みのお誘い、言質取りました」
「誘ったわけではないけれど、そうね。離婚が成立したら一杯付き合ってもらおうかな」
「喜んで。引っ越しでもなんでも、男手が必要ならいつでも手伝うからね」
「あ、それならひとつお願いがあるんだけれど」
なになに?と目を輝かせた佐野くんの瞳は、私の次の言葉で一瞬にしてなんとも言えないほどどんよりと曇った。
三日後の土曜日の午後、荷作りに区切りをつけた私は、仕事に行く日よりもほんのり甘めにメイクをして、いつもより少し高いヒールを履き、ミモレ丈のプリーツスカートをなびかせながら家を出た。結婚して以来ずっとショートヘアの髪も、軽く巻いて毛先を遊ばせてメイクと服の甘さに合わせた。これで会社の人に会うと思うと少し恥ずかしかったけれど、久々のデート仕様に気分が上がったのも確かだ。
待ち合わせのカフェに着くと既に佐野くんが座って待っていて、私の装いに目を丸くしていた。自分が指定したんだから、そんなに驚かなくても良いではないか。
「なんか、変?」
「いや、めっちゃ可愛い。普段の星野さんてどっちかというとカッコいいから、ギャップ萌えだわ」
「そりゃあ、仕事とデートじゃ差が出るもの」
可愛いなんていつぶりに言われただろうか、ちょっとやそっとじゃ思い出せないくらい前なのは間違いない。頬が熱を持つのを感じて、恥ずかしくてわざと可愛げのない受け答えをしてしまった。
私の格好を上から下まで吟味した佐野くんが満足げに笑ったので向かいの席に腰を下ろし、先に済ませてしまおうという彼の提案に乗って、家から持ってきた離婚届を差し出した。
「本当に、まだ結婚もしていないやつに離婚届の証人欄をお願いするなんて、ひどい話だと思わない?」
「既婚の友達にも断られて困ってたの。引き受けてくれてよかったわ」
婚姻届と違って、相談した友人には縁起が悪いからと渋られた。だから本当は帰省の際に母親にお願いするつもりだったけれど、去年の暮れはいろいろあって帰省できずにいたため、猶予のひと月前になっても証人欄は空欄のままだった。
「それにしてもまさか、引き受ける代わりにデートの格好をしてきてって言われるなんて思わなかったよ。佐野くんて変わってる」
証人欄に名前を書いていた佐野くんが顔を上げて、こちらをじっと見た。
「だってせっかくなら、何かご褒美になるようなものがあるほうがいいじゃない」
「これ、ご褒美になるの?」
「なるなる。事実俺は今、普段じゃ見られない星野さんの一面を見ることができているからね」
「それにしてもこんな格好、本当にいつぶりにするかわからないわ」
おかげでおとといはショップに駆け込んで、新しい服を見繕うことになった。デートの格好で会うことを指定された日の夜、家に帰ってクローゼットを開けてみたはいいものの、とてもじゃないがデートに着て行けるような服は入っていなかったからだ。仕事を定時で終わらせて、化粧室でメイクをオフ仕様に直してから買い物に行くなんてこと、もう何年もしていなかった。いざショップについても服だって何を選んだらいいかわからず、店員と「デート服とはなにか」について一時間も喋りながら選ぶことになったし、今日着ている服以外にもたくさん、デートの時の女らしい、明るくて可愛い服を何着も買い込んだ。今日以外に予定もないのに、この後引っ越しのために全部段ボールに詰めなければいけないのに、荷物を増やして馬鹿みたいだと思ったけれど、服を選んでいるとき、私はとても楽しかった。男の人と会うために、どんな格好をしていこうか悩むことも長い間していなかったから、それだけで心はときめいた。このときめきは一年半前にメイク道具を一新して、自分が一番よく見えるメイクの研究をしはじめた時とよく似ているけれど、それとはまた違う高揚感だった。
「星野さんは、ここまだ書いてないんだね」
住所もすべて書き終えて印鑑を押した佐野くんが、空欄のままになっている私の署名押印欄に目をやった。
「うん、ここは最後の意地みたいなもんかな」
マンションの管理会社に確認したとき、部屋は来月大地が立ち会って引き渡すことになっていた。だから私がいつ出て行っても関係ない。離婚届だって、早く出そうが遅く出そうが関係ない。けれど私はどちらもぎりぎりまで時間を使った。大地が帰ってくるのを期待したわけでも待っていたわけでもないのに、手放せなかった。この紙が私の手元にあるうちは、わずかでも、ほんの一ミリ程度でも、まだ大地との縁が切れていないことが、私を安心させていた。
「旦那さんのこと、まだ好きなんだ?」
「どうだろう。好きとは違う気がする」
「違うの?」
「私ね、十代の頃から夫と付き合ってたの。夫の前に付き合った人もいたけれど、一年にも満たない付き合いばかりで、私の中で男の人は夫がすべてだった。ここに判を押したら、そのすべてが無駄になるんだと思ったら、なかなか押せなくて」
これは夫への未練ではなくて、自分への執着だ。ひどく醜くてみじめな執着は、自分を見つめ直すために費やした一年半の生活を経ても、残念ながらなくなることはなかった。
「そっかあ、俺はそんなに長く付き合った人はいないから、その辺りはわからないけど」
「実は、心はそんなにサッパリしてないのよね」
「逆に安心したかも」
「なんで?」
「そのほうが人間らしいじゃん。長く一緒に過ごしてきたのに、いくら時間を置いたからって、あっさり忘れられるほうが寂しいよ」
ああ、そうか。佐野くんの言葉に、ストンと落ちるものがあった。
私、寂しかったのね。
自分の中にあった寂しさに気づいた途端、いつもより入念にマスカラをつけた下まつげから涙が滑り落ちた。結婚してからこれまで、どんな喧嘩をした時も、女を作って出て行った時でさえも、泣いたことなんてなかったのに。止まらない涙に困惑して指で拭おうとする私に、佐野くんが待って待ってとハンカチを渡してくれる。
「せっかく可愛くしてるのに、指でこすったら崩れちゃうよ」
「ごめん、ありがとう」
借りたハンカチで涙を拭いた。そういえばこの後デートらしく映画を見に行く約束をしていたんだった。
「映画、何時だっけ」
「一時四十五分、まだ余裕があるから、もう少しゆっくりしていこう」
「そうね。映画も久々だなあ。楽しみ」
「俺でよければいつでも付き合うよ」
「嬉しい。こうやって遊ぶ男友達なんてはじめてできたかも」
「そこは、彼氏候補じゃないの?」
「だって、同じ会社の、隣の席だし?」
「これは本格的に社内恋愛の良さをプレゼンしたほうがよさそうだな」
また言っている。きっと女性にモテるだろうに、わざわざこれからバツイチになる女を口説かなくてもいいのに。
映画は流行りのアクション映画だった。ちょっとコミカルで、恋愛要素もある王道ストーリー。愛し合う二人が互いの組織を裏切って共に戦うシーンは、ハラハラドキドキ、思わず両手を握って食い入るようにスクリーンを見た。そんなことを観終わってからカフェに戻って佐野くんと語り合っていたら、気づけば外の色が変わり始めていた。
「夕飯も一緒に食べられたらよかったんだけど」
「もともと先約があるところに私が割り込んだんだから仕方ないわよ、また今度行こう」
「離婚が成立したらの一杯?」
「ふふ、そうね」
笑う私とは対照的に、一瞬佐野くんが真剣なまなざしを向ける。私をまっすぐ見つめるその瞳に、心臓が強く跳ねた。
「星野さんの離婚が成立したら、もっとガツガツ口説くから」
「え?」
「既婚だって聞いた時、本気でショックだったんだから」
「ええ?」
「異動してきたときから、ずっといいなって思ってたよ」
「ちょっと待って……本気?」
「超本気」
次の言葉を紡ぐ暇もなく、帰ろうかと言って、困惑したままの私の手を引いて佐野くんはカフェを出た。駅まで歩く道のりはずっと無言で、私も何も聞けなくて、けれど手だけはずっと繋がれたままで、彼の体温が私の指先に流れてきた。
「じゃあ、また月曜日に」
「あ、うん」
駅に着いてようやく口を開いた佐野くんは、ちょっと照れた笑顔で小さく手を振った。私も小さく手を振り返して、改札に向かって歩き出す。まだ何も答えられていないけれど、何も答えられそうにもなくて、背を向けたまま振り返ることもできない。けれど改札を抜けたところでスマホに着信があって、画面を見て思わず笑みがこぼれた。
「飲みに行くんじゃないの」
壁際まで行って電話を取ると、改札の向こうで笑う佐野くんに振り返った。
『言い忘れたことがあって』
「なによ」
『好きだよ』
「ベタだなあ……」
耳からダイレクトに伝わる彼の告白は、キザだしストレート過ぎてくすぐったい。だからこそ、私の寂しさを吹き飛ばしていくような刺激があった。
ああ、困ったな。だからそういうの、慣れていないんだって。
家に帰ったら真っ先に、離婚届に判を押そう。今なら迷いなくできる気がする。帰りの電車に揺られながら、火照る頬をおさえてそう思った。
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
元公爵令嬢は年下騎士たちに「用済みのおばさん」と捨てられる 〜今更戻ってこいと泣きつかれても献身的な美少年に溺愛されているのでもう遅いです〜
日々埋没。
ファンタジー
「新しい従者を雇うことにした。おばさんはもう用済みだ。今すぐ消えてくれ」
かつて婚約破棄され、実家を追放された元公爵令嬢のレアーヌ。
その身分を隠し、年下の冒険者たちの身の回りを世話する『メイド』として献身的に尽くしてきた彼女に突きつけられたのは、あまりに非情な追放宣告だった。
レアーヌがこれまで教育し、支えてきた若い男たちは、新しく現れた他人の物を欲しがり子悪魔メイドに骨抜きにされ、彼女を「加齢臭のする汚いおばさん」と蔑み、笑いながら追い出したのだ。
地位も、居場所も、信じていた絆も……すべてを失い、絶望する彼女の前に現れたのは、一人の美少年だった。
「僕とパーティーを組んでくれませんか? 貴方が必要なんです」
新米ながら将来の可能性を感じさせる彼は、レアーヌを「おばさん」ではなく「一人の女性」として、甘く狂おしく溺愛し始める。
一方でレアーヌという『真の支柱』を失った元パーティーは、自分たちがどれほど愚かな選択をしたかを知る由もなかった。
やがて彼らが地獄の淵で「戻ってきてくれ」と泣きついてきても、もう遅い。
レアーヌの隣には、彼女を離さないと誓った執着愛の化身が微笑んでいるのだから。
愛してやまなかった婚約者は俺に興味がない
了承
BL
卒業パーティー。
皇子は婚約者に破棄を告げ、左腕には新しい恋人を抱いていた。
青年はただ微笑み、一枚の紙を手渡す。
皇子が目を向けた、その瞬間——。
「この瞬間だと思った。」
すべてを愛で終わらせた、沈黙の恋の物語。
IFストーリーあり
誤字あれば報告お願いします!
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
三十年後に届いた白い手紙
RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。
彼は最後まで、何も語らなかった。
その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。
戴冠舞踏会の夜。
公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。
それは復讐でも、告発でもない。
三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、
「渡されなかった約束」のための手紙だった。
沈黙のまま命を捨てた男と、
三十年、ただ待ち続けた女。
そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。
これは、
遅れて届いた手紙が、
人生と運命を静かに書き換えていく物語。
夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い
青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。
神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。
もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。
生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。
過去世と同じ轍を踏みたくない……
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる