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第7話 白い鎧
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聖騎士が来た日の灰枝は、いつもの灰枝ではなかった。
時刻は昼を少し過ぎたころだった。カウンターで月次の在庫比較表を作っていた私は、扉が開く音を聞いて、とりあえず顔を上げた。その一秒後には、もう何かが違うとわかった。
足音だ。
革靴や布靴の冒険者たちとは違う音がする。均一で、迷いがなく、硬い。石畳の上で金属が鳴る感じ。鎧だ。それも、冒険者が野戦で使う継ぎはぎの防具ではない。板金を精緻に組み合わせた、規格品の重さを持つ足音。
白だった。
扉の向こうから入ってきた二人は、胸当てから腕甲まで白く塗られた板金鎧を身に着けていた。腰に長剣。肩に神聖国家の紋章——翼を広げた白鷹と、その下に交差する聖剣。兜は外していて、顔が見えた。三十代とおぼしき男が二人。髪を短く刈り込み、表情は整っているが、何も読めない。
聖騎士だった。
ギルドの中にいた冒険者が三人、ほぼ同時に静かになった。依頼掲示板を見ていた男が、そっと一歩引いた。端の椅子に座っていた女性冒険者が、視線をさっと手元の地図に落とした。誰も声を上げない。誰もわざとらしく動かない。ただ、空気が変わった。
私は表情を作った。仕事の顔を。
「いらっしゃいませ。灰枝ギルドの受付です」
先に立っていた方が、私の方に近づいた。もう一人は一歩後ろで、ゆっくりと室内を見回した。視線が掲示板、在庫棚、冒険者たちの順番に動く。観察している。それだけのことだが、なぜか鳥肌が立った。
「宿泊届の提出に参りました」
声は低く、丁寧で、どこかで習得した種類の丁寧さだった。親切とは少し違う。
「承りました。書式はこちらになります」
引き出しから宿泊届の用紙を取り出して、カウンターに置く。インク壺も並べる。私の動作は平常通りだったと思う。少なくとも、そうなるように気をつけた。
男が手袋を外して、ペンを取った。名前、所属、宿泊日数、入灰枝日、予定出発日。欄を一つずつ、几帳面な字で埋めていく。くせのない、模範的な書き方だった。どこかの教習所で習ったような字。
私はその間、帳簿を開いて、ページを準備した。受け取り次第、そのまま記入できるように。
書類が戻ってきた。私は一通り目を通した。
記入漏れはない。氏名は二名分、それぞれ正確に書かれていた。所属欄には「聖騎士団第七巡回隊」。宿泊日数は一泊。入灰枝日は昨日の日付。出発予定日は明日。
「確認が取れました。受理いたします」
宿泊受理の判を押して、控えの一枚を男に渡す。男が受け取って、折り畳んで、鎧のどこかにしまった。
「よろしければ、宿はすでにお決まりですか。灰枝内の宿舎をご案内することもできますが」
「すでに手配しております」
「承知しました。滞在中、何かご入用の際はギルドまでお申し付けください」
もう一方の男が初めて私を見た。何かを測るような目だった。敵意ではない。怒りでもない。それよりずっと静かな何か。把握しようとしている、という感じ。
「灰枝周辺で、遺物の出土報告は上がっていますか」
きたな、と思った。
声には出さなかった。もちろん。
「遺物に関する提出や報告は、ギルドで集約しております。公式な照会については、本部経由での手続きをお願いしております」
微笑みを維持したまま言った。嘘ではない。正確な手続きの説明だ。
「では、冒険者からの遺物関連の申告件数——おおよそでいい。増えていますか、減っていますか」
一拍、間を置いた。
「統計的な傾向については、月次報告を本部に提出しております。詳細はそちらをご参照いただければ、正確な数字をご覧いただけます」
男が少しだけ顔の角度を変えた。問い続けるか判断している、という感じ。
結局、男は「わかりました」とだけ言った。
二人が扉を出ていく。足音が廊下を通り、石畳に出て、遠ざかった。
静かになった。
椅子に座っていた女性冒険者がゆっくり顔を上げた。掲示板の前の男が、さっき一歩引いた位置から元に戻ってきた。誰も何も言わなかった。でも、室内の空気が少しずつ、元の密度に戻っていくのがわかった。
私は宿泊届の原本を、所定の綴りに挟んだ。
第七巡回隊。二名。一泊。
帳簿のページは正確だ。書類に書かれた情報しか映さない。白い鎧が室内の空気を変えたことも、その視線が私の後ろの壁まで届いていた感覚も、書かれていない。書ける種類の情報ではなかった。
在庫比較表の続きに戻ろうとして、戻れなかった。
私はペンを置いて、別の綴りを取り出した。
聖騎士の宿泊届は、一年に三、四回、灰枝にも届く。ギルドには受理義務があるから、断ることはできない。過去の記録はすべてここに綴じてある。
ページを遡り始めた。
最初の一冊は今から三年前のものだ。その年から数えると、今日の届け出で十二回目になる。私はその十二回分を、一件ずつ確認した。名前、所属、日程。それだけでは何もわからない。だから、入灰枝日と照合した。
巡回隊が灰枝に宿を取る日——その前後の日付に、周辺地域からの報告書が上がっていないか。
上がっていた。
全部ではない。でも、十二回中、九回は前後三週間の間に、いくつかの集落から問い合わせや報告が来ていた。内容は様々だった。「廃址の近辺で光が見えた」「採取中に見知らぬ痕跡があった」「以前持ち込んだ遺物と似たものが別の場所で出た」——それぞれは小さな話だ。どれも、単独では巡回と関係があるとは言えない。
ただ、位置が気になった。
私は備え付けの地図を引き出しから出した。縮尺の粗い作業地図だが、灰枝を中心とした半径三十里程度の集落名は記入してある。ランプを持ってきて、九回分の報告元集落に、鉛筆で小さく印をつけた。
印を結ぶと、線になった。
直線ではない。道に沿って曲がっている。でも、一つの方向を向いている。北西から南東にかけて、緩く弧を描くように、集落が連なっていた。
灰枝はその中間地点あたりにある。
今回の第七巡回隊の入灰枝日を基点にして、前回の宿泊届のルートと重ねてみた。前回は去年の春、第四巡回隊だった。入灰枝日の三週間前、「北の廃鉱山の周辺で、夜間に発光する物体を見た」という集落からの問い合わせが記録されていた。北の廃鉱山。灰枝から北西に約十里。
私は地図の上で目を動かした。
北西から入って、灰枝を通って、南東へ。
南東の先に何があるか。
ランプを地図に近づけた。集落名が一つ、そちらの方角にある。小さな字で書かれている。
フィオナが住んでいる方向だった。
——わかったわけではない。
そう自分に言い聞かせた。地図の上の話だ。ルートが重なっているというだけで、フィオナと聖騎士を結びつける根拠はどこにもない。彼女の素性を、私は知らない。名前しか知らない。「腕のいい薬師」「単身で辺境に暮らしている」「身元を明かさない」——それだけだ。
でも、胸の奥で何かが引っかかっていた。
フィオナが最初にここに来たとき——包みをほどく手が丁寧で、余計なことを一切しゃべらなかった。名前だけ言った。苗字はなかった。住所も言わなかった。私も聞かなかった。聞かない方がいいと、そのときから何となく思っていた。なぜだろう。勘、としか言えない。数字で説明できない種類の感覚だ。
勘に名前をつけようがない以上、記録には残せない情報だった。
私は地図を折り畳んで、引き出しに戻した。
宿泊届の綴りを棚に戻して、在庫比較表を手に取り直した。数字を追う。蒼苔、棘草根、軟膏類。いつもの仕事だ。ランプの灯りが手元を照らしている。
窓の外で風が鳴った。
——明日の朝、どうなるだろう。
思った。声には出さなかった。
翌朝、いつも通りに開店準備をした。ヨルさんが早くに顔を見せて、棘鱗の端材を卸していった。昼前に二人の冒険者が依頼書を提出していった。午後になった。
フィオナが来たのは、昼過ぎの陽が傾きはじめたころだった。
いつも通り、手提げ籠を提げていた。麻布で包んだ品物が入っている。足取りは落ち着いていて、扉を開ける手つきも変わらない。カウンターに近づいてくる歩き方も、いつもの静けさだった。
「こんにちは、ナタリアさん」
「いらっしゃいませ、フィオナさん。今日はどんな品物ですか」
荷物をカウンターに置いてもらった。乾燥薬草の束が五つ、軟膏の小壺が二つ。いつも通りの品揃えだ。私はひとつずつ確認した。品質はいい。今日も迷わず上等の評価をつけられる。数字を計算して、合計を告げる。フィオナが頷く。銅貨を数えて渡す。
伝票を書く間、私は何も言わなかった。
フィオナも何も言わなかった。
静かだった。
私は伝票を仕上げて、フィオナに手渡した。フィオナが受け取って、畳んで、エプロンのポケットに入れる。空になった籠の中に麻布を整えて、蓋を閉める。
帰ろうとした。
「あのね」
気がついたら、声が出ていた。
自分でも少し驚いた。でも止めなかった。
カウンターに両肘をつく。身を乗り出して、声を落とした。フィオナが手を止めて、こちらを向く。
「聖騎士が二人、昨日から灰枝にいるの」
言葉を選んだ。
「宿泊届が出てる。遺跡関連の調査みたいなんだけど」
フィオナの顔が、変わった。
一瞬だった。でも私にはわかった。色が、引いた。日焼けした頰から、血のめぐりが、ほんの少し遠のいた。目が一度だけ、私から外れた。どこかを見た——扉の方でも、窓の方でもない。どこでもないところを見て、すぐに戻ってきた。
全部で二秒もなかった。
私は何も言わなかった。
フィオナも、何も言わなかった。
私は続けた。
「今日、出発するみたい。朝方に宿を引き払ったって、宿のおばさんから聞いた」
これは本当のことだ。今朝、宿の女将が顔を見せたときに、そう教えてくれた。あちらから話してくれた。私が聞いたわけではない。
「ああ」
フィオナが言った。声は低かった。どこか掠れていた。
「……そう」
沈黙が落ちた。
私はカウンターに乗せた両腕を、少し引いた。姿勢を戻す。
「ところで、軟膏のお代わりを頼もうと思ってたんだけど」
語調を変えた。いつもの事務の声に戻した。
「今日じゃなくてもいい? 来週にでも、都合のいいときに持ってきてもらえれば」
フィオナが私を見た。
少しの間、見ていた。
何かを測っているような目だった。でも、さっきの聖騎士の視線とは全然違った。さっきのは把握しようとする目だった。これは、確かめようとしている目だった。
何かを。私が、何を知っているか、ではなく——私が、どういう人間か。
「……はい」
フィオナは言った。
「来週、改めてうかがいます」
「よかった。在庫は急がないから、ゆっくりで」
私は帳簿に「軟膏類・発注中」と書いた。フィオナが籠を持った。
「では」
「気をつけて帰ってください」
扉が開いて、閉まった。
石畳の上を歩くフィオナの足音が聞こえた。いつもより少し速い気がした。でも確かめなかった。窓の方を見なかった。
私はカウンターに座ったまま、宿泊届の綴りを見た。
棚の端に立てかけてある。昨日、整理してから戻した。第七巡回隊、二名、一泊、本日出発。全部正確に記録されている。記録として、何の不備もない。
ただ。
フィオナの顔色が変わった瞬間のことは、そこには書かれていない。書ける種類のことではなかった。なぜ彼女があの顔をしたか、私は知らない。推測はある。でも推測は帳簿に書けない。数字じゃないものは書かない。それが私の仕事の原則だ。
フィオナが何者なのか。
聖騎士が本当に何を調べているのか。
二つの問いが、頭の中で静かに存在していた。答えを出そうとはしなかった。出せないことはわかっていた。受付カウンターの向こうに座っていると、世界のある断面だけが見える。書類が通り過ぎる場所にいると、記録できることの輪郭が、否応なく見えてくる。私が見えているのは、ほんの一部だ。
フィオナには「何か」がある。
最初に会ったときから、そう思っていた。名前だけ言って、苗字を言わない人間には、たいてい理由がある。それが悪い理由とは限らない。でも、軽い理由でもない。
私はフィオナのことが嫌いではなかった。正直なところ、好きだった。あの品物の丁寧さ、手の染みの深さ、無駄のない動作——全部、好意を持って見ていた。だから昨日から、どうするか迷っていた。
教えるべきか、黙っておくべきか。
でも、結局は告げた。
なぜかと言われても、うまく説明できない。彼女が白い鎧を怖れているとわかっていたからかもしれない。わかっていたのかと言われれば、証拠はなかった。ただ、そう感じていた。数字でない感覚が、そう言っていた。
帳簿には書けないことを、私は今日、やった。
それが正しかったかどうかも、わからない。
ただ——フィオナの顔が戻ってきた瞬間、あの「確かめるような目」が私を見た瞬間、少しだけ何かが軽くなった気がした。名前がつけられない種類の軽さだった。数字にも、書類にも落とし込めない感覚だ。
窓の外で風が鳴った。
午後の灰枝はゆっくりと夕方に向かっている。もうじきヨルさんか誰かが、今日の依頼結果を持ってくるだろう。数字が届く。それを帳簿に書く。それが私の仕事だ。
私は宿泊届の綴りを棚の奥に押し込んだ。
在庫比較表を手に取って、ペンを持つ。数字の続きを書く。蒼苔の在庫が増えた。棘草の根は適正水準に戻った。軟膏類は来週、フィオナが持ってくる。
帳簿は今日も正確だ。
書かれなかったことは、書かれなかったまま、どこかに残っている。それが何かに変わるかどうかは、今はまだわからない。
ただ、今日の辻褄は、合っている。
それでいい、と思うことにした。
時刻は昼を少し過ぎたころだった。カウンターで月次の在庫比較表を作っていた私は、扉が開く音を聞いて、とりあえず顔を上げた。その一秒後には、もう何かが違うとわかった。
足音だ。
革靴や布靴の冒険者たちとは違う音がする。均一で、迷いがなく、硬い。石畳の上で金属が鳴る感じ。鎧だ。それも、冒険者が野戦で使う継ぎはぎの防具ではない。板金を精緻に組み合わせた、規格品の重さを持つ足音。
白だった。
扉の向こうから入ってきた二人は、胸当てから腕甲まで白く塗られた板金鎧を身に着けていた。腰に長剣。肩に神聖国家の紋章——翼を広げた白鷹と、その下に交差する聖剣。兜は外していて、顔が見えた。三十代とおぼしき男が二人。髪を短く刈り込み、表情は整っているが、何も読めない。
聖騎士だった。
ギルドの中にいた冒険者が三人、ほぼ同時に静かになった。依頼掲示板を見ていた男が、そっと一歩引いた。端の椅子に座っていた女性冒険者が、視線をさっと手元の地図に落とした。誰も声を上げない。誰もわざとらしく動かない。ただ、空気が変わった。
私は表情を作った。仕事の顔を。
「いらっしゃいませ。灰枝ギルドの受付です」
先に立っていた方が、私の方に近づいた。もう一人は一歩後ろで、ゆっくりと室内を見回した。視線が掲示板、在庫棚、冒険者たちの順番に動く。観察している。それだけのことだが、なぜか鳥肌が立った。
「宿泊届の提出に参りました」
声は低く、丁寧で、どこかで習得した種類の丁寧さだった。親切とは少し違う。
「承りました。書式はこちらになります」
引き出しから宿泊届の用紙を取り出して、カウンターに置く。インク壺も並べる。私の動作は平常通りだったと思う。少なくとも、そうなるように気をつけた。
男が手袋を外して、ペンを取った。名前、所属、宿泊日数、入灰枝日、予定出発日。欄を一つずつ、几帳面な字で埋めていく。くせのない、模範的な書き方だった。どこかの教習所で習ったような字。
私はその間、帳簿を開いて、ページを準備した。受け取り次第、そのまま記入できるように。
書類が戻ってきた。私は一通り目を通した。
記入漏れはない。氏名は二名分、それぞれ正確に書かれていた。所属欄には「聖騎士団第七巡回隊」。宿泊日数は一泊。入灰枝日は昨日の日付。出発予定日は明日。
「確認が取れました。受理いたします」
宿泊受理の判を押して、控えの一枚を男に渡す。男が受け取って、折り畳んで、鎧のどこかにしまった。
「よろしければ、宿はすでにお決まりですか。灰枝内の宿舎をご案内することもできますが」
「すでに手配しております」
「承知しました。滞在中、何かご入用の際はギルドまでお申し付けください」
もう一方の男が初めて私を見た。何かを測るような目だった。敵意ではない。怒りでもない。それよりずっと静かな何か。把握しようとしている、という感じ。
「灰枝周辺で、遺物の出土報告は上がっていますか」
きたな、と思った。
声には出さなかった。もちろん。
「遺物に関する提出や報告は、ギルドで集約しております。公式な照会については、本部経由での手続きをお願いしております」
微笑みを維持したまま言った。嘘ではない。正確な手続きの説明だ。
「では、冒険者からの遺物関連の申告件数——おおよそでいい。増えていますか、減っていますか」
一拍、間を置いた。
「統計的な傾向については、月次報告を本部に提出しております。詳細はそちらをご参照いただければ、正確な数字をご覧いただけます」
男が少しだけ顔の角度を変えた。問い続けるか判断している、という感じ。
結局、男は「わかりました」とだけ言った。
二人が扉を出ていく。足音が廊下を通り、石畳に出て、遠ざかった。
静かになった。
椅子に座っていた女性冒険者がゆっくり顔を上げた。掲示板の前の男が、さっき一歩引いた位置から元に戻ってきた。誰も何も言わなかった。でも、室内の空気が少しずつ、元の密度に戻っていくのがわかった。
私は宿泊届の原本を、所定の綴りに挟んだ。
第七巡回隊。二名。一泊。
帳簿のページは正確だ。書類に書かれた情報しか映さない。白い鎧が室内の空気を変えたことも、その視線が私の後ろの壁まで届いていた感覚も、書かれていない。書ける種類の情報ではなかった。
在庫比較表の続きに戻ろうとして、戻れなかった。
私はペンを置いて、別の綴りを取り出した。
聖騎士の宿泊届は、一年に三、四回、灰枝にも届く。ギルドには受理義務があるから、断ることはできない。過去の記録はすべてここに綴じてある。
ページを遡り始めた。
最初の一冊は今から三年前のものだ。その年から数えると、今日の届け出で十二回目になる。私はその十二回分を、一件ずつ確認した。名前、所属、日程。それだけでは何もわからない。だから、入灰枝日と照合した。
巡回隊が灰枝に宿を取る日——その前後の日付に、周辺地域からの報告書が上がっていないか。
上がっていた。
全部ではない。でも、十二回中、九回は前後三週間の間に、いくつかの集落から問い合わせや報告が来ていた。内容は様々だった。「廃址の近辺で光が見えた」「採取中に見知らぬ痕跡があった」「以前持ち込んだ遺物と似たものが別の場所で出た」——それぞれは小さな話だ。どれも、単独では巡回と関係があるとは言えない。
ただ、位置が気になった。
私は備え付けの地図を引き出しから出した。縮尺の粗い作業地図だが、灰枝を中心とした半径三十里程度の集落名は記入してある。ランプを持ってきて、九回分の報告元集落に、鉛筆で小さく印をつけた。
印を結ぶと、線になった。
直線ではない。道に沿って曲がっている。でも、一つの方向を向いている。北西から南東にかけて、緩く弧を描くように、集落が連なっていた。
灰枝はその中間地点あたりにある。
今回の第七巡回隊の入灰枝日を基点にして、前回の宿泊届のルートと重ねてみた。前回は去年の春、第四巡回隊だった。入灰枝日の三週間前、「北の廃鉱山の周辺で、夜間に発光する物体を見た」という集落からの問い合わせが記録されていた。北の廃鉱山。灰枝から北西に約十里。
私は地図の上で目を動かした。
北西から入って、灰枝を通って、南東へ。
南東の先に何があるか。
ランプを地図に近づけた。集落名が一つ、そちらの方角にある。小さな字で書かれている。
フィオナが住んでいる方向だった。
——わかったわけではない。
そう自分に言い聞かせた。地図の上の話だ。ルートが重なっているというだけで、フィオナと聖騎士を結びつける根拠はどこにもない。彼女の素性を、私は知らない。名前しか知らない。「腕のいい薬師」「単身で辺境に暮らしている」「身元を明かさない」——それだけだ。
でも、胸の奥で何かが引っかかっていた。
フィオナが最初にここに来たとき——包みをほどく手が丁寧で、余計なことを一切しゃべらなかった。名前だけ言った。苗字はなかった。住所も言わなかった。私も聞かなかった。聞かない方がいいと、そのときから何となく思っていた。なぜだろう。勘、としか言えない。数字で説明できない種類の感覚だ。
勘に名前をつけようがない以上、記録には残せない情報だった。
私は地図を折り畳んで、引き出しに戻した。
宿泊届の綴りを棚に戻して、在庫比較表を手に取り直した。数字を追う。蒼苔、棘草根、軟膏類。いつもの仕事だ。ランプの灯りが手元を照らしている。
窓の外で風が鳴った。
——明日の朝、どうなるだろう。
思った。声には出さなかった。
翌朝、いつも通りに開店準備をした。ヨルさんが早くに顔を見せて、棘鱗の端材を卸していった。昼前に二人の冒険者が依頼書を提出していった。午後になった。
フィオナが来たのは、昼過ぎの陽が傾きはじめたころだった。
いつも通り、手提げ籠を提げていた。麻布で包んだ品物が入っている。足取りは落ち着いていて、扉を開ける手つきも変わらない。カウンターに近づいてくる歩き方も、いつもの静けさだった。
「こんにちは、ナタリアさん」
「いらっしゃいませ、フィオナさん。今日はどんな品物ですか」
荷物をカウンターに置いてもらった。乾燥薬草の束が五つ、軟膏の小壺が二つ。いつも通りの品揃えだ。私はひとつずつ確認した。品質はいい。今日も迷わず上等の評価をつけられる。数字を計算して、合計を告げる。フィオナが頷く。銅貨を数えて渡す。
伝票を書く間、私は何も言わなかった。
フィオナも何も言わなかった。
静かだった。
私は伝票を仕上げて、フィオナに手渡した。フィオナが受け取って、畳んで、エプロンのポケットに入れる。空になった籠の中に麻布を整えて、蓋を閉める。
帰ろうとした。
「あのね」
気がついたら、声が出ていた。
自分でも少し驚いた。でも止めなかった。
カウンターに両肘をつく。身を乗り出して、声を落とした。フィオナが手を止めて、こちらを向く。
「聖騎士が二人、昨日から灰枝にいるの」
言葉を選んだ。
「宿泊届が出てる。遺跡関連の調査みたいなんだけど」
フィオナの顔が、変わった。
一瞬だった。でも私にはわかった。色が、引いた。日焼けした頰から、血のめぐりが、ほんの少し遠のいた。目が一度だけ、私から外れた。どこかを見た——扉の方でも、窓の方でもない。どこでもないところを見て、すぐに戻ってきた。
全部で二秒もなかった。
私は何も言わなかった。
フィオナも、何も言わなかった。
私は続けた。
「今日、出発するみたい。朝方に宿を引き払ったって、宿のおばさんから聞いた」
これは本当のことだ。今朝、宿の女将が顔を見せたときに、そう教えてくれた。あちらから話してくれた。私が聞いたわけではない。
「ああ」
フィオナが言った。声は低かった。どこか掠れていた。
「……そう」
沈黙が落ちた。
私はカウンターに乗せた両腕を、少し引いた。姿勢を戻す。
「ところで、軟膏のお代わりを頼もうと思ってたんだけど」
語調を変えた。いつもの事務の声に戻した。
「今日じゃなくてもいい? 来週にでも、都合のいいときに持ってきてもらえれば」
フィオナが私を見た。
少しの間、見ていた。
何かを測っているような目だった。でも、さっきの聖騎士の視線とは全然違った。さっきのは把握しようとする目だった。これは、確かめようとしている目だった。
何かを。私が、何を知っているか、ではなく——私が、どういう人間か。
「……はい」
フィオナは言った。
「来週、改めてうかがいます」
「よかった。在庫は急がないから、ゆっくりで」
私は帳簿に「軟膏類・発注中」と書いた。フィオナが籠を持った。
「では」
「気をつけて帰ってください」
扉が開いて、閉まった。
石畳の上を歩くフィオナの足音が聞こえた。いつもより少し速い気がした。でも確かめなかった。窓の方を見なかった。
私はカウンターに座ったまま、宿泊届の綴りを見た。
棚の端に立てかけてある。昨日、整理してから戻した。第七巡回隊、二名、一泊、本日出発。全部正確に記録されている。記録として、何の不備もない。
ただ。
フィオナの顔色が変わった瞬間のことは、そこには書かれていない。書ける種類のことではなかった。なぜ彼女があの顔をしたか、私は知らない。推測はある。でも推測は帳簿に書けない。数字じゃないものは書かない。それが私の仕事の原則だ。
フィオナが何者なのか。
聖騎士が本当に何を調べているのか。
二つの問いが、頭の中で静かに存在していた。答えを出そうとはしなかった。出せないことはわかっていた。受付カウンターの向こうに座っていると、世界のある断面だけが見える。書類が通り過ぎる場所にいると、記録できることの輪郭が、否応なく見えてくる。私が見えているのは、ほんの一部だ。
フィオナには「何か」がある。
最初に会ったときから、そう思っていた。名前だけ言って、苗字を言わない人間には、たいてい理由がある。それが悪い理由とは限らない。でも、軽い理由でもない。
私はフィオナのことが嫌いではなかった。正直なところ、好きだった。あの品物の丁寧さ、手の染みの深さ、無駄のない動作——全部、好意を持って見ていた。だから昨日から、どうするか迷っていた。
教えるべきか、黙っておくべきか。
でも、結局は告げた。
なぜかと言われても、うまく説明できない。彼女が白い鎧を怖れているとわかっていたからかもしれない。わかっていたのかと言われれば、証拠はなかった。ただ、そう感じていた。数字でない感覚が、そう言っていた。
帳簿には書けないことを、私は今日、やった。
それが正しかったかどうかも、わからない。
ただ——フィオナの顔が戻ってきた瞬間、あの「確かめるような目」が私を見た瞬間、少しだけ何かが軽くなった気がした。名前がつけられない種類の軽さだった。数字にも、書類にも落とし込めない感覚だ。
窓の外で風が鳴った。
午後の灰枝はゆっくりと夕方に向かっている。もうじきヨルさんか誰かが、今日の依頼結果を持ってくるだろう。数字が届く。それを帳簿に書く。それが私の仕事だ。
私は宿泊届の綴りを棚の奥に押し込んだ。
在庫比較表を手に取って、ペンを持つ。数字の続きを書く。蒼苔の在庫が増えた。棘草の根は適正水準に戻った。軟膏類は来週、フィオナが持ってくる。
帳簿は今日も正確だ。
書かれなかったことは、書かれなかったまま、どこかに残っている。それが何かに変わるかどうかは、今はまだわからない。
ただ、今日の辻褄は、合っている。
それでいい、と思うことにした。
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