14 / 24
第14話 名前のない荷
産地の欄が、空白だった。
リーネが差し出した帳簿を受け取って、私はその一行を見た。日付、品目、重量、品質——全部埋まっている。リーネの字は丁寧で、数字の並びも正確だ。四日で帳簿の書式には慣れた。秤の校正も毎朝欠かさない。教えたことは、ちゃんと吸収している。
だが産地だけが白い。
カウンターの向こうに立っている冒険者を見た。見覚えのない顔。灰枝の常連ではない。鉄牌を首から下げている。日に焼けた肌と、樹海の泥がこびりついた革靴。旅慣れた装備だが、灰枝のギルドに通い慣れた人間の佇まいではない。最近この手の顔が増えた。新規登録ではなく、他の支部から流れてきた冒険者だ。
「産地の申告をお願いします」
リーネが声をかけた。着任して四日目。受付の手順はもう覚えている。声の出し方も初日よりずっと落ち着いた。ただ、こういう場面は初めてだろう。
「ああ——樹海の奥の方」
冒険者は曖昧に答えた。奥の方。縁なのか中層なのか深層なのか、それではわからない。灰枝の常連なら、沢筋の南斜面とか、縁の第二標識の西とか、具体的な場所で申告してくれる。自分の足で歩いた場所だから、自然と言葉にできるのだ。「奥の方」としか言えないのは、自分の足で行っていないか、場所を知られたくないか、どちらかだ。
「もう少し具体的にお願いできますか。帳簿の産地情報は、他の冒険者の方が採取ルートを判断する際の——」
「だから、奥だよ。いいだろ、品物は見ての通りだ」
リーネが困った顔で私を見た。私は帳簿を置いて、カウンターの上に並べられた素材を手に取った。
紅角獣の角だった。
三本。長さはそれぞれ一尺ほど。根元が太く、先端に向かって細くなる曲線が美しい。色は深い赤紫で、光を当てると表面にかすかな脈紋が走っている。
角の断面を確認する。切断面が滑らかで、繊維の方向が均一。これは若い個体の角ではない。成獣、それもかなりの齢の個体だ。
鼻を近づけた。角特有の硬質な匂いの奥に、湿った石と苔の気配がある。陽の当たらない場所の匂い。
「中層以深ですね。この角の脈紋は深い場所でしか出ません」
冒険者が一瞬、目を細めた。
「……詳しいな」
「受付嬢ですので。産地は『中層以深』で記入してよろしいですか」
「好きにしろ」
投げやりな言い方だった。嘘をつこうとしているのではなく、産地を言いたくないのだ。言いたくない理由は——自分が採ったのではないから。
この角を中層以深で採取するには、最低でも銀牌の実力がいる。この冒険者は鉄牌だ。自分で獲ったなら相当な腕前だが、それにしては装備が軽すぎる。深層帰りの冒険者は、もっと消耗した顔をしている。
つまり、誰か別の人間が中層以深で採った角を、この冒険者が持ち込んでいる。
私は帳簿に記入した。品目、紅角獣の角。重量、三本で四十二グレン。品質、上。産地——中層以深。
備考欄に「持込者と採取者が異なる可能性あり」とは書かなかった。書くべきだったかもしれない。でも、証拠がない。匂いと脈紋と装備の軽さから推測しているだけで、帳簿に書ける確かさではない。推測と事実の区別がつかない記録は、帳簿を汚す。
買取価格を算出した。紅角獣の角、中層産、品質上。銀貨二枚と銅貨十五。成獣の角はそれだけの値がつく。武器の柄や魔石の台座に使われる硬質な素材で、灰枝では年に数回しか出回らない。
銀貨を数えて並べ、冒険者に署名を求めた。署名の筆跡はやや粗い。急いでいる。帳簿を閉じると、冒険者は銀貨を懐に入れ、何も言わずに出て行った。
扉が閉まった後、リーネが言った。
「あの人、自分で採ってないですよね」
「気づいた?」
「装備が軽すぎました。中層に入れる人の靴底はもっと削れてるはずです。研修のとき、素材の持ち込み詐欺の見分け方で習いました」
「靴底を見てたの。いい目してるね」
リーネが少し嬉しそうに、でもすぐに表情を引き締めた。
「でも、ナタリアさん、備考欄に書かなかったですよね。なんでですか」
「証拠がないから。推測は帳簿に書けない」
「でも——」
「でも、記録はする」
私は引き出しから別のノートを取り出した。帳簿とは別の、私用の控え帳だ。日付、来訪者の特徴、素材の種類と品質、気づいたこと。帳簿には書けない、だが忘れてはいけないことを、ここに書いている。
「帳簿は正式な記録。確かなことしか書けない。でも確かになる前の段階で、気づいたことを手元に残しておく。三件集まれば傾向が見える。傾向が見えたら、それは帳簿に書ける」
リーネが控え帳を覗き込んだ。ページをめくると、似たような記録がいくつか並んでいた。
「これ——同じような人が、前にも来てたんですか」
「先週から四人目」
リーネの目が大きくなった。
四人。いずれも見慣れない顔で、鉄牌以下。持ち込む素材は中層以深でしか採れないもの。産地を聞くと濁す。装備が軽い。
だが一つ、共通点がある。
「素材の切断面を見て」
今日の紅角獣の角を、先週持ち込まれた棘鱗の端材の写しと並べた。棘鱗の方は、持ち込んだ冒険者が帰った後で状態を記録しておいたものだ。
「切り方が同じです。角度と、刃の入れ方が——」
「うん。同じ道具で、同じ人間が処理している。持ち込む人は毎回違うけど、裏にいる採取者は同一人物。中層以深に入れる実力のある誰かが、大量に素材を採って、別の人間に持ち込ませている」
「それって——」
「非正規流通。ギルドの採取報告を経由しない素材が、正規の買取ルートに流れ込んでいる」
私は窓の外を見た。通りを歩く人影が、半年前より確実に多い。
「灰枝は変わってきている。帳簿の数字がそう言ってる。取引量は増えて、新規登録者も増えた。でも増え方に——偏りがある。正規の採取報告が増えた以上に、こういう出所の怪しい素材の持ち込みが増えてるの」
リーネが黙った。何かを考えている顔だった。
「止められないんですか」
「買取を拒否することはできる。産地不明を理由にして。でもそうすると、素材は闇市に流れる。ギルドを通さない取引が増えて、帳簿に載らなくなる。帳簿に載らない取引は、管理できない」
「じゃあ、どうするんですか」
「記録する」
私は控え帳を閉じた。
「今はまだ記録する段階。四件分のデータがある。もう少し集まれば、傾向をまとめて本部に報告書を出せる。『中層産素材の非正規流通の疑い』として」
「報告書を出したら、本部が動くんですか」
「わからない。本部の判断は本部のものだから。でも帳簿に載せれば、少なくとも記録は残る。記録が残れば、いつか誰かが読む。その誰かが何かを判断するとき、正確な数字がそこにあるかどうかで、判断の質が変わる」
自分で言いながら、少し苦しかった。帳簿を正確につけることしか、私にはできない。中層に潜って裏の採取者を見つけることも、闇市を取り締まることもできない。受付嬢の仕事は、ここまでだ。ここまでしかない。
でも——ここまでは、やる。
リーネは頷いた。今度の頷きは、着任初日の頷きとは少し違っていた。わからないまま頷くのではなく、わからないことがある、ということをわかった上で頷いている。
午後、別の冒険者が素材を持ち込んだ。
今度は常連のテオだった。松葉杖はもう外れていたが、歩き方にはまだ少し癖が残っている。片足を軽くかばうようにして、カウンターに近づいてきた。扉をくぐるときに右足をかばって体が傾くのが見えた。あの足は、私の帳簿にもう少し早く気づいていれば怪我をせずに済んだ足だ。そのことは、忘れないようにしている。
「テオさん、足の調子は」
「まあまあだ。走るのはまだ無理だが、軽い依頼なら出られるようになった」
「無理しないでくださいね」
「ナタリア嬢に言われると、怖いな。帳簿に『無理した』って書かれそうで」
「書きますよ」
テオが苦笑した。冗談に聞こえただろうが、半分は本気だ。テオの活動記録は、前より注意深く見るようになった。
テオが持ち込んだのは蔓草の乾燥品だった。樹海の縁で採ったもの。束の縛り方が丁寧で、乾燥も十分。申告通りの産地、申告通りの重量。品質は標準。何の問題もない、正直な取引。
リーネが受付を担当した。もう手は震えていない。秤に載せ、重量を確認し、帳簿に記入する。一連の動作が滑らかになってきている。産地の欄には「樹海の縁・南側斜面」と具体的に書かれていた。テオは几帳面だ。
「リーネさん、だっけ。新しい受付の」
「はい。よろしくお願いします」
「ナタリア嬢が二人いるみたいだな。帳簿を見る目が同じだ」
テオが少し笑った。リーネが困った顔をしている。似てないと思う。でもテオから見れば、帳簿を真剣に見つめている横顔が似て見えるのかもしれない。四日で真似できるようなことではないはずだが——リーネは確かに、帳簿を見るとき少しだけ前のめりになる。それは教えたのではなく、この子の癖だ。悪くない癖だった。
テオが帰った後、私はさっきの取引記録をもう一度見た。テオの蔓草。産地は縁の南側斜面。品質は標準。何も問題はない。帳簿の上で、テオの一行は安心する。正直な数字が、正直に並んでいる。
だがその上に並ぶ記録——今日の紅角獣の角、先週の棘鱗、その前の棘鱗——を見ると、テオの一行だけが違う色をしていた。正直な取引が、正直でない取引に挟まれている。
数字そのものは嘘をついていない。産地を「中層以深」と記入したのは事実だし、品質も重量も正確だ。嘘は帳簿の中にはない。帳簿の外——持ち込む人間と、採る人間の間にある。その間の暗がりは、帳簿には映らない。
帳簿の数字は正直だ。でも最近の灰枝には、帳簿の正直さの隙間を縫って、何かが流れ込んできている。
「ナタリアさん」
リーネが声をかけてきた。
「はい」
「帳簿が教えてくれるのは『何が起きたか』で、『なぜ』は帳簿の外にある——って、そういうことですよね」
「どこで覚えたのそれ」
「ナタリアさんが、さっき言ったんですよ」
言ったかもしれない。教えることに必死で、自分が何を口にしたか覚えていない。でも、リーネはちゃんと聞いていた。
「うん。そういうこと」
夕方、帳簿を閉じた。
控え帳にもう一行書き加える。今日で五件目。切断面の共通性、装備の軽さ、産地申告の曖昧さ。パターンは見えてきた。
もう少し。もう少し集まれば、報告書が書ける。帳簿の外にあるものを、帳簿の中に入れるための手順。正確に、慎重に、確かなことだけを。
カウンターを拭いた。リーネの椅子の位置を確認した。昨日、私が直した位置のまま動いていなかった。
鍵を閉めて、通りに出る。
灰枝の夕暮れは、半年前より少しだけ賑やかだった。通りを歩く人の数が増えている。知らない顔が増えている。
肉屋の前に見慣れない行商人がいた。装甲猪の肉を値切っている声が聞こえる。鍛冶場のマルコが、忙しそうに二つの炉を同時に使っていた。あの人も仕事が増えたのだろう。
道具屋の軒先に吊るされた棘鱗の風鈴が、いくつもの足音に紛れて鳴っていた。半年前、あの風鈴の音は通りの端まで聞こえた。今は途中でかき消される。それだけ、灰枝が騒がしくなったということだ。
帳簿は教えてくれる。何が起きたかを。
でも、なぜ起きているかは——帳簿の外にある。
その外側が、少しずつこちらに近づいてきている気がした。
リーネが差し出した帳簿を受け取って、私はその一行を見た。日付、品目、重量、品質——全部埋まっている。リーネの字は丁寧で、数字の並びも正確だ。四日で帳簿の書式には慣れた。秤の校正も毎朝欠かさない。教えたことは、ちゃんと吸収している。
だが産地だけが白い。
カウンターの向こうに立っている冒険者を見た。見覚えのない顔。灰枝の常連ではない。鉄牌を首から下げている。日に焼けた肌と、樹海の泥がこびりついた革靴。旅慣れた装備だが、灰枝のギルドに通い慣れた人間の佇まいではない。最近この手の顔が増えた。新規登録ではなく、他の支部から流れてきた冒険者だ。
「産地の申告をお願いします」
リーネが声をかけた。着任して四日目。受付の手順はもう覚えている。声の出し方も初日よりずっと落ち着いた。ただ、こういう場面は初めてだろう。
「ああ——樹海の奥の方」
冒険者は曖昧に答えた。奥の方。縁なのか中層なのか深層なのか、それではわからない。灰枝の常連なら、沢筋の南斜面とか、縁の第二標識の西とか、具体的な場所で申告してくれる。自分の足で歩いた場所だから、自然と言葉にできるのだ。「奥の方」としか言えないのは、自分の足で行っていないか、場所を知られたくないか、どちらかだ。
「もう少し具体的にお願いできますか。帳簿の産地情報は、他の冒険者の方が採取ルートを判断する際の——」
「だから、奥だよ。いいだろ、品物は見ての通りだ」
リーネが困った顔で私を見た。私は帳簿を置いて、カウンターの上に並べられた素材を手に取った。
紅角獣の角だった。
三本。長さはそれぞれ一尺ほど。根元が太く、先端に向かって細くなる曲線が美しい。色は深い赤紫で、光を当てると表面にかすかな脈紋が走っている。
角の断面を確認する。切断面が滑らかで、繊維の方向が均一。これは若い個体の角ではない。成獣、それもかなりの齢の個体だ。
鼻を近づけた。角特有の硬質な匂いの奥に、湿った石と苔の気配がある。陽の当たらない場所の匂い。
「中層以深ですね。この角の脈紋は深い場所でしか出ません」
冒険者が一瞬、目を細めた。
「……詳しいな」
「受付嬢ですので。産地は『中層以深』で記入してよろしいですか」
「好きにしろ」
投げやりな言い方だった。嘘をつこうとしているのではなく、産地を言いたくないのだ。言いたくない理由は——自分が採ったのではないから。
この角を中層以深で採取するには、最低でも銀牌の実力がいる。この冒険者は鉄牌だ。自分で獲ったなら相当な腕前だが、それにしては装備が軽すぎる。深層帰りの冒険者は、もっと消耗した顔をしている。
つまり、誰か別の人間が中層以深で採った角を、この冒険者が持ち込んでいる。
私は帳簿に記入した。品目、紅角獣の角。重量、三本で四十二グレン。品質、上。産地——中層以深。
備考欄に「持込者と採取者が異なる可能性あり」とは書かなかった。書くべきだったかもしれない。でも、証拠がない。匂いと脈紋と装備の軽さから推測しているだけで、帳簿に書ける確かさではない。推測と事実の区別がつかない記録は、帳簿を汚す。
買取価格を算出した。紅角獣の角、中層産、品質上。銀貨二枚と銅貨十五。成獣の角はそれだけの値がつく。武器の柄や魔石の台座に使われる硬質な素材で、灰枝では年に数回しか出回らない。
銀貨を数えて並べ、冒険者に署名を求めた。署名の筆跡はやや粗い。急いでいる。帳簿を閉じると、冒険者は銀貨を懐に入れ、何も言わずに出て行った。
扉が閉まった後、リーネが言った。
「あの人、自分で採ってないですよね」
「気づいた?」
「装備が軽すぎました。中層に入れる人の靴底はもっと削れてるはずです。研修のとき、素材の持ち込み詐欺の見分け方で習いました」
「靴底を見てたの。いい目してるね」
リーネが少し嬉しそうに、でもすぐに表情を引き締めた。
「でも、ナタリアさん、備考欄に書かなかったですよね。なんでですか」
「証拠がないから。推測は帳簿に書けない」
「でも——」
「でも、記録はする」
私は引き出しから別のノートを取り出した。帳簿とは別の、私用の控え帳だ。日付、来訪者の特徴、素材の種類と品質、気づいたこと。帳簿には書けない、だが忘れてはいけないことを、ここに書いている。
「帳簿は正式な記録。確かなことしか書けない。でも確かになる前の段階で、気づいたことを手元に残しておく。三件集まれば傾向が見える。傾向が見えたら、それは帳簿に書ける」
リーネが控え帳を覗き込んだ。ページをめくると、似たような記録がいくつか並んでいた。
「これ——同じような人が、前にも来てたんですか」
「先週から四人目」
リーネの目が大きくなった。
四人。いずれも見慣れない顔で、鉄牌以下。持ち込む素材は中層以深でしか採れないもの。産地を聞くと濁す。装備が軽い。
だが一つ、共通点がある。
「素材の切断面を見て」
今日の紅角獣の角を、先週持ち込まれた棘鱗の端材の写しと並べた。棘鱗の方は、持ち込んだ冒険者が帰った後で状態を記録しておいたものだ。
「切り方が同じです。角度と、刃の入れ方が——」
「うん。同じ道具で、同じ人間が処理している。持ち込む人は毎回違うけど、裏にいる採取者は同一人物。中層以深に入れる実力のある誰かが、大量に素材を採って、別の人間に持ち込ませている」
「それって——」
「非正規流通。ギルドの採取報告を経由しない素材が、正規の買取ルートに流れ込んでいる」
私は窓の外を見た。通りを歩く人影が、半年前より確実に多い。
「灰枝は変わってきている。帳簿の数字がそう言ってる。取引量は増えて、新規登録者も増えた。でも増え方に——偏りがある。正規の採取報告が増えた以上に、こういう出所の怪しい素材の持ち込みが増えてるの」
リーネが黙った。何かを考えている顔だった。
「止められないんですか」
「買取を拒否することはできる。産地不明を理由にして。でもそうすると、素材は闇市に流れる。ギルドを通さない取引が増えて、帳簿に載らなくなる。帳簿に載らない取引は、管理できない」
「じゃあ、どうするんですか」
「記録する」
私は控え帳を閉じた。
「今はまだ記録する段階。四件分のデータがある。もう少し集まれば、傾向をまとめて本部に報告書を出せる。『中層産素材の非正規流通の疑い』として」
「報告書を出したら、本部が動くんですか」
「わからない。本部の判断は本部のものだから。でも帳簿に載せれば、少なくとも記録は残る。記録が残れば、いつか誰かが読む。その誰かが何かを判断するとき、正確な数字がそこにあるかどうかで、判断の質が変わる」
自分で言いながら、少し苦しかった。帳簿を正確につけることしか、私にはできない。中層に潜って裏の採取者を見つけることも、闇市を取り締まることもできない。受付嬢の仕事は、ここまでだ。ここまでしかない。
でも——ここまでは、やる。
リーネは頷いた。今度の頷きは、着任初日の頷きとは少し違っていた。わからないまま頷くのではなく、わからないことがある、ということをわかった上で頷いている。
午後、別の冒険者が素材を持ち込んだ。
今度は常連のテオだった。松葉杖はもう外れていたが、歩き方にはまだ少し癖が残っている。片足を軽くかばうようにして、カウンターに近づいてきた。扉をくぐるときに右足をかばって体が傾くのが見えた。あの足は、私の帳簿にもう少し早く気づいていれば怪我をせずに済んだ足だ。そのことは、忘れないようにしている。
「テオさん、足の調子は」
「まあまあだ。走るのはまだ無理だが、軽い依頼なら出られるようになった」
「無理しないでくださいね」
「ナタリア嬢に言われると、怖いな。帳簿に『無理した』って書かれそうで」
「書きますよ」
テオが苦笑した。冗談に聞こえただろうが、半分は本気だ。テオの活動記録は、前より注意深く見るようになった。
テオが持ち込んだのは蔓草の乾燥品だった。樹海の縁で採ったもの。束の縛り方が丁寧で、乾燥も十分。申告通りの産地、申告通りの重量。品質は標準。何の問題もない、正直な取引。
リーネが受付を担当した。もう手は震えていない。秤に載せ、重量を確認し、帳簿に記入する。一連の動作が滑らかになってきている。産地の欄には「樹海の縁・南側斜面」と具体的に書かれていた。テオは几帳面だ。
「リーネさん、だっけ。新しい受付の」
「はい。よろしくお願いします」
「ナタリア嬢が二人いるみたいだな。帳簿を見る目が同じだ」
テオが少し笑った。リーネが困った顔をしている。似てないと思う。でもテオから見れば、帳簿を真剣に見つめている横顔が似て見えるのかもしれない。四日で真似できるようなことではないはずだが——リーネは確かに、帳簿を見るとき少しだけ前のめりになる。それは教えたのではなく、この子の癖だ。悪くない癖だった。
テオが帰った後、私はさっきの取引記録をもう一度見た。テオの蔓草。産地は縁の南側斜面。品質は標準。何も問題はない。帳簿の上で、テオの一行は安心する。正直な数字が、正直に並んでいる。
だがその上に並ぶ記録——今日の紅角獣の角、先週の棘鱗、その前の棘鱗——を見ると、テオの一行だけが違う色をしていた。正直な取引が、正直でない取引に挟まれている。
数字そのものは嘘をついていない。産地を「中層以深」と記入したのは事実だし、品質も重量も正確だ。嘘は帳簿の中にはない。帳簿の外——持ち込む人間と、採る人間の間にある。その間の暗がりは、帳簿には映らない。
帳簿の数字は正直だ。でも最近の灰枝には、帳簿の正直さの隙間を縫って、何かが流れ込んできている。
「ナタリアさん」
リーネが声をかけてきた。
「はい」
「帳簿が教えてくれるのは『何が起きたか』で、『なぜ』は帳簿の外にある——って、そういうことですよね」
「どこで覚えたのそれ」
「ナタリアさんが、さっき言ったんですよ」
言ったかもしれない。教えることに必死で、自分が何を口にしたか覚えていない。でも、リーネはちゃんと聞いていた。
「うん。そういうこと」
夕方、帳簿を閉じた。
控え帳にもう一行書き加える。今日で五件目。切断面の共通性、装備の軽さ、産地申告の曖昧さ。パターンは見えてきた。
もう少し。もう少し集まれば、報告書が書ける。帳簿の外にあるものを、帳簿の中に入れるための手順。正確に、慎重に、確かなことだけを。
カウンターを拭いた。リーネの椅子の位置を確認した。昨日、私が直した位置のまま動いていなかった。
鍵を閉めて、通りに出る。
灰枝の夕暮れは、半年前より少しだけ賑やかだった。通りを歩く人の数が増えている。知らない顔が増えている。
肉屋の前に見慣れない行商人がいた。装甲猪の肉を値切っている声が聞こえる。鍛冶場のマルコが、忙しそうに二つの炉を同時に使っていた。あの人も仕事が増えたのだろう。
道具屋の軒先に吊るされた棘鱗の風鈴が、いくつもの足音に紛れて鳴っていた。半年前、あの風鈴の音は通りの端まで聞こえた。今は途中でかき消される。それだけ、灰枝が騒がしくなったということだ。
帳簿は教えてくれる。何が起きたかを。
でも、なぜ起きているかは——帳簿の外にある。
その外側が、少しずつこちらに近づいてきている気がした。
あなたにおすすめの小説
私と母のサバイバル
だましだまし
ファンタジー
侯爵家の庶子だが唯一の直系の子として育てられた令嬢シェリー。
しかしある日、母と共に魔物が出る森に捨てられてしまった。
希望を諦めず森を進もう。
そう決意するシェリーに異変が起きた。
「私、別世界の前世があるみたい」
前世の知識を駆使し、二人は無事森を抜けられるのだろうか…?
追放したんでしょ?楽しく暮らしてるのでほっといて
だましだまし
ファンタジー
私たちの未来の王子妃を影なり日向なりと支える為に存在している。
敬愛する侯爵令嬢ディボラ様の為に切磋琢磨し、鼓舞し合い、己を磨いてきた。
決して追放に備えていた訳では無いのよ?
追放された私の代わりに入った女、三日で国を滅ぼしたらしいですよ?
タマ マコト
ファンタジー
王国直属の宮廷魔導師・セレス・アルトレイン。
白銀の髪に琥珀の瞳を持つ、稀代の天才。
しかし、その才能はあまりに“美しすぎた”。
王妃リディアの嫉妬。
王太子レオンの盲信。
そして、セレスを庇うはずだった上官の沈黙。
「あなたの魔法は冷たい。心がこもっていないわ」
そう言われ、セレスは**『無能』の烙印**を押され、王国から追放される。
彼女はただ一言だけ残した。
「――この国の炎は、三日で尽きるでしょう。」
誰もそれを脅しとは受け取らなかった。
だがそれは、彼女が未来を見通す“預言魔法”の言葉だったのだ。
田舎娘、追放後に開いた小さな薬草店が国家レベルで大騒ぎになるほど大繁盛
タマ マコト
ファンタジー
【大好評につき21〜40話執筆決定!!】
田舎娘ミントは、王都の名門ローズ家で地味な使用人薬師として働いていたが、令嬢ローズマリーの嫉妬により濡れ衣を着せられ、理不尽に追放されてしまう。雨の中ひとり王都を去ったミントは、亡き祖母が残した田舎の小屋に戻り、そこで薬草店を開くことを決意。森で倒れていた謎の青年サフランを救ったことで、彼女の薬の“異常な効き目”が静かに広まりはじめ、村の小さな店《グリーンノート》へ、変化の風が吹き込み始める――。
スラム街の幼女、魔導書を拾う。
海夏世もみじ
ファンタジー
スラム街でたくましく生きている六歳の幼女エシラはある日、貴族のゴミ捨て場で一冊の本を拾う。その本は一人たりとも契約できた者はいない伝説の魔導書だったが、彼女はなぜか契約できてしまう。
それからというもの、様々なトラブルに巻き込まれいくうちにみるみる強くなり、スラム街から世界へと羽ばたいて行く。
これは、その魔導書で人々の忘れ物を取り戻してゆき、決して忘れない、忘れられない〝忘れじの魔女〟として生きるための物語。
【完結】精霊に選ばれなかった私は…
まりぃべる
ファンタジー
ここダロックフェイ国では、5歳になると精霊の森へ行く。精霊に選んでもらえれば、将来有望だ。
しかし、キャロル=マフェソン辺境伯爵令嬢は、精霊に選んでもらえなかった。
選ばれた者は、王立学院で将来国の為になるべく通う。
選ばれなかった者は、教会の学校で一般教養を学ぶ。
貴族なら、より高い地位を狙うのがステータスであるが…?
☆世界観は、緩いですのでそこのところご理解のうえ、お読み下さるとありがたいです。
つまらなかった乙女ゲームに転生しちゃったので、サクッと終わらすことにしました
蒼羽咲
ファンタジー
つまらなかった乙女ゲームに転生⁈
絵に惚れ込み、一目惚れキャラのためにハードまで買ったが内容が超つまらなかった残念な乙女ゲームに転生してしまった。
絵は超好みだ。内容はご都合主義の聖女なお花畑主人公。攻略イケメンも顔は良いがちょろい対象ばかり。てこたぁ逆にめちゃくちゃ住み心地のいい場所になるのでは⁈と気づき、テンションが一気に上がる!!
聖女など面倒な事はする気はない!サクッと攻略終わらせてぐーたら生活をGETするぞ!
ご都合主義ならチョロい!と、野望を胸に動き出す!!
+++++
・重複投稿・土曜配信 (たま~に水曜…不定期更新)
拾ってないのに、最上位が毎日“帰る”んですがーー飼い主じゃありません!ただの受付係です!
星乃和花
恋愛
王都ギルド受付係リナは、今日も平和に働く予定だった。
……のに。
「お腹すいた」
そう言って現れたのは、最上位の英雄レオン。
強いのに生活力ゼロ、距離感ゼロ、甘え方だけは一流。
手当てすれば「危ない」と囲い込み、
看病すれば抱きしめて離さず、
ついには――
「君が、俺の帰る場所」
拾ってない。飼ってない。
ただ世話を焼いただけなのに、英雄が毎日“帰ってくる”ようになりました。
無自覚世話焼き受付嬢 × 甘えた天然英雄の
距離感バグ甘々ラブコメ、開幕!
⭐︎火木土21:20更新ー本編8話+後日談9話⭐︎