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クラゲの鈴代さんはジンベエザメを見たがった

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「死んだクラゲが水に溶けて消えてしまうように、私の体も消えてしまえば楽なのにね」
 鈴代さんにはそのセリフと咥えたタバコと、ぬるくなった缶ビールが似合うなと、なんとなくそう思った。彼女の、全てが希薄なところが、僕は好きだった。
「死にたいんですか?」
 そう訊くと、
「どっちかっていうと消えたい」
 って薄く笑った。
「ていうか、クラゲって死ぬと溶けちゃうんですね」
「うん、体の殆どが水でできてるから」
「初めて知りました」
「私も、この前テレビで見て知った」
 机の上にはどんどんと空き缶が溜まっていった。ほとんどが鈴代さんの飲んだお酒のはずなのに、当の本人はケロッとして、またタバコに火をつけ紫煙を吐いた。
「どうせなら消えた方が気が楽じゃない」
 死にたいと消えたいは、言葉だけ見ても違うのはなんとなくわかるけど、後者の方が生々しくなくて、けれども鈴代さんが口にするとどこかリアリティがあるように感じた。
 だからきっと、僕が鈴代さんを殺してしまっても、きっと彼女の肉体は消えはしないのだろう。
 僕のベッドの上で、そっと彼女の首を絞めて、充血する目に見つめられながら、手に込めた力を緩めることなく、ただ、静かに彼女を殺める。そうして死んだところで、鈴代さんはクラゲのように消えはしない。ずっと僕の手の中に鈴代さんはいて、体温を失って、少しずつ腐敗して、肉が溶けたり骨が見えてきたりして、ベッドの上の黒ずんだシミは広がっていって。
「ねえ、今度水族館に行きましょう」
 また鈴代さんはビールを一気に飲み干した。
「いいですよ、クラゲ、見に行きましょう」
「ううん、イルカが見たい。あと、ジンベエザメ」
「いいですね、見に行きましょう」
 それから僕たちはまたしばらくビールを飲んで、タバコを吸って、なんでもないような話をして、セックスをして、またタバコを吸った。
 消えたがりの鈴代さんは、現実にはちゃんと肉体があって、熱をしっかりと感じることができた。肌は柔らかくて、でも汗ばんでべたついていて、髪にタバコの匂いが染み付いていた。重ねた唇からも、アルコールとタバコの味が伝わってきた。

 朝起きると、鈴代さんはいなくなっていた。僕は素っ裸で布団にくるまっていた。
 部屋の中に鈴代さんの気配はどこにもなかった。もう出ていってしまったのだろうか。空き缶は机の上からすっかりなくなっていて、灰皿も綺麗に片付けられていた。
 僕は二日酔いの響く頭を押さえながら、キッチンで一杯の水を飲んだ。シンクの傍に、空き缶が綺麗に並べられていた。鈴代さんが片付けてくれたらしい、あとでお礼を言わなきゃと思った。
 ベッドに戻ってから、枕元に彼女のタバコが置き去りにされていたのを見つけた。そこから一本抜いて、咥えて火をつける。煙が窓から差し込む朝陽に揺れて、それから、そっと部屋の中に消えていった。
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