アビゲイル・サーガ ~侍女から始まる英雄譚~

瑪瑙 鼎

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4:敗者の交わり

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「はぁ、はぁ、はぁ…」

 次第に薄暗さの増す森の中を、坊ちゃんと私は走り続けた。時折梟の鳴き声が漂う、静まり返った森の中に、私達の草を掻き分ける音だけが響き渡る。湿り気を含んだ不快な風が体に纏わりつき、地面はぬかるんで脆く崩れ、私は何度も足を滑らせ、バランスを崩した。

 護衛隊は此処まで騎馬で来ていたが、ワイトの状態異常と乱戦によって馬が逃げ去り、私達は道なき道を徒歩で戻らざるを得なかった。泥濘と化した地盤と深い藪が交互に私達の行く手を阻み、坊ちゃんも私も次第に息が乱れ、足取りが重くなった。

「はぁ、はぁ、はぁ…あぁっ!?」
「リュシー!?しっかりしろっ!」
「あぐっ…っ…うぅぅ…」

 ぬかるみに足を取られた私は横倒しになり、右肩を強打した。右肩から幾筋もの槍を捻じ込まれるような痛みが全身を貫き、耐え切れなくなった私はその場で蹲る。坊ちゃんが慌てて踵を返して手を差し伸べるのにも気づかず、私は地面に横たわったまま殻に閉じこもるように背中を丸め、歯を食いしばった。

 槍が開けた穴の中に、次々と熱湯が流れ込んできた。熱湯は瞬く間に全身を駆け巡り、私は朦朧とした意識の中で顔を上げ、目の前に差し出された手をぼんやりと眺める。身を守るはずの鎧が重しと化し、私の体を地面に縫い付けた。

「はぁ、はぁ…」
「リュシー?…鎧が邪魔なのか?手伝う」

 私が地面に横たわったまま鎧を搔きむしるのを見て、坊ちゃんが膝をつき、留め金を外し始める。やがて胸甲から手甲、脛当てに至る全ての鎧を脱ぎ捨てた私はようやく大地の拘束から抜け出し、坊ちゃんの肩を借りてなんとか立ち上がった。

「はぁ、はぁ…坊ちゃん、申し訳、あり…ま…」
「無理をして喋るな!…行くぞ」

 坊ちゃんが私の左の脇の下から顔を覗かせ、私の体を支えながら叱責する。私は息を乱したまま頷きを返し、もはや走る事もできず、ゆっくりとした足取りで逃避を再開した。



「はぁ、はぁ、はぁ…」

 陽が完全に沈み、暗闇が大地を支配する頃、私達は森の中にぽっかりと穴を開けたような小さな草原へと足を踏み入れた。草原の中央には大きな木が一本根を下ろしており、見事な枝を周囲に伸ばしている。私はその木の太い幹に背中を預け、寄り掛かった。両足が悲鳴を上げ、膝が嗤い出す。深呼吸を繰り返しているうちに私の体がずり落ち、やがて大地に張る根を枕代わりにして仰向けになり、地面に横たわった。上から坊ちゃんが顔を覗かせ、心配そうに尋ねて来た。

「リュシー…お前、大丈夫か?」
「大丈夫、です…はぁ、はぁ…坊ちゃん、すみませんが、右の腰に括ってある筒と袋を取っていただけませんか?」
「わかった」
「…うぐぅ!?」
「っ!?…す、すまん…」

 私のお願いに坊ちゃんが頷き、膝をついて私の腰をまさぐる。途中、私の右腕を掴んで横に動かし、私は右肩から広がる激痛に呻き声を上げ、身を捩らせた。坊ちゃんは申し訳なさそうに頭を下げながら、私の腰へと手を伸ばす。やがて坊ちゃんは二本の筒を両手で一本ずつ掲げ、左右を交互に見ながら口を開いた。

「…筒は二本あったが、袋は見当たらなかったぞ?」
「そう、ですか…」

 袋には火打石が入っていたのだが、あの乱戦の中で取り落としてしまったようだ。私は溜息をつき、火を起こすのを諦める。よくよく考えれば、火を起こしたらその灯りを頼りに魔物が寄って来かねない。そう割り切った私は思考を打ち切り、坊ちゃんに説明した。

「…その筒に、水と食料が入っています…お召し上がり下さい…」
「お前は?」
「…後で、少しだけいただければ…」
「…わかった。先に貰おう」

 全身を駆け巡る熱と痛みのせいで、食欲が湧かない。私は地面に横たわったまま、傍らに座り交互に筒を傾けて食事を摂る坊ちゃんの姿を、ぼんやりと眺めていた。



 坊ちゃんは食事を終えると地面に膝をついて身を乗り出し、私の左手に筒を持たせてくれた。私は緩慢な動作で筒を傾け、水と食料を少しだけ口に含む。何も食べていないに等しいほどの僅かな食事を終えた私は、心配そうに見つめる坊ちゃんに向かって微笑んだ。

「…坊ちゃん、少しお休みになって下さい…私が見張っていますから…」
「…わかった。リュシー、すまない」
「いえ…」

 私の言葉に坊ちゃんは辛そうに顔を歪めると、私の近くで横になり、身を縮める。私は坊ちゃんの丸くなった姿を少しの間眺めた後、顔を上げ、周囲を見渡した。

 先ほどまで上空を覆っていた分厚い雲は一掃され、満天の星空の中で月が煌々と輝いていた。月から惜しみなく降り注がれた光が地上を照らし、全ての造形を青白く浮かび上がらせる。湿り気を含む澱んだ空気が北から流れ込む風によって吹き払われ、気温が一気に下がる。今は秋が深まり冬の足音が聞こえて来る、さそりの月。いつもであればこの冷え込みは体に堪えるだろうが、体が燃えるように熱い今の私にとっては、いっそ心地良いくらいだった。

「…」
「…坊ちゃん?」

 下草と衣擦れの音が漂い、私は音の出処へと目を向ける。私の視線の先に、地面に横たわって身を丸めたまま震える、坊ちゃんの背中が浮かび上がった。よくよく見るとその背中には、私が纏っているような外套が見当たらない。状態異常に掛かって錯乱した時に、脱ぎ捨ててしまったに違いなかった。

 外套を失い剥き出しとなった衣服は先ほどの激しい雨に晒されてびっしょりと濡れており、北から流れ込んだ風が通り過ぎるたびに、坊ちゃんはより小さく縮こまり、激しい身震いを繰り返す。

 このままでは風邪を引くどころか、命にも関わってしまう。

 私は熱にうなされ朦朧とした頭で、暖を取れるものがないか、ぼんやりと考える。体は火をくべられたように熱を帯び、一向に思考が纏まらない。うだるような暑さに辟易した私は、何か体を冷やすものがないか周囲を見渡し、ふと思い至った。



 ――― あぁ…此処に、こんな暖かいものがあるじゃないか…。



「…坊ちゃん、服を脱いで下さい。そんなびしょ濡れのままでは、凍死しかねません」
「し、しかし、代わりに着る物が何も…」

 私の指摘に坊ちゃんが身を起こして不承不承の態で振り返り、そのまま彫像と化した。身を捩った姿勢のまま目を見開き、硬直する坊ちゃんの前で、私は木の根元に頭を乗せ仰向けに横たわっている。



 その上半身を覆っていたはずの白いシャツはボタンが全て外れて左右に広がり、中から鍛錬によって引き締まった瑞々しい体と、その細い体には不釣り合いなほど盛り上がった張りのある二つの丘が剥き出しになり、月の光を浴びて白く浮かび上がっていた。



「…なっ…なっ…!?」

 口を大きく開いたまま言葉を失い、それでも二つの丘から決して離れようとしない、あまりにも純粋で真剣な少年の眼差しに、私は可笑おかしくなる。私は体を横たえ坊ちゃんの視線に上半身をさらけ出したまま、頬を染め、微笑んだ。

「…あまり、まじまじと見ないで下さい…恥ずかしいから…」
「っ!?…ご、ごめ…!」

 坊ちゃんは慌てて姿勢を正し、横を向いてごにょごにょと呟く。顔を真っ赤にして横を向いたまま、それでも瞳が引き寄せられるように左右に揺れる坊ちゃんに、私は左手を広げ、優しくいざなった。

「…さ、坊ちゃん、来て下さい…暖かいですよ…」
「…う、うん…」

 私の誘いに坊ちゃんは背中を向け、いそいそと服を脱ぐと地面に広げて干し始める。やがて下履き一つの姿になった坊ちゃんは、恐る恐る私の上に覆い被さろうとして突如硬直し、顔を強張らせた。

「リュシー!お前、右肩がっ!?」
「…え?どうなっています?」
「…真っ黒に変色している…」

 呻くような坊ちゃんの呟きを聞き、私は身を横たえたまま、右肩に目を向ける。視界の隅に、黒と紫の斑模様に変色した右肩が、映り込んだ。私は溜息をついて視線を戻し、私の真上で地面に両手をつき泣きそうな顔で見下ろしている坊ちゃんに優しく語り掛けた。

「…今は考えても仕方ありません…坊ちゃん、来て下さい。右肩には触れないで下さいね…」
「…うん」

 坊ちゃんは力なく頷くと、上半身を支えていた両腕の力を抜き、私の上に身を横たえた。坊ちゃんは二つの丘の谷間に顔を埋めると一瞬目を見開き、やがて瞼が微睡みを伴い、ゆっくりと閉ざされる。私の体から絶え間なく湧き出る熱が坊ちゃんに吸い取られ、代わりに心地良い清涼感が流れ込んで来る。

「…お前は、暖かいな…」
「坊ちゃんは、冷たくて気持ち良いですよ…」

 やがて胸元から規則正しい小さな寝息が上がり、私は左手で外套を掴んで坊ちゃんを包み込む。

 私は左手で坊ちゃんの頭を撫でながら、梟の声と胸元の寝息が奏でる静かな楽曲に耳を傾け、上空で繰り広げられる星々の舞踏会をいつまでも眺めていた。
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