失われた右腕と希望の先に

瑪瑙 鼎

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第6章 束の間の平穏

104:宴の夜

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 アンスバッハ伯爵家の館は、ライツハウゼンの街の西の端にあった。

 街の中心部から緩やかに傾斜した坂の上にあり、館の背後は切り立った崖となっている。館からはライツハウゼンの入り江が一望でき、水平線上に登る朝日をバックにした港町の眺望は、絶景と言える。ルネッサンス調の館も、背後の切り立った崖と緑が織りなす色彩と見事に融合し、優美な佇まいを見せていた。

 ライツハウゼンの入り江は周囲より一段低い窪地となっており、それが見事な眺望を作り出しているが、反面、周囲より低いために、外敵から守りづらい。ハーデンブルグを抜かれたらライツハウゼンも終わるという評価は、こういった地形的な要素にも表れていた。

 そのアンスバッハの館に到着した美香達は、長子であるエミールがわざわざ入口まで出向いてまでの歓迎を受けた。

「ミカ様、ライツハウゼンにようこそいらっしゃいました。長旅でさぞお疲れでございましょう。ここライツハウゼンで、ゆっくりとお寛ぎ下さい」
「わ、わざわざお出迎えいただき、誠にありがとうございます、エミール様」

 エミールは中性的な、繊細で端正な顔に笑みを浮かべ、美香の手を取って口元に寄せると、手の甲に唇を添える。美香は、あまり経験した事のない令嬢扱いに、思わず顔を赤くしてしまった。

「レティシア殿も、ようこそいらっしゃいました。10年ぶりにあなたをこの館にお招きできた事を、嬉しく思います」
「ありがとうございます、エミール様。ここは以前に来た時と変わらない、美しい佇まいですわ」
「お褒めいただいて光栄です」

 エミールはレティシアの手を取り、手の甲に唇を添える。そして再び美香へと向き、口を開いた。

「父のヴィルヘルムも、ミカ様の来訪を心待ちにしております。こちらへどうぞお越し下さい」



「父上、ミカ様と、レティシア殿をお連れいたしました」
「お通ししてくれ」

 エミールの声に中から応えがあり、美香達は応接室へと通される。中では一人の白髪の男が、ゆっくりと立ち上がっていた。

 男は杖をつきながら美香の許へと歩み寄り、右手を差し出す。

「ミカ殿、アンスバッハ家当主、ヴィルヘルム・フォン・アンスバッハです。ライツハウゼンへ、ようこそいらっしゃいました。ライツハウゼンは、あなたの来訪を心より歓迎いたします」

 ヴィルヘルムはそう述べると、柔らかな笑みを浮かべた。

 ヴィルヘルムの髪は50代半ばとは思えないほど白く、口ひげも真っ白だった。杖をつき、年齢の割には皴も多かったが、不思議と老いを感じさせない雰囲気だった。一言で言えば、気持ちの良い年の取り方をしていた。

 美香は、ヴィルヘルムと握手を交わしつつ、自己紹介をする。

「ご挨拶が遅れ、申し訳ございません。古城美香です。この度はお招きに預かり、誠にありがとうございます。未だ右も左もわからない私にこの様なご厚意をいただき、感謝の念に堪えません」
「お礼を述べるのは、こちらですよ、ミカ殿。あなたのおかげで、ここ北部は例年にない安寧の1年を過ごす事ができました。また、北伐の地では数多くの同胞が、『ロザリアの槍』で命を救われました。ライツハウゼンを代表して、御礼申し上げます。その華奢なお体で北伐に従軍され、さぞお疲れになられた事でしょう。ここライツハウゼンは、海の宝庫です。心ゆくまでお楽しみ下さい」
「ありがとうございます。私の故郷では、海産物が食卓の多くを占めていました。お言葉に甘え、懐かしい海の味を、堪能させていただきます」
「それはそれは。ミカ殿の期待を裏切らぬよう、存分に腕を振るわせていただきます」

 ヴィルヘルムはそう答えて笑みを浮かべると、続けてレティシアの手を取り、言葉を交わす。

「レティシア殿、ご無沙汰しておる。暫く見ないうちに、お美しくなられた。フリッツ殿もさぞお喜びであろう。我が息子エミールとの縁がなかったのは残念ではあるが、レティシア殿の志は大いに理解している。ミカ殿の事をよろしくお頼みしますぞ」
「ありがとうございます、ヴィルヘルム様。エミール様との件は誠に申し訳ございませんが、ご理解いただき、感謝の念に堪えません。私は、皆々様のお気持ちを含めて、御使い様に心身の全てを捧げ、恩返しをさせていただきますわ」

 ヴィルヘルムの言葉を受け、レティシアが断言する。そのレティシアの発言を聞いて、何か外堀を埋められている様な気がして仕方ない美香の前で、ヴィルヘルムは、背後に立つ2人にも声をかけた。

「オズワルド殿、ゲルダ殿、久しぶりだな。二人の武名は、ここライツハウゼンにまで届いておる。ハーデンブルグの盾と矛として、これからもフリッツ殿を盛り立てて欲しい。また、御使い殿の左右の翼に叶う二人と信じている。どうか御使い殿を助け、より高き頂への飛翔に力を貸してもらいたい。私から言うまでもないだろうが、よろしく頼むぞ」
「はい、ヴィルヘルム様。私の身命を賭して、彼女を支えて参ります」
「任せておくれ、ヴィルヘルム様。ガリエルの尖兵どもには、彼女の身に指一本たりとも触れさせはしないよ」

 ヴィルヘルムの言葉に、オズワルドは右腕を胸元に添えて一礼し、ゲルダは右拳を握りしめて獰猛な笑みを浮かべた。



 その夜に行われた晩餐で、美香はこの世界に来て初めて、海の幸を大いに堪能した。

「うわあああああ…」

 テーブルの上に並べられた料理を見て、美香が目を瞠る。

 塩茹でされた蟹と海老、白身魚のムニエルと素揚げ、牡蠣とマッシュルームのアヒージョとバケット、ムール貝と海老のパエリア、アンチョビのピザ、帆立のバターソテー、魚介がふんだんに入ったスープ、緑豊かなサラダ、そして様々な果物とデザート。この世界で食べる習慣のない蛸やイカを除いた、様々な海の幸が所狭しと並べられ、美香の食欲をそそる。格式ばった会食が得意ではない美香のために、レティシアがヴィルヘルムに進言してビュッフェスタイルで行われた晩餐は、オズワルドやゲルダ等の下位の者達も招待され、終始和やかな雰囲気で行われた。

 美香はこの日は珍しくワインやシャンパンなどアルコールにも手を出し、顔を真っ赤にして上機嫌になっている。

「ちょっとぉ、オズワルドさん、ちゃんとお酒飲んでますかぁ?」

 美香がオズワルドに腕を絡め、にへらとした顔でオズワルドを見上げている。

「お、おお、勿論飲んでるぞ。…ミカ、少しお酒飲み過ぎじゃないか?少し酔いを醒ました方が良くないか?」
「そんな事ないですぅ。私は酔ってませーん!オズワルドさん、私を子供扱いしないで下さーい!」
「い、いや、私はミカを子供扱いしたりしていないぞ?」

 いつもと雰囲気の違う美香ににじり寄られて、オズワルドが思わず後ろに下がる。しかし、美香はオズワルドの腕に絡みついたまま、腕に顔を摺り寄せて愚痴を口にした。

「いいえぇ、オズワルドさんはいつも私を子供扱いしてますぅ!こうやってくっついていても、何もしてくんないんだもの。私ってそんなに魅力ないですかぁ?」
「そ、そんな事ないぞ!君は、魅力的な女性だ」

 慌ててオズワルドがしどろもどろで言い繕うが、美香の機嫌は直らず、唇を尖らせる。

「そんな事言ったって、口だけだしぃ。オズワルドさんの意気地なしぃ」
「い、いや、そういうわけでは…」
「私なんて、オズワルドさんにこんな事だってできるのにぃ」

 そう言うと美香はオズワルドの胸に鼻を押し付け、思いっ切り息を吸う。

「…はぁ、いい匂い」
「…」

 オズワルドは、眼下で顔を押し付けている美香を見ながら、顔を真っ赤にしている。

 やがて、オズワルドから顔を離した美香は、膨れ面を向けた。

「ふーんだ、オズワルドさんの甲斐性なしぃ。ちょっとはゲルダさんを見習って下さいよぉ。ねぇ、ゲルダさぁん」
「え?」

 呆然とするオズワルドから離れた美香は、そのままフラフラとゲルダの許に向かうと、ゲルダの豊かな胸へと飛び込む。オズワルドとの一部始終を見ていたゲルダは、そのままニヤリと笑うと、美香の尻に手を伸ばし、遠慮なく揉みしだいた。

「やぁん、くすぐったいよ、ゲルダさん。…ゲルダさん、私って魅力ないですかぁ?」
「いいや、そんな事ないぞ、ミカ。アンタの体に欲情しないなんて、よほどの朴念仁か、不能だろうよ」
「ですよねぇ、…オぉズワルドさぁんの、ぼぉくねんじぃん」
「そうだそうだ、ぼぉくねんじぃん」

 ゲルダに体を撫で回され、身を捩りながら美香が歌い上げると、ゲルダがニヤニヤと笑いながら追従する。そんな二人の姿を見て、オズワルドは顔を真っ赤にしながら憮然としていた。

「…ミカ殿は、大丈夫かね?」

 へべれけになっている美香の様子を見ていたヴィルヘルムに問われ、レティシアが苦笑する。

「大丈夫ではございませんわ。あれほど羽目を外したミカを見るのは、初めてかも知れません。それだけヴィルヘルム様の催しが、楽しかったのでしょう。ミカに代わり、御礼申し上げます」

 深々と頭を下げるレティシアに対し、ヴィルヘルムは手を振って笑みを浮かべる。

「いやいや、それだけ気に入られたのであれば、招待した甲斐があるというもの。我々に気にせず、大いに楽しんでくれたまえ」
「ありがとうございます。私も楽しく過ごさせていただきますわ」



 宴が終わり、カルラの先導の下、美香、レティシア、オズワルドの三人が、美香に割り当てられた部屋へと向かう。美香は酔い潰れ、オズワルドが横抱きにしていた。

「オズワルド様、ミカ様をこちらへ」
「ああ」

 カルラに言われ、オズワルドが腰を曲げ、美香を寝台へと下ろす。そしてオズワルドは顔を上げようとしたが、オズワルドの首に回された美香の手が離れない。

「…ミカ?」

 戸惑った顔をしたオズワルドの目の前で、美香は顔を赤くし、目を瞑ったまま、口ずさむ。

「オズワルドさぁん、おやすみのチュー」
「なっ!?」

 目の前で口を小さく開く美香を見て、オズワルドは顔を真っ赤にし、助けを求めて目線をレティシア達へと向ける。そんなオズワルドの狼狽した姿を見たレティシアは苦笑し、カルラは横を向いて目を閉じた。

「本人がいいって言うんだから、いいんじゃない?甲斐性なしさん」

 レティシアの半眼の笑みを見たオズワルドは、顔から湯気を上げながら、美香へと顔を向ける。そしてゆっくりと顔を寄せ、少しだけ唇を重ねた。

「おやすみ、ミカ。また明日」
「おやすみなさぁい、オズワルドさぁん…」

 すぐに顔を上げたオズワルドの目の前で、美香が小さく呟く。そして、美香の手から解放されたオズワルドは、レティシア達から逃げるように美香の部屋から出て行った。

「…もう少し、堂々とすればいいのにね」
「左様でございますね」

 扉の方を向いて、笑みを浮かべるレティシアに、カルラが相槌を打つ。やがて美香へと顔を向けたレティシアは寝台に歩み寄り、美香に顔を近づけ、頬にキスをした。

「…おやすみ、ミカ。良い夢を」
「…やだぁ」
「…え?」

 いつもと異なる反応を見せる美香にレティシアが戸惑っていると、美香は両手を伸ばし、レティシアを引き寄せる。

「え、ちょ、ちょっと、ミカ?」
「抱っこ…レティシアも抱っこする…」
「えええええ!?」

 美香の予想外の行動に、レティシアは思わずカルラを見る。それに対し、カルラは溜息をつき、口を開いた。

「よろしいのではないでしょうか。本人がいいと仰られておりますので」
「え、ちょっ」
「レティシア様、後はミカ様をお願いします」
「カ、カルラ?」

 慌てふためくレティシアを他所に、カルラは一礼すると身を翻し、部屋を出て行ってしまう。一人残されたレティシアは、首に美香の手を絡み付けたまま、茹蛸のように顔を赤らめた。

 ちょ、ちょっと待って。今日、まだ湯浴みをしていないのに。変な臭いしていないかしら?

 内心で動揺し、体が硬直したままのレティシアを抱く美香の腕に力が入り、レティシアはなし崩し的に寝台へと乗ってしまう。いつもはレティシアの方から率先して寝台の上に乗っているが、美香に引き込まれたのは初めてだ。鼓動が早くなるレティシアに、美香が目を瞑ったまま口を開く。

「レティシア、おやすみのチュー…」
「ミ、ミカ…」

 心臓が激しく波打ち、呼吸が荒くなるレティシアの目の前で、美香は目を瞑り、緩やかに口を開いている。やがて、レティシアはゆっくりと顔を寄せ、美香に唇を重ねる。

「ん…」

 どちらが発したものかわからない、静かな息が漏れる。二人は唇を重ねたまま、暫くの間、動きを止める。

 やがて、ゆっくりと顔を離したレティシアは、間近に迫る美香の顔を見つめる。その美香は、すでに静かに寝息を立てていた。

「ミカ…」

 レティシアは小さく呟くと、美香に両腕を回されたまま身体を摺り寄せ、美香の布団にもぐり込む。そして、美香の胸元から顔を出すと、首を伸ばし、もう一度軽く美香の唇にキスをする。

「おやすみなさい、ミカ。私の愛する人…」

 そうしてレティシアは美香の胸に顔を埋めると目を閉じ、やがて小さな寝息を立て始めた。
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