マルコス探偵は今日も疲れている

Kamiya Reishin

文字の大きさ
8 / 9

第8話 — 沈黙が死なない場所

しおりを挟む
「罪悪感は告白で終わらない。 
ただ、部屋を変えるだけだ。」


マルコスの手からハンドルが滑った。汗ではない——血だった。砕けたガラスがシートに突き刺さったまま、エンジンは咳き込むように唸っていた。道は闇と妄想だけでできていた。

隣町の警察署は、建築ミスのように見えた。薄暗く、歪んだ看板がぶら下がり、警官が一人、永遠に続く夜勤のような顔で煙草を吸っていた。

マルコスはよろめきながら車を降りた。背中に張り付いたシャツが、血の重さを物語っていた。

「助けが必要だ」 遠慮のない口調だった。

警官は、語彙だけは立派な浮浪者でも見たかのような目で彼を見た。

「何者だ?事故か?」

マルコスは深く息を吐いた。説明する気力はなかった。

「刑事だ。隣町で事件を追ってる。応援が欲しい。あと、命に関わらないコーヒーも。」

警官は眉をひそめた。

「ここは俺たちの管轄じゃないぞ。」

「だろうな。死体が玄関に転がってないと、コーヒーも出ないってか。」

もう一人の警官が現れた。年配で、すでに諦めきったような顔をしていた。

「怪我してるな。」

「芸術的な野心を持った擦り傷だ。」

「事件の場所は?」

「アカシアの館。ここから十五分ほど。遺言書と、罪悪感に潰れかけた狂人がいる。」

二人の警官は目を合わせた。ため息。無言の合意。しぶしぶの義務感。

「行ってみるか。だが、嘘だったらお前がただじゃ済まないぞ。」

マルコスはうなずき、警察車両に乗り込んだ。

「嘘だったら、自分で手錠かけるさ。だがこの遺言書は持ってけ。政治家よりも人格がある。」

車が発進した。闇が再びすべてを飲み込んだ。マルコスの身体は崩れかけていたが、意識は鋭く保たれていた。

到着した館は、夜のせいか小さく見えた。建物のせいではない——罪の重さだった。警察車両が軋む音を立てて止まった。まるでこの場所に嫌悪感を抱いているかのようだった。

マルコスは苦しげに車を降りた。血はすでに乾き始めていたが、痛みは消えず、生きていることを思い出させた。警官たちは館を見上げ、どこか他の場所にいたいという顔をしていた。

「ここか?」 一人が尋ねた。

「違うなら、誰かが悪夢をインテリアにしただけだ。」

玄関は半開きだった。抵抗の気配はない。叫びもない。ただ、待っているような沈黙があった。

ルベンスは館の主室にいた。座っていた。膝に手を置き、目は虚空を見ていた。すでに内側から拘束されているようだった。

「俺のせいだ。」 顔を上げずに言った。 「彼は俺に話しかける。死んでも止まらない。」

警官たちは目を合わせた。一人が慎重に近づき、手錠を構えた。

「立て。ゆっくりだ。」

ルベンスは従った。急ぐこともなく、抵抗することもなく。まるでこの場面を何度もリハーサルしてきたかのように。

「彼は俺を見る。責める。呼びかける。」

マルコスは壁にもたれかかった。疲れ切っていたが、目は鋭く、思考は冷静だった。

「叫びのない告白か。少し物足りないな。」

執事が廊下に現れた。目は赤く、顔は緊張に満ちていた。手には、くしゃくしゃになった遺言書——だが、まだ読める状態だった。彼はためらいながらマルコスに近づいた。

「彼はこれを消そうとした。」 声は低く、震えていた。 「でもできなかった。結局、真実だけが残った。」

マルコスはその紙を受け取った。手錠をかけられ、虚空に向かってつぶやくルベンスを見つめた。

「理解することは問題じゃない。問題は、その説明に耐えられるかどうかだ。」

警察車両は静かに夜道を進んでいた。乗っているのは二人の男と、一つの終わったはずの事件。マルコスは助手席に座り、ポケットには折りたたまれた遺言書。背中の痛みが、彼の意識を支えていた。後部座席にはルベンス。手錠をかけられていたが、沈黙とは無縁だった。

「全部、俺のものになるはずだった。」 声は小さく、感情は抑えられていた。 「最初から、そうだった。」

マルコスは答えなかった。窓の外を見ていた。森が、筋書きのない映画のように流れていく。

「彼は知ってた。俺が守るって。全部を維持するって。でも、あいつはあの子に残した。俺を脇役みたいに扱って。」

マルコスは短く息を吐いた。

「遺産と妄想。よくある組み合わせだ。」

ルベンスは少し身を乗り出した。手錠が軋む音を立てた。

「彼は笑ってるように見えた。死にかけてても、俺を空っぽにするってわかってたんだ。」

「そして今、お前に全部を残してる。罪も含めてな。」 マルコスは顔を向けずに言った。

ルベンスは乾いた笑いを漏らした。そこにユーモアはなかった。

「彼はまだ話してる。廊下で。鏡の中で。ベアトリスも聞いてる。彼女は、彼が答えてるって言う。」

「正義感のある幽霊か。ここはもう霊的裁判所だな。」

運転席の警官はバックミラーを見たが、何も言わなかった。車は黙々と暗い道を進んでいた。まるでこの物語から一刻も早く抜け出したいかのように。

ルベンスは窓に頭を預けた。

「ただ、俺のものにしたかっただけなんだ。それだけだ。」

マルコスは前を見つめた。警察署が近づいていた。そしてそれと共に、終わり——あるいは、ただの一時停止。

警察署は以前よりも明るく見えた。館との対比のせいかもしれない。ルベンスは抵抗せずに連れて行かれた。彼の目は、誰にも見えない何かを見つめていた。警官たちは、壊れた絵画を運ぶように彼を扱った。丁寧だが、価値は感じていない。

マルコスは遺言書を差し出した。紙は汚れ、くしゃくしゃだったが、まだ読めた。警官の一人が無表情で彼を見た。

「医療処置、受けるか?」

マルコスは姿勢を正した。身体は抗議していたが、声は平然としていた。

「コーヒーの後で。あと、君らにも心理カウンセラーが必要かもな。」

ルベンスは彼を見た。目は深く沈み、声は幼さを帯びていた。まるで、戦争が始まる前にすでに敗北していた者のようだった。

「彼は俺に、静寂ばかりを残した。」 顔を向けずに言った。 「そしてその静寂は、どんな遺産よりも重い。」

マルコスはゆっくりと近づいた。身体は痛んでいたが、言葉は澄んでいた。

「静寂は重くない。ただ響くだけだ。そして、お前のは叫んでる。」

ルベンスは目を閉じた。牢の壁に頭を預け、自分の音を消そうとするかのようだった。

執事は扉の前に立っていた。手は震えていたが、動きには迷いがなかった。まるで、ようやく約束を果たした者のように。

マルコスは彼を見た。

「休め。残りは俺がやる。」

執事はうなずいた。そして初めて、少しだけ軽く見えた。

マルコスはゆっくりと警察署を後にした。身体はまだ血を流していた。だが、真実はようやく記録された。

彼は暗い空を見上げ、ポケットの中の折りたたまれた紙に目を落とした。

「静寂は続いている。…それが何かを語ってるのか、まだわからない。」
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】  戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。  永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。  信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。  この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。 *ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。

同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。

ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。 真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。 引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。 偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。 ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。 優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。 大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

処理中です...