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第2話 ─ 即興こそ、稽古よりも真実を語る
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「誰が殺したかじゃない。 誰が知っていて――黙っていたかだ。」
居間は、さっきよりも冷たく感じられた。 まるで死体が空気に氷の跡を残していったかのように。
マルコスは椅子に座ったまま、庭を歩いてきたせいでまだ湿ったコートを着ていた。
彼の目は、古い絵画のひび割れを探すように、部屋の隅々まで鋭く走っていた。
アーサーはすでにソファに沈んでいた。まるで家具の一部のように。 執事とメイドはその後ろから静かに入ってきた。 足音を立てないようにしているのは、沈黙がまだ何かを隠してくれると信じているからかもしれない。
マルコスは椅子に座ったまま、ゆっくりと踵を回し、舞台の開幕を告げるように言った。
「さて。舞台は整った。死体が一つ、満員の屋敷、そして誰も認めたがらない台本がある。」
アーサーは腕を組み、鼻で笑った。
「俺たちに並ばせるつもりか?それとも、もう犯人に番号でも振ってあるのか?」
「まだだ。だが、脇役は揃ってる。中には“無実”の演技が過剰な者もいる。」
執事が咳払いをして、冷静さを保とうとした。
「旦那様、まずは客観的な質問から始めた方がよろしいかと。ベアトリス様はまだ動揺されておりますので……」
「動揺?」 マルコスは乾いた笑みを浮かべて遮った。 「彼女は部屋に閉じこもって、あの世と会話してる。もし返事が来たら、さすがに俺も心配する。」
メイドは肩をすくめ、目を伏せた。 まるでエプロンの中に消えようとしているかのように。
マルコスは彼女に視線を向けたまま、椅子から動かずに尋ねた。
「君。名前は?」
「クララです、旦那様。」
「クララ。いい名前だ。でも、影だらけの屋敷には似合わない。」
彼女は唾を飲み込んだ。
「私は…掃除をして、台所の手伝いをしています。」
「そして、すべてを見ている。君みたいな人間は、いつも全部見てる。ただ、自分が見たことに気づいてないだけだ。」
アーサーが低く笑った。
「詩的だな。今度は韻でも踏むつもりか?」
「告白と韻が合えば、考えてみる。」
マルコスは執事に向き直った。
「君は?この屋敷に何年いる?」
「三十二年になります、旦那様。」
「それだけいれば、秘密がどこに隠れるかも知ってるはずだ。」
執事は答えず、ただ床を見つめた。 そこには、埃以上のものが埋まっているようだった。
マルコスは暖炉の上に掛けられた古い絵画を見上げた。 それは家長の肖像画だった。硬い目、笑わない口元。
「この男。誰か、本気で彼を好きだったか?」
沈黙。
アーサーが指を鳴らした。
「“好き”って言葉は強すぎる。“我慢できた”くらいが現実的だな。」
「君は、うまく我慢できてたか?」
「死を望むほどじゃなかった。でも、深く悼むほどでもなかった。」
マルコスはうなずいた。 まるで、彼だけが理解しているゲームの得点を記録するかのように。
「クララ。昨夜、何か変なことを見たり聞いたりしたか?」
クララはためらい、エプロンを握る手に力が入った。
「えっと……廊下で足音を聞きました。夜遅くです。でも、ルーベンス様だと思って……」
「ルーベンス。車が消えた男だな。」
「はい、旦那様。」
マルコスは執事に目を向けた。
「君は?」
「私は…奥の部屋で寝ておりました。」
「寝てた?沈黙が叫ぶこの屋敷で?」
執事は答えなかった。
マルコスは腕を組み、全員を見渡した。
「さて。死体が一つ、消えた車、崩壊寸前の家族、そして何かを隠しているような屋敷がある。」
彼はアーサーに視線を向けた。
「最後の質問だ。今のところな。君は“演劇”のために来たと言ったな。もし俺が、すでに台本は始まっていて、結末は誰が最初につまずくかで決まると言ったら?」
アーサーは口元だけで笑った。目は笑っていなかった。
「じゃあ、誰か早くつまずいてくれ。俺は引き延ばされたエンディングが嫌いなんだ。」
マルコスは答えず、ポケットに手を入れて、丁寧に折りたたまれた紙を取り出した。 静かに目を走らせる。まるで古い囁きを聞いているかのように。
「死なないものもある。ただ、部屋を変えるだけだ。」
彼は紙をしまい、ゆっくりと立ち上がって、窓辺へと歩いた。 庭には踏み荒らされた葉、折れた枝。 誰かが急いで出て行った。 誰にも見られたくなかった誰かが。
その言葉は、古い囁きのように響いていた。 それは幽霊の話ではない。 死にたくない秘密の話だ。 顔を変え、場所を変え、声を変えて生き続けるもの。
ベアトリスは客間に閉じこもっていた。 娘のヘレナはイヤホンに逃げ込み、現実を拒絶していた。 甥のアーサーは、痛みを茶化すことで、感じることを諦めていた。
マルコスはしばらく庭を見つめていたが、やがて執事に向き直った。
「客間へ行け。彼女に話す気があるか聞いてこい。息子のことだと伝えろ。沈黙がすでに彼女の代わりに答えていると。」
執事は黙ってうなずき、部屋を出ていった。
マルコスは再び暖炉の前の椅子に戻り、家長の肖像画を見つめた。
しばらくして、廊下から足音が聞こえた。 執事が戻ってきた。さっきよりも顔色が悪い。
「ベアトリス様は、まだ部屋に閉じこもっております。誰とも話したくないと。彼女の喪は、訪問を受け入れないそうです。」
マルコスは静かに彼を見つめた。
「なら、彼女が思い出したくないものを訪ねに行こう。」
「二階の部屋ですか?」
「鍵がかかってる。旦那が亡くなってからずっと。」
「誰も入っていないのですか?」
「はい、旦那様。彼女は、あの部屋は彼と一緒に死んだと言っていました。」
マルコスは廊下の扉へと歩き出した。
「上へ行こう。その部屋を見たい。鍵穴越しでも構わない。」
執事はためらった。
「旦那様、彼女は許さないと思います。」
「許す必要はない。ただ、そこにいなければいい。」
執事は唾を飲み込み、黙ってマルコスの後に続いた。
マルコスは居間に最後の視線を投げた。 家長の肖像画は、いつも通り動かずに彼を見つめていた。 そして彼は、低くつぶやいた。
「死なないものもある。ただ、誰かが間違った扉を開けるのを待っているだけだ。」
屋敷の二階は、まるで別の空気を吸っているようだった。 空気は重く、年月が触れられずに積もっているような感覚。 階段の一段一段が、訪問に抗議するように軋んだ。
執事は家長の部屋の前で立ち止まった。 扉の塗装は剥がれ、ドアノブには薄い埃が積もっていた。
「葬儀以来、ずっと鍵がかかっています。」 彼は囁くように言った。
マルコスは鍵穴を見つめた。
「鍵は?」
「持っておりません。」
マルコスはポケットから小さな金属ケースを取り出した。 静かに開けると、細い工具が並んでいた。
「プランBは、いつでも必要だ。」
執事は何も言わず、ただ見守っていた。 まるで、誰かが古傷を開くのを見ているかのように。
マルコスは数回の動作で鍵を開けた。 扉はゆっくりと開き、長い眠りから目覚めるように軋んだ。
部屋はそのままだった。 すべてが整っている。 ――それこそが、マルコスにとっては“混沌を隠す秩序”の証だった。
部屋には、カビと安物の香水、そして抑圧された記憶の匂いが漂っていた。 ベッドは整えられ、家具には白い布がかけられていた。 机の上には額縁に入った写真。 家長とその息子が若い頃に写っていた。 二人とも真顔。 まるで、カメラマンに「笑って」と言われて、意地でも拒否したかのようだった。
マルコスは本棚に近づいた。 古い本が並び、いくつかはタイトルが時間に消されていた。 その中に、一冊だけ新しい本があった。 ハードカバーで、埃もない。
彼はそれを引き抜いた。 それは家長のものではなく、息子の――日記だった。
マルコスは慎重にページをめくった。 中は几帳面で、ほとんど強迫的なほど整っていた。 屋敷のこと、日常のこと、母親のことが書かれていた。
「母はもう上の部屋で寝ない。父がまだそこにいると言っている。彼が話しかけてくると。沈黙が答えると。」
マルコスは眉をひそめ、さらにページをめくった。
「アーサーは全部冗談だと思ってる。でも、彼は俺が見たものを見てない。聞いたものも聞いてない。」
さらに一ページ。
「新しいメイドは怯えている。理由はある。この屋敷は新入りを受け入れない。飲み込むんだ。」
マルコスは日記を丁寧に閉じ、部屋を見渡した。 何も乱れていない。 ――だが、すべてが間違っていた。
彼は執事に向き直った。
「この部屋は死んでない。昏睡状態だ。誰かが、それを維持しようとしている。」
執事は答えず、目をそらした。
マルコスは日記を腕に抱えた。
「下へ戻ろう。次の質問は、“誰が殺したか”じゃない。“誰が、死ぬと知っていたか”だ。」
一階に戻ると、マルコスは鋭い目つきで居間に入った。 腕には日記。 アーサーはまたソファに座っていた。まるで一度も動いていなかったかのように。 クララは扉の近くに立ち、何も見ていない目をしていた。 執事は最後に入ってきた。 まるで、これから質問の嵐に晒されることを覚悟しているかのような姿勢だった。
マルコスは日記をコーヒーテーブルに放り投げた。 乾いた音が部屋に響いた。
「誰か、説明してくれ。なぜ亡くなった家長の息子が、“自分が死ぬことを知っていた”ような書き方をしていたのか?」
アーサーは片眉を上げた。
「日記?ベタだな。“これを読んでいるということは…”ってやつが足りない。」
「彼は、読まれるために書いたんじゃない。爆発しないために書いたんだ。」
マルコスは執事に向き直った。
「彼が記録を残していたこと、知っていたか?」
「いいえ、旦那様。彼は控えめな性格で、私には何も話しませんでした。」
「だが、君はここにいた。三十二年も。何も気づかなかったのか?」
「彼が…以前より静かになったのは感じました。緊張しているようにも。でも、それは仕事のせいだと思っていました。」
「仕事?彼は屋敷を相続しただけだ。崩れかけた家族付きでな。どんな仕事だ、それは?」
アーサーが低く笑った。
「“全部うまくいってる”って顔をする仕事さ。ここじゃ、みんなそれをやってる。」
マルコスはその言葉を無視し、執事に近づいた。
「彼は君のことも書いていた。君は、言っている以上のことを知っている。屋敷をまるで自分のもののように守っていたと。」
執事の顔が青ざめた。
「私は…家族に忠誠を尽くしてきました。」
「忠誠が過ぎたんじゃないか?隠すべきでないものまで、守っていたかもしれない。」
クララが不安そうに身じろぎした。 マルコスは彼女に目を向けた。
「君もだ。彼は君についても書いていた。君は怯えていた。屋敷は新入りを受け入れないと。」
クララは唾を飲み込んだ。
「私は…ただ、自分の思い込みだと思ってました。物音とか…勝手に動く扉とか…声とか……」
アーサーが割り込んだ。
「声?いいね、それ。第三章は降霊会か?」
マルコスはゆっくりと彼の方を向いた。
「興味ないって言う割に、よく喋るな。」
「俺は“見世物”には興味ある。これは、面白くなってきた。」
マルコスは再び執事に向き直った。
「最後のチャンスだ。君が知っていて、言いたくないことは何だ?」
執事はためらい、クララを見た。 次にアーサーを。 そして、日記に目を落とした。
「彼は…屋敷の中で誰かに尾行されていると感じていたようです。 一人でいる時に足音を聞いたり、誰もいないのに香水の匂いを感じたり……」
マルコスは眉をひそめた。
「香水?」
「ベアトリス様のものです。でも、彼女はもう二階には上がらないと……あの部屋は死んだと言っていました。」
マルコスはクララに目を向けた。
「彼女が上がるのを見たことは?」
「いいえ、旦那様。でも…時々、二階の部屋に…光が見えることがあります。扉が閉まっていても。」
アーサーが立ち上がった。
「よし。俺が不快に感じるなんて、珍しいことだ。」
マルコスはテーブルから日記を手に取った。
「不快感はいい兆候だ。何かに近づいている証拠だ。」
マルコスは全員を見渡した。
「家長の息子は死んだ。だが、その前に彼は“恐怖”について、“足音”について、“香水”について、“沈黙”について書いていた。 そして君たちは…全員、それをただの“悪い一日”だと装っている。」
沈黙。
マルコスは暖炉へと歩き、日記を縁に置いた。 誰にも目を向けずに言った。
「次の質問は、“誰が殺したか”じゃない。“誰が、彼が死ぬことを知っていて…それを止めなかったか”だ。」
マルコスは消えた暖炉の前に立ち続けた。 日記は、まるで奪われた戦利品のようにそこに置かれていた。 部屋の沈黙は、もはや空っぽではなかった。 言葉にされなかった思い、逸らされた視線、誰も触れたがらない真実で満ちていた。
アーサーは再びソファに座った。 今度は皮肉なしで。 クララは立ったまま。 まるで、床だけがまだ嘘をつかない場所であるかのように。 執事は小さくなったように見えた。 長年の奉仕が、語られなかった重みで彼を押し潰していた。
マルコスはゆっくりと振り返り、全員の顔を順に見た。
「さて。第一幕は終わった。 死体が一つ、日記が一冊、自ら呼吸する屋敷―― そして、“演じているのか告白しているのか”すら分かっていない出演者たち。」
アーサーは腕を組んだ。
「休憩はあるのか?それとも、もう第二幕か?」
「誰かが、“台本を知らないふり”をやめた瞬間に始まる。」
マルコスは椅子へと歩き、静かに腰を下ろした。 まるで、始まりの前にすでに終わりを見た者のように。
「コーヒーが欲しい。濃いやつ。毒なしで頼む。」 誰にも目を向けずに言った。 「今日はもう、十分飲まされた。」
クララは静かに部屋を出ていった。 足音は、言い訳のように軽かった。
執事はその場から動かなかった。
アーサーは日記を見てから、マルコスに目を向けた。
「誰も告白しなかったら?」
マルコスは口元だけで笑った。
「なら、屋敷が代わりに告白するさ。」
彼は暖炉の上の家長の肖像画を見上げた。 硬い目、笑わない口元。
「この屋敷では…死者でさえ、語るべきことを持っている。」
窓に風が吹きつけ、カーテンが揺れた。 まるで誰かがそこを通り過ぎたかのように。
マルコスは動かなかった。
「俺は聞く。叫びでも、聞いてやる。」
――第二章、終わり。
居間は、さっきよりも冷たく感じられた。 まるで死体が空気に氷の跡を残していったかのように。
マルコスは椅子に座ったまま、庭を歩いてきたせいでまだ湿ったコートを着ていた。
彼の目は、古い絵画のひび割れを探すように、部屋の隅々まで鋭く走っていた。
アーサーはすでにソファに沈んでいた。まるで家具の一部のように。 執事とメイドはその後ろから静かに入ってきた。 足音を立てないようにしているのは、沈黙がまだ何かを隠してくれると信じているからかもしれない。
マルコスは椅子に座ったまま、ゆっくりと踵を回し、舞台の開幕を告げるように言った。
「さて。舞台は整った。死体が一つ、満員の屋敷、そして誰も認めたがらない台本がある。」
アーサーは腕を組み、鼻で笑った。
「俺たちに並ばせるつもりか?それとも、もう犯人に番号でも振ってあるのか?」
「まだだ。だが、脇役は揃ってる。中には“無実”の演技が過剰な者もいる。」
執事が咳払いをして、冷静さを保とうとした。
「旦那様、まずは客観的な質問から始めた方がよろしいかと。ベアトリス様はまだ動揺されておりますので……」
「動揺?」 マルコスは乾いた笑みを浮かべて遮った。 「彼女は部屋に閉じこもって、あの世と会話してる。もし返事が来たら、さすがに俺も心配する。」
メイドは肩をすくめ、目を伏せた。 まるでエプロンの中に消えようとしているかのように。
マルコスは彼女に視線を向けたまま、椅子から動かずに尋ねた。
「君。名前は?」
「クララです、旦那様。」
「クララ。いい名前だ。でも、影だらけの屋敷には似合わない。」
彼女は唾を飲み込んだ。
「私は…掃除をして、台所の手伝いをしています。」
「そして、すべてを見ている。君みたいな人間は、いつも全部見てる。ただ、自分が見たことに気づいてないだけだ。」
アーサーが低く笑った。
「詩的だな。今度は韻でも踏むつもりか?」
「告白と韻が合えば、考えてみる。」
マルコスは執事に向き直った。
「君は?この屋敷に何年いる?」
「三十二年になります、旦那様。」
「それだけいれば、秘密がどこに隠れるかも知ってるはずだ。」
執事は答えず、ただ床を見つめた。 そこには、埃以上のものが埋まっているようだった。
マルコスは暖炉の上に掛けられた古い絵画を見上げた。 それは家長の肖像画だった。硬い目、笑わない口元。
「この男。誰か、本気で彼を好きだったか?」
沈黙。
アーサーが指を鳴らした。
「“好き”って言葉は強すぎる。“我慢できた”くらいが現実的だな。」
「君は、うまく我慢できてたか?」
「死を望むほどじゃなかった。でも、深く悼むほどでもなかった。」
マルコスはうなずいた。 まるで、彼だけが理解しているゲームの得点を記録するかのように。
「クララ。昨夜、何か変なことを見たり聞いたりしたか?」
クララはためらい、エプロンを握る手に力が入った。
「えっと……廊下で足音を聞きました。夜遅くです。でも、ルーベンス様だと思って……」
「ルーベンス。車が消えた男だな。」
「はい、旦那様。」
マルコスは執事に目を向けた。
「君は?」
「私は…奥の部屋で寝ておりました。」
「寝てた?沈黙が叫ぶこの屋敷で?」
執事は答えなかった。
マルコスは腕を組み、全員を見渡した。
「さて。死体が一つ、消えた車、崩壊寸前の家族、そして何かを隠しているような屋敷がある。」
彼はアーサーに視線を向けた。
「最後の質問だ。今のところな。君は“演劇”のために来たと言ったな。もし俺が、すでに台本は始まっていて、結末は誰が最初につまずくかで決まると言ったら?」
アーサーは口元だけで笑った。目は笑っていなかった。
「じゃあ、誰か早くつまずいてくれ。俺は引き延ばされたエンディングが嫌いなんだ。」
マルコスは答えず、ポケットに手を入れて、丁寧に折りたたまれた紙を取り出した。 静かに目を走らせる。まるで古い囁きを聞いているかのように。
「死なないものもある。ただ、部屋を変えるだけだ。」
彼は紙をしまい、ゆっくりと立ち上がって、窓辺へと歩いた。 庭には踏み荒らされた葉、折れた枝。 誰かが急いで出て行った。 誰にも見られたくなかった誰かが。
その言葉は、古い囁きのように響いていた。 それは幽霊の話ではない。 死にたくない秘密の話だ。 顔を変え、場所を変え、声を変えて生き続けるもの。
ベアトリスは客間に閉じこもっていた。 娘のヘレナはイヤホンに逃げ込み、現実を拒絶していた。 甥のアーサーは、痛みを茶化すことで、感じることを諦めていた。
マルコスはしばらく庭を見つめていたが、やがて執事に向き直った。
「客間へ行け。彼女に話す気があるか聞いてこい。息子のことだと伝えろ。沈黙がすでに彼女の代わりに答えていると。」
執事は黙ってうなずき、部屋を出ていった。
マルコスは再び暖炉の前の椅子に戻り、家長の肖像画を見つめた。
しばらくして、廊下から足音が聞こえた。 執事が戻ってきた。さっきよりも顔色が悪い。
「ベアトリス様は、まだ部屋に閉じこもっております。誰とも話したくないと。彼女の喪は、訪問を受け入れないそうです。」
マルコスは静かに彼を見つめた。
「なら、彼女が思い出したくないものを訪ねに行こう。」
「二階の部屋ですか?」
「鍵がかかってる。旦那が亡くなってからずっと。」
「誰も入っていないのですか?」
「はい、旦那様。彼女は、あの部屋は彼と一緒に死んだと言っていました。」
マルコスは廊下の扉へと歩き出した。
「上へ行こう。その部屋を見たい。鍵穴越しでも構わない。」
執事はためらった。
「旦那様、彼女は許さないと思います。」
「許す必要はない。ただ、そこにいなければいい。」
執事は唾を飲み込み、黙ってマルコスの後に続いた。
マルコスは居間に最後の視線を投げた。 家長の肖像画は、いつも通り動かずに彼を見つめていた。 そして彼は、低くつぶやいた。
「死なないものもある。ただ、誰かが間違った扉を開けるのを待っているだけだ。」
屋敷の二階は、まるで別の空気を吸っているようだった。 空気は重く、年月が触れられずに積もっているような感覚。 階段の一段一段が、訪問に抗議するように軋んだ。
執事は家長の部屋の前で立ち止まった。 扉の塗装は剥がれ、ドアノブには薄い埃が積もっていた。
「葬儀以来、ずっと鍵がかかっています。」 彼は囁くように言った。
マルコスは鍵穴を見つめた。
「鍵は?」
「持っておりません。」
マルコスはポケットから小さな金属ケースを取り出した。 静かに開けると、細い工具が並んでいた。
「プランBは、いつでも必要だ。」
執事は何も言わず、ただ見守っていた。 まるで、誰かが古傷を開くのを見ているかのように。
マルコスは数回の動作で鍵を開けた。 扉はゆっくりと開き、長い眠りから目覚めるように軋んだ。
部屋はそのままだった。 すべてが整っている。 ――それこそが、マルコスにとっては“混沌を隠す秩序”の証だった。
部屋には、カビと安物の香水、そして抑圧された記憶の匂いが漂っていた。 ベッドは整えられ、家具には白い布がかけられていた。 机の上には額縁に入った写真。 家長とその息子が若い頃に写っていた。 二人とも真顔。 まるで、カメラマンに「笑って」と言われて、意地でも拒否したかのようだった。
マルコスは本棚に近づいた。 古い本が並び、いくつかはタイトルが時間に消されていた。 その中に、一冊だけ新しい本があった。 ハードカバーで、埃もない。
彼はそれを引き抜いた。 それは家長のものではなく、息子の――日記だった。
マルコスは慎重にページをめくった。 中は几帳面で、ほとんど強迫的なほど整っていた。 屋敷のこと、日常のこと、母親のことが書かれていた。
「母はもう上の部屋で寝ない。父がまだそこにいると言っている。彼が話しかけてくると。沈黙が答えると。」
マルコスは眉をひそめ、さらにページをめくった。
「アーサーは全部冗談だと思ってる。でも、彼は俺が見たものを見てない。聞いたものも聞いてない。」
さらに一ページ。
「新しいメイドは怯えている。理由はある。この屋敷は新入りを受け入れない。飲み込むんだ。」
マルコスは日記を丁寧に閉じ、部屋を見渡した。 何も乱れていない。 ――だが、すべてが間違っていた。
彼は執事に向き直った。
「この部屋は死んでない。昏睡状態だ。誰かが、それを維持しようとしている。」
執事は答えず、目をそらした。
マルコスは日記を腕に抱えた。
「下へ戻ろう。次の質問は、“誰が殺したか”じゃない。“誰が、死ぬと知っていたか”だ。」
一階に戻ると、マルコスは鋭い目つきで居間に入った。 腕には日記。 アーサーはまたソファに座っていた。まるで一度も動いていなかったかのように。 クララは扉の近くに立ち、何も見ていない目をしていた。 執事は最後に入ってきた。 まるで、これから質問の嵐に晒されることを覚悟しているかのような姿勢だった。
マルコスは日記をコーヒーテーブルに放り投げた。 乾いた音が部屋に響いた。
「誰か、説明してくれ。なぜ亡くなった家長の息子が、“自分が死ぬことを知っていた”ような書き方をしていたのか?」
アーサーは片眉を上げた。
「日記?ベタだな。“これを読んでいるということは…”ってやつが足りない。」
「彼は、読まれるために書いたんじゃない。爆発しないために書いたんだ。」
マルコスは執事に向き直った。
「彼が記録を残していたこと、知っていたか?」
「いいえ、旦那様。彼は控えめな性格で、私には何も話しませんでした。」
「だが、君はここにいた。三十二年も。何も気づかなかったのか?」
「彼が…以前より静かになったのは感じました。緊張しているようにも。でも、それは仕事のせいだと思っていました。」
「仕事?彼は屋敷を相続しただけだ。崩れかけた家族付きでな。どんな仕事だ、それは?」
アーサーが低く笑った。
「“全部うまくいってる”って顔をする仕事さ。ここじゃ、みんなそれをやってる。」
マルコスはその言葉を無視し、執事に近づいた。
「彼は君のことも書いていた。君は、言っている以上のことを知っている。屋敷をまるで自分のもののように守っていたと。」
執事の顔が青ざめた。
「私は…家族に忠誠を尽くしてきました。」
「忠誠が過ぎたんじゃないか?隠すべきでないものまで、守っていたかもしれない。」
クララが不安そうに身じろぎした。 マルコスは彼女に目を向けた。
「君もだ。彼は君についても書いていた。君は怯えていた。屋敷は新入りを受け入れないと。」
クララは唾を飲み込んだ。
「私は…ただ、自分の思い込みだと思ってました。物音とか…勝手に動く扉とか…声とか……」
アーサーが割り込んだ。
「声?いいね、それ。第三章は降霊会か?」
マルコスはゆっくりと彼の方を向いた。
「興味ないって言う割に、よく喋るな。」
「俺は“見世物”には興味ある。これは、面白くなってきた。」
マルコスは再び執事に向き直った。
「最後のチャンスだ。君が知っていて、言いたくないことは何だ?」
執事はためらい、クララを見た。 次にアーサーを。 そして、日記に目を落とした。
「彼は…屋敷の中で誰かに尾行されていると感じていたようです。 一人でいる時に足音を聞いたり、誰もいないのに香水の匂いを感じたり……」
マルコスは眉をひそめた。
「香水?」
「ベアトリス様のものです。でも、彼女はもう二階には上がらないと……あの部屋は死んだと言っていました。」
マルコスはクララに目を向けた。
「彼女が上がるのを見たことは?」
「いいえ、旦那様。でも…時々、二階の部屋に…光が見えることがあります。扉が閉まっていても。」
アーサーが立ち上がった。
「よし。俺が不快に感じるなんて、珍しいことだ。」
マルコスはテーブルから日記を手に取った。
「不快感はいい兆候だ。何かに近づいている証拠だ。」
マルコスは全員を見渡した。
「家長の息子は死んだ。だが、その前に彼は“恐怖”について、“足音”について、“香水”について、“沈黙”について書いていた。 そして君たちは…全員、それをただの“悪い一日”だと装っている。」
沈黙。
マルコスは暖炉へと歩き、日記を縁に置いた。 誰にも目を向けずに言った。
「次の質問は、“誰が殺したか”じゃない。“誰が、彼が死ぬことを知っていて…それを止めなかったか”だ。」
マルコスは消えた暖炉の前に立ち続けた。 日記は、まるで奪われた戦利品のようにそこに置かれていた。 部屋の沈黙は、もはや空っぽではなかった。 言葉にされなかった思い、逸らされた視線、誰も触れたがらない真実で満ちていた。
アーサーは再びソファに座った。 今度は皮肉なしで。 クララは立ったまま。 まるで、床だけがまだ嘘をつかない場所であるかのように。 執事は小さくなったように見えた。 長年の奉仕が、語られなかった重みで彼を押し潰していた。
マルコスはゆっくりと振り返り、全員の顔を順に見た。
「さて。第一幕は終わった。 死体が一つ、日記が一冊、自ら呼吸する屋敷―― そして、“演じているのか告白しているのか”すら分かっていない出演者たち。」
アーサーは腕を組んだ。
「休憩はあるのか?それとも、もう第二幕か?」
「誰かが、“台本を知らないふり”をやめた瞬間に始まる。」
マルコスは椅子へと歩き、静かに腰を下ろした。 まるで、始まりの前にすでに終わりを見た者のように。
「コーヒーが欲しい。濃いやつ。毒なしで頼む。」 誰にも目を向けずに言った。 「今日はもう、十分飲まされた。」
クララは静かに部屋を出ていった。 足音は、言い訳のように軽かった。
執事はその場から動かなかった。
アーサーは日記を見てから、マルコスに目を向けた。
「誰も告白しなかったら?」
マルコスは口元だけで笑った。
「なら、屋敷が代わりに告白するさ。」
彼は暖炉の上の家長の肖像画を見上げた。 硬い目、笑わない口元。
「この屋敷では…死者でさえ、語るべきことを持っている。」
窓に風が吹きつけ、カーテンが揺れた。 まるで誰かがそこを通り過ぎたかのように。
マルコスは動かなかった。
「俺は聞く。叫びでも、聞いてやる。」
――第二章、終わり。
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優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
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