アスティアの翼

水無瀬紫音

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序章

神子は堕ち、そして運命の輪は巡り始める

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 月の綺麗な夜だった。
 僅かにも欠ける事の無い美しい月が、漆黒に包まれ輝いている。周りには星1つなく、それはまるで星達が月に遠慮しているかの様で。それほどまでに、今夜の月は見事で――神秘的だった。
 生命の音が全く聞こえなかった事も理由の1つかもしれない。
 普段は聞こえる、夜行性の動物の声、木々を揺らす風の音、小川のせせらぎ。それら全ては痛い程の静寂に包まれ、身を顰めていた。

 どれくらい経ったのだろうか。風も無く、絵画の様に静止した世界に、僅かに揺れる影があった。
 やがて聞こえる、衣擦れの音。その影がさせていた小さな音は、ぱさりという音を最後に止んでしまった。
 そして僅かな足音と共に、水面が揺れる。底が見える程に澄んだ泉が月の光を受け止め、昼間の様に辺りを照らす。
 それは美しい少女だった。
 白い肌、艶やかな唇。均整のとれた美しい目鼻立ちに、瞳を覆う濡れた睫毛、緩く波打つ柔らかな髪。大人びた表情に残る、幼子の様なあどけなさ。子どもと大人の狭間に揺れるその危うさは、少女の美しさを更に際立たせていた。
 闇夜に浮かび上がる少女の裸身は、月の光を受け、より一層白く輝く。
 しかし残念ながら、女神が泉でその身を清めているかの様な神秘的な光景が、誰かの目に映る事は無かった。
 ――否、1人だけ、その光景を見つめている者が居た。
 少女とは父娘程に年の離れた男。老人と呼ぶには未だ少しだけ早い。しかし、その老成した雰囲気は何百年と年を重ねた翁の様でもあった。
 男は泉から離れた樹の蔭に隠れ、そっと少女の様子を窺っていたのだ。少女が思いつめた表情で、まるで祈るかのように手を組み合わせ、泉の前に膝をついていた所も。そして衣服を脱ぎ、泉に足を踏み入れた今も。

 どれくらいそうしていたのだろうか。少女は澄んだ泉にその身を浸し、必死な表情で祈り続けている。男は暫くその様子を眺めていたのだが、1つ溜息を吐くと、何処か痛ましげな顔をして、少女の方へと足を向けた。
 男は少女の姿が鮮明になるにつれ、漸くある考えに思い至り、僅かに視線を逸らした。
 ――そうだ。彼女は年頃の女性だったのだ。
 あまり若い女性の裸身を目にするのは感心出来る事ではないし、少女にも失礼だ。
 自分が若くして祖父の後を継いでからはそんな事に興味を持てなかったので、完全に失念していた。
 自分にとって全ての女性は娘の様なものであり、欲望の対象とは成り得ない。そしてそれは己の妻に対しても変わらなかった。
 彼女を妻として愛し尊重してはいたのだが、1人の女性として愛する事はなく、ただ娘の様に愛おしんだ。
 勿論、それは男であっても変わらない。喩え自分の父の様な祖父の様な年齢の男であっても、何処か幼子を見る様な気持ちになるのだ。
 それは少女も理解しているだろうが、矢張り年頃の少女らしい羞恥もあるだろう。
 少女を視界に入れながらも直視しない様に視線を逸らし、ゆっくりと近付いて行く。
「……っ!!何故っ!!」
 少女の悲痛な叫びが届く。
「何故……なのですか?!」
 少女の問いに応える声は無い。
 男の存在に気が付いていないのか、少女は駄々をこねるかのように頭を振る。
 まるでこの世の終わりであるかのような、悲痛な声。
 しかし男は少女に声をかける事も無く、ただ少女を見つめ続けた。

 どのくらい、そうしていたのだろうか。涙を堪えるかのように上を向き強く閉じられていた少女の瞳が緩やかに開かれた。
「……心は、決まりましたか?」
 男は静かに問いかける。
「……はい……。全ては神の御意志のままに……」
 少女の声は震え、その瞳は濡れていた。
「神は……私に嫁げ、と。神子の座を降り、人の身に堕ちろと」
「託宣は変わらぬのですね」
「……はい……」
 消え入りそうな、声。しかし次の瞬間、少女は狂ったように叫んだ。
「何故っ!!何故なのです?!私は神の怒りを買う様な真似をしてしまったのですか!?何故神は、わたくしを――」
 普段は物静かな少女だ。叫ぶとはいってもたかが知れている。しかしその声はとても大きく聞こえた。
 男は痛ましげに少女をみつめた。
 少女が神子という立場を何よりも大切にしていた事を知っている。年頃の少女としての楽しみや幸せより、慎ましやかに生き、神の傍近くに仕えることを至上の喜びとしていた事を――
「アリエス殿、子を成しなさい」
「……子を?」
「はい。神は決して貴女を疎んじている訳ではない。稀代の神子である貴女を失う事は我等にとっても大きな損失だ。しかし、貴女にしか出来ない事もある――それが……」
「子を成す事である、と?」
「恐らくは」
 彼女がそれを望まなくとも。
 「愛する人と結ばれ、その者との間に子を成す」という多くの女性が望む幸せを、彼女が望んだ事は無い。何故ならば、神子とは神の妻とも言われている為、未婚の処女しか成れないのだから。
 人の男に嫁ぐ、と言う事は、二度と神の傍近くに仕えることは出来なくなるという事だ。幼い頃より神子として清廉潔白に生きて来た彼女には、誰かに恋をする事にも己の子を産み育てる事にも何の魅力も感じず、寧ろ、苦痛にすら思えるかもしれない。
 ――それでも……
「私は神子ではないが故に、神の御心など分かりませぬ。しかし、真祖ティア様に匹敵するとさえ言われている、稀代の神子である貴女が子を成すと言う事が重要なのです。――もっというならば、族長の血筋に貴女の力を持った子が産まれる事が」
「――まさか……」
 はっとしたように少女が呟く。
 そう。恐らく、再び産まれてくるのだろう。あの兄妹達が。
 確かに、彼等を産むという大役は、稀なる力を持った彼女にしか無理なのだろうと思える。神をその身に宿す事の出来る器を持った彼女にしか。
「……嫁ぎます。あの方の元へ――」
 それが神の御意志なら。其処に己の運命があるというのなら、その役割を全うすべきなのだ。
「大丈夫。ダリウス殿はとても素晴らしい若者だ。我らがグラティア族を率いるに相応しい器です。貴女の事も、きっと大切にしてくれる」
 そっと、彼の者の顔を思い浮かべる。
 男は知っていた。件の青年が、時折熱を帯びた瞳で少女を見つめていた事を。
 ――この婚姻は、屹度上手くいく。
 それは男の卓越した記憶と知識を探らずとも、導き出せる答えだった。
 少女の顔から悲壮さは消え、その瞳に強い意志が宿る。それを見届けると、少女に背を向け、優しく語りかけた。
「さあ、貴女の意志が固まった所で、そろそろ服を身に付けた方が良い。禊の為とはいえ、夜は冷えますからな」
 男の言葉にゆっくりと視線を下ろし、己の姿を改めて思いだした。少女は今、一糸纏わぬ姿なのだ。
「き……きゃあ!!」
 その年頃の少女らしい反応を聞き、思わず口元を緩める。
 ――そう。彼女は今後、彼女にとって何にも代えがたい幸せを手放す事となる。その代わり、普通の少女としての生活と幸せを手にするのだ。
 どちらが彼女にとって幸いとなるかは分からない。――それでも、彼女はこれから未知の世界へと足を踏み入れ、そして幸せになるのだ。全ては手探りで進むしか無いのかもしれない。それでも、その手を引いてくれる存在があるのであれば、屹度大丈夫だ。男はそう確信していた。
 男が背を向けてくれた事に感謝をしつつ手早く衣服を身に着けていた少女だったが、ふとある事に思い至り、そろそろと声をかけた。
「あっ……あのっ。私は神子としての生活しか知りません。そんな私に、普通の生活や子育てが出来るのでしょうか?」
 少女の不安げな声を聞き、不謹慎だと分かりながらも、男はとうとう笑いだした。

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