【完結】某日、そこで。

九時千里

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虚像

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『私は先輩に憧れて文学部に進学したんです。これからもよろしくお願いします。』

一筆箋に書かれた短文と、紙袋に入った菓子折りはその娘が持つには何となくアンバランスだった。
髪は明るめの茶色でミニスカートを履き、原色に近い衣服を纏う。
出身は同じ北海道だったから、ああ文芸部時代の何かを読んでくれたのかな、未宙は思った。
「先輩の作品を読んで文章の力を嫌というほど思い知ったんです。私も小学校時代、文章は書いていたんですが、自分ではこの程度のものしか書けないんだと思って筆を折ったものの先輩の作品を読んでやっぱり文章を書くことが好きなんだと思い知りました。」
昔、テレビで文章を書く人の話し方というものがあった。文章を書く人は句読点のある話し方をすると言う話だ。
未宙はその時、彼女の話し方を聞いてクスリとした。
それでも未宙は文章は書くより読むほうが好きだった。

豊岡の焼香に来てそんな昔の事を思い出した。彼女の名前は有珠といった。
「嫁は先輩ほどの人なら小説家にでもなれるのにと、いつも話していました。」
豊岡が、アルバムを持ってきて子どもたちに静かにしてるんだよ、そう言って子どもたちを部屋から閉め出した。
「ご病気ですか?」
「子宮系の病気で、お互いに死に至るとは思ってなくて…。」
「よく私の連絡先がわかりましたね。」
「大学時代のツテを使って調べました。不快だったら申し訳ないです。」
「いいえ。呼んでいただきありがとうございます。」
リビングのサイドボードの上にその遺影があった。仏壇はまだ構えていないのだろう。
「大学時代に先輩から貰ったっていうノートを最期まで読んでました。」
未宙はノートを受け取って、これを本当に私が書いたのかしら?そう思った。
言葉というのは不思議なものだ。1度弾みが付けばあれよあれよと溢れ出す。それともそれは私達が物書きだからだろうか。
物書きとして働いたこともないのに。
「他にもノートがあるんですが…。」
豊岡は悩んだ様子で話し出した。
「これは先輩の実績だから、人の目に触れるようなところに出してほしいと…。でも先輩の意向を聞かないとって…。」
「私のレベルじゃ出版なんて…。」
「出版社に勤めている友人に見てもらったんです。これなら即戦力になると言われて。」
「少し考えさせてください。」
そう言って豊岡と連絡先を交換して未宙は豊岡家を去った。

自宅に戻ると相変わらずツムギと大ちゃんが、顔を出す。
「ツムギ、だーめー。」
ツムギはふにゃーと言いながら大ちゃんに捕まって動きを封じられる。
「なんかあったの、母さん?」
リビングに移動して大ちゃんと未宙は話す。大ちゃんはいつものようにお茶を淹れてくれる。
「へーそうなんだ。母さん文才あるもんね。」
予想外の答えに未宙はカクンとした。
「大学時代のノートを持ってるなんてよっぽど母さんの文章が気に入ったんだよ。」
未宙はお茶を飲みながら大ちゃんの話を聞く。
「幼稚園の時も先生が大輔君のお母さんの文章は面白いのよね、って言ってたよ。」
「でも、この年から小説家なんて…。」
「小説家なんていくつからでもなれるんじゃないの?」
そう言って大ちゃんはココアを飲んでいた。以前テレビで芥川賞や直木賞の受賞者が話すのを見た。皆、洗練されていていかにも文壇を飾るに相応しい人たちだった。
その頃から小説家というのはそういう人たちの仕事だと思っていた。
「母さんはどうしたいの?」
「全く分からないわ。」
「それなら時間を置けばいいよ。」
「どういうこと?」
「俺は医学部か獣医学部か、悩んだ時に置いておいたんだ。そのうちにテレビや本やラジオで色んな情報が入ってくるようになって、これは出来る、これは出来ない、そう思って進路を決めたんだ。」
「そんなに都合よく情報が集まってくるものかしら?」
「なんていうか、そんな現象があるんだよ。」
大ちゃんは賢くなり過ぎた…未宙は思った。

夜になり平太が帰ってきた。今までの経緯を未宙が平太に話すと平太は腰を据えて考え始めた。
「でもまだ書籍になったわけでもないんだから。」
平太はそう言って大ちゃんの向かいに座った。
「大輔はどう思う?」
「俺は昼間も言ったけど少し時間を置いたほうが良いと思うよ。」
そう言ってあくびをする。
そうか。これは大した問題ではないのだ。未宙はそう思った。どこにでもいる主婦が夢物語を聞かされて浮ついているだけなのだ。
「小説家って頭の中を見せる職業だから、お給料が高いんだよ。」
「それに未宙は耐えられるのか?」
平太は大ちゃんにお茶を淹れてもらう。
「とりあえず書いてみようと思うの。出版するかしないかは別として。」
その時、頭の中でチリッとした、何かが燃えるような感覚があった。
私はこの状態を楽しんでいる、未宙はそう思いながら翌日原稿用紙を買いに出かけた。
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