【完結】至高の美

九時千里

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至高の美

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美しさとはなんだろうか?
僕の母は雑誌の編集の仕事に携わっていた。子供を産んでも崩れないプロポーション、美肌、艶のある髪、美活。歳を重ねることが悪いと言わんばかりの母の毎日にうんざりしていた。
しかし、母は常に言っていた。
「美しいと思うものこそが本物になるのよ。」
幼い僕には母の言うことはまだ分からなかった。
母はテレビを持たない人だった。僕に与えられたのは色鉛筆とお絵かき帳だった。友達がサッカーや砂場で遊ぶ中、僕は皆の絵を描いた。白いボールを赤く、女の子と男の子を逆にしたり自分の中で不思議な世界が広がっていった。
幼稚園に上がってからは「絵描きさん」と呼ばれて皆の似顔絵を描いた。
似ても似つかない作品に皆は笑ったり泣いたりした。
それでも僕は絵を描き続けた。
僕の家では絵本の読み聞かせがなかった。幼稚園に入ってから赤い果物をりんごと呼ぶのだと知った。果物と言われてもその区別もわからなかった。
「先生、水色は何で水色なの?」
そんななぜなぜ期に突入した。
僕は一日一回は何故と聞く子供になった。
母は
「自分で調べなさい。」
と、国語辞典や百科事典を買い与えた。しかし調べたいことを調べるすべを持たないのだ。
これは誰しも経験があることかもしれない。今でこそ携帯やパソコンが普及して、
「手続き、保育園」
など入力すればわかるが当時はそのキーワードを考えつくのもやっとだった。
僕は国語辞典や百科事典をくまなく読み進めた。
しかし僕の目に止まったのは挿絵だった。
人が描いた絵がこんなにも美しいなんて…。
それから僕は時間があれば、その作品を模倣した。
12色の色鉛筆でそれは無理な話だったが、僕は限りなく近い形まで作品を仕上げていった。あとは色さえどうにかなれば…そう思った。小学校に上がる前、文房具を揃えに行った。
そこで僕は初めて36色の色鉛筆を見た。
「お母さん、これ。」
語彙の少ない僕は必死だった。なんとしてもここで色鉛筆を手に入れなくては。
僕の人生を左右するそんな気までしてきた。母は僕を一瞥し買い物かごに色鉛筆を入れた。
「小学校に上がったら絵画コンクールがある。そこで賞を取りなさい。」
母はスパルタだった。
幼稚園の先生は描いたら描いた分、作品を褒めてくれた。しかし、母は違った。
「これは坂道なんでしょう?幅が広くなった道路に見えるわ。」
大人でも描くのが難しいそんな題材を僕は選んでいたらしい。
近所に神社が多かったので狛犬を沢山描いた。スケッチブックはどんどん貯まっていった。
小学校が始まり、僕はまた似顔絵を頼まれた。今まで以上に写実的にかけるようになり、なかには、
「いやいや、リアルじゃん。」
などと言ってくれる人も出てきた。小学校にはお絵かきクラブはなかったので、お料理クラブに入った。
何度目かのクラブでスポンジケーキを焼いた。僕は先輩を差し置いてクリーム塗りを体験した。
ガタガタのボコボコだったが初めてにしては上手だと言われた。
僕はこの頃、芸術全般について知識を得ていた。油絵、陶芸、水彩画、パステル画、など。僕は芸術は素晴らしいものだと思った。
言葉を持たない僕にも簡単に意思疎通ができる。つぼを作ってみたかった。
家に帰り、母のパソコンで「ツボづくり、たいけん」と検索したが、家の近所には無かった。
僕は落胆した。
それでも僕はいつも通りスケッチブックと色鉛筆を持ってスケッチにでかけた。
帰ったのは5時だった。
宿題をするのを忘れていた。桜並木が美しくて何度も描き直していたからだ。
母に叱られる、そう思った。
帰ると母はパソコンの前に座り込んだまま、何かを調べていた。
「ツボなんて作ってどこに置くの?」
履歴を消すのを忘れていた。僕は本当に言葉が出てこない子供だった。
「欲しいだけです。」
「市販のツボじゃだめなの?」
「僕が、作ったツボが欲しいんです。」
母は画面を見ながらメモを取った。
「今度の休み、教室に連れてくから友達と遊びの予定を入れないように。」
僕は狂喜乱舞した。
思えば母という人は僕に優しくは無かった。父は子供のいない母しか愛せない人だった。僕が、1歳になるかならないかで父は出ていった。母は母で子育てが苦手な人だった。
それでも僕は母からカードを貰った。人生のカード、絵を描くというカードだ。

陶芸教室はある町の入り組んだ商店街にあった。大きな釜と出迎えてくれるスタッフさん。みんながおしゃれに見えた。なかにはいかにも芸術家と言わんばかりの人もいた。
「ツボは難しいんですよ。最初は皿かコップか茶碗をおすすめしています。」そう言って先生らしき人は笑った。
母は僕の視線まで視線を落として、
「どうするの?」
と言ってきた。失敗してもツボを作るかコップなどを作るか。僕は隣で土を練り始めた女の人に話しかけた。
「お姉さんが最初に作ったのは何でしたか?」
本当は最初に作るとしたら何がおすすめですかと聞きたかった。
「私はコップです。小さな芸術家さん。」
僕はニヤニヤした。芸術家さんなんて呼ばれて浮足立った。
「じゃあコップで。」
母は僕の決断を待たなかった。
先生があらかじめ用意してくれた土をろくろを回して縦に長く円筒形にのばしていった。
先生はシャーッとやっていくが僕はヘニャヘニャになる。途中で土を取り替えて10回目で僕はコップを完成させた。
僕だけのコップだ。母はしれっと皿を作っていた。
「私も美大でしたから少しは触れたことがあるんです。」
そう先生と話していた。ろくろからコップを切り離すのは若いスタッフさんたちがしてくれた。
「美大生何ですか?」
僕は興味本位でそう聞いた。
「美大、芸大、高校生って別れてるかなぁ。何?芸術家になるの?」
「どうやったら。なれますか?」
「いろんなことに挑戦してみることアンテナを高く持つことかな。」
お兄さんは黒い髪を掻き上げるとなかは真っ赤な髪をしていた。やっぱり美大生なんだなぁとその時思った。僕と母の作った作品は乾燥させて高台を作り素焼きして釉薬を付けて乾かして、その後釜で焼いて送られてくる。と言う事だった。失敗したら釜で割れます。と言って先生と母は笑った。
僕は母と車に乗り込むとこんな話をした。
「お父さんは僕が、産まれてきたときから大人だったら出ていかなかったんでしょうか?手のかかる子供だから嫌だったんじゃないでしょうか?」
母は黙って何かを考えていた。
「お父さんみたいな人はあなたが大人でも愛せないのよ。それこそあなたが、アイドルみたいに可愛かったとしてもね。」
母は車を出した。
「芸術家は本当にお金にはならないわよ。」
母は厳しい口調だった。
「僕は芸術家になりたいんじゃなくて絵が描きたいんです。それを芸術家と呼ぶのなら芸術家です。」

それから僕は本をたくさん読んだ。図書館で写真集などもたくさん借りた。重すぎて紙袋の底が抜けることもあった。学校の勉強はついていけなかった。それでも母は何も言わなかった。僕は入学して2年目から各コンクールで入賞していった。色鉛筆やクレヨン、図書カードなどが貰えた。
この頃には公園で知らないおじさんと絵を描くということもあった。
「息子が美大生だったんだけど就活が上手くいかなくてなぁ。」
初めて見る油絵の具の道具に僕は話半分で目を輝かせた。
「息子のお下がりなんだけど使ってやらんと可愛そうでなぁ…。」
僕はじゃあ僕にくださいと言う言葉を何度も飲み込んだ。僕の中には油絵が1番の芸術だという意識があった。彫刻はよくわからないし水彩画は画用紙に描くものだ。そんな偏見を持っていた。
僕は羨ましいなぁと言う気持ちを抑えていつも通り色鉛筆で風景を描いた。僕は絵が描きたい。でも何を描きたいのか問われると良くわからなかった。
3年生に上がった時、イチジョウという子が転校してきた。勉強が出来て運動も得意、音楽の才能もあった。ただし、絵の才能に関しては今ひとつといった子だった。
僕はいつも通り男女別け隔てなく絵を描いていた。するとイチジョウが寄ってきた。
「似顔絵描こうか?」
僕は好意的だった。
しかし、イチジョウは僕の持っていたスケッチブックを取り上げると、
「絵なんて誰でも描けるよなぁ!」
と、大きな声で話しだした。
「勉強出来ないのに絵なんて描いて芸術家気取りですかー?」
クラスは静まり返った。
女子は目配せしながら教室から逃げていった。男子はおどおどしながら、
「イチジョウ止めろよ。中村が何したんだよ?」
「ムカつくんだよ。芸術家気取りで。今だって似顔絵描こうか?なんて言いやがって。」
イチジョウはスケッチブックを破って踏み出した。
「まじで止めろよ、テメー!」
僕の親友のタカマサがキレた。僕は何もできずに立ちすくんだ。
そうかぁ…絵を描くだけじゃだめなんだ、僕は思った。
「美しいと思うものこそが本物になる。」
母の言葉を反芻した。
「何言ってんの?」
イチジョウは鼻で笑った。僕はまだ美しいと言えるような作品に到達していないのだ。
教室に先生と女子が戻ってきた。イチジョウとうちの保護者が呼ばれることになった。
母は雑誌で新しい連載が始まって忙しいと言っていた。不安だった。

その日の放課後、イチジョウの母親が先についた。パステルカラーのピンクのスーツでいかにも若いお母さんという感じだった。
母が到着するとイチジョウの母親はきっとした眼差しを送ったが敏腕編集部で働くパリコレのような母には通用しなかった。
教室に入って話し合いが始まった。
「うちの子塾があるんですけど早く済みませんかね?」
イチジョウの母親はそう言って足を組んだ。
「皆のお話からイチジョウ君が、一方的に中村君に手を出したそうなんですが…。」
「そうですか。ショウタは何をしたの?」
母は僕に聞いてきた。
「似顔絵を描こうか?って。」
「それは失礼なことをしました。うちの子の絵の才能ではイチジョウ君みたいなイケメンは描けないでしょうし、楽しそうに描いてる人たちを暴力で押さえつけるような暴君の似顔絵なんかも描けません。」
イチジョウの母親は何かを言い返そうとして顔を真っ赤にした。
「他になにかありますか?」
「うちの子は勉強が出来て優秀何です。同じ空間にそういう子がいたら嫌になると思います。」
「なぜ?」
「皆が勉強が出来なくても生きていけると思うからじゃないですか。」
母はバサバサと何かを取り出した。
図書館の貸出票だった。
「うちの子が読んだ本の数です。これでも勉強が足りないと?社会に出ても勉強がついて回るというのを一番知っているのはうちの子だと思いますよ。」
母は堂々としていた。
「じゃあお互いごめんなさいで済まそっか?」
先生はニコニコしていた。イチジョウの母は最後までイライラとしていた。
「なんでこんなものまで…。」
僕は貸出票まで取っていた母親に驚いた。
「日々は積み重ねなのよ。なんにもないと思っている日常にこそ価値を見つけないと。」
貸出票を集めながら母は、
「それにしてもよく読んだわねぇ。モネが好きなの?」
「モネはその、あの…。」
僕は言葉に詰まった。好きな女の子がモネが好きなのだ。
「まあ頑張ることね…。」
母はポンポンと僕の頭を撫でて席を立った。

その日の夜、僕は母に聞きたいことがあった。チラリチラリと視線を送るが母は仕事の残りを片付けるのにいっぱいいっぱいだった。僕は宿題をするふりをして図書館で借りた本を読んだ。デコレーションケーキの本だった。ラム酒とはなんだろう?オレンジリキュールとは?僕は世の中は知らないことだらけで満ちている。そう思った。ベーキングパウダーは知っている。クラブで使うからだ。
有塩バターと無塩バターの使い分けがわからない、それも聞きたいことの一つだった。
22時まで起きていた。その後は母に寝室まで運ばれたらしい。

次の日の夜、母は日記帳を買ってきた。
「何かあればここに書きなさい。返事は次の日までに必ず書くから。」
なぜ、母は僕が、考えることを先に思いつくのだろうか…。僕は不思議だった。

夏になった。トウモロコシ畑が近くにあると聞いてスケッチブックと色鉛筆を持ってでかけた。スイカ畑に行くか悩んだが、空に向かってはえるヒマワリのように黄色いトウモロコシ畑が描きたかった。畑の持ち主の方に挨拶して絵を描き始めた。友達はそのトウモロコシ農家さんから茹でたトウモロコシを貰ってガツガツ食べていた。
「あとは家族で食べるぶんくらいしかしてないからねー。」
農家さんはうちわで顔を仰いでいた。
「中村さんところの芸術家さんかぁ。今度は何を描くんだい?」
「鳥が描きたいんですけどじっとしていてくれないから図鑑の写真で描くんです。」
ショウタはスケッチブックのいくつかを開いた。
「今何年生だったかね?」
「3年生です。」
「ホォー3年生でここまで描けるとはね。今度、おじさんの車で皆で美術館に行かないかね?」
「でも、皆が集まるかどうか。」
「構わんよ。お母さんには必ず伝えてな。」
スケッチが終わった僕は勧められるまま、トウモロコシを口にした。甘い味だった。
「どれ美味しそうに描けたかい?」
そう言われてハッとした。美しいものを美しく美味しそうなものは美味しそうに、そういう視点もあるんだ。そう思った。
僕は自信を持って、
「天高く伸びるトウモロコシ畑です。」
と付け足した。

二週間後、タカマサと一緒に農家さんの車で美術館に行った。母は大きな菓子折りを用意して深々とお辞儀していた。
母は、
「うちの子を美術館に連れていけばいいなと何度も思っては仕事のために行けなくて…。」
と、申し訳無さそうに話していた。
美術館には聞いたこともないような芸術家の作品が、たくさん並んだ。僕は自分の知る芸術家を探した。ドガがあった。
「これってドガっていう人の作品なんですよ。」
そんなこと見れば書いてある。だが僕は興奮した。
「ほう、ドガを知っているのかい?」
農家さんは言った。
「バレリーナばっかり描くんです。」
僕は自信満々にそう話した。
「じゃあそこの君、この男の人達がなにか分かるかい?」
学芸員さんだ。僕はドキドキした。きっとどこかの美大か芸大を出ているんだ。そう思うとうまく話せなかった。
「パトロンだと聞きました。」
「へーパトロンが分かるのかい?」
「いえ、パトロンが何かは知らないんですけど…。」
僕は顔を赤らめた。
「スポンサーと言えば子供でも分かるかな?」
そう言って学芸員さんは絵の解説を始めてくれた。
美術館という場所は特別な場所だ。無駄を全て削ぎ落とし、作品にのみ焦点が当たる。
この空間には無駄なものなど一つもない。
そう思わせる世界だ。
「君に特別な言葉を送ろう。」
学芸員さんは僕を見て微笑んだ。
「本物には神が宿る。」
その時、僕は覚悟を決めた。僕は芸術家になるために産まれてきたんだ。いつか、本物になるために。そうして僕は農家さんに家まで送り届けて貰った。帰ってきた僕を見た母は、
「やっぱりあなたはあの人の息子なのね。」
そう言って寂しそうな顔をした。

美術館に行ってからの僕は身の回りを整える事に焦点を置くようになった。
消しゴム一つとっても美しいものを選ぶようになった。洗練されたものや、機能美など、とにかく美しさに焦点を置いた。
それからというもの僕は母に対する印象が変わっていった。
どんなに忙しくても肌の手入れや爪の手入れを欠かさない美しい母親だと思った。
僕はこの頃になってようやく母と仲良くなれた気がした。

ある日、図書館でファッション雑誌を見た。その中にアシンメトリーな黒髪の青年が写っていた。僕は母にこの髪型にしたいんですと話した。母はじっと僕の顔を見て、
「あなたには似合わないわよ。」
そう突き放した。
てっきり賛成してくれると思ったのに…。僕は落胆した。母はその雑誌を取ってパラパラと紙面に目を通した。
「これなんて似合うんじゃない?」
それは大人しそうな青年の髪型だった。
「僕は、こんな感じ何ですか?」
「少なくともパンクではないわね。」
「パンクって何ですか?」
そこまで言って母は言葉に詰まった。
「言われてみるとパンクも芸術家みたいなものね。」
そう言って雑誌を僕に返した。

夏休みに入って僕は更に沢山の絵を描いた。母は予備にと言って10冊もスケッチブックを用意してくれた。母子家庭で余裕もないだろうに…僕は1枚、1枚を大切にしようと思った。チラシの裏が白ければそこにも落書きをした。歳を重ねるごとに思ったように線が描けるようになっていった。
親友のタカマサは僕のことを自慢に思うと言ってくれた。タカマサはサッカーが得意で見た目も爽やかだ。僕なんかと友達でいてくれて有り難うと何度も思った。
イチジョウは相変わらず僕が、気に食わないらしく外で会うと舌打ちしてきた。
後で分かったのはイチジョウの母親は何でも1番にならないと叱るらしく、僕が、目障りだったらしい。
小学校時代はこんな感じで終えていった。

中学に上がって美術部に入った。僕は完全にオタクと呼ばれるようなタイプになっていた。タカマサは全国大会選抜など輝かしい実績を積んでいった。僕はというとコンクールで入賞を繰り返した。しかし大賞は依然として取れなかった。当時の顧問はやりたいといえば何でもやらせてくれる顧問だった。
切り絵、押し花、マーブリング、七宝焼…。僕は中学で初めて油絵の具を手にした。
描くというより絵の具を乗せていくという方が適切な表現だったかもしれない。
キャンバスは結構値が張るもので、今まで以上に気を遣った。
スケッチブックからクロッキー帳、色鉛筆から木炭へと画材は変わった。
僕は風景は得意だが人物は苦手なのだと分かった。気分転換に水墨画を勧められた。
黒一色の世界でここまで描けるものかと思った。
小学校と違って中学校では本気で画家を目指す子が何人かいた。
僕はそうした人と仲良くなっていった。
「芸術家になりたいんだよなぁ。」
一人はそう言った。
人と違うんだ、僕は、というような表現に僕は異を唱えた。
「絵が描きたくて芸術家になるんだよ。作りたくて芸術家になるんだよ。僕達は何者でもないんだよ。」
彼はムッとした。
「感性が違うっていうか人と違ったものが好きなんだよ。それだって芸術家だろう?」
僕は黙った。個性が強くなるぶん、受け入れられなくなるものが増えていった。

学校の授業の一環で、プラネタリウムにいった。満天の星空に僕は感激した。
それから僕は星空を描くようになった。図書館で本もたくさん借りた。
そうして僕は絵画コンクールで初めて大賞を受賞した。
タカマサは本当に心から喜んでくれて、
「世界の中村ショウタの第一歩だな!」
そう言って笑った。
だが、その後、僕の作品は入選さえしなくなった。何がいけなかったのだろう。そう何度も考えた。
「本物には神が宿る。」
その言葉ばかりを唱えた。僕の作品にはもしかしたら有頂天になっている僕の姿が投影されていたのではないか?そう思った。
次の作品からできる限り正確に丁寧に絵を描くことを念頭に置いた。
今までのスランプが嘘だったのかと思うくらい、簡単に入賞を果たした。
僕は絵を描く時は心を整える必要があるのだと分かった。

タカマサは全国区の選手へと成長していった。僕はといえば一度大賞を取っただけの美術部員だった。お互いを比較することはなかった。僕は今でもそう思う。
「お前変わったな。」
タカマサは下校中に唐突にそういった。
「なんにも変わってないよ。だめなところが増えただけだよ。」
そう言って僕は笑った。
「オーラがあるんだよ。」
タカマサは真剣な目をしていた。
「正直、話しかけづらくなった…。ああ、芸術家ってこういう人たちを指すんだなって思ってる。」
僕はそれはどういう意味なのか聞きたかった。
「俺、転校するんだ。サッカーの強い中学に。」
こうして僕とタカマサの友情は終わった。彼がどれだけ僕を応援していたか僕は知らないままだった。

僕は夢を見るようになった。それはリアルな夢で作品を描いている僕と荒れ狂う外だった。何でこんな状況で絵を描いているんだろうか?そう思いながら僕は絵を描き続けた。うなされるわけでもなく悲しいわけでもなく嬉しいわけでもなく絵を描いているのだ。
それでも目を覚ますと涙が頬をつたった。
僕は孤独になっていった。この頃から僕の作品は徐々に高い評価へと変わっていった。
タカマサと話したかった。電話番号は知っていた。けれど彼の言葉を頭の中で悪い風にしか解釈出来なかった。
顧問に言われて抽象画を描くことになった。僕はサッカーボールを崩した絵を描いた。なぜ僕は絵を描くのだろうか。
僕は賞を取るために絵を描いているわけではなく中村ショウタが作品なのだ。
そう思った。それから僕は人の評価を気にしなくなった。皮肉にも周りの評価はうなぎのぼりだった。

2年生になって新入部員の勧誘に回った。男子はやはりサッカーや野球、バスケへと流れていった。
しかし中にはやはり変わった子がいて芸術家志望だというのだ。
トミシタという1年生が入ってきた。1年生と思えないくらい完璧なデッサンをする子だった。
3年生たちは、
「中村より上手いかもなぁ。」
と言って笑った。トミシタは成績も優秀だった。僕は先輩たちにとって面白くなかったらしい。
それでも僕は変わらず絵を描いた。この頃には話す友人も限られていた。
「なぁ中村。お前トミシタのこと、どう思ってる?」
「どうもしないよ。上手い子が入ってきたなぁって思ってるよ。」
嘘だった。僕には芸術しかないのだ。トミシタのように成績は良くない。トミシタは無口だったが礼儀作法もきちんとしていて、好感度も高かった。
トミシタは絵を描きながら時折ぼんやりとする子だった。僕はそれが不思議だった。
「トミシター絵描きながら寝たらだめだぞー。」
先輩たちは笑った。
「いえ、絵と対話しながら進めてるんです。」
絵と対話?僕はトミシタに飛びついた。
「絵を描いているともっと滑らかに描いてほしいとか、もっと堂々とした作品にしてほしいとか聞こえてくるんです。」
「それは幻聴などではなくて?現実に聞こえるのかい?」
「勘だと思います。」
トミシタは本物の芸術家だったのか、僕はそう思った。
「僕は昔は絵を描く気などサラサラなかったんです。でも小学生の時、ある人の作品を見て僕も絵を描こうかと思ったのです。」
「それは誰だい?」
「ポール・セザンヌです。」
「セザンヌ…。」

僕は家に帰ってから母のパソコンでセザンヌを調べた。セザンヌはお世辞にも有名な画家ではないと僕は思った。
トミシタほどのデッサン力がある子がどうしてセザンヌなんだろう、僕は思った。

次の日の部活中、トミシタと話した。
「正確に絵を描ける人しか崩した絵っていうのは描けないんですよ。セザンヌは作品の枚数も多いしデッサンの数も多いし…。やっぱりゴーギャンとか言ったほうが良いんでしょうね?」
「じゃあ君はこんなにも絵を正確に描くのにわざと崩していくのかい?」
「じゃあ中村先輩には自分の世界はないんですか?」
僕は黙り込んだ。
「デッサン力があっても世界観がないと絵は売れませんよ。」
「僕は描きたいんだよ。何かわからない何かを。」
「僕もそうです。中村先輩の作品も拝見しました。足取りが軽くなるような作品や苦渋に満ちた作品を描かれてますよね。幅が広いと思います。」
「僕はこれから空を描きたいんだ。理由はないけど空なんだ。」
「僕もテーマを探しているところです。」
トミシタは立ち上がって手を差し出した。
「未来の芸術家同士、これからも宜しくお願いします。」
僕は恥ずかしくて握手出来なかった。トミシタは小さな声で、
「ああいう芸術家気取りが面倒なんです。」
そう言って3年生を見た。
「まぁ適当に話してれば大丈夫ですよ。」
僕はどこまでもトミシタから学ぶことが多いのだと思った。

3年生になり僕は美術部の部長になった。トミシタは新入生勧誘に物凄く力を入れていた。
「ゆるくやればいいんだからさ、無理して入っても辞めちゃうだけだよ。」
美術部はやはり人気はない。
今年は女の子ばかりが美術部に入った。漫画家やアニメーター志望の子たちだった。
うちの部活ではデッサンを必ずすることにしていたので彼女たちとは論争になった。
「たかが部活でしょう?好きなことしててなにがいけないんですか?」
そう言われたとき、彼女たちには部活は遊びなんだなと気づいた。
「好きなことしても大丈夫ですよ。でも本気で絵で生きていこうとする人の邪魔をしないように。」
顧問は辛口だった。僕は受験とコンクールでいっぱいいっぱいになりながらも美術部が有名な高校を受験した。通うのは大変な場所にあった。それでも母には、
「やっとたどり着いたと思います。」
といった。母は無理しないようにと、それだけ言ってくれた。

高校に合格した僕は黒い髪の下を真っ赤にした。すぐに生徒指導室に呼び出された。母からはまだ早いわよ、そう一蹴された。
こうして僕はスタートラインに立った。
目指すは美大だ。トミシタが花束をくれた。全部、折り紙で出来ていて彼らしいなと思った。そうして僕は地元の美術館にたむろするようになった。世界の中村ショウタへと向かって。
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