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6章 左目のプルートー
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その日、文崎灯美はようやくカウンセラー虚間鷹彦の助手らしい仕事にありつけた。それはお使い。ようするに単なる使いっぱしりであった。
そう、ちょうど放課後くらいに、珍しくウロマから連絡が入り、今日はカウンセリングルームに来る前に、ミントの錠菓大量と、トウキシャクヤクサンなる漢方薬を買ってくるように命令されたのである。常用しているヤクの錠菓はともかく、漢方薬は何だろう? よくわからないが、言われたとおり帰り道のドラッグストアでそれらを買い揃え、灯美はウロマのカウンセリングルームに向かったのだった。
そして、そのドアを開けて中に入ったとたん、ウロマが思いっきりくしゃみをするのが聞こえた。鼻水もズルズルのようで、ティッシュで鼻をかんでいる。
「もしかして、風邪ですか?」
うつされたらいやだなあ。買ってきたものが入ったレジ袋を机の上に置きつつ、ウロマから十分な距離をとる灯美だった。
「風邪? ふふ、バカなことを言ってはいけませんよ、灯美さん。風邪のウィルスなんかに負ける僕だと思っているんですか?」
「違うんですか? 鼻ズルズルですけど?」
「これは血管運動性鼻炎、いわゆる寒暖差アレルギーというやつなのです」
「アレルギー? 花粉症みたいなのですか?」
「はは、また、そうやって僕を花粉などに負ける男に仕立てたがる。誤解しないでいただきたい。血管運動性鼻炎とは、今の時期のような、昼夜の気温の差が激しいがゆえにおきる、ちょっとした体の不調なのです。決して、僕は何かに負けたわけではない」
「いや、その理論だと気温の変化には負けてますよね?」
「いえいえ、少しばかり自律神経がデリケートなだけなのです。風邪のウィルスや花粉ごときに負ける輩と同列にしないでいただきたい」
「まあ、ウィルスや花粉にも、人を選ぶ権利ってありますよね」
なんだかよくわからないが、重篤な病気ではなさそうだ。とりあえず、寒暖差アレルギーとやらがウロマの口から出まかせなのかどうか、スマホで検索して調べてみた。すると、確かに実在するもののようだった。何でも、季節の変わり目など、一日の気温の変化が激しい季節に起こりやすい、鼻かぜのような症状だそうだ。また、男性に比べて女性に多いそうで、原因は女性のほうが筋肉の量が少ないせいだとある……。灯美はそこでチラっとウロマのほうを見てみた。やせぎすの、筋肉などまるでついてない男の姿があった。そうか、だからかあ。納得し、思わず笑ってしまった。男とは思えない実に貧弱な体。気温の変化にも負けるはずだ。
「何をニヤニヤしているんですか。そんなに僕が鼻水を垂らしている姿が面白いんですかね」
ウロマはそんな灯美にむっとしたようだった。眉根を寄せ、濁った目を半開きにして、にらんできた。「別に、なんでもないですよ」灯美は笑いをこらえながら、適当に答えた。
「あ、もしかして、トウキシャクヤクサンって漢方薬は、先生のその鼻水のためのものだったんですか?」
「当たり前でしょう。当帰芍薬散ですよ? 超絶メジャー漢方薬ですよ? ここに血管運動性鼻炎の鼻水男がいて、他に何に使うって言うんですか。わざわざ言わなくてもわかるようなことを言わないでいただきたい」
ウロマはイヤミったらしくそう答えると、灯美が机の上に置いたレジ袋をがさがさ漁り、当帰芍薬散の薬の箱を取り出した。そして、その粉薬を直に口に放り込み……むせた。なぜ粉薬を無理やり水なしで飲もうとするのか。灯美はやはり笑ってしまった。
「鼻炎の薬なら、錠剤やカプセルのものもありましたよ。そっち買ってくればよかったですかね?」
「まったく、灯美さんは何もわかってないですね。そういう、漢方じゃない薬は飲むと眠くなるでしょう。僕はそれがいやなんですよ。だからあえて当帰芍薬散を選択したんですよ。なんでそこがわからないでしょうか。少しは僕の考えをくんでいただきたい」
「はあ、そうなんですか」
そういえば、風邪薬とか飲むと眠くなるなあ。漢方薬だとそれがないのか。なるほど。
「あ、でも、鼻炎の薬といえば、鼻の穴にしゅっと吹きかけるスプレーなんてのも――」
「またバカを言わないでいただきたい。鼻の粘膜は脳と直接つながっているのですよ? そこに薬剤を直接吹きかける? おぞましいことです。断固としてありえない!」
「え? いや、別に危険はないんじゃないですか? 普通に薬をとして売ってるものですし」
「危険があるとかないとか、そういう問題ではない! 僕の気分の問題です!」
「き、気分ですか」
今度はそう来たか。まためんどくさい男だなあ。灯美はうんざりする気持ちだった。だいたい毎日、こんな感じだから困る。
と、そのときだった。「すみません、今日ここ、やってますか?」と言いながら、誰かが、この部屋のドアを外からノックしてきた。男の声のようだった。
「はい。開いてますよ。どうぞ」
ウロマが錠菓を口に放り込みながらそう鼻づまりの声で言うと、男はすぐに扉を開け、中に入ってきた。ぱりっとした高そうなスーツを着た、四十歳前後くらいの男だった。背は高く、ほどよく引き締まった感じの均整の取れた体つきで、ツヤツヤの黒い髪をオールバックにしている。やや掘りが深い顔立ちは、よく整っていて、大人の男の色気を感じさせるイケメンであった。
ただ、今はその顔に白いガーゼの眼帯をつけており、それで左目を隠していた。
「あの、ここはカウンセリングルームだそうですが、悩みを聞いてくれる場所ということでよろしいのでしょうか?」
眼帯男は、どこからか現れたパイプ椅子に腰掛けながらウロマに尋ねた。
「そうですね。ここには多くの、心に悩みを抱えた方がいらっしゃいます。そんな人たちが、少しでも笑顔になれればと、僕はここでカウンセラーとして奮闘している毎日なのですよ」
ウロマはさらっと答えた。また、なんという白々しい台詞だろう。灯美は呆れた。相談者の顔を曇らせるのが主な仕事だろうに。
「そうですか。ここはやはり、心の悩み専門ですか」
男は何か戸惑っているように右目を泳がせつつ、手で左目の眼帯を覆った。
そう、ちょうど放課後くらいに、珍しくウロマから連絡が入り、今日はカウンセリングルームに来る前に、ミントの錠菓大量と、トウキシャクヤクサンなる漢方薬を買ってくるように命令されたのである。常用しているヤクの錠菓はともかく、漢方薬は何だろう? よくわからないが、言われたとおり帰り道のドラッグストアでそれらを買い揃え、灯美はウロマのカウンセリングルームに向かったのだった。
そして、そのドアを開けて中に入ったとたん、ウロマが思いっきりくしゃみをするのが聞こえた。鼻水もズルズルのようで、ティッシュで鼻をかんでいる。
「もしかして、風邪ですか?」
うつされたらいやだなあ。買ってきたものが入ったレジ袋を机の上に置きつつ、ウロマから十分な距離をとる灯美だった。
「風邪? ふふ、バカなことを言ってはいけませんよ、灯美さん。風邪のウィルスなんかに負ける僕だと思っているんですか?」
「違うんですか? 鼻ズルズルですけど?」
「これは血管運動性鼻炎、いわゆる寒暖差アレルギーというやつなのです」
「アレルギー? 花粉症みたいなのですか?」
「はは、また、そうやって僕を花粉などに負ける男に仕立てたがる。誤解しないでいただきたい。血管運動性鼻炎とは、今の時期のような、昼夜の気温の差が激しいがゆえにおきる、ちょっとした体の不調なのです。決して、僕は何かに負けたわけではない」
「いや、その理論だと気温の変化には負けてますよね?」
「いえいえ、少しばかり自律神経がデリケートなだけなのです。風邪のウィルスや花粉ごときに負ける輩と同列にしないでいただきたい」
「まあ、ウィルスや花粉にも、人を選ぶ権利ってありますよね」
なんだかよくわからないが、重篤な病気ではなさそうだ。とりあえず、寒暖差アレルギーとやらがウロマの口から出まかせなのかどうか、スマホで検索して調べてみた。すると、確かに実在するもののようだった。何でも、季節の変わり目など、一日の気温の変化が激しい季節に起こりやすい、鼻かぜのような症状だそうだ。また、男性に比べて女性に多いそうで、原因は女性のほうが筋肉の量が少ないせいだとある……。灯美はそこでチラっとウロマのほうを見てみた。やせぎすの、筋肉などまるでついてない男の姿があった。そうか、だからかあ。納得し、思わず笑ってしまった。男とは思えない実に貧弱な体。気温の変化にも負けるはずだ。
「何をニヤニヤしているんですか。そんなに僕が鼻水を垂らしている姿が面白いんですかね」
ウロマはそんな灯美にむっとしたようだった。眉根を寄せ、濁った目を半開きにして、にらんできた。「別に、なんでもないですよ」灯美は笑いをこらえながら、適当に答えた。
「あ、もしかして、トウキシャクヤクサンって漢方薬は、先生のその鼻水のためのものだったんですか?」
「当たり前でしょう。当帰芍薬散ですよ? 超絶メジャー漢方薬ですよ? ここに血管運動性鼻炎の鼻水男がいて、他に何に使うって言うんですか。わざわざ言わなくてもわかるようなことを言わないでいただきたい」
ウロマはイヤミったらしくそう答えると、灯美が机の上に置いたレジ袋をがさがさ漁り、当帰芍薬散の薬の箱を取り出した。そして、その粉薬を直に口に放り込み……むせた。なぜ粉薬を無理やり水なしで飲もうとするのか。灯美はやはり笑ってしまった。
「鼻炎の薬なら、錠剤やカプセルのものもありましたよ。そっち買ってくればよかったですかね?」
「まったく、灯美さんは何もわかってないですね。そういう、漢方じゃない薬は飲むと眠くなるでしょう。僕はそれがいやなんですよ。だからあえて当帰芍薬散を選択したんですよ。なんでそこがわからないでしょうか。少しは僕の考えをくんでいただきたい」
「はあ、そうなんですか」
そういえば、風邪薬とか飲むと眠くなるなあ。漢方薬だとそれがないのか。なるほど。
「あ、でも、鼻炎の薬といえば、鼻の穴にしゅっと吹きかけるスプレーなんてのも――」
「またバカを言わないでいただきたい。鼻の粘膜は脳と直接つながっているのですよ? そこに薬剤を直接吹きかける? おぞましいことです。断固としてありえない!」
「え? いや、別に危険はないんじゃないですか? 普通に薬をとして売ってるものですし」
「危険があるとかないとか、そういう問題ではない! 僕の気分の問題です!」
「き、気分ですか」
今度はそう来たか。まためんどくさい男だなあ。灯美はうんざりする気持ちだった。だいたい毎日、こんな感じだから困る。
と、そのときだった。「すみません、今日ここ、やってますか?」と言いながら、誰かが、この部屋のドアを外からノックしてきた。男の声のようだった。
「はい。開いてますよ。どうぞ」
ウロマが錠菓を口に放り込みながらそう鼻づまりの声で言うと、男はすぐに扉を開け、中に入ってきた。ぱりっとした高そうなスーツを着た、四十歳前後くらいの男だった。背は高く、ほどよく引き締まった感じの均整の取れた体つきで、ツヤツヤの黒い髪をオールバックにしている。やや掘りが深い顔立ちは、よく整っていて、大人の男の色気を感じさせるイケメンであった。
ただ、今はその顔に白いガーゼの眼帯をつけており、それで左目を隠していた。
「あの、ここはカウンセリングルームだそうですが、悩みを聞いてくれる場所ということでよろしいのでしょうか?」
眼帯男は、どこからか現れたパイプ椅子に腰掛けながらウロマに尋ねた。
「そうですね。ここには多くの、心に悩みを抱えた方がいらっしゃいます。そんな人たちが、少しでも笑顔になれればと、僕はここでカウンセラーとして奮闘している毎日なのですよ」
ウロマはさらっと答えた。また、なんという白々しい台詞だろう。灯美は呆れた。相談者の顔を曇らせるのが主な仕事だろうに。
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