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6章 左目のプルートー
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「とりあえず、あなたのことをもっと教えていただけませんか。何気ないことでも、話していくうちに原因が見えてくるかもしれません」
「あ、はい、そうですね。そういえば自己紹介もまだでした」
男はスーツの胸ポケットから名詞を出し、ウロマに差し出した。灯美が首を伸ばして見るとそこには安芸山隆一《あきやま・りゅういち》とあった。会社の名前はこじゃれたフォントの横文字でよく読み取れなかったが、肩書きは「代表取締役」とあった。
「ほほう、安芸山さんは社長さんなんですね。お若いのにご立派なことです」
「いやいや、そんなに大きな会社ではないので」
「はは、ご謙遜を。実を言うと、僕は最初からなんとなく安芸山さんの顔には見覚えがあったのですよ。今、その既視感の正体がわかりました。安芸山さんは、今から半年ほど前に、テレビに出演されていたことがあったでしょう?」
「あ、もしかして視聴されてたんですか、あれ」
「はい。ばっちり見てましたよ、わりと好きなほうの番組なのです。確か、安芸山さんは新進気鋭のベンチャー企業のイケメン社長として一時間出ずっぱりでしたねえ。まさに成功者、人生の勝ち組という紹介のされ方でした」
「いやあ、それほどでも」
さっきまでの重苦しい表情はどこへやら。ウロマに持ち上げられてニヤニヤしはじめる隆一であった。
「番組によると、安芸山さんの会社は、介護事業者向けのクラウドサービスを提供する、いわゆるIT企業でしたね。介護業界は現在人手不足が深刻ですし、システムの合理化が期待できる安芸山さんの会社のサービスは、実に重宝されることでしょう。業績がうなぎのぼりなのも大いに納得できるものです」
「ありがとうございます。おかげさまで順調です」
なんだかビジネストークじみてきた……。
「しかし、僕のような門外漢が想像するに、IT企業というと、どうしても残業地獄というイメージがわいてくるのです。SEたちが目を真っ赤にしてパソコンの前に終日張り付いているような?」
「ああ、よそではそうかもしれませんが、うちではそういうのはあまりないですね」
「あまり?」
「そりゃあ、忙しいときもありますので。帰宅という概念が消失する期間とでも言うような」
はっはっはと、隆一社長は爽やかに笑った。なんとなくIT企業の闇を見たような気がした灯美であった。
「では、安芸山さんは日常の業務で、特別大きなストレスを感じることはなかったのですね?」
「ええ、そうですね。少なくとも、事故の前と後で、特に何かが変わったということはありません」
「なるほど。では、ここ最近のライフスタイルに変化はありましたか? 例えば、急に、たくさん飲んでいたお酒をやめたり、LSDのような薬物を使い始めたり、何やら怪しい健康食品に手を出したりといったことは?」
「ないです。というか、いきなり健康食品ってなんですか」
「世の中には幻覚作用のあるアルカロイドを含んだ、危ないキノコや秘密のサボテンがありますからね。海外から取り寄せた健康食品などからそういうものを知らず知らずに口に入れるとあら大変。もしかしたら、それで黒猫の幻を見ることだってあるかもしれません」
「はあ、そういうことですか。しかし、口に入れるものは、特に何も変えてないですよ。お酒だって元々そんなに飲んでないです。変なクスリにも手を出していません」
「では、アルコールの離脱症状や薬物による幻視ではないことは間違いなさそうですね」
「ゲンシ?」
「幻覚の中で、現実には存在しない像を見てしまうものをそう呼ぶのですよ。多くは、目や脳の何らかの器質的な異常、もしくはアルコールや薬物によって引き起こされます。心因性の視覚異常だと、鬱による視力低下が多いでしょう。他に、心因性視力障害なんてものもありますが、これはほぼ子供にしか見られません。また、子供に多いといえば、不思議の国のアリス症候群もそうですね。これは、安芸山さんの感じている症状に少し似ているかもしれません」
「不思議の国のアリス? 童話の?」
「はい。その童話の主人公アリスの体が大きくなったり小さくなったりすることからきているもので、目の前のものが大きく見えたり、小さく見えたりする症状です。これは何らかのウィルス感染によるもので、ほとんどが一時的なものです。すぐ自然治癒するものなのです」
「それは大人で発症することはあるのですか。私のような?」
「ありますが、その場合は偏頭痛などの症状を伴うことが多いですね。あとは脳炎とか」
「そういうのはないですね。病院で一通り検査してもらいましたし……」
隆一はため息をついた。あてが外れて、がっかりしたようだった。
「他にゲンシとやらが考えられる病気はないのですか?」
「そうですね……。他には、失明した人が幻を見る、シャルル・ボネ症候群なんてものもありますよ」
「失明した人が幻を見るんですか?」
お前は何を言っているんだ、という顔をする隆一だった。確かにおかしな日本語だ。
「人間の脳というものは不思議なもので、急に視力を失っても、脳の感覚野の視覚情報を司る部分は、しばらくは視覚があったときと同じように活動するのです。詳しくはペンフィールドの小人さんに訊くしかありませんが、その感覚野の一方的な暴走とも言っていい活動が、シャルル・ボネ症候群の失明者が見る幻影の正体です」
「なるほど。急にリモートホストからの応答が途絶えても、ローカルのデバイスは生きてるわけで、そこからのデータの送信はいつもどおり行われるというわけですね」
と、IT企業の人間らしいよくわからん例えで納得する隆一だった。果たしてその理解であってるのか。
「実は、このような異常は視覚に限らず、他の感覚でも起こりうることです。例えば、幻肢痛というものがあります。幻の四肢の痛みと書きます。事故などで後天的に手足を失った人が、あたかもそれが存在するかのように錯覚し、痛みを感じることです」
「まるでさっきのシャルルなんとかみたいですね」
「そうですね。急にできた大きな情報の空白に、人間の脳は時としてバグを発生させてしまうのでしょう。まあ、飛蚊症程度のごくわずかな視覚の欠落に、脳が何かの誤作動を起こすとは非常に考えづらいところですが」
「……ですよね」
隆一はまたしてもため息をついた。この話も自分には関係なさそうで、再びがっかりしたようだった。
「あ、はい、そうですね。そういえば自己紹介もまだでした」
男はスーツの胸ポケットから名詞を出し、ウロマに差し出した。灯美が首を伸ばして見るとそこには安芸山隆一《あきやま・りゅういち》とあった。会社の名前はこじゃれたフォントの横文字でよく読み取れなかったが、肩書きは「代表取締役」とあった。
「ほほう、安芸山さんは社長さんなんですね。お若いのにご立派なことです」
「いやいや、そんなに大きな会社ではないので」
「はは、ご謙遜を。実を言うと、僕は最初からなんとなく安芸山さんの顔には見覚えがあったのですよ。今、その既視感の正体がわかりました。安芸山さんは、今から半年ほど前に、テレビに出演されていたことがあったでしょう?」
「あ、もしかして視聴されてたんですか、あれ」
「はい。ばっちり見てましたよ、わりと好きなほうの番組なのです。確か、安芸山さんは新進気鋭のベンチャー企業のイケメン社長として一時間出ずっぱりでしたねえ。まさに成功者、人生の勝ち組という紹介のされ方でした」
「いやあ、それほどでも」
さっきまでの重苦しい表情はどこへやら。ウロマに持ち上げられてニヤニヤしはじめる隆一であった。
「番組によると、安芸山さんの会社は、介護事業者向けのクラウドサービスを提供する、いわゆるIT企業でしたね。介護業界は現在人手不足が深刻ですし、システムの合理化が期待できる安芸山さんの会社のサービスは、実に重宝されることでしょう。業績がうなぎのぼりなのも大いに納得できるものです」
「ありがとうございます。おかげさまで順調です」
なんだかビジネストークじみてきた……。
「しかし、僕のような門外漢が想像するに、IT企業というと、どうしても残業地獄というイメージがわいてくるのです。SEたちが目を真っ赤にしてパソコンの前に終日張り付いているような?」
「ああ、よそではそうかもしれませんが、うちではそういうのはあまりないですね」
「あまり?」
「そりゃあ、忙しいときもありますので。帰宅という概念が消失する期間とでも言うような」
はっはっはと、隆一社長は爽やかに笑った。なんとなくIT企業の闇を見たような気がした灯美であった。
「では、安芸山さんは日常の業務で、特別大きなストレスを感じることはなかったのですね?」
「ええ、そうですね。少なくとも、事故の前と後で、特に何かが変わったということはありません」
「なるほど。では、ここ最近のライフスタイルに変化はありましたか? 例えば、急に、たくさん飲んでいたお酒をやめたり、LSDのような薬物を使い始めたり、何やら怪しい健康食品に手を出したりといったことは?」
「ないです。というか、いきなり健康食品ってなんですか」
「世の中には幻覚作用のあるアルカロイドを含んだ、危ないキノコや秘密のサボテンがありますからね。海外から取り寄せた健康食品などからそういうものを知らず知らずに口に入れるとあら大変。もしかしたら、それで黒猫の幻を見ることだってあるかもしれません」
「はあ、そういうことですか。しかし、口に入れるものは、特に何も変えてないですよ。お酒だって元々そんなに飲んでないです。変なクスリにも手を出していません」
「では、アルコールの離脱症状や薬物による幻視ではないことは間違いなさそうですね」
「ゲンシ?」
「幻覚の中で、現実には存在しない像を見てしまうものをそう呼ぶのですよ。多くは、目や脳の何らかの器質的な異常、もしくはアルコールや薬物によって引き起こされます。心因性の視覚異常だと、鬱による視力低下が多いでしょう。他に、心因性視力障害なんてものもありますが、これはほぼ子供にしか見られません。また、子供に多いといえば、不思議の国のアリス症候群もそうですね。これは、安芸山さんの感じている症状に少し似ているかもしれません」
「不思議の国のアリス? 童話の?」
「はい。その童話の主人公アリスの体が大きくなったり小さくなったりすることからきているもので、目の前のものが大きく見えたり、小さく見えたりする症状です。これは何らかのウィルス感染によるもので、ほとんどが一時的なものです。すぐ自然治癒するものなのです」
「それは大人で発症することはあるのですか。私のような?」
「ありますが、その場合は偏頭痛などの症状を伴うことが多いですね。あとは脳炎とか」
「そういうのはないですね。病院で一通り検査してもらいましたし……」
隆一はため息をついた。あてが外れて、がっかりしたようだった。
「他にゲンシとやらが考えられる病気はないのですか?」
「そうですね……。他には、失明した人が幻を見る、シャルル・ボネ症候群なんてものもありますよ」
「失明した人が幻を見るんですか?」
お前は何を言っているんだ、という顔をする隆一だった。確かにおかしな日本語だ。
「人間の脳というものは不思議なもので、急に視力を失っても、脳の感覚野の視覚情報を司る部分は、しばらくは視覚があったときと同じように活動するのです。詳しくはペンフィールドの小人さんに訊くしかありませんが、その感覚野の一方的な暴走とも言っていい活動が、シャルル・ボネ症候群の失明者が見る幻影の正体です」
「なるほど。急にリモートホストからの応答が途絶えても、ローカルのデバイスは生きてるわけで、そこからのデータの送信はいつもどおり行われるというわけですね」
と、IT企業の人間らしいよくわからん例えで納得する隆一だった。果たしてその理解であってるのか。
「実は、このような異常は視覚に限らず、他の感覚でも起こりうることです。例えば、幻肢痛というものがあります。幻の四肢の痛みと書きます。事故などで後天的に手足を失った人が、あたかもそれが存在するかのように錯覚し、痛みを感じることです」
「まるでさっきのシャルルなんとかみたいですね」
「そうですね。急にできた大きな情報の空白に、人間の脳は時としてバグを発生させてしまうのでしょう。まあ、飛蚊症程度のごくわずかな視覚の欠落に、脳が何かの誤作動を起こすとは非常に考えづらいところですが」
「……ですよね」
隆一はまたしてもため息をついた。この話も自分には関係なさそうで、再びがっかりしたようだった。
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