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エピローグ
EP - 3
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「あの、それで、このあいだバイトをやめたいって言った件なんですけど……」
と、灯美はさっそく本題に入ったが、
「ああ。灯美さんには言い忘れていましたが、ここでは口頭での退職願は受け付けていませんよ」
「はい?」
「したがって、あなたが僕に何を言おうと無効です。次からはきちんと書面を提出するように」
ウロマは実にきっぱりとした、堂々とした物言いだった。ようするにやめないでと言われているはずなのだが、なんだろうこの態度。本当にもう、この男ときたら、相変わらずめんどくさいったらない。
「わかりました。先生がそこまで言うなら、特別にやめないであげます。今回だけですよ」
「当然です。正式な手続きを踏んでいないのですから、やめるもやめないも初めからない話なのです」
言いながら、ウロマは事務机の椅子に腰掛けた。灯美もとりあえず、近くに当然のように沸いて現れていたパイプ椅子に腰掛けた。ここの奇妙なシステムは相変わらずのようだ。
「先生、私、今日ここに来るまでに石川さんと菊池さんと清川さんに会ったんです。でも、三人ともここにカウンセリングに来たことを覚えていませんでした。椿さんと安芸山さんはよくわかりませんけど」
「そうですか。まあ、人の記憶なんてそんなものです。必要のない情報はさっさと忘れてしまう、それだけのことです」
「必要ないことって……」
そんなふうにはとても思えない。どの相談者に対しても、この目の前にいる男は、とても印象深かったはずではなかっただろうか。そうそう忘れることはできないような。
いや、そもそも、この男とはいったい――。
「ウロマ先生、あなたは何者なんですか? 明らかに普通の人間じゃないですよね?」
気がつくと、灯美はこんなことを口走っていた。ウロマは「まあ、そうですね」と、軽く受け流すように答えた。
「そのことについて今のあなたに言葉で説明するのはたぶんとても難しいことです。ただ、せっかくなので、これからあなたに少しばかり理解の助けになるかもしれない例え話をしてみましょう。脳科学の勉強です」
「脳科学?」
「そう、実はここだけの話、人は時計の秒針をいとも簡単に止めることができるのですよ。何の道具も使うことなく、時計に触れることもなく、ね……」
と、ウロマは事務机の隅っこを指差した。見るとそこにはいつの間にか、小さな目覚まし時計が置かれていた。アナログ式で、その秒針はカチカチと規則正しく動いている。
「灯美さん、あなたはこれからこの時計の秒針をほんの少しの間、止めます。やり方は実に簡単です。この時計からいったん目をそらし、違うところを見た後、再び時計に視線を戻す、それだけです。やってみてください」
「はあ?」
よくわからないが、言われたとおり、視線を動かしてみた。そう、いったん時計から視線を離して、また戻す――と、その瞬間、灯美は確かに、ごくわずかに時計の秒針が硬直して動きを止めたように見えた。
「な、なんですか、これ?」
「これはクロノスタシスという急速な眼球移動がもたらす錯覚です」
「錯覚?」
「そう、見ている人間が視線をどう移動させようと、時計の針は別に止まっていません。人の脳がそう錯覚しているのです。これは視線をある場所から、別の場所に移す際に、人の脳内でサッカード抑制という視覚情報の遮断が起こっているからです。これにより、人は眼球を急速に移動させても、視界のブレを感じることがなくなるのです。視線を移動させるにあたって、その途中の映像をあえて視覚からシャットアウトしているのですから。そして、それゆえ、視線を移動させた先にある時計の針の動きが、ほんの少しの間だけ止まって見えるというわけなのですよ」
「は、はあ……」
視線を移動させるだけで、視覚情報が遮断されている? いまいちピンとこない説明だ。
「これはつまり、人は眼球を動かすだけで、いともあっけなく、外界のイメージを完全に認知できなくなっていることを示唆しています。視覚情報は、眼球移動に伴って常に遮断されているのですから。人が抱いている外界のイメージと、実像は、実はズレているのです。時計の針は止まっていないのに、止まっているように見えるのですからね。しかし、ここで疑問がわいてきます。今灯美さんが体感した時計の針が止まったように見える錯覚と、実際には止まっていない実像、どちらが灯美さんにとっての真実と言えるのでしょうか?」
「そりゃあ、もちろん止まってないほうでしょう。止まったように見えたのは錯覚だったんだし」
「へえ。では、時計の針が止まったように見えたのが目の錯覚だったと、この場で僕が教えなかったら、あなたはどう思ったんでしょうね?」
「え――」
とたんに灯美は言葉につまってしまった。言われてみれば、確かにそうだ。錯覚なんてしょせん、そうだと気づかなければ、本当のこととは見分けがつかないものだし。
「人の抱いている外界のイメージとは、本当のところ、とてもあやういものです。そこには決して認知できない情報の空白があるのですから。そして、それは人の内面世界にも同じように言えます。人の認識は、世界は、常に穴だらけで、不完全で、ガバガバなのですよ」
ウロマはふと、にやりと笑った。
「そして、そんな世界の虚のはざまに、一人の男の影が現れて、なんの問題があるでしょう? 空白だらけの不完全な人の世界に、真実などはじめからどこにもないのです。この世は、常に人の認知の及ばない虚ろに満ちています。そして、そのあやうさが、僕を一人の男として形作るのですよ」
それは灯美にとってはあまりに抽象的過ぎて、ちんぷんかんぷんな言葉だった。ただ、うっすらと確信はあった。ああ、この男はまたこうやって、科学的な話の後にテキトーな、それっぽい言葉を並べて嘘をついているんだろうなあ、という……。まさに、煙に巻かれたという感じだ。
「ま、まあいいです。先生が自分のことを話したくないなら、それで。とりあえず、これからもよろしくお願いします」
「そうですね。あなたにはこれからも僕の片腕としてがんばってもらうとしましょう」
ウロマはそう言うと、ふと、室内のあちらこちらに散らばっている錠菓の容器を指差した。
「まずあなたに頼みたいのは、ここの片付けですかね」
「はあ」
やっぱりここでは、それぐらいしかやることはないのだろうか。灯美はしぶしぶとパイプ椅子から立ち上がり、カウンセリングルームの掃除に取り掛かった。(了)
と、灯美はさっそく本題に入ったが、
「ああ。灯美さんには言い忘れていましたが、ここでは口頭での退職願は受け付けていませんよ」
「はい?」
「したがって、あなたが僕に何を言おうと無効です。次からはきちんと書面を提出するように」
ウロマは実にきっぱりとした、堂々とした物言いだった。ようするにやめないでと言われているはずなのだが、なんだろうこの態度。本当にもう、この男ときたら、相変わらずめんどくさいったらない。
「わかりました。先生がそこまで言うなら、特別にやめないであげます。今回だけですよ」
「当然です。正式な手続きを踏んでいないのですから、やめるもやめないも初めからない話なのです」
言いながら、ウロマは事務机の椅子に腰掛けた。灯美もとりあえず、近くに当然のように沸いて現れていたパイプ椅子に腰掛けた。ここの奇妙なシステムは相変わらずのようだ。
「先生、私、今日ここに来るまでに石川さんと菊池さんと清川さんに会ったんです。でも、三人ともここにカウンセリングに来たことを覚えていませんでした。椿さんと安芸山さんはよくわかりませんけど」
「そうですか。まあ、人の記憶なんてそんなものです。必要のない情報はさっさと忘れてしまう、それだけのことです」
「必要ないことって……」
そんなふうにはとても思えない。どの相談者に対しても、この目の前にいる男は、とても印象深かったはずではなかっただろうか。そうそう忘れることはできないような。
いや、そもそも、この男とはいったい――。
「ウロマ先生、あなたは何者なんですか? 明らかに普通の人間じゃないですよね?」
気がつくと、灯美はこんなことを口走っていた。ウロマは「まあ、そうですね」と、軽く受け流すように答えた。
「そのことについて今のあなたに言葉で説明するのはたぶんとても難しいことです。ただ、せっかくなので、これからあなたに少しばかり理解の助けになるかもしれない例え話をしてみましょう。脳科学の勉強です」
「脳科学?」
「そう、実はここだけの話、人は時計の秒針をいとも簡単に止めることができるのですよ。何の道具も使うことなく、時計に触れることもなく、ね……」
と、ウロマは事務机の隅っこを指差した。見るとそこにはいつの間にか、小さな目覚まし時計が置かれていた。アナログ式で、その秒針はカチカチと規則正しく動いている。
「灯美さん、あなたはこれからこの時計の秒針をほんの少しの間、止めます。やり方は実に簡単です。この時計からいったん目をそらし、違うところを見た後、再び時計に視線を戻す、それだけです。やってみてください」
「はあ?」
よくわからないが、言われたとおり、視線を動かしてみた。そう、いったん時計から視線を離して、また戻す――と、その瞬間、灯美は確かに、ごくわずかに時計の秒針が硬直して動きを止めたように見えた。
「な、なんですか、これ?」
「これはクロノスタシスという急速な眼球移動がもたらす錯覚です」
「錯覚?」
「そう、見ている人間が視線をどう移動させようと、時計の針は別に止まっていません。人の脳がそう錯覚しているのです。これは視線をある場所から、別の場所に移す際に、人の脳内でサッカード抑制という視覚情報の遮断が起こっているからです。これにより、人は眼球を急速に移動させても、視界のブレを感じることがなくなるのです。視線を移動させるにあたって、その途中の映像をあえて視覚からシャットアウトしているのですから。そして、それゆえ、視線を移動させた先にある時計の針の動きが、ほんの少しの間だけ止まって見えるというわけなのですよ」
「は、はあ……」
視線を移動させるだけで、視覚情報が遮断されている? いまいちピンとこない説明だ。
「これはつまり、人は眼球を動かすだけで、いともあっけなく、外界のイメージを完全に認知できなくなっていることを示唆しています。視覚情報は、眼球移動に伴って常に遮断されているのですから。人が抱いている外界のイメージと、実像は、実はズレているのです。時計の針は止まっていないのに、止まっているように見えるのですからね。しかし、ここで疑問がわいてきます。今灯美さんが体感した時計の針が止まったように見える錯覚と、実際には止まっていない実像、どちらが灯美さんにとっての真実と言えるのでしょうか?」
「そりゃあ、もちろん止まってないほうでしょう。止まったように見えたのは錯覚だったんだし」
「へえ。では、時計の針が止まったように見えたのが目の錯覚だったと、この場で僕が教えなかったら、あなたはどう思ったんでしょうね?」
「え――」
とたんに灯美は言葉につまってしまった。言われてみれば、確かにそうだ。錯覚なんてしょせん、そうだと気づかなければ、本当のこととは見分けがつかないものだし。
「人の抱いている外界のイメージとは、本当のところ、とてもあやういものです。そこには決して認知できない情報の空白があるのですから。そして、それは人の内面世界にも同じように言えます。人の認識は、世界は、常に穴だらけで、不完全で、ガバガバなのですよ」
ウロマはふと、にやりと笑った。
「そして、そんな世界の虚のはざまに、一人の男の影が現れて、なんの問題があるでしょう? 空白だらけの不完全な人の世界に、真実などはじめからどこにもないのです。この世は、常に人の認知の及ばない虚ろに満ちています。そして、そのあやうさが、僕を一人の男として形作るのですよ」
それは灯美にとってはあまりに抽象的過ぎて、ちんぷんかんぷんな言葉だった。ただ、うっすらと確信はあった。ああ、この男はまたこうやって、科学的な話の後にテキトーな、それっぽい言葉を並べて嘘をついているんだろうなあ、という……。まさに、煙に巻かれたという感じだ。
「ま、まあいいです。先生が自分のことを話したくないなら、それで。とりあえず、これからもよろしくお願いします」
「そうですね。あなたにはこれからも僕の片腕としてがんばってもらうとしましょう」
ウロマはそう言うと、ふと、室内のあちらこちらに散らばっている錠菓の容器を指差した。
「まずあなたに頼みたいのは、ここの片付けですかね」
「はあ」
やっぱりここでは、それぐらいしかやることはないのだろうか。灯美はしぶしぶとパイプ椅子から立ち上がり、カウンセリングルームの掃除に取り掛かった。(了)
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