拝啓 殿下。どうぞ離縁書にサインをしてください。

たまる

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猫だから!

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 猫の自分は、ただ身体に感じる違和感にもがいていたわ。

(…んっ、あ、だめっぇ)

 そう言っているのに、口からは猫の鳴き声しか出ないの。

 ぐすん、バカ猫、もとい私。

 忍び寄る指の感触が膝から腿へとなぞられると、口から猫の間延びした鳴き声が漏れてしまいそうになるわ。

「ああ、感じているの……。嬉しい」
「あ、あ…っ、ん」

 耳を疑う。

 違うって!

 ─だ、ダメよ。そんなはしたない声!

 猫の爪で引っ掻きたいと思ったわ。
 この狂おしいような感覚が体を麻痺させているから、なかなか出来ないの。
 
 ─な、なんで、こんなことに!

 でも手付きは優しいの。
 もっとビドイ扱いもあるって聞いたことがあるわ。

 ばか、私。
 何に同情しているのかしら。

 殿下には彼をと思わせるくらいの愛人やら取り巻きがいるじゃない。

 でも…。
 この横顔。

 このひとのこんな焦るような、素振り…初めて見たの。
 殿下が誰かと勘違いしていると思うくらいの、優しい手つき。
 まるで自分を愛しているような視線と甘い言葉…。

 自分の体が知らない他人のものになっていく。
 うまく感情と身体が噛み合わないの。
 身体中の体温が急上昇した感じ。
 彼の指が寄せる波のように動いて、意識が朦朧としてしまったわ。

─こんな感覚、全く知らない…。

 怖くなると同時になぜか胸がつきんとしたわ。

「な、名前…言ってくれ、リーナ」

─な、なんなの、こんな時に名前を言えと?
 
 自分が悶えながら唸ったわ。
 すると、ダミーの私が、うにゃーと答えたわ。

「リーナ?」

 彼がちょっと固まったわ。

 いろいろまずいわ。
 ダミー自分が本能、つまり、猫に戻ってきているわ。

 でも、なんだかこの状況に違う意味で腹がたってきたわ。
 だって離縁届にサインをもらうはずなのに、もらっているのはそれとは全く違う扱いよ。
 
 なんなの?
 貴方私には全く興味がなかったような素振りの癖をして、離縁と言い出したら、いきなり味見を忘れていたかのような振る舞いだわ。

 あ、そうなの?
 これって?

 前世の世界で、期間限定の食べ物を食べたくもないのに、買っちゃって、「ああ、こんな味だったんだ。美味しいけど、二度目はないな」とか言うやつ?

 さっきの猫だとバレそうな沈黙をまた殿下が破ったわ。

「早く、私の名を…」
 
 殿下は意味不明なリクエストをしているわ。
 味見だなんてふざけたことをしてくれるんじゃないの。
 この魔女の私に対して…。
 何かが電流のように頭に走ったわ。
 快感とは違うそれ。
 
 自分の知らない脳内のスイッチを押されたような気がしたわ。
 
 身軽な黒猫が宙を舞う。

 考えるよりも猫の自分が殿下の肩に後ろから飛び乗ったわ。
 
「うわぁ、な、なんでこんなところに猫が!」
「うぎゃ~」
(これは訳すと、ふざけんな。ばか、かしらね)

 彼が一生懸命に肩から猫を振り落とそうとしている間に、あの馬鹿猫である自分の身体と目を合わせたわ。
 とろ~んとしちゃっている自分は本当に、傍目から見ると、なんだか情けない感じだったわ。

 意識が戻った猫が窓際で騒ぎ出している。
 殿下が「まったく…」と言いながら、猫を外に押し出したわ。
 猫が外のベランダをつたって隣へと移って行く様子を殿下が見つめていたの。

 きっと彼はまだ自分から発する氷のような視線には気が付いていないはず。
 彼は私に背中を向けていたわ。
 
 ここに激オコの魔女の私を寝台に残したままでね。

「…殿下」
「あ、リーナ。すまん。邪魔が入った」
「…はぁ? 邪魔ですって」

 明らかに先ほどの蕩けた表情の自分がいなくなったのを察した殿下の顔が固まるわ。
 彼の手が寝台に近づこうとしたのだけれど、睨んで止まらせたわ。
 
 ふん、よかった。
 少しは見境が戻ったみたいね。

 でも、知らないんだから!
 乙女の純情を勝手に汚したこと、絶対に許さないんだから!

「何ですの? 先ほどの行いは…」
「リーナ?」

 殿下が固まったわ。
 そうよね。
 私がの時って、かなり怖いんですって。
 パパでさえ震えちゃうんですからね。

「離縁を申し込んで、サインをいただこうとしたら、なぜ、こんなを受けないといけないのでしょうか?」
「…し、仕打ち…」

 殿下が少し震えているわ。
 ちょっと涙目よ。
 あらやり過ぎちゃったかしら。

 でも、激オコって言ってもまあ小激オコぐらいね。
 少し自分も落ち着いて来たわ。

「今日はそれにサインを貰えるとお聞きしまして、この夜会に出ましたのに…」
「そ、それは…」
「もう殿下には本当に最後に失望いたしましたわ。少しでも私に悪い気持ちがございますのなら、渡した離縁書にサインをしてください。離縁書、ご覧にございましたか?」
「…離縁書。あの紙切れは…正確には有効ではない」

 ─え、どういう意味?

 あの紙にはどれだけの時間とお金、いえ、職人の魂が入っているかのような高級な紙であるのに、何がいけないのかさっぱりわからない。

「どういうことですの?」

 問いただしている私の瞳をじっと見ながら苦しそうに殿下が答えるの。

「リーナ…私は…どうやったら」

 自分が急に不安になったの。
 それは殿下の言葉ではないの。

 何かを殿下から感じたわ。
 殿下の身体から何かが出てくるこの感覚。
 何かまとわりつくモノを感じたの。

 ソレはどこかで触ったことがあるような。
 いや見たことがあるのかもしれない。
 
 先ほどの肌のふれあいとまた違う。
 どこか遠いところで感じた感覚。
 煙がぐるぐると廻り巡るような。
 そして、その中で、まるで見えない小さな花火がバチバチを音を立てているような。
 
 不思議な感覚。

 昔、ママが何か言っていた感じがしたわ。
 
『ソレを肌で感じたら、要注意よ。リーナ』

 ─なんだったかしら、ママ。

 わからない不安を飛ばすためにも殿下に問いただしたわ。

「何ですの? その離縁書の有効どうのっていうのは? 私、完璧に揃えたはずですわ。あとは殿下のサインだけをもらうはずですのよ」

 眉間に深いシワを寄せた殿下が唸ったわ。
 何か覚悟を決めたようだったの。
 殿下の身体が苦痛を堪えるかのように震えだしたわ。

 苦しそうに言葉が漏れたの。

「君は…離縁をする旦那の…」

 彼の言葉が終わる前に閃光が飛び散ったわ。





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