藤枝蕗は逃げている

木村木下

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倒れていた男

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 湿った土の匂いがする。
 目を開けると、自分が地面に倒れていることに気づいた。降り積もった落ち葉に手をついて起き上がる。雨が降ったのか、体が濡れている。額に張り付く髪を手で払うと、泥が顔についたのがわかった。
 頭は霞がかったようにぼんやりとしていた。確か、夜中に短剣を取り戻そうとジョンについて行ったら、王妃の居室へたどりつき、引き返そうとしていたところで魔方陣を踏んだのだ。
 魔方陣を通じて別の場所へ出てしまったのかもしれない。以前も、街で娘を攫うカエルの化け物を退治した時、同じようなことがあった。とにかく、ローラン様のところに戻らなければ。近くの木に手をつき、なんとか立ち上がる。夜の森は暗かった。茂った葉の間から、月明りが差し込んでいる。暑い。じんわりと滲んだ汗を感じて、はっとする。
 今は冬なのに。あたりを見回すと、探すまでもなく、夏にしか咲かない花を見つけた。しゃがみこんで赤い花弁を指で触る。瑞々しい感触がした。混乱しながら顔を上げる。すると、森の奥から物音が聞こえた。とっさに身を隠す場所を探したが、次に聞こえてきた声に足が止まる。
「探せ!」
 人間だ。足音を立てないように気を付けながら、声の方へ向かう。木々の間から様子を窺うと、いるのは騎士のようだった。何人かが松明を掲げており、白い服が橙色に照らされている。オルランドや、顔見知りの騎士がいないか探したが、見当たらない。
「まだ近くにいるはずだ。なんとしてでも朝までに見つけ出して殺せ」
 上官らしい男が部下たちに指示をしている。騎士たちがこちらに来るのに気づき、俺は慌ててその場を離れた。より木々が密集し、草が倒されていない方へ進む。よくよく考えれば逃げずともよかったはずだが、なぜだか見つからないように動いてしまった。人の話し声が聞こえなくなったところで歩を緩める。喉が渇いていた。沢を探そうと耳を澄ませる。その時、足先がなにか柔らかいものを蹴り、思わず足を止めてしまった。
 誰かが倒れている。人だ。慌ててしゃがみ、男の背中に手を当てる。暖かく、上下している。生きているようだ。うつぶせの体を、呼吸がしやすいように動かそうと力をこめる。ごろんと体が回転し、露になったその顔を見て息を呑んだ。
 白い肌。金色の髪。ローラン様だ。地面に倒れていたせいで顔には泥が付き、擦り傷や切り傷が目立つが、間違いない。俺が彼を見間違えるわけがない。気を失っている彼にぞっとして、思わず胸に手を当てて揺さぶる。
 胸に当てたその手が、濡れた感触がした。見ると、べっとりと黒いものがついている。鉄の匂い。よく見れば、彼の衣は胸から腰にかけてが血にまみれている。俺は半狂乱になって彼の肩を揺すった。
「ローラン様、しっかりしてください、目を開けて」
 なぜ彼がここに? まさか、俺が巻き込んでしまったのだろうか。自身の軽率な行いを激しく悔やむ。主人の白い頬に手を当てて撫でようとすると、遠くで誰かの足音が聞こえた。はっとして、考える間もなく主人の体を背負い、その場を離れる。見つかりたくないというのは、直感だった。
 ほとんど誰も足を踏み入れたことのないだろう森は、足場が悪く歩きにくかった。油断すると積み重なった落ち葉に隠れた木の根に足を取られそうになる。意識を失った人間の体は重かった。背中の主人は、ただ息をしているだけで目を覚ます気配なく、身じろぎすらしない。必死に足を動かし、人の気配から離れ、森を進む。
 やっと身を隠せそうな洞窟を見つけた時には、汗が顎から滴っていた。ローラン様を下ろし、着ていた上着を脱いで枕代わりにする。伏せられた長いまつげが、簾のように白い肌に影を落としていた。
 息を殺して外の様子を窺っていると、不意に洞窟の奥から水の流れる音がすることに気づいた。進んでみると、裏に抜けたところに小さな沢が流れている。俺は胸元から手ぬぐいを出し、水に浸した。洞窟へ戻り、ローラン様の唇を濡らした手ぬぐいで湿らせる。乾き切った唇が少しずつうるおい、下唇が震えた。ついで呻きが漏れ、瞼がぴくりと動く。
「ローラン様!」
 かっと目が開き、横たわっていた彼の体が勢い良く動く。大きな手に肩を掴まれ、一気にひっくり返された。地面に背中をぶつけ、息が詰まる。思わず目をつぶると、顔の横に何かが突き立てられた。短剣だ。目を疑う。それは、間違っていなければ失くしたはずの、シェード家に伝わる護身の短剣だった。
「誰だ?」
 冷たい声だった。とっさに、それが目の前の主人から聞こえるものだとわからずほうけてしまう。見上げたローラン様は、青い瞳をすっと眇めた。
「騎士じゃないな。服が違う」
「ろ、ローラン様」
「ローラン? まさか俺のことじゃないよな、誰かと間違えてるのか?」
 意味が分からず、口を噤む。必死に主人の顔から状況を読み取ろうとするが、彼は俺が何も答えないと、さっと視線を走らせ武器を持っていないことを確認し、興味を失ったように視線を外した。突き立てた短剣を地面から抜き、腰に戻す。乗りかかっていた体が上からどくと、俺はゆっくりと体を起こした。
 ローラン様は洞窟の入口へ近づき、外の様子を窺っているようだった。胸元に手を当て「ちくしょう」と悪態を垂れている。後ろで結われた長い金の髪が、背中に揺れていた。が、その髪はどこか痛んで、ぼろぼろの様子だった。ついさっきまで一緒にいた、俺の美しい主人とは違う。
 間違い探しのように、主人と目の前の男の違いを探しながら、それでも俺はなぜだか彼がローラン様なのだと確信していた。木々をかきわけ、大勢の人間が地面を踏む音が聞こえる。舌打ちした男の手を掴み、俺は洞窟の反対側へと走り出した。
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