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ちゃんとした解決
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幸いなのは、女主人の幽霊に戦う気がないことだった。容易い相手ではないが、一対一ならなんとかやり合える。女中の猛攻を防ぎながら、俺はなんとか胸元にしまってあるマッチを取り出す隙を伺った。ジェイも俺の思惑を汲み取ったのだろう、巧みに敵を誘導しながらこちらへ近づき、一瞬だが女中二人を相手にして時間を作ってくれた。
機を逃さず、俺は転がるようにして絵画の下へと移動しながらマッチを取り出し、火を灯した。絵画を照らす。しかし、状況は俺たちの予想を裏切り幽霊たちは消滅せず、どころか動きを止めることすらなかった。ジェイが大きな声で「えっ」と叫ぶ。
「どうにかなるはずじゃないんですか⁉」
「ど、どうにかなるはずなのに」
実際、以前はこれで幽霊たちは断末魔を上げて消え去ったのだ。マッチではなく、燭台でなければだめだったのだろうか。俺は慌てて頭をめぐらせ、あの時ローラン様が使ったはずの燭台を探した。寝室の端、壁にひとつあるが、あれだっただろうか。逡巡しているうちに、ジェイが悲鳴をあげた。一人で二人を相手にするのは無理だったらしい。とりあえずマッチの火を消し、落ちている剣を掴んで助太刀に入る。背中同士をぶつけて剣を構えると、ジェイは俺に向かって「ろ、ローランはなにをしているんですか?」と聞いた。
「ほかの仕事って言ってたけど、いつ戻ってくる感じですか? 俺が死ぬ前に戻ってきますか?」
俺にもわからないが、取り合えず頷く。女中たちは悪鬼の形相で、爪は長く伸び、引き裂いたような口からは鋭い歯が見えている。二人で協力しながらなんとか時間を稼いでいると、不意に絹を裂くような悲鳴が聞こえた。慌ててみると、ベッドの上にいたハンナに、蔦のような植物がぐるぐると巻き付いている。それは腰や胸、首にまで絡みつき、ぎちぎちと彼女を締め上げているようだった。
今の今まで大人しくしているとおもっていた女主人が、ついに業を煮やしたらしかった。
「ああ、憎らしいわ。旦那様に手を出したくせに、妻の私に謝ろうともしないなんて。ああ憎らしいわ。お前など、庭の肥やしにしてしまうわ」
「いやっ、やめて! ジェイ助けて!」
「ハンナ!」
ハンナの首に巻き付いた蔓が、ぐっと太くなり一層強く彼女を締め付ける。息が出来ず喘ぐ彼女を見て、俺は片手でジェイを突き飛ばした。ジェイがハンナに駆けより、彼女にまとわりつく蔦を千切った。圧迫から解放され、ハンナが激しくせき込む。押しのけるように乱入された女主人の幽霊は体を千々こめて怯えたようにベッドの端へ寄った。
「ああ、旦那さま、どうしてその女に優しくするの? どうして私を無視するの? どうして私には笑ってくれないの?」
声に悲しみが滲んでいる。彼女の感情に呼応するように、ぐん、と女中たちの力が強くなる。錆びた剣がきしんで、折れそうにしなる。鋭い爪が頬を掠めた。間髪入れず襲いかかってくる凶手を、蹴飛ばして防ぐ。が、信じがたいことに頭二つ分も体格の劣る女中の力に抗いきれず、俺は大きく体勢を崩して床へと転がった。強かに背を打ち付け、一瞬息が止まる。その眼前に女中の長い爪が迫り、思わず目をつぶった時だった。
「やめろ! お前の夫はここだ!」
ローラン様の声だった。女中たちの動きがぴたりと止まり、女主人の啜り泣きも止む。見ると、部屋の入口には泥だらけのローラン様が立っていた。両手はもちろん、膝や、頬にまで土がついている。彼の右手は、騎士服を身にまとった骸骨の襟首をつかみ上げていた。薄く靄がかかるように、骨の上に男の面影が重なっている。
「旦那様だわ」
女主人の声だった。
「旦那様ですわ、お嬢様」
女中の一人がすっと滑るように女主人の傍へと戻る。長く伸びた爪や牙も姿を消し、目を伏せて楚々とした様子だ。が、もう一人の女中は怯えたように体を固くしてローラン様の方を見ている。
「おかえりなさいませ、旦那様。私、ずっとずっとお待ちしていました、愛しいあなた、もう離れないわ」
ローラン様が乱暴に骸骨を床へと打ち捨てる。女主人はいつの間にか骸骨の傍へと移動し、華奢な手で夫の体に触れ、頬をぴとりと寄せていた。難を逃れた俺は、呆然としながら身を起こした。ジェイとハンナも、息を呑んで幽霊たちの様子を見守っている。
「やめろ! 忌々しい女め、私に触れるな!」
骸骨がガタガタと音を鳴らしながら動き、女主人を突き飛ばす。なんとかローラン様の傍まで近寄った俺は、呆気に取られてその光景を見つめた。
「何がおかえりなさいませだ、お前が私を殺したくせに」
「旦那様」
「かわいそうに、あの娘まで殺すとは。お前のような妻を持った私も、お前のような主人に仕えなければならなかったあの娘も哀れでならない」
「そんな、わたしが殺したなんて、どうしてそんなにひどいことを言うの?」
女主人がぽろぽろと涙をこぼす。はた目にもいじらしく、胸を引き絞られるような風情だ。しかし女中と姦通した夫には通用しなかったらしい。骸骨が歯ぎしりをしながら、関節をガタガタ言わせて部屋の隅にいた女中の元へと歩き、彼女を抱きしめた。
「よく見て。あなたが探していた夫はあそこにいる」
ローラン様が言うと、女主人はわっと顔を両手で覆い、傍にいた女中に向かって叫んだ。
「もういや! あんな人たち、二度と見たくないわ、殺してちょうだい!」
そこからは、まるでかつてこの屋敷で起きたことの再現だった。ナイフを持った女中が、抱き合う男女を背後から滅多刺しにする。血しぶきが飛び、男女は崩れ落ち、瀕死の騎士の一撃で女中も倒れる。すべてを見ていた女主人が、泣きながら落ちていたナイフで自分の胸を突き刺す。
絶句して壮絶な光景を見つめる俺の肩を、ローラン様が力強く抱き寄せた。生者以外誰も動かなくなった部屋で、ローラン様が燭台に火を灯した。倒れ伏していた幽霊や、部屋中に飛び散った血飛沫が黒い煙のようになって肖像画へと吸い込まれていく。
屋敷から出ると、既に夜は明け、空には朝焼けが広がっていた。ハンナは恐ろしさのせいか息ができなくなるほど泣いてジェイの腕に取り縋っていた。ジェイは嬉しさや気恥ずかしさよりも心配が大きく勝った表情で彼女の肩を抱いている。俺たちに向かって、今日は彼女を送っていく、と話した。
「お礼がしたいから、また会おう。食事でも奢るよ」
ローラン様が頷き、二人は予定を合わせて別れた。騎士団に貸しを作ると言う当初の目的も、一応達成されたわけだ。
宿へ戻り、遅い夕食かつ早すぎる朝食を二人で取る。俺がどうして庭から男主人の骸骨を掘り起こしてきたのかと聞くと、ローラン様はスープを匙で掬いながら「絵に戻したって、一時しのぎだろ」と答えた。
「ちゃんと解決してやらないと、また夫を探して同じことを繰り返す」
なるほど……。それにしても、どうして絵を照らしても幽霊を退治できなかったのか。予定通りにいかず俺がいかに焦ったか、驚いたか。一生懸命あのときの感情を説明していると、ローラン様が頬杖をついて「相当怖かったんだな」と笑った。片方の眉をひょいっとあげて、意地の悪い表情だ。元の世界のローラン様はしない顔だったので、俺は思わず口を閉じて黙り込んだ。
「まあ、俺が魔法使いだからだろうな。普通の人間が火を灯しても意味がないんだろう」
そうなのか。ローラン様がとってくれた白いパンを千切りながら頷く。つまり、元の世界のローラン様も、目の前のローラン様と同じ力を持っていたということだ。俺はこっそりと目線だけでローラン様を窺った。長いまつげを伏せ、煮物から飾り程度のムラサキ豆をせっせと避けている。
機を逃さず、俺は転がるようにして絵画の下へと移動しながらマッチを取り出し、火を灯した。絵画を照らす。しかし、状況は俺たちの予想を裏切り幽霊たちは消滅せず、どころか動きを止めることすらなかった。ジェイが大きな声で「えっ」と叫ぶ。
「どうにかなるはずじゃないんですか⁉」
「ど、どうにかなるはずなのに」
実際、以前はこれで幽霊たちは断末魔を上げて消え去ったのだ。マッチではなく、燭台でなければだめだったのだろうか。俺は慌てて頭をめぐらせ、あの時ローラン様が使ったはずの燭台を探した。寝室の端、壁にひとつあるが、あれだっただろうか。逡巡しているうちに、ジェイが悲鳴をあげた。一人で二人を相手にするのは無理だったらしい。とりあえずマッチの火を消し、落ちている剣を掴んで助太刀に入る。背中同士をぶつけて剣を構えると、ジェイは俺に向かって「ろ、ローランはなにをしているんですか?」と聞いた。
「ほかの仕事って言ってたけど、いつ戻ってくる感じですか? 俺が死ぬ前に戻ってきますか?」
俺にもわからないが、取り合えず頷く。女中たちは悪鬼の形相で、爪は長く伸び、引き裂いたような口からは鋭い歯が見えている。二人で協力しながらなんとか時間を稼いでいると、不意に絹を裂くような悲鳴が聞こえた。慌ててみると、ベッドの上にいたハンナに、蔦のような植物がぐるぐると巻き付いている。それは腰や胸、首にまで絡みつき、ぎちぎちと彼女を締め上げているようだった。
今の今まで大人しくしているとおもっていた女主人が、ついに業を煮やしたらしかった。
「ああ、憎らしいわ。旦那様に手を出したくせに、妻の私に謝ろうともしないなんて。ああ憎らしいわ。お前など、庭の肥やしにしてしまうわ」
「いやっ、やめて! ジェイ助けて!」
「ハンナ!」
ハンナの首に巻き付いた蔓が、ぐっと太くなり一層強く彼女を締め付ける。息が出来ず喘ぐ彼女を見て、俺は片手でジェイを突き飛ばした。ジェイがハンナに駆けより、彼女にまとわりつく蔦を千切った。圧迫から解放され、ハンナが激しくせき込む。押しのけるように乱入された女主人の幽霊は体を千々こめて怯えたようにベッドの端へ寄った。
「ああ、旦那さま、どうしてその女に優しくするの? どうして私を無視するの? どうして私には笑ってくれないの?」
声に悲しみが滲んでいる。彼女の感情に呼応するように、ぐん、と女中たちの力が強くなる。錆びた剣がきしんで、折れそうにしなる。鋭い爪が頬を掠めた。間髪入れず襲いかかってくる凶手を、蹴飛ばして防ぐ。が、信じがたいことに頭二つ分も体格の劣る女中の力に抗いきれず、俺は大きく体勢を崩して床へと転がった。強かに背を打ち付け、一瞬息が止まる。その眼前に女中の長い爪が迫り、思わず目をつぶった時だった。
「やめろ! お前の夫はここだ!」
ローラン様の声だった。女中たちの動きがぴたりと止まり、女主人の啜り泣きも止む。見ると、部屋の入口には泥だらけのローラン様が立っていた。両手はもちろん、膝や、頬にまで土がついている。彼の右手は、騎士服を身にまとった骸骨の襟首をつかみ上げていた。薄く靄がかかるように、骨の上に男の面影が重なっている。
「旦那様だわ」
女主人の声だった。
「旦那様ですわ、お嬢様」
女中の一人がすっと滑るように女主人の傍へと戻る。長く伸びた爪や牙も姿を消し、目を伏せて楚々とした様子だ。が、もう一人の女中は怯えたように体を固くしてローラン様の方を見ている。
「おかえりなさいませ、旦那様。私、ずっとずっとお待ちしていました、愛しいあなた、もう離れないわ」
ローラン様が乱暴に骸骨を床へと打ち捨てる。女主人はいつの間にか骸骨の傍へと移動し、華奢な手で夫の体に触れ、頬をぴとりと寄せていた。難を逃れた俺は、呆然としながら身を起こした。ジェイとハンナも、息を呑んで幽霊たちの様子を見守っている。
「やめろ! 忌々しい女め、私に触れるな!」
骸骨がガタガタと音を鳴らしながら動き、女主人を突き飛ばす。なんとかローラン様の傍まで近寄った俺は、呆気に取られてその光景を見つめた。
「何がおかえりなさいませだ、お前が私を殺したくせに」
「旦那様」
「かわいそうに、あの娘まで殺すとは。お前のような妻を持った私も、お前のような主人に仕えなければならなかったあの娘も哀れでならない」
「そんな、わたしが殺したなんて、どうしてそんなにひどいことを言うの?」
女主人がぽろぽろと涙をこぼす。はた目にもいじらしく、胸を引き絞られるような風情だ。しかし女中と姦通した夫には通用しなかったらしい。骸骨が歯ぎしりをしながら、関節をガタガタ言わせて部屋の隅にいた女中の元へと歩き、彼女を抱きしめた。
「よく見て。あなたが探していた夫はあそこにいる」
ローラン様が言うと、女主人はわっと顔を両手で覆い、傍にいた女中に向かって叫んだ。
「もういや! あんな人たち、二度と見たくないわ、殺してちょうだい!」
そこからは、まるでかつてこの屋敷で起きたことの再現だった。ナイフを持った女中が、抱き合う男女を背後から滅多刺しにする。血しぶきが飛び、男女は崩れ落ち、瀕死の騎士の一撃で女中も倒れる。すべてを見ていた女主人が、泣きながら落ちていたナイフで自分の胸を突き刺す。
絶句して壮絶な光景を見つめる俺の肩を、ローラン様が力強く抱き寄せた。生者以外誰も動かなくなった部屋で、ローラン様が燭台に火を灯した。倒れ伏していた幽霊や、部屋中に飛び散った血飛沫が黒い煙のようになって肖像画へと吸い込まれていく。
屋敷から出ると、既に夜は明け、空には朝焼けが広がっていた。ハンナは恐ろしさのせいか息ができなくなるほど泣いてジェイの腕に取り縋っていた。ジェイは嬉しさや気恥ずかしさよりも心配が大きく勝った表情で彼女の肩を抱いている。俺たちに向かって、今日は彼女を送っていく、と話した。
「お礼がしたいから、また会おう。食事でも奢るよ」
ローラン様が頷き、二人は予定を合わせて別れた。騎士団に貸しを作ると言う当初の目的も、一応達成されたわけだ。
宿へ戻り、遅い夕食かつ早すぎる朝食を二人で取る。俺がどうして庭から男主人の骸骨を掘り起こしてきたのかと聞くと、ローラン様はスープを匙で掬いながら「絵に戻したって、一時しのぎだろ」と答えた。
「ちゃんと解決してやらないと、また夫を探して同じことを繰り返す」
なるほど……。それにしても、どうして絵を照らしても幽霊を退治できなかったのか。予定通りにいかず俺がいかに焦ったか、驚いたか。一生懸命あのときの感情を説明していると、ローラン様が頬杖をついて「相当怖かったんだな」と笑った。片方の眉をひょいっとあげて、意地の悪い表情だ。元の世界のローラン様はしない顔だったので、俺は思わず口を閉じて黙り込んだ。
「まあ、俺が魔法使いだからだろうな。普通の人間が火を灯しても意味がないんだろう」
そうなのか。ローラン様がとってくれた白いパンを千切りながら頷く。つまり、元の世界のローラン様も、目の前のローラン様と同じ力を持っていたということだ。俺はこっそりと目線だけでローラン様を窺った。長いまつげを伏せ、煮物から飾り程度のムラサキ豆をせっせと避けている。
応援ありがとうございます!
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