鳥類

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私は知らない

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  開いた廊下の窓から風と共にひらりと紅い葉が舞い込んできた。
 巻き上げられて顔にかかった髪を軽く指で払い、私は少しだけ顔を上げた。

「あっ、先生だ!」
「今日もカッコイイー!」
「ほんと、高校教師にしとくにはもったいないくらいだよねぇ。あ~いいなぁ、一組のヤツら」

 顔も知らない女子生徒たちがきゃっきゃと騒ぐ視線の先に、同じ制服を身にまとった女の子たちを引き連れて背の高い男性が歩いてくる。
 私はそっと廊下の柱の陰に寄り、集団が行き過ぎるのを待った。

「お前ら邪魔。ほら、次の授業があるだろ。早く行け」

 そう、周りの女生徒たちをいなす低い声が私の背中の方向へ去っていくのを確認した後、私は次の教室へと足を進めた。



「ただいま」
「お帰りなさい。食事はテーブルに用意してあります。食器は召し上がった後に流しに置いておいてください」

 ガチャリという開閉音とともに聞こえた低い声に応えてから椅子から立ち上がり、部屋へ行こうとした私の二の腕を、大きくてゴツイ手が掴んだ。

「ただいま、沙織」
「…お帰りなさい、先生」

 私がそういうと、二の腕を掴む手にさらに力がこもった。

「…お帰りなさい、幸司さん」

 言い直すと先生…もとい、幸司さんは満足そうに鼻を鳴らしてから私の腕を離し、着替えるためだろう、自分の部屋へと消えて行った。
 私も部屋へ帰ろうとして、ふと壁にかかったカレンダーへと目が移る。紙面の上に紅い色で書かれた11の字。
 あの日…私がここで暮らすようになったのも、この月だった。

 ―――廊下で見た紅い葉が一瞬瞼の裏に見えた気がした。



「あー、もう! あの先生手ごわい!」
「当たり前じゃん、生徒に手ぇ出したらソッコーブタ箱なんだから(笑)」

 今日も今日とて先生の周りには沢山の女子生徒。先生はとてもイケメンなのだそうで、この学校のほとんどの女子生徒を魅了しているのだそうだ。
 その中には、ここのマドンナと呼ばれている3組の田辺さん、密かに男子生徒たちの憧れの的になっている剣道部の沢渡さんも先生にご執心だとかで、先生が通り過ぎた後の廊下や教室で男子生徒たちの歯ぎしりが鳴り響いていることもしばしばだ。

「あたしだったらいいお嫁さんになれるんだけどなぁ~」
「バカ言いなさんな、あんた料理できないでしょうが」
「今から頑張れば卒業式までには完璧になれるわよ!」
「あと四ヶ月もないじゃん、無理無理(笑)」

 きっと卒業式には先生の周りには女子生徒が殺到してプロポーズ合戦が始まるのだろう。その中には目を見張るような美人さんもいるに違いない。まぁ関係ないけど。
 あちこちで繰り広げられる先生談義を横目に、私は静かに本を読む。
 ひと際大きな笑い声が響いた方へ目を向けると、茶髪ボブの女子生徒が刈り上げ短髪の男子生徒を追いかけており、周りにいるロングヘアの女子生徒や少し長めの髪の男子生徒も笑い声を上げているようだった。
 皆、思い思いに休憩時間を楽しんでいる。仲のいい友人と共に。

 まぁ、私にとっては…誰が誰だろうが同じなんだけども。



「沙織、ちょっと来てもらえるか?」

 寒さが厳しくなって、街が赤や緑で華やいでいるある日、先生が私をダイニングに呼んだ。テーブルの上には一枚の紙。そのほとんどはすでに書き込まれていた。

「…」
「卒業まで後三ヶ月切ったし、まだいつ提出するかは決めてないけど書いておいてくれる?」
「……はい」

 そっと紙を手に取り、部屋へ帰るために踵を返すと…後ろから抱きしめられた。

「…もうすぐ…あの家から解放されるよ」

 耳元に落とされた低い声に…私はそっと目を閉じた。


 *****



 ばしゃっ!!

 派手な水音と共に、全身が冷たい物に包まれた。呆然とその場に立ち尽くした私の周り、四方八方から笑い声が響いてくる。そのどれもが嘲りを含んでいる事に気づけない程愚鈍な子どもではなかった。
 私に対するいじめが始まったのは小学校三年生の時。一体何が原因だったのか、未だにわからないし、何より原因らしい原因など無かったのかもしれない、と今では思う。
 いじめの内容は段々苛烈になり、教師にもバレていじめを行った子たちには厳重注意がなされ、一時は終息した。が、また、今度は陰で行われるようになっていった。
 私の性格のせいもあるのかもしれないが、どうもターゲットにしやすかったらしく、メンバーを変えながらいつまで経っても私へのいじめは無くならなかった。
 そのうち小学校を卒業し、中学生になっても、手を変え品を変え人を変え…続いていった。
 いつまでも続く陰湿ないじめ。最初こそ声を上げ、泣き、訴え、抗ったが…現状は変わることは無く、次第に私は疲れ果てていった。

 そして…ある時気づいた。

 私をいじめている人たちの顔が…見えないことに。

 私を取り囲んで何かを喚いている人たちの顔が…のっぺらぼうになっていた。
 驚いた。
 驚いて、こっそり周りを見てみると、他の人たちものっぺらぼうになっていた。

 みんなみんな顔が無い。誰が誰だかわからない。
 私は混乱した。どうして…と思った。だけど、すぐに気づいた。

 誰が誰でも一緒だ、と。

 そう、別に区別をつける必要なんてない。誰が誰だろうと、私を助けてくれる人なんていないのだから。
 みんな、一緒だ。
 むしろ、あの蔑んだような表情を見なくて済むのだからマシになったような気がする。

 それに気づいた時、久しぶりにほっとした気持ちになったことを覚えている。

 結局、本当に困った事にはならなかった。
 人の顔以外は普通に認識できるので、家だってわかるし、声や仕草である程度個体認識できる。
 全然困らない。ただ、バレると面倒くさそうだから、知り合いを間違えないようにするため感覚が鋭くなった気はする。

 そうして変わらない日常が続いていた中三の夏…私のこの秘密はバレてしまうのだった。

 図書館へ行って、少しだけ買い物をしてからの帰り道。派手に転んだ私はカバンの中の物を道にぶちまけてしまった。
 ため息をつきながら地道に拾っていくが、ここは人通りも車通りも少ないため、街灯も少ない。薄暗くなった周囲は探し物をするには向かない状態だった。
 あらかた拾い終えたかな、と思い、周りを見渡そうと顔を上げた時、少し向こうにキーホルダーが落ちているのが見えた。
 当時気に入っていて、カバンにつけていた物だったので、無くさなくてよかった、と胸をなでおろしながらキーホルダーのところへと足を進めたその時…

 急に横から腕を掴まれて暗がりへと引っ張り込まれた

 何が起きたかさっぱりわからなかったが、左肩に激痛が走ったことで意識が引き戻された。

 眼前に、鈍く光るサバイバルナイフが突きつけられている。
 気づけば私は暗い道に引き倒され、何者かが馬乗りになっていた。

 荒々しい呼吸音。ゆっくりと振り上げられ、恐らく私の喉元へと狙いを定められたナイフ。きっと、笑ったのだろう、ふっ…と零された短い息。

 私は咄嗟に右手で顔と首を庇うようにしながら状態をひねった。私の上に乗っていた何者かは、いきなり動くと思わなかったのか、忌々しそうに舌打ちをし

「大人しくしろ!」

 と叫んで左手で私の肩を掴もうとしたから、思い切りその手を振り払おうとした私の右手が…相手のマスクを引っ掴んで外してしまった。
 相手は一瞬ひるんだが、すぐさま私を強く殴りつけ、ナイフを構え直したその時―――

「――っ貴様!! 何をしている!?」

 私の引きずり込まれた路地の入口辺りから別の男性の怒声が響き渡った。
 私の上に馬乗りになっていた誰かはさっと顔を隠して路地の奥へと走り去り、それを追おうと路地へと入ってきた足音は、結局私のすぐ横で止まった。

「きみっ! 大丈夫か!?」

 私を抱き起したその人は、警察の人らしい。あれよあれよという間に私は救急車に乗せられて近くの病院へと搬送され、刺された左肩と、あちこちに出来ていた打撲の治療を施されて、気づいたらそのまま眠っていた。
 翌日目を覚ましたらベッドの周りに駐在さんらしい制服を着た男性とスーツの男性、両親が来ており、色々と事情を聞かれた。
 駐在さんは昨日私を助けてくれた方らしい。
 日課の警邏中に道路端に置かれたカバンに気づき、近寄ったところで何か争う音を聞いて駆けつけてくれたそうだ。

「犯人のモンタージュ写真を作りたいから、協力してくれるかな?」

 優しい声が、私にそう告げた。

「ここ最近頻発していた通り魔事件と同一犯だと思われるんだ。だけど、ヤツは一度も顔を見られていない。一刻も早い犯人逮捕のためにもぜひ協力してもらいたい」

 話しているうちに興奮して来たのか、話方に段々と力がこもっていく。

 ―――私は、犯人のマスクを握りしめていたそうだ。

 一連の通り魔事件が同一犯だという見解の元でいえば、私は犯人の人相を見ているただ一人の被害者なのだ。
 警察が必死になるのもわかる。わかるのだが…

「…ごめんなさい…」

 私は、役に立つことができそうもありません―――。

 ショック過ぎて覚えてません、とか色々言葉をつくしてみたが、手を変え品を変え話を聞かれて、最終的には今後被害者を増やさないためにも! と半ば脅しかと思われるようなことまで言われて私はついに本当の事を言わざるを得なくなった。
 いわく、私は人の顔が認識できないのです、と。
 病室は別の意味で大騒ぎとなった。
 両親は狼狽えるし、医師は精神科医に連絡を取ります、といって去っていくし、警察は多分ポカンとしていたんじゃないかと思う。何となく雰囲気で。
 その後、色々と検査や聞き取りを経て、私の言っている事が事実だとわかった途端、警察の人たちは不機嫌そうに帰って行った。
 そして―――

 私は居場所が無くなった。

 今までは学校でいじめられていても、家に帰ればそれなりに快適だった。両親はどちらかと言えば私に無関心だったし。部屋でボーっとしていればよかった。
 なのに、秘密がバレてから、母は私に必要以上にかまうようになったかと思えば、どうしてちゃんと言ってくれなかったの?! といって責めたり、とにかく情緒不安定になってしまった。
 そしてそんな母を見かねたのか、父は段々と家に寄り付かなくなり、それを感じて母がまた私を責める…という悪循環。正直勘弁してほしかった。

 そんな時だった。私が先生に会ったのは。

「こんにちは、沙織ちゃん」

 久しぶりに母親からまともに声を掛けられ出かけた先で紹介された人。
 優しい低い声を聴きながら、舞い落ちる紅葉を見ていた。

「今日から、ぼくと暮らそう」

 こうして、私は先生と暮らすようになった。



 *****



「…」

 先程渡された一枚の紙を眺める。
 これに記入して提出・受理されれば、私はあの家から解放される。
 別に、両親が酷い人間だと思ってはいない。だって私をここまで生かしてくれているのだから。
 ただ、唯一息ができる場所だったところを台無しにしてくれたことだけは少し恨んでいる。

 ―――育ててやったのに! どうして私たちまで!! 薄情者!!

 私が人の顔を認識できなくなったことを知って荒れた母の言葉は、私にダメージを与えるには十分だった。
 ただ、母がそう言いたくなる気持ちもわかるから。せめて大切な人の顔くらい認識できていればよかったのに、と思う事はある。だからこそ…母は私に絶望したのだろう。

 鉛筆立てからボールペンを一本取り出す。
 静かな室内にペンを滑らせる音が落ちる。
 コトン、とボールペンを置いたと同時に、軽いノック音が聞こえた。

「沙織、入って良いか?」
「はい、どうぞ」

 かちゃり、とドアが開き、彼が入ってきた。

「書いてくれたんだな!」

 私の机の紙を見て、彼が嬉しそうに言う。
 私は、はい、と応えてその紙を彼に手渡した。

「卒業式の日に出しに行こう。それから、引っ越しの準備をしてくれないか?」
「…引っ越しですか…?」
「あぁ! 田舎の方へ引っ越そうかと思っているんだ。実はもう住む場所は決めていてな」

 先生は明るい声で今後の予定を告げていく。
 その声を聴きながら、私は先生の顔を見つめた。
 誰もが振り返る程の美形という…

 のっぺらぼうの、顔を。



 私は、直に高校を卒業する。進学はしない。就職もしない。
 そして、先生と、暮らす。
 今と、大して変わらない。

 ―――ただ、いつまでこの暮らしが続くのかは…知らない。

 後数年は続くかもしれないし、明日には終わるかもしれない。

 ねぇ、先生。もう私は覚悟はできているんだよ。あの時と違って、きっと抵抗したりしない。
 きっと気づいてるよね。

 私が、人をどうやって見分けているのかを。

 先生の声、好きだよ。お母さんの声だって好き。まぁ、最後辺りはヒステリックな声しか聴いてないからちょっと寂しい気がするけど。
 ねぇ、先生。

 私は『人の顔が認識できない』とは言ったけど、『人を認識できない』とは言ってないもんね。

 ねぇお母さん。私、お母さんの事を認識できない訳じゃなかったんだよ。
 だって私のお母さんだもん。
 結局そこは聞いてくれなかったけど。
 もう少し、ちゃんと話をすればよかったかな、と…思うこともあるけど、今更だね。

 ねぇ、先生。
 できれば、秋がいいな。
 それで、大きな紅葉があるところがいい。

 ああ、でも…一度だけでも…

 あなたの顔を見てみたかったかな。



 ―了―
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