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第三章 メロンパン大逃走
第四十八話 ご近所付き合い
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笠沼正太、小学五年生、十歳。
母・笠沼芽衣に女手一つで育てられた一人っ子。 温厚で人懐っこく、学校生活にも特に問題はない。クラスの人気者というわけではないが、浮くこともなく、数人の友達と穏やかな関係を築いていた。ゲームも外遊びも好きな、平均的な、しかし健やかさを感じさせる少年。 勉強もそこそこ。塾に通う予定もなく、難関校を目指すわけでもない。
「私は正太くんのお隣さんでね。芽衣さんと仲良くしてたら、いつの間にか正太くんのことまで任されちゃって」
小早志は窓の外を見つめながら、静かに語り始めた。和美がここにいたなら話すはずだったことを、今はその代わりに現れた奈菜に向けて。少し距離を取った位置で、奈菜はメロンパンを頬張りながら話を聞いていた。
「芽衣さん、仕事頑張ってるからさ。ちょっと帰りが遅くなる日が多いんだよね。でも、それでも夜の十時までには絶対帰るようにしてるんだって。正太くんを寂しくさせたくないからって」
その努力を知っているからこそ、小早志は苦しかった。けれど──やっぱり、子どもを一人で待たせる時間ができてしまうのは否めなかった。そこで自然と、隣人である小早志家が頼られるようになった。
「私が芽衣さんと仲良くなって、うちのお母さんも一緒に話すようになって……なんとなく家族ぐるみの付き合い、って感じになったんだよね。長い時間が経つうちに、芽衣さんも正太くんも、私にとってはもう“家族”みたいに思えてきてさ」
深く息を吸う。その先にある話は、口に出すことに躊躇いがあった。けれど、それでも言葉にしなければならない。
「だからさ、変化に気づいちゃうんだよ。正太くん、最近さ……学校から帰ってこないの。芽衣さんが帰ってくる直前まで、家に戻ってないの」
「んーと、それは……友達と遊んでて帰りが遅くなってるだけ、ってことはないんですか? 確かに小学生にしては遅いかもしれないけど、“無い話”ってわけでも……例えば、年上の友達に誘われて、ちょっとした夜遊びとか」
口に含んだメロンパンを一度飲み込みながら、奈菜は否定のための可能性を並べた。わかっている。そんなことではないと。姉──花菜が実際に対峙した報告もある。和美が命懸けでぶつかった事実もある。
それでも、自分自身に言い聞かせるように──面倒な真実から目を逸らしたくて。目の前の後輩が、かつての“家族同然”の少年が、殺人鬼だなどという面倒に巻き込まれたくなくて。
「先輩は、この流れでそういうオチだと思うんですか?」
小早志の声が、感情を押し込めきれずに滲む。和美の代役。伝言係。そんな役割を果たすために現れた奈菜に、正直、失望しかけていた。この人も、結局は傍観者なのか、と。
「……違うと思ってる。私も。正太くんが、ただの夜遊び少年だなんて──思いたくても、思えない。残念ながら」
奈菜の瞳が揺れていた。その胸の奥底でざわめく嫌な予感が、はっきりと形を成してしまった事実が、彼女の声を震わせた。
「──悲惨。きっと、それが“結末”なんだと思う」
その言葉に、小早志が息を呑んで奈菜を見た。
「小早志さん。もう、正太くんを追うのはやめてください。……彼は、もう三人を殺した殺人鬼です。おそらく、それも……快楽殺人。彼は、人を殺すことに快感を覚えている」
さっきまでメロンパンをかじっていた少女とは思えない口調。 奈菜は、悲痛な顔で言葉を継いだ。
「そんな彼を止めるなんて、もう“知り合い”の言葉じゃ無理なんです」
「……警察に通報するんですか? でも、証拠は? 私は……勘で言ってるだけで……正太くんが殺人鬼だなんて、証明できない……」
小早志は、思わず口を閉ざした。証拠がない。それは事実だった。通り魔事件が続いたあと、自分なりに探ったことがある。笠沼家を訪ね、正太の部屋も覗いた。だが──決定的なものは見つからなかった。白でも黒でもない、どちらつかずのまま。それでも、何かが引っかかって離れなかった。三件目の事件が起きたとき、小早志は思った。
──ああ、まただ。
「警察には通報しません。もう、その段階は過ぎてしまってます。彼のことは──祓うしかないんです」
「祓う……?」
奈菜の言葉は小早志にはすんなりと頭に入るものではなかった。
通報を越える段階、祓うしかない。何を言っているのだろうか。
「笠沼正太は──鬼と化そうとしています」
聞き返そうとしたが、小早志の中で、どこか“納得”している自分に気づいてしまった。 正太が“鬼”になる。それは、空想のようで、どこか現実のような響きを持っていた。
心のどこかで──にこやかに笑っていた、あの正太はもう“いない”のだと、理解してしまっていた。
あの少年の面影は、笑顔の残像ごと、黒く染まって消えていった。
母・笠沼芽衣に女手一つで育てられた一人っ子。 温厚で人懐っこく、学校生活にも特に問題はない。クラスの人気者というわけではないが、浮くこともなく、数人の友達と穏やかな関係を築いていた。ゲームも外遊びも好きな、平均的な、しかし健やかさを感じさせる少年。 勉強もそこそこ。塾に通う予定もなく、難関校を目指すわけでもない。
「私は正太くんのお隣さんでね。芽衣さんと仲良くしてたら、いつの間にか正太くんのことまで任されちゃって」
小早志は窓の外を見つめながら、静かに語り始めた。和美がここにいたなら話すはずだったことを、今はその代わりに現れた奈菜に向けて。少し距離を取った位置で、奈菜はメロンパンを頬張りながら話を聞いていた。
「芽衣さん、仕事頑張ってるからさ。ちょっと帰りが遅くなる日が多いんだよね。でも、それでも夜の十時までには絶対帰るようにしてるんだって。正太くんを寂しくさせたくないからって」
その努力を知っているからこそ、小早志は苦しかった。けれど──やっぱり、子どもを一人で待たせる時間ができてしまうのは否めなかった。そこで自然と、隣人である小早志家が頼られるようになった。
「私が芽衣さんと仲良くなって、うちのお母さんも一緒に話すようになって……なんとなく家族ぐるみの付き合い、って感じになったんだよね。長い時間が経つうちに、芽衣さんも正太くんも、私にとってはもう“家族”みたいに思えてきてさ」
深く息を吸う。その先にある話は、口に出すことに躊躇いがあった。けれど、それでも言葉にしなければならない。
「だからさ、変化に気づいちゃうんだよ。正太くん、最近さ……学校から帰ってこないの。芽衣さんが帰ってくる直前まで、家に戻ってないの」
「んーと、それは……友達と遊んでて帰りが遅くなってるだけ、ってことはないんですか? 確かに小学生にしては遅いかもしれないけど、“無い話”ってわけでも……例えば、年上の友達に誘われて、ちょっとした夜遊びとか」
口に含んだメロンパンを一度飲み込みながら、奈菜は否定のための可能性を並べた。わかっている。そんなことではないと。姉──花菜が実際に対峙した報告もある。和美が命懸けでぶつかった事実もある。
それでも、自分自身に言い聞かせるように──面倒な真実から目を逸らしたくて。目の前の後輩が、かつての“家族同然”の少年が、殺人鬼だなどという面倒に巻き込まれたくなくて。
「先輩は、この流れでそういうオチだと思うんですか?」
小早志の声が、感情を押し込めきれずに滲む。和美の代役。伝言係。そんな役割を果たすために現れた奈菜に、正直、失望しかけていた。この人も、結局は傍観者なのか、と。
「……違うと思ってる。私も。正太くんが、ただの夜遊び少年だなんて──思いたくても、思えない。残念ながら」
奈菜の瞳が揺れていた。その胸の奥底でざわめく嫌な予感が、はっきりと形を成してしまった事実が、彼女の声を震わせた。
「──悲惨。きっと、それが“結末”なんだと思う」
その言葉に、小早志が息を呑んで奈菜を見た。
「小早志さん。もう、正太くんを追うのはやめてください。……彼は、もう三人を殺した殺人鬼です。おそらく、それも……快楽殺人。彼は、人を殺すことに快感を覚えている」
さっきまでメロンパンをかじっていた少女とは思えない口調。 奈菜は、悲痛な顔で言葉を継いだ。
「そんな彼を止めるなんて、もう“知り合い”の言葉じゃ無理なんです」
「……警察に通報するんですか? でも、証拠は? 私は……勘で言ってるだけで……正太くんが殺人鬼だなんて、証明できない……」
小早志は、思わず口を閉ざした。証拠がない。それは事実だった。通り魔事件が続いたあと、自分なりに探ったことがある。笠沼家を訪ね、正太の部屋も覗いた。だが──決定的なものは見つからなかった。白でも黒でもない、どちらつかずのまま。それでも、何かが引っかかって離れなかった。三件目の事件が起きたとき、小早志は思った。
──ああ、まただ。
「警察には通報しません。もう、その段階は過ぎてしまってます。彼のことは──祓うしかないんです」
「祓う……?」
奈菜の言葉は小早志にはすんなりと頭に入るものではなかった。
通報を越える段階、祓うしかない。何を言っているのだろうか。
「笠沼正太は──鬼と化そうとしています」
聞き返そうとしたが、小早志の中で、どこか“納得”している自分に気づいてしまった。 正太が“鬼”になる。それは、空想のようで、どこか現実のような響きを持っていた。
心のどこかで──にこやかに笑っていた、あの正太はもう“いない”のだと、理解してしまっていた。
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