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第四章 くるみパン大人形
第五十五話 通学路を歩いていく
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一階へと続く階段を、矢附は静かに降りていく。
エレベーターは使わない。高校に入ってから始めた部活動のため、ささやかな体力づくりの一環として、階段を選ぶようにしていた。
──そもそも、どうして自分がバレーボール部に入ったのか。
その理由は、靄がかかったようにはっきりしない。けれど、こうして階段を選ぶ習慣だけは、身体が自然に覚えていた。足が迷いなく運ぶあたり、思考よりも習慣が先に根付いているらしい。
そんな矢附の後ろを、瀬名が何も言わずについてくる。まるで当然かのように。
思えば、矢附がこうして階段を使うようになったのも、最初は瀬名の真似だった気がする。
マンションから坂進高校までは、歩いて十五分ほど。そこまで遠い距離ではない。
母親からは「自転車にすれば?」と何度か勧められたが、これも体力づくりの一環ということで徒歩通学を続けている。
それに、矢附には自転車に対してほんの少し、苦手意識がある。
乗れるようになったのは中学に入ってからと、少し遅めだった。周囲の友人たちが小学生のうちからスイスイと乗っているなか、自分は何度も転んで、擦り傷をつくって、ようやくのデビュー。
乗れたこと自体は嬉しかった。けれどそれ以上に、自分が「運動音痴」であることが、あらためて突きつけられたようで……それが、どこか恥ずかしかった。だから、使う機会も自然と減ってしまった。
坂進高校は、その名の通り坂の上に建っている。
登り道では何度も足を止めてしまいそうになるし、もし自転車だったら、途中で押して歩くことになりそうだ。
帰り道の下り坂に至っては、スピードが出すぎて恐怖すら感じる。母親が「電動自転車でも買おうか?」と提案してくれたこともあるけれど、いくら登りをアシストしてくれても、下りの恐怖までは和らげてくれない。
「眠たいのは難点だけどさ。朝のこの道、けっこう好きなんだよねぇ」
何度目かの欠伸を噛み殺しながら、瀬名がぽつりと言った。
「車も少ないし、静かだし。公園から鳥のさえずりも聞こえてくるし……秋の鳥って、なんだっけ?」
矢附は少しだけ首をかしげた。
携帯で検索して答えることもできるけれど、そこまでするほどの話でもない。結局、ポケットに手を入れたままやめてしまった。
通学路は、住宅街を抜けた先にある、中央に大きな池を抱えた円形の「ドーナツ公園」の周囲を歩く道だ。
矢附の中で「公園」といえば、滑り台やブランコ、鉄棒や砂場のあるこぢんまりとした空間だった。けれど、この「ドーナツ公園」は小山と小さな墓地を含んだ、ずいぶん広い範囲を指すらしい。
正式な名称もあるはずだが、何度聞いても覚えられない。入口の看板に書かれていた気もするけれど、それをまじまじと読んだ記憶もない。
「瀬名さんって、朝練あるときはここ走って登校してるんだよね?」
「んー、ウォーミングアップも兼ねて、ね。……というか、正確に言えば“寝起きが悪い”のよ、私。朝練に出るにしても、ストレッチとか、準備がないと全然動けなくてさ」
「でもそれでも走るって、すごいよ。私なんて朝から走ったら、すぐに息切れしてへばっちゃう。朝練もまだまだついていけないし……」
バレーボール部の朝練は、放課後の短縮された練習時間を補うために行われている。
一年生のなかには、朝練で疲れ果てて午前中の授業中ずっと寝ている、なんて話もよく聞く。
高校に入ってからの“部活デビュー”だった矢附にとっては、まだとてもじゃないけれど参加し続けられるものではなかった。
幸い、先輩たちもそのことを理解してくれているのか、朝練の出席率が低くても、とやかく言われることはなかった。
「矢附は、もう少し基礎体力が欲しいところかな。放課後の練習でヒーヒー言わなくなったら、朝練も考えてみたら?」
「“ヒーヒー”って……。めっちゃ情けない響きなんだけど、それが事実ってところが余計にしんどいよね……」
放課後の練習が終わった後、体はいつもクタクタに疲れている。
そんな状態で、下り坂の自転車なんてとても乗りこなせない。
だから、ゆっくり歩いて帰るのがちょうどいい。疲労を冷ましながら、自分のペースで帰る。それが、今の矢附にはぴったりだった。
「でもさ、そうやってゆっくりでも体力つけて、来年には試合出場を目指せばいいじゃない?」
「……急にハードル上がった気がするんだけど?」
「せっかく部に入ったんだし、そういう“目標”があった方が楽しくない? ただ言われるがままに居るだけって、面白くないよ。矢附」
その言葉を、瀬名は何気なく口にした。
バレーボール部の先輩としてアドバイスをしたつもりもなければ、友情として手を差し伸べたつもりもない。ただ、自分がそうしてきたから。
目標があるから努力して、試合に出て、結果を出す。
だから矢附も、そうであればいいと──本当に、何の気なしに言ったのだ。
ああ。
そうだ。
この人って、そういう人だった。
その言葉に、矢附は胸の奥を鋭く刺されたような気がした。
目標もなく、言われるがままに居る。
自分の意思もなく、ただ、流されるように過ごす。
それは──何の話だろう。
手を差し出されるのを、待っていたことか?
差し出された手を、ただ無意識に掴んでしまったことか?
……それとも。
もっとずっと前から、何もかもを、自分で決められていなかったことか?
そのどれもが、今の矢附の胸に、小さな棘のように突き刺さっていた。
エレベーターは使わない。高校に入ってから始めた部活動のため、ささやかな体力づくりの一環として、階段を選ぶようにしていた。
──そもそも、どうして自分がバレーボール部に入ったのか。
その理由は、靄がかかったようにはっきりしない。けれど、こうして階段を選ぶ習慣だけは、身体が自然に覚えていた。足が迷いなく運ぶあたり、思考よりも習慣が先に根付いているらしい。
そんな矢附の後ろを、瀬名が何も言わずについてくる。まるで当然かのように。
思えば、矢附がこうして階段を使うようになったのも、最初は瀬名の真似だった気がする。
マンションから坂進高校までは、歩いて十五分ほど。そこまで遠い距離ではない。
母親からは「自転車にすれば?」と何度か勧められたが、これも体力づくりの一環ということで徒歩通学を続けている。
それに、矢附には自転車に対してほんの少し、苦手意識がある。
乗れるようになったのは中学に入ってからと、少し遅めだった。周囲の友人たちが小学生のうちからスイスイと乗っているなか、自分は何度も転んで、擦り傷をつくって、ようやくのデビュー。
乗れたこと自体は嬉しかった。けれどそれ以上に、自分が「運動音痴」であることが、あらためて突きつけられたようで……それが、どこか恥ずかしかった。だから、使う機会も自然と減ってしまった。
坂進高校は、その名の通り坂の上に建っている。
登り道では何度も足を止めてしまいそうになるし、もし自転車だったら、途中で押して歩くことになりそうだ。
帰り道の下り坂に至っては、スピードが出すぎて恐怖すら感じる。母親が「電動自転車でも買おうか?」と提案してくれたこともあるけれど、いくら登りをアシストしてくれても、下りの恐怖までは和らげてくれない。
「眠たいのは難点だけどさ。朝のこの道、けっこう好きなんだよねぇ」
何度目かの欠伸を噛み殺しながら、瀬名がぽつりと言った。
「車も少ないし、静かだし。公園から鳥のさえずりも聞こえてくるし……秋の鳥って、なんだっけ?」
矢附は少しだけ首をかしげた。
携帯で検索して答えることもできるけれど、そこまでするほどの話でもない。結局、ポケットに手を入れたままやめてしまった。
通学路は、住宅街を抜けた先にある、中央に大きな池を抱えた円形の「ドーナツ公園」の周囲を歩く道だ。
矢附の中で「公園」といえば、滑り台やブランコ、鉄棒や砂場のあるこぢんまりとした空間だった。けれど、この「ドーナツ公園」は小山と小さな墓地を含んだ、ずいぶん広い範囲を指すらしい。
正式な名称もあるはずだが、何度聞いても覚えられない。入口の看板に書かれていた気もするけれど、それをまじまじと読んだ記憶もない。
「瀬名さんって、朝練あるときはここ走って登校してるんだよね?」
「んー、ウォーミングアップも兼ねて、ね。……というか、正確に言えば“寝起きが悪い”のよ、私。朝練に出るにしても、ストレッチとか、準備がないと全然動けなくてさ」
「でもそれでも走るって、すごいよ。私なんて朝から走ったら、すぐに息切れしてへばっちゃう。朝練もまだまだついていけないし……」
バレーボール部の朝練は、放課後の短縮された練習時間を補うために行われている。
一年生のなかには、朝練で疲れ果てて午前中の授業中ずっと寝ている、なんて話もよく聞く。
高校に入ってからの“部活デビュー”だった矢附にとっては、まだとてもじゃないけれど参加し続けられるものではなかった。
幸い、先輩たちもそのことを理解してくれているのか、朝練の出席率が低くても、とやかく言われることはなかった。
「矢附は、もう少し基礎体力が欲しいところかな。放課後の練習でヒーヒー言わなくなったら、朝練も考えてみたら?」
「“ヒーヒー”って……。めっちゃ情けない響きなんだけど、それが事実ってところが余計にしんどいよね……」
放課後の練習が終わった後、体はいつもクタクタに疲れている。
そんな状態で、下り坂の自転車なんてとても乗りこなせない。
だから、ゆっくり歩いて帰るのがちょうどいい。疲労を冷ましながら、自分のペースで帰る。それが、今の矢附にはぴったりだった。
「でもさ、そうやってゆっくりでも体力つけて、来年には試合出場を目指せばいいじゃない?」
「……急にハードル上がった気がするんだけど?」
「せっかく部に入ったんだし、そういう“目標”があった方が楽しくない? ただ言われるがままに居るだけって、面白くないよ。矢附」
その言葉を、瀬名は何気なく口にした。
バレーボール部の先輩としてアドバイスをしたつもりもなければ、友情として手を差し伸べたつもりもない。ただ、自分がそうしてきたから。
目標があるから努力して、試合に出て、結果を出す。
だから矢附も、そうであればいいと──本当に、何の気なしに言ったのだ。
ああ。
そうだ。
この人って、そういう人だった。
その言葉に、矢附は胸の奥を鋭く刺されたような気がした。
目標もなく、言われるがままに居る。
自分の意思もなく、ただ、流されるように過ごす。
それは──何の話だろう。
手を差し出されるのを、待っていたことか?
差し出された手を、ただ無意識に掴んでしまったことか?
……それとも。
もっとずっと前から、何もかもを、自分で決められていなかったことか?
そのどれもが、今の矢附の胸に、小さな棘のように突き刺さっていた。
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