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俺は元々、この砂漠の放浪者だった。生まれ故郷で罪を犯して、この砂漠に流罪になった。わずかな食糧とわずかな水、それだけが俺の荷物だった。この砂漠で唯一の。実質死罪みたいなものだ。
行く当てもなく歩いた俺は、やがて砂漠で行き倒れになった。生きたくて盗みを働いた。結果こんな所に送られた。どんなに生きたいと思っても、どうせ死ぬしか道はなかった。そんなことを思いながらついに死ぬはずだった。
「大丈夫か」
そんな時、俺に声を掛けて、手を差し伸べてくれたのが先生だった。先生は俺より年上の女で、肌は赤銅色に焼けていたから詳しい年はわからなかったが、それでも俺より少しばかり年上の女に見えた。先生は俺に水を飲ませて、女だてらに俺を担いで、砂山が日陰を作っている場所まで俺を運んでくれた。そして、日陰に寝かせた俺に、再度水を飲ませてくれた。
「ア、アンタは」
「無理に喋るな。今は生きることだけを考えろ。大丈夫だ。生きることを諦めなければ、私がお前を助けてやるから」
それが、俺と先生の出逢いだった。
先生は付きっきりで俺の看病をしてくれた。水を飲ませ、薬を飲ませ、食事を摂らせ……俺は生き永らえることができた。夜になり、先生は火を起こし、俺はその短い間に、生涯掛けても返し切れない程の大きな恩を受けた。俺は夕食を頂いた後、砂に頭を擦り付けた。
「先生、ありがとうございます。このご恩は一生忘れません」
「先生じゃないさ、私は」
「しかし、貴女は医者の先生ではないですか? その棺桶のような大きな荷物に入っているのは薬ですよね?」
俺は先生の後ろにあった棺桶のような荷に視線をやった。そうだ、この棺桶だ。これは先生のものだったんだ。先生は俺の言葉に、何故だか苦笑いを浮かべていた。それからしばらく間を置いて、俺の言葉に応えてくれた。
「確かに入っているのは薬だが、私は医者なんてものではないさ」
「では、何故そんなものを」
「うん……罪滅ぼしかな」
それ以上の言葉はなかった。言いたくなさそうだったから、俺もそれ以上は聞かなかった。だが、黙っていると、何か話したくなってしまう。だから俺は、先生にこんなことを尋ねてみた。
「先生は、どうして、俺を助けてくださったのですか?」
「それは、お前が行き倒れていたからさ」
「俺が何者かもわからないのに?」
「何者かわからなくても、行き倒れていたら助けるさ」
「俺が極悪人ならどうするんですか」
「極悪人?」
「俺が救う価値もない命だったらどうするのですか、という意味です。せっかく救っても、罪しか犯さないような、救うべきでない命であったら先生はどうなさるのですか」
先生はしばし口ごもり、しかし俺は、その後に続くはずの言葉を聞くことはできなかった。先生が、凄まじい形相で急に俺に飛び掛かり、そして俺を抱き締めたままずるりと崩れ落ちたからだ。崩れた先生の身体には矢が二本刺さっていた。砂漠に潜んでいた野盗が、先生を射ったのだとわかった。そして先生が、俺を庇って死んだことも。
だから俺はこうして、先生の荷を引き継いで、先生のやろうとしていたことをやっているんだ。俺は医者でも聖人でもないが、それでも、少しだけでもいいから、俺は救う価値のある命だったと先生に思ってほしくて」
「いや素晴らしい」
男は、青年の言葉を遮り、パチパチと手を叩いた。その音は火花の散るパチパチの音に紛れていた。星はまだ綺麗だった。砂漠はずっと暗いままだ。
「兄ちゃん、いや医者の先生、アンタはやっぱり立派な医者の先生で、立派な聖人君子様だ。そんなご立派なことなかなかできるもんじゃねえ」
「医者でも聖人でもない、俺は」
「いいやアンタは立派な人さ。少なくとも俺よりはな!」
突然、男は隠し持っていたナイフを青年へと繰り出した。青年は咄嗟に刃を躱し、先程命を助けてやったばかりの男と対峙する。
「何のつもりだ」
「いやあ、兄ちゃん、アンタは立派だ。アンタは本当に立派な人だ。その立派なお人からよォ、今後も生きていくための糧を頂戴しようと思っただけさ。だって俺もこれからも生きていかなきゃいけねえからな。だからよ兄ちゃん、医者の先生、ご立派な聖人君子様、その棺桶の中身を俺にお恵みくださらねえか? 俺が生きていくためだ。俺の命を救ってくださったんだ、その後の命も当然お救いくださるよな?」
「俺が荷物を与えたら、お前はそれをどうするんだ?」
男は刃を構えたまま、そうだなと視線を巡らせた。刃は青年に向けたまま。そして、にんまりとこう答えた。
「決まっているな。まずはこの砂漠を抜けるだろ? そして荷物を売り捌くだろ? その金で酒を飲んで、肉も買ってたらふく食って、そして金が尽きちまったら、通りすがりの他人を殺してソイツの金を奪うのさ。そうやって俺は生きてきた。ドジを踏んでこんな砂漠に流されてしまったが、もうドジは踏まねえさ。だから俺を救ってくれよ聖人君子!」
男は脚を踏み出し、治してもらった脚を踏み出し、青年へと斬りかかった。青年はすんでの所で再び刃を躱しながら、救った男に問い続ける。
「良心は痛まないのか」
「痛まないね! 何故他人の不幸に心を痛めにゃならねぇんだ? 俺は悪人だからよぉ、聖人君子じゃねえからよぉ、聖人君子を殺してもちっとも心は痛まねぇなぁ! むしろその荷物を、俺が生きるという素晴らしい目的のために使ってやろうとしてるんだぜ? それは素晴らしいことだろう? 人の命を救うことはなんでも素晴らしいことだろう? アンタの崇拝する先生もきっとそう仰るはずだぜ!」
男はまたナイフを突き出し、青年はさらに後退した。渇き切った目で、渇き切った声で、最後通告のように再度男に問い掛ける。
「だがお前を生かしたら、お前は人を殺すんだろう?」
「そうさ。だが、それがどうした? 俺という命を生かすためだ、そのために人を殺すのは仕方のないことじゃないか!?」
歪んだ笑いを浮かべながら、三度襲い掛かってきた男に、青年は左手を添えるようにして刃ごと軌道を逸らした。そして同時に右手に持っていた細い何かを、何を躊躇うこともなく男の首に叩き込んだ。
「ガッ!」
衝撃に、男は反撃しようとしたが、男の身体は力を無くし、ガクリとその場に崩れ落ちた。男の首に針を突き刺した青年は、砂の上に落ちていた男のナイフを拾い上げた。目を白黒させている男に、青年が渇いた声で言う。
「お前の首に、神経毒を注入した。今は身体が動かないだけだが、直に肺にも回って呼吸困難になって死ぬ。だが一度助けたよしみだ、苦しむ前に殺してやる」
「な、何故……」
「何故? それは何に対しての何故だ? お前を殺すことに対しての何故か? だったら質問に答えてやろう。俺がお前を殺すのは、お前を救う価値のない命だと判断したからだ」
その声には何もなかった。温度も、高揚も、恐れも、感情らしいものは何もなく、ただそうするべきだからそうする、といった音しか聞こえなかった。青年は、拾い上げたナイフを綺麗に布で拭きながら、先程助けた、そして今殺そうとしている男の問いに応えてやる。
「お前は先程俺に聞いたな? せっかく救った命が、他の善良な命を奪うクソ外道の命だったら、その時聖人君子ってヤツはどう責任を取るんだ、と。俺は聖人君子ではないので、お前の問いに完全に答えることはできないが、少なくとも、俺はこう思う。せっかく救った命が、他の善良な命を奪うクソ外道の命だったら、その時は責任を持って救った命を殺すべきだと。もしも俺が救ったことで、他の善良な命が犠牲になることがあったとしたら、俺には何の責任もないとどうして言うことができるだろう。だから俺は、一度は俺の救った命が、救う価値のない命であったと判断した場合には、救おうとした責任を取って、その命をこの手で殺す」
人間らしいものなどただのひとつも感じられない声だった。温度もない。湿度もない。ただ冷え切り、そしてひたすらに渇き切った声だった。男は、毒を打ち込まれた男はここでようやく震え上がり、自由にならない身体で必死の思いで懇願した。
「わ、悪かったよ。悔い改める。もう襲ったりしないからどうか」
「それを俺が信じるとでも?」
「し、信じてくれるさ。だってアンタは医者で、俺を救ってくださったじゃないか」
「俺は医者ではないと言っている」
「ア、アンタの先生はどうだ。アンタの先生は、人の命を奪うようなことをお許しくださるのか」
「わからない。その答えを聞く前に、先生は死んでしまった。だがわからなくても、お前を野放しにしてしまうのは間違いではないかと思う。だから」
男はそれでも何か言葉を絞り出そうと足掻いたが、毒は男の肺を冒し始めたようだった。口をパクパクさせる男を見て、青年は男の背後に回り、男の頭を掴み、砂漠に押し付け、男が取り落としたナイフを男の首元へと定める。
「約束したからな。これ以上苦しむ前に、せめて楽に殺してやる」
男は考えた。考えて、考えて、考えて、考えた。死にたくない。生きたい。悪人だって、生きていたい。だから、最後の息を振り絞って、男は渾身の力で叫んだ。
「人殺し! お前はただの人殺しだ! 命を弄んでいるだけの、血生臭ぇただの人殺しだ! 一度は手を出して生かしておいて、やはり生かす価値がないと思えば容易く殺すのが正しいのか? お前に人を殺す権利があるとでも思っているのか? ええ!?
だとしたらお前は無駄なことをしているな。自分で生かして自分で殺して、結局お前は何ひとつ救ってなんざいねぇじゃねえか。これからもそうやってお前は殺し続けるんだ。人を一度殺しておいて、歯止めが利くわけねえからな。お前はただの人殺しだ。俺や、お前の先生とやらを殺した連中と変わらねぇ、人を殺すことなんざなんとも思わねぇ、ただの薄汚ない人殺しだ!」
それは、生きたいが為に並べられた、苦し紛れの足掻きだったが、青年の動きを止め、顔を歪ませるには十分だった。初めて、痛ましく、戸惑い気味に、苦悶を浮かべた青年から、悪人は身を捩ってなんとか逃げ出そうとする。
だが、そんな暇はなかった。青年は、苦悶の表情を浮かべたのはわずかに一瞬だけのことで、すぐにその表情と眼は、砂のように渇き切った。そして、殺すべき命をしかと見定め、躊躇いもなくナイフを振り上げ、
「そうだ、俺は人殺しだ」
刃は、一分の狂いもなく、あるべき場所にあるように男の首に叩き込まれた。男は砂に崩れ落ち、青年はできたばかりの死体を無感情に眺めていた。それから、棺桶型の荷を開き、穴掘り道具を取り出すと、死体を埋めるための穴を死体の傍で掘り始めた。一人黙々と作業を続け、ようやく穴ができた後、冷たくなった死体を穴の底へと転がした。砂を戻すと、何処に死体を埋めたのかはもうわからなくなってしまった。
荷物を片付け、出発の準備ができてから、青年は膝をつき、目指すべきものなど何もない天と地の間を眺めた。そして今しがた殺した命でも、神でもないものに語り掛けた。彼がこの世で唯一、今も信じているものに。
「先生、俺は今日、三つの命を救いました。救う価値があるかもしれないと思ったから命を救い、けれどその命は救う価値がなかったので、救おうとした責任を取ってその全てを殺しました。先生、あなたはどうしますか。先生、あなたならどうしましたか。先生、俺は間違っていますか。先生。
俺は救う価値のある命でしたか?」
青年はしばらく待った。だが、何の音も聞こえなかった。風の音さえも。ただ荒涼とした、渇いた砂だけが、跪く青年の前に遠く広がるだけだった。青年はそれからも、己に応えてくれる声がないかとしばらくの間待っていたが、やがて悲しげに立ち上がった。しかし涙は出ない。水の膜が張ることもない。その瞳は何処までも、何処までも渇き切っている。
青年は棺桶を引きずって、また砂漠を歩き始めた。空は白み掛けている。どんな夜にも朝は来る。明けない夜など存在しない。だが夜が明け、朝が来て、世界が光に包まれても、青年の前には果てのない砂漠だけが広がっている。
人殺しはまた歩き始める。
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「ア、アンタは」
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先生は付きっきりで俺の看病をしてくれた。水を飲ませ、薬を飲ませ、食事を摂らせ……俺は生き永らえることができた。夜になり、先生は火を起こし、俺はその短い間に、生涯掛けても返し切れない程の大きな恩を受けた。俺は夕食を頂いた後、砂に頭を擦り付けた。
「先生、ありがとうございます。このご恩は一生忘れません」
「先生じゃないさ、私は」
「しかし、貴女は医者の先生ではないですか? その棺桶のような大きな荷物に入っているのは薬ですよね?」
俺は先生の後ろにあった棺桶のような荷に視線をやった。そうだ、この棺桶だ。これは先生のものだったんだ。先生は俺の言葉に、何故だか苦笑いを浮かべていた。それからしばらく間を置いて、俺の言葉に応えてくれた。
「確かに入っているのは薬だが、私は医者なんてものではないさ」
「では、何故そんなものを」
「うん……罪滅ぼしかな」
それ以上の言葉はなかった。言いたくなさそうだったから、俺もそれ以上は聞かなかった。だが、黙っていると、何か話したくなってしまう。だから俺は、先生にこんなことを尋ねてみた。
「先生は、どうして、俺を助けてくださったのですか?」
「それは、お前が行き倒れていたからさ」
「俺が何者かもわからないのに?」
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「俺が極悪人ならどうするんですか」
「極悪人?」
「俺が救う価値もない命だったらどうするのですか、という意味です。せっかく救っても、罪しか犯さないような、救うべきでない命であったら先生はどうなさるのですか」
先生はしばし口ごもり、しかし俺は、その後に続くはずの言葉を聞くことはできなかった。先生が、凄まじい形相で急に俺に飛び掛かり、そして俺を抱き締めたままずるりと崩れ落ちたからだ。崩れた先生の身体には矢が二本刺さっていた。砂漠に潜んでいた野盗が、先生を射ったのだとわかった。そして先生が、俺を庇って死んだことも。
だから俺はこうして、先生の荷を引き継いで、先生のやろうとしていたことをやっているんだ。俺は医者でも聖人でもないが、それでも、少しだけでもいいから、俺は救う価値のある命だったと先生に思ってほしくて」
「いや素晴らしい」
男は、青年の言葉を遮り、パチパチと手を叩いた。その音は火花の散るパチパチの音に紛れていた。星はまだ綺麗だった。砂漠はずっと暗いままだ。
「兄ちゃん、いや医者の先生、アンタはやっぱり立派な医者の先生で、立派な聖人君子様だ。そんなご立派なことなかなかできるもんじゃねえ」
「医者でも聖人でもない、俺は」
「いいやアンタは立派な人さ。少なくとも俺よりはな!」
突然、男は隠し持っていたナイフを青年へと繰り出した。青年は咄嗟に刃を躱し、先程命を助けてやったばかりの男と対峙する。
「何のつもりだ」
「いやあ、兄ちゃん、アンタは立派だ。アンタは本当に立派な人だ。その立派なお人からよォ、今後も生きていくための糧を頂戴しようと思っただけさ。だって俺もこれからも生きていかなきゃいけねえからな。だからよ兄ちゃん、医者の先生、ご立派な聖人君子様、その棺桶の中身を俺にお恵みくださらねえか? 俺が生きていくためだ。俺の命を救ってくださったんだ、その後の命も当然お救いくださるよな?」
「俺が荷物を与えたら、お前はそれをどうするんだ?」
男は刃を構えたまま、そうだなと視線を巡らせた。刃は青年に向けたまま。そして、にんまりとこう答えた。
「決まっているな。まずはこの砂漠を抜けるだろ? そして荷物を売り捌くだろ? その金で酒を飲んで、肉も買ってたらふく食って、そして金が尽きちまったら、通りすがりの他人を殺してソイツの金を奪うのさ。そうやって俺は生きてきた。ドジを踏んでこんな砂漠に流されてしまったが、もうドジは踏まねえさ。だから俺を救ってくれよ聖人君子!」
男は脚を踏み出し、治してもらった脚を踏み出し、青年へと斬りかかった。青年はすんでの所で再び刃を躱しながら、救った男に問い続ける。
「良心は痛まないのか」
「痛まないね! 何故他人の不幸に心を痛めにゃならねぇんだ? 俺は悪人だからよぉ、聖人君子じゃねえからよぉ、聖人君子を殺してもちっとも心は痛まねぇなぁ! むしろその荷物を、俺が生きるという素晴らしい目的のために使ってやろうとしてるんだぜ? それは素晴らしいことだろう? 人の命を救うことはなんでも素晴らしいことだろう? アンタの崇拝する先生もきっとそう仰るはずだぜ!」
男はまたナイフを突き出し、青年はさらに後退した。渇き切った目で、渇き切った声で、最後通告のように再度男に問い掛ける。
「だがお前を生かしたら、お前は人を殺すんだろう?」
「そうさ。だが、それがどうした? 俺という命を生かすためだ、そのために人を殺すのは仕方のないことじゃないか!?」
歪んだ笑いを浮かべながら、三度襲い掛かってきた男に、青年は左手を添えるようにして刃ごと軌道を逸らした。そして同時に右手に持っていた細い何かを、何を躊躇うこともなく男の首に叩き込んだ。
「ガッ!」
衝撃に、男は反撃しようとしたが、男の身体は力を無くし、ガクリとその場に崩れ落ちた。男の首に針を突き刺した青年は、砂の上に落ちていた男のナイフを拾い上げた。目を白黒させている男に、青年が渇いた声で言う。
「お前の首に、神経毒を注入した。今は身体が動かないだけだが、直に肺にも回って呼吸困難になって死ぬ。だが一度助けたよしみだ、苦しむ前に殺してやる」
「な、何故……」
「何故? それは何に対しての何故だ? お前を殺すことに対しての何故か? だったら質問に答えてやろう。俺がお前を殺すのは、お前を救う価値のない命だと判断したからだ」
その声には何もなかった。温度も、高揚も、恐れも、感情らしいものは何もなく、ただそうするべきだからそうする、といった音しか聞こえなかった。青年は、拾い上げたナイフを綺麗に布で拭きながら、先程助けた、そして今殺そうとしている男の問いに応えてやる。
「お前は先程俺に聞いたな? せっかく救った命が、他の善良な命を奪うクソ外道の命だったら、その時聖人君子ってヤツはどう責任を取るんだ、と。俺は聖人君子ではないので、お前の問いに完全に答えることはできないが、少なくとも、俺はこう思う。せっかく救った命が、他の善良な命を奪うクソ外道の命だったら、その時は責任を持って救った命を殺すべきだと。もしも俺が救ったことで、他の善良な命が犠牲になることがあったとしたら、俺には何の責任もないとどうして言うことができるだろう。だから俺は、一度は俺の救った命が、救う価値のない命であったと判断した場合には、救おうとした責任を取って、その命をこの手で殺す」
人間らしいものなどただのひとつも感じられない声だった。温度もない。湿度もない。ただ冷え切り、そしてひたすらに渇き切った声だった。男は、毒を打ち込まれた男はここでようやく震え上がり、自由にならない身体で必死の思いで懇願した。
「わ、悪かったよ。悔い改める。もう襲ったりしないからどうか」
「それを俺が信じるとでも?」
「し、信じてくれるさ。だってアンタは医者で、俺を救ってくださったじゃないか」
「俺は医者ではないと言っている」
「ア、アンタの先生はどうだ。アンタの先生は、人の命を奪うようなことをお許しくださるのか」
「わからない。その答えを聞く前に、先生は死んでしまった。だがわからなくても、お前を野放しにしてしまうのは間違いではないかと思う。だから」
男はそれでも何か言葉を絞り出そうと足掻いたが、毒は男の肺を冒し始めたようだった。口をパクパクさせる男を見て、青年は男の背後に回り、男の頭を掴み、砂漠に押し付け、男が取り落としたナイフを男の首元へと定める。
「約束したからな。これ以上苦しむ前に、せめて楽に殺してやる」
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だとしたらお前は無駄なことをしているな。自分で生かして自分で殺して、結局お前は何ひとつ救ってなんざいねぇじゃねえか。これからもそうやってお前は殺し続けるんだ。人を一度殺しておいて、歯止めが利くわけねえからな。お前はただの人殺しだ。俺や、お前の先生とやらを殺した連中と変わらねぇ、人を殺すことなんざなんとも思わねぇ、ただの薄汚ない人殺しだ!」
それは、生きたいが為に並べられた、苦し紛れの足掻きだったが、青年の動きを止め、顔を歪ませるには十分だった。初めて、痛ましく、戸惑い気味に、苦悶を浮かべた青年から、悪人は身を捩ってなんとか逃げ出そうとする。
だが、そんな暇はなかった。青年は、苦悶の表情を浮かべたのはわずかに一瞬だけのことで、すぐにその表情と眼は、砂のように渇き切った。そして、殺すべき命をしかと見定め、躊躇いもなくナイフを振り上げ、
「そうだ、俺は人殺しだ」
刃は、一分の狂いもなく、あるべき場所にあるように男の首に叩き込まれた。男は砂に崩れ落ち、青年はできたばかりの死体を無感情に眺めていた。それから、棺桶型の荷を開き、穴掘り道具を取り出すと、死体を埋めるための穴を死体の傍で掘り始めた。一人黙々と作業を続け、ようやく穴ができた後、冷たくなった死体を穴の底へと転がした。砂を戻すと、何処に死体を埋めたのかはもうわからなくなってしまった。
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「先生、俺は今日、三つの命を救いました。救う価値があるかもしれないと思ったから命を救い、けれどその命は救う価値がなかったので、救おうとした責任を取ってその全てを殺しました。先生、あなたはどうしますか。先生、あなたならどうしましたか。先生、俺は間違っていますか。先生。
俺は救う価値のある命でしたか?」
青年はしばらく待った。だが、何の音も聞こえなかった。風の音さえも。ただ荒涼とした、渇いた砂だけが、跪く青年の前に遠く広がるだけだった。青年はそれからも、己に応えてくれる声がないかとしばらくの間待っていたが、やがて悲しげに立ち上がった。しかし涙は出ない。水の膜が張ることもない。その瞳は何処までも、何処までも渇き切っている。
青年は棺桶を引きずって、また砂漠を歩き始めた。空は白み掛けている。どんな夜にも朝は来る。明けない夜など存在しない。だが夜が明け、朝が来て、世界が光に包まれても、青年の前には果てのない砂漠だけが広がっている。
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