書簡体小説集、綴

穏人(シズヒト)

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やどかり

9(終)

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 完全に近い暗闇でした。頼りになるのは外灯のみで、そこも、数十年前のあの日の状況に似ていたかもしれませんね。
 そんな中を先述通り、当てもなくふらふら歩いていました。真夜中に散歩をしたのはそれがはじめてのことでしたけど、未だかつてない程心が安らいだのを覚えています。人間が作った空間に、しかし人間は一人もいない。何処までも広々と世界が広がっているというのに、その心躍る景色に、人間の影はひとつもない。まるで世界に僕独りしか命が存在しないような。部屋に引きこもっている時も、人間の間に入れない時も独りぼっちに違いないのに、あの真夜中の散歩だけはとても心が安らいだ。同じ孤独のはずなのに違ったのはどうしてでしょうか。もし、死ぬことが真夜中に独り散歩するのと同じことなら、僕はもっと気軽に死を選べていたことでしょう。
 でも、でも、僕は、見つけてしまったんです。人間を見つけてしまったんです。僕が、何も通るもののない道をふらふらと歩いていると、その途中、アスファルトの上、電柱に寄りかかるように人間がひとり倒れていました。歳の頃は、あの日倒れていた人間よりも上のように見えましたけれど、人間が倒れているということ自体に違いはありませんでした。それを見た僕の脳に、数十年前のあの日のことが瞬時に呼び起こされました。僕は、ほとんど反射的に、倒れている人間の背中を覗き込みました。
「うー……ひっく」
 その人間は声を漏らし、わずかにもぞりと動いていました。あの日の人間は、声も動きもありませんでしたから、その点に関してはあの日の人間と違いましたが、ただ起き上がるようなことはなく、特に邪魔することもなかったので、僕はじっと人間の背中を眺めることができました。しかし、どんなに目を凝らしても、人間の背中に割れ目を見つけることはできませんでした。そんなはずはない、割れ目があるはずだ、と思って探してみても、やはり人間の背中に割れ目はありませんでした。
 僕はゾッとしました。その、ゾッという感覚は、最初は小さなものでしたが、しかし時間が経つにつれ、恐怖という形となって脳を侵蝕し始めました。歯がカチカチと鳴りました。息が荒くなりました。このままではいけないと思いました。なんとかしなければと思いました。僕は人間の背中をじっと見て、じっと見て、服を捲り上げ、それでも割れ目がないことを確認し、何かないか何かないかと考え、そうだ、割れ目がないなら自分で作ったらどうだろう、と思い付きました。僕は家にとって返し、暗闇のまま台所に急ぎ、包丁を手にし、僕の出せる全速力で人間のもとに戻りました。あの人間がいなくなっていたらどうしようと思いました。しかし幸いなことに人間はそこで待っていて、しかしその事実だけでは僕に安心をもたらさず、僕は急いた気分のまま、焦燥に駆られるままに、割れ目を作るべく人間の背中に包丁を突き立てました。
「ぐうっ!」
 声が聞こえた気がしましたが一生懸命刺しました。人間の手足がバタバタして、ちょっと危なかったですけれど、きちんと割れ目が作れるように、何度も包丁を刺しました。人間が暴れたせいで何度か手が滑りましたが、頑張れ、頑張れと呟いて、一生懸命頑張りました。何度も何度も刃を刺し込み、割れ目を一生懸命作りました。頑張った甲斐あって、しばらくすると人間は暴れるのをやめてくれました。その後も何度も包丁で刺し続け、以前のよりは小さいけれど、なんとか両腕ぐらいは入れられそうな割れ目を作ることできました。試しに手を突っ込んでみると、なんだかぬるっという感触がして、べったりと染みつくような気味の悪い物質がつきました。それでも僕は頑張って、再度人間の中に手を突っ込んでみたのですが、ぶよぶよと気味の悪いものがそこかしこに収まっていて、僕が入れそうな隙間は微塵もありませんでした。それでも、だったら中身を捨てれば入れるんじゃないかと思い立って、中身を全部掻き出そうと頑張ってもみたのですけれど、ホースのように長いものは何処までも何処までも出てくるし、他の物もぬるぬるしていて素手では非常に掴みにくい。その上内部にくっついているらしく、引き剥がすことも外に出すことも到底叶いませんでした。持っていた包丁でちぎり取ろうと突っ込んでみたりもしましたが、やはりどうにもならなくて、僕は残念に思いつつ家に帰ることにしたのです。
 家に帰り、布団に潜り、疲労のままに眠っていると、朝、あなたが扉を叩く音で目が覚めました。ドアを開けるとあなたは、かつてないほど白い顔で僕のことを眺めていました。
「孝志、どうしたの!?」
 どうしたの、と問われるままに視線の先を追ってみると、着ていた服が、何か黒っぽいもので汚れているのが見えました。はて、これはなんだろうと思い、夜中のことが瞬時に思い起こされはしましたけれど、僕が何かを言う前に、あなたが口を開きました。
「朝起きたら玄関が……その……すごく汚れていて……あなた……、……、……、……いえ……なんでもないわ……」
 そう言って、あなたは突然目を逸らし、部屋から出て行きました。そして思い出したように扉を開け、「お風呂に入りなさい」と言いました。言うべきことも見つからず、何を言っていいかもわからなかったので、僕はあなたの言うとおり、とりあえずお風呂に入りました。お風呂から上がり、汚れていない服を着直して、あなたの用意してくれた食事を食べ、部屋に戻り、ベッドの上に転がりながらぼーっと天井を眺めました。それはいつもの日常で、そのまま僕の欠陥について考えるのが日課になっていましたけれど、その日考え込んだのは、昨夜、そして数十年前のあの日、倒れていた人間と、僕の人生についてでした。
 僕の人生が一時とは言え変化した要因は、言うまでもなく数十年前、人間の中に入ったことです。人間の中に入れたことで、一時とは言え、僕はまともな人間になることができました。しかしもう失ってしまった。この数十年足掻きましたが、取り戻すことは叶わなかった。でも、でも、だとしたら……もう一度、人間の中に入れたら、僕はもう一度まともな人間になれるのではないでしょうか。それを思い付いた時、どうして、今の今まで思い付けなかったのだろうと思いました。それもまた僕の欠陥、出来損ないなのでしょうけれど、出来損ないの僕が人間になれたのは、あの時人間の中に入ったからなのだから、一度失敗してしまったのなら、もう一度やり直せば良かっただけの話なのです。そんな簡単なことに数十年も気付かなかった。まったく、僕は本当に、なんという出来損ないなのでしょう。
 とは言え、実行するのは簡単なことではありません。やっと思い付いた僕は、勇気を振り絞って入れそうな人間を探しに行きましたけれども、割れ目のある人間も、倒れている人間も、見つけることはできませんでした。
 そもそも僕は何故あの日、僕の入り込める人間に出逢うことができたのでしょうか。僕は今は、あれは神様のプレゼントだったのではないのか、と考えています。神様など信じていないと先述してしまいましたけれど、今では少し違う考え方を持っています。神様はちゃんといて、しかし神様と言えども全能ではなく、誤ってしまうこともある。それで、誤って僕を出来損ないに作ってしまったお詫びに、人間になれるチャンスを下さったのではないのか、と。
 しかし、僕はそのせっかくのチャンスを棒に振ってしまいました。何の疑いもなくまともな人間に入り込み、まともな人間の才能を一時的に得ることができて、まともな人間になれたのだと喜んで、勘違いをして、せっかくの素晴らしいチャンスを棒に振ってしまいました。失うことを知らなかったのです。いずれ無くなると思わなかったのです。せっかく掴んだ人間になる才能は、すぐになくなってしまうものだと知らなかっただけなのです。
 でももし、もう一度チャンスを得ることができたなら。僕はその時こそ人間を、まともな人間の才能をきちんと僕のものにする。まともな人間はどういう行動をしどんなしゃべり方をしどんな風に笑いどんな風に生きるのか、事細かく学習してきちんと自分のものにする。色々と書いてきましたけれど僕はやはり、まともな普通の人間になって生きてみたいと思うのです。人間になど生まれなければ良かった、と何度となく思いました。死を選べないのに死にたい、と幾度となく思いました。それでも、ここまで未練がましく生きてきてしまったのは、やはり僕は、まともな人間になりたいと思っているからだと思うのです。忘れられないのです。まともな人間として生きられたあの幸福な一時が。何の不安も恐怖もなく、人間として受け入れられていると安心できたあの時が。僕はまともな人間になって、あの時の安心を永遠のものにしたい。死んでしまうのはその後がいい。まともな人間になってから死にたい。きちんと人間になってから死にたいと、僕は心から思うのです。
 本当はこの家にいながら、ゆっくりと人間を探したかったところなのですが、昨日警察が来ましたね。あなたが追い返してくれましたけれど、その夜、あなたは言いにくそうに、僕にこう言いましたね。「ねえ孝志、あなたじゃないわよね?」、と。それを聞いた瞬間僕は、別の所に行った方がいいのではと思いました。もしかしたらこのままここにいても上手くいくかもしれないけれど、ここを離れた方がもっといいような気がするのです。なので新たな所に行って、今度こそ僕なりに頑張ってみようと思うのです。
 そうそう、一番はじめに書いた、あなたにすまないと思うことについてですが、つまり僕は、あなたの息子さんである孝志さんではないのです。この身体、僕が入った人間の身体は孝志さんのものですけれど、中身は孝志さんではなく僕なのですから、一応、言っておくべきかと思い、一筆してみることにしました。とは言え先述したとおり、こんなことをお伝えしていいのかどうか迷いましたが、何も言わないままというのも良くないのではと思ったので、これも先述したとおり、言っていくことにした次第です。もしかしたら僕はあなたにとても酷いことをして、あなたはこの手紙の内容を見てショックを受けるかもしれませんね。
 しかし人間というものは、辛いことがあった人間にこういう言葉を言うそうですね。辛いことがあったとしても、前を向いて生きないと。辛いことを乗り越えて、頑張って生きていかないと。あなたは僕と違ってまともな人間なのですから、まともな人間の言葉をきっと実行できるでしょう。ですからどうか、今は辛くても、乗り越えて、頑張って、残りの人生を有意義に、前向きに生きていってください。
 そしてどうか、この出来損ないを少しでも哀れに思うなら、僕が今度こそまともな人間になれるよう、祈ってやってください。
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