山小屋

穏人(シズヒト)

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「ご飯よ、起きて」
 声がして目が覚めた。見渡すとそこは山小屋で、外は夜のようだった。ベッドの上で飛び起き、声のした方を見ると女がキッチンに立っていた。何やら作業をしているようで……俺は溢れる冷や汗を止めることができなかった。
 一体俺はいつ、この小屋の中に戻ったんだ? いつ寝たんだ? 俺はいつからここにいるんだ? いつから……そんなこともわからないことに胃ごと吐き出しそうになった。
 カチャカチャと音がし続ける。女は俺を見ようともせず淡々と作業を続けている。俺はちらりと扉を見る。逃げようか、でも、何処へ? 「ご飯、どうぞ」と声がして、俺は飛び跳ねた。いつの間にか女が立っていて、いつの間にかテーブルには……「うわあああっ!」俺は転がり落ちた。女はじっと俺を見ていた。その顔は、微笑んでいた。俺を嘲るように微笑んでいた。少なくとも、俺の目には俺を嘲っているように見えた。
「おいっ! 俺は、俺は、一体いつからここにいるんだ。一体なんだってんだ。笑ってねえでなんとか答えろ!」
 すると女は、一層おかしそうに笑った。声を上げ、ケラケラと笑った。明らかに俺を馬鹿にしていた。怒りが湧いてくる。何故、こんな女なんざに馬鹿にされなければならないのだろう。俺は大きく床を叩いた。だが女はゲラゲラと笑い続けるだけだった。
「一体何を笑ってやがんだ!」
「だって、あなた、本当に、いつも同じことを言うんだもの。本当に、ここに来てから、ずっとずっとずっとずうっと同じことの繰り返し」
 女は笑った。俺はここに来た時のことを思い出そうと試みた。すると何も思い出せなかったのが嘘のように、俺の脳裏にスルスルとあの日のことが思い浮かんだ。

「ねえ、たまには旅行に行かない?」
 それが、ここに来るに至る経緯の、そもそもの発端だったと思う。旅行なんて行くぐらいならパチ屋の方がマシだったのだが、女があまりに食い下がるから、機嫌を損ねられても面倒だと思い、渋々承諾したのだった。
 着いたのはド田舎だった。何処に行くつもりだと尋ねてもはぐらかされてばかりだったが、ほとんど山しか見えないような所に到着した時はさすがに呆れた。「おい、まさかここが目的地じゃねえだろうな」、そう言っても女はニヤニヤと笑うばかりで、「この先だから」とピンクのキャリーケースを引きずりながら歩き始めた。「この先にいいペンションがあるの」、その言葉がなければ、俺は女を置き去りにして一人で帰っていただろう。それでも着いて行ったのは、帰るよりならペンションの方が面倒がなさそうだと思ったからだ。いいだろう、今日は付き合ってやる。だが帰ったら旅行に付き合ってやったんだからといつもより多く小遣いをせびろう。それで仕舞いにしてしまおうか。さすがに面倒臭くなった。そう思いながら、俺は手ぶらのまま女の後をついていった。
 そして辿り着いたのがこの汚い山小屋だった。ペンションなどとはお世辞にも言えない、チンケで粗末で貧乏臭く今にも崩れそうな山小屋だった。俺は怒った。当然だ。ペンションなんざねえじゃねえか。こんな所に連れてきやがって。一体何のつもりだ。マジギレしている俺に、女は無表情で言った。
「ねえ、私と結婚する気、あるの?」
  俺は「はあ?」と言った。今そんな話してねえだろう。女は俺に詰め寄ってきた。歳に合わない少女趣味のキャリーケースは、バランスを崩して主のように無様に地面に転がった。
「そういう話よ。ねえ、私と結婚する気、あるの? 出会って同棲してからもう何年も経つじゃない。これ以上待てないよ。ねえ、私と結婚するって、言って」
 私を愛しているなら、なんて言葉が聞こえた気がする。だが俺はその言葉を意図的に頭から締め出した。何故って胸クソ悪いからだ。こんなババアを愛しているわけないからだ。金蔓が何勘違いしてやがる。だから俺は言ってやった。
「ふざけてんじゃねえよ! お前と結婚するかだって? ゴメンだねこんな年増のババアは! お前今年で三十七じゃねえか。行き遅れなんだよ行き遅れ! 顔も金も何も取り柄のない歳だけ喰った年増のババアが、今更男なんて引っかけられると思ってんのか!」
 俺は言った。言いながらその通りだと思った。こいつに限った話じゃねえ。三十過ぎて結婚しようという女はゴロゴロいる。三十どころか四十。四十どころか五十。頭おかしいんじゃねえかと思う。女の耐用年数はせいぜい二十代までだろうか。三十過ぎた女なんて概ね煮崩れ起こしたババアが。とびきりの美人って言うならギリギリセーフを出してもいいが、それ以外は女じゃねえ。ババアという名の粗大ゴミだ。そんな後は廃棄されるのを待つだけの粗大ゴミババアに、俺は五年もの間付き合ってやっていたんだぜ? 感謝の金を出されて当然、俺はババアの介護をして賃金を貰っていたに過ぎない。それを感謝こそすれ何を勘違いして結婚? 冗談じゃねえ。そりゃあ最初はそんなことを言っていたかもしれないが、リップサービスだ。常識で考えりゃわかるだろ? どっちにしろ常識もねえ腐れババアと結婚なんざ誰がするか。
 女は黙った。俺を睨むその顔はとびきりに汚かった。次の瞬間女は懐から包丁を取り出すと、口から泡を垂らしながら俺の方へと向かってきた。山姥と言うのはこういうのを言うんだろうと頭の隅の隅で思った。思いながら、俺は女から包丁を取り上げるべく女の腕を必死に掴んだ。
「死ねっ! このクソ野郎!」
「お前が死ねクソババアが!」
 俺は包丁を奪い、そのまま女を刺した。何度も刺した。刺しながらおあつらえ向きだと思った。このままこいつをこの山小屋に捨てて行けるじゃねえか。
 俺に刺されながら、女が何かを呟いているように見えた。聞く気もなかった。どうでもいいと思った。記憶は唐突に終わった。目の前で女が微笑んでいた。殺したはずの女が。
「今回も思い出した?」
 俺は咄嗟に女の首を絞めた。なんで生きているのか知らねえが、もう一度殺せばいいだけの話だ。女はニヤニヤと笑っていた。俺はいよいよ首を絞めた。首を絞められたまま女が呟く。
「あんたのこと、生かしておけないって思ったのよ。こいつを生かしたままにしておけるかって。お前だけのうのうと生き続けるなんて許さない。あんたも道連れだからね」
 女は事切れた。ぐったりと動かなくなった。俺は肩を落とした。同時に笑いが込み上げてきた。俺は女を見下ろした。
「ざまあ見ろ、一人で腐ってろクソババアが」
 俺は踵を返し、アパートに帰ろうと思った。しばらくはあそこに居て、次の目処がついたらトンズラだ。だが俺の足は止まった。足を踏み出した瞬間、ぐちゃりと、嫌な感触がした。ふと足下を見ると、そこには完全に腐りきった、骨さえ見える死体があった。
「うげぇっ!」
 完全に腐っていた。蝿が飛んでいた。蛆も涌いていた。今まで嗅いだこともないような酷い臭いが脳を打った。そして俺は気が付いた。崩れきった山小屋の中に一人立っていることに。ベッドもないテーブルもないキッチンなんて物もない。俺は、今までここで一体何をしていたんだ?
 走り出した。俺は逃げるように走り出した。自分の姿は省みなかった。省みたら終わるような気がした。
 道はなかった。伸びた草に完全に覆い尽くされてしまったのか、道らしきものの痕跡さえちっとも見つけられなかった。一体、いつの間にこんなに草が伸びたんだ? 俺は今まで一体何を食べて生きていたんだ?
「昔、おばあちゃんにおまじないを教えてもらったりしていたのよ」
 走って走った。走るより他にはなかった。頂上を目指そう。そうすればここから抜け出せるはず。なのに頂上を目指して走っていたはずなのに、視線の先にはいつの間にかあの山小屋が現れていた。俺は悲鳴を上げて逆方向に走った。だったら今度は下を目指そう。がむしゃらに走っていればいつかは下につけるはず。だがその先にも、あったのは山小屋だった。
「例えば、唱えると山から降りられなくなるおまじないとか」
 俺は走った。走って走った。走り続けるより他にはなかった。女の声が聞こえた気がした。振り切るように俺は走った。
 そしてぐるぐる回り続ける。
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