監禁

穏人(シズヒト)

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 目が覚めると明るくなっていました。私は首を絞められた後、また随分と長い間気を失っていたようでした。ふと、違和感を覚えて身体を見ると、お兄さんの持ってきたジャージに服が全部変わっていました。そこで、アイツに服を脱がせられ、着替えさせられたことに気が付きました。中に履いているものも変わっているような気がしました。あの、最悪な、真っ暗な崖の下に突き落とされでもしたような気分を、どんな手段を使ったらあなたに味合わせることができるでしょうか。猿ぐつわはされていなかったけれど、切られたはずの結束バンドは両手首に戻っていました。ただ、後ろ手ではなくて、何故か前の方になっていたけれど。
 どうするべきか考えました。どう考えても、このままここにいて良いことなんてひとつもない。でも、相変わらずどうすればいいのか、どころか今私にできることさえ思い付けない。殺されるのを覚悟で大声を出してみるか。無駄に終わるとわかっていながら、床を這いずって逃げてみようか。でも、無駄だとわかっている。どうすれば、どうすれば……そんなことを考えていると、お兄さんが近付いてくる足音が聞こえました。私は身じろぎさえやめて、目を閉じて、こちらへ向かってくる足音に耳を澄ませることにしました。起きているのと寝ているフリをするのと、どちらがいいのか相変わらず正解はわからなかったけれど、考えて考えて、私は寝ているフリをすることにしました。お兄さんは部屋の前に来ると、一度入り口で立ち止まって、それから、私の方に近付いてきて、私の傍にしゃがみました。寝ているフリをするというのはとても大変だったけれど、息の仕方が変わらないように必死に自分を抑えました。お兄さんは私の傍にじっとしゃがみ込んでいました。何をするでもなく、じっと私の顔を見下ろしているようでした。一体どういうつもりなのか。何をするつもりなのか。緊張しながら目を瞑り、お兄さんの様子を伺っていると、お兄さんは急にぽつりとこんなことを言いました。
「ねえ、まだ寝ているの?」
 反射的に叫びそうになった口を閉じました。反応しそうになったけれど、応えていいのかわからない。まだ寝ているフリをしていた方がいいかもしれない。でも、様子がわからないのも怖いから、少し目を開けました。するとお兄さんが顔を床と水平にして、私を覗き込んでいるのが見えました。慌てて目を閉じました。どうしよう。起きているのがバレただろうか。いっそ起きてしまった方がいいだろうか。でも、この状態で目を開けて、どうすればいいのかわからない。
  結局、私は目を閉じたまま、そのままで居続けることにしました。すぐ近くに、自分を誘拐した男の顔があるのはとても怖かったけれど、目を閉じたままでいることぐらいしかできませんでした。お兄さんは、しばらくそのままの体勢で、私を覗き込んでいました。一体どれぐらいの時間そうされていたのかはわかりません。胃の中身どころか、胃ごと全部吐いてしまいそうな気分でした。
 そうやってじっとしている内に、お兄さんが動く音がして、少しだけ目を開けてみると、お兄さんは完全に横になって私のことを見ていました。いよいよ吐きそうになったけれど、喉の奥を締め付けて、なんとかぐっと堪えました。気持ちの悪い状況でした。自分を誘拐した男と横になっているなんて。お兄さんは、さらにそのままの状態で私をじっと見ていたけれど、私が起きていることに気が付いているのかいなかったのか、まるで私に聞かせるように、こんなことを言い出しました。
「僕は、この家で母さんと二人暮らしなんだ。父さんは数年前に死んで、それ以降は母さんと二人きりで暮らしている。
 僕はちゃんと働いていた。父さんがまだ生きていた頃、就職して、立派な所ではなかったけれど、それでもちゃんと働いていた。でも上手くいかなかった。パワハラって言うのかな? すごく酷いことを言われて、理不尽な目に遭わされて、でも誰も助けてくれなくて、ある日から仕事に行けなくなって辞めてしまうより他になかった。
 この家に戻ってきた僕に、母さんは最初は『ゆっくり休め』と言ってくれたけど、二年経ったぐらいから、『いつ働くんだ』と僕のことを責めてくるようになった。父さんは『そんなに焦らなくてもそのうち働くさ』と言ってくれたけど、その父さんも死んでしまって、母さんの詰りは一層激しくなっていった。僕はいよいよ人が怖くて外に出れなくなってしまった。実の親でさえこんなに僕を責めるんだから、赤の他人になんて接せられるわけないだろう?
 そんなある日、母さんが倒れた。脳梗塞とかいう話で、そのせいなのか帰ってきた母さんはさらに怒りっぽくなっていた。『なんでゴミを溜めっぱなしなの』『なんで洗濯のひとつもできないの』って。僕はどうすればいいのかわからないから、母さんが帰ってきたら一緒にやろうと思っただけなのに、僕の話を全然聞かずに一方的に僕を怒鳴った。
 怒った母さんは家事代行サービスを頼むと言った。僕は反対した。知らない人を家に入れるなんてとんでもないことだと思った。でも母さんは怒鳴るばかりで話なんて聞いてくれなかった。
 でも、家事代行サービスの人はとても優しい人だった。美人ではなかったけれど、笑顔も話し方も優しい人で、それでも最初は顔を見せるのが怖くて部屋から出なかったけど、うっかりトイレに行った僕に、彼女は『こんにちは』と優しく挨拶してくれた。いい人そうだと思って、話し掛けるようになった。僕が会社で理不尽なイジメに遭って辞めざるを得なかった話をすると『そうですか、大変でしたね』『今はゆっくり休んでください、また頑張れますよ』と言ってくれた。僕に優しくしてくれる唯一の人だった。
 もっと一緒にいて欲しくて、いっぱい話掛けるようにした。名前、何処に住んでいるのか、趣味、今、恋人はいるのか。話せば話すほどいい人だと思った。こんな人が傍にいてくれたらとても素敵なことだと思った。
 だから、告白してみた。あなたが好きですと。僕と結婚して欲しいと。優しい人だから、きっと応えてくれると思った。
 でも、何故か断られた。気持ちは嬉しいですけれど、って。気持ちが嬉しいということは、脈があるってことだろう? でも何か理由があって、受けられないってことだろう? でもその理由がなくなれば、大丈夫ってことだろう?
 だから、何か悩みがあれば聞きますよって言った。僕にできることがあればなんでもしますよって言った。あなたのために何でもしますから、付き合ってくださいって言ったんだ。そうしたら何故かあの人は逃げた。僕は追いかけた。腕を掴んだ。悲鳴を上げて振り払われた。びっくりした僕の前で、あの人は飛び出してきた車に跳ね飛ばされてしまった。
 僕は怖くなって逃げた。あの人がどうなったのかはわからなかった。家に戻った僕に、母さんの怒鳴り声が聞こえた。
 こいつのせいだと思った。こいつが僕を責めたりするから。こいつが僕をまともに育てなかったから。そのくせ僕を怒鳴って詰る。だから首を絞めて殺してやった」
 私は薄く目を開けました。私を誘拐した男が、正面から私をじっと見つめているのが見えました。目が泥のように濁っているのに、同時にギラギラと光っているようにも見えました。お兄さんは私が薄く目を開けているのに気付いているのかいないのか、身体を起こし、膝立ちになりました。そして膝立ちになったまま、私のことを見下ろしました。
「母さんを殺してしまった僕は、しばらくこの家にいて外を見ていた。どうすればいいのかわからなくて、外を見るより他になかった。
 でも、そうしたら、君が歩いているのを見つけたんだ。あの人より幼かったけれど、あの人にそっくりだと思った。あの人が生まれ変わって僕の所に来てくれたんだと思った。
 だから、君をこの家に連れてきた。僕のことを助けて欲しくて。でも、君は酷く暴れて、だから反射的に首を絞めた。静かになったのは良かったけれど、また暴れられたら困ると思った。だから結束バンドで両手と両足を縛って布団に寝かせることにした。後ろ手は可哀想だから、前の方に直してあげた。……なのに、なのに、どうして君も、僕のことを怒鳴るんだろう」
 私は完全に目を開けました。顔を少し上に向けると、私を見下ろしているお兄さんと綺麗に目が合いました。お兄さんは、私の目を見て少しだけ目を見開くと、私を睨むようにして見下ろしながら言いました。
「君に、助けて欲しかった。どうしようもない僕を。それでも懸命に生きている僕を。あの人に助けて欲しかった。なのに何故上手くいかないんだろう。
 君のこと、あの人に似ていると思ったけれど、僕が殺したあのクソみたいな母親の方にそっくりだったよ。ちょっとしたつまらないことで怒鳴って……僕はただ、一生懸命やっているだけなのに」
 お兄さんの手が私の首を掴み、強く押さえつけました。その時私は、お兄さんの顔を初めてまともに見たような気がしました。そこにいたのはおじさんでした。お兄さんと言った方がいいぐらいに幼稚なくせに、年だけは無様に取ってしまった、人間の出来損ないでした。可哀想なもののような顔をして、ちっとも可哀想だと思えない、不格好で汚くてどうしようもない惨めな人間のゴミクズでした。
 私は首を絞められながら、布団の下に隠していたゴミに手を伸ばしました。今この時しかないと、はっきりとわかっていました。私は、結束バンドで縛られたままの両手を伸ばし、布団の下に隠していた、汚い歯ブラシを強く掴むと、その底の固い部分を、私を誘拐した男の顔に向かって突き刺しました。歯ブラシは目に刺さりました。目に歯ブラシの刺さった男が仰け反るのが見えました。だから、両脚に力を入れて、男の身体を蹴り飛ばして、腕で布団を強く押して、男にのし掛かりました。そして、猿ぐつわから自由になった口で、男の喉に噛み付きました。あいつは暴れて、ただ噛み付いているだけで歯がもげそうだったけれど、それでも必死に噛み付きました。ここで歯を離したら、振り払われてしまったら、私の方が殺されると嫌という程わかっていました。歯が酷く痛むと同時に、口に何か嫌な味のする液体が入ってきました。それは私の涎と混じって口の端からダラダラ落ちて、それでも私は口を緩めず、男の首を食い破る程に強く、強く噛みました。
 一体どれぐらいの間そうしていたかはわかりません。あいつが、完全に動かなくなっていることにようやく気付いて、私は固くなってしまった顎をやっと動かしました。歯も顎もとても痛くて、口から下が変な風に歪んだような気がしました。下を見ると顔をぐちゃぐちゃにしたゴミのような人間がいました。眼球は乾いているのに、まるで泣いているようだったけれど、可哀想みたいなことはちっとも思えませんでした。
 両手両脚を縛られたまま、玄関に移動することにしました。床の上を這いずって。ゴミの中を這いずって。口の中がベタベタして、手も何かベタベタしていて、動く度にゴミにぶつかって、ホコリが舞い上がりました。まるでゴミの海の底を這っているようなでした。
 玄関を目指している間に、色々なことが頭の中に浮かんでは積もっていきました。私、これからどうなるんだろう。誰か助けてくれるんだろうか。玄関に辿り着いて、大声を出したとして、誰か気付いてくれるだろうか。誰か助けてくれるだろうか。
 私、本当に、今までいたはずの場所に帰れるだろうか。
 帰れるに決まってる。帰れるに決まっているのに、なんでかな、私、もう、元の場所に戻れないような気がするんです。お母さんもお父さんも迎えに来てくれるのに、どうして? どうして、私はもうあの家に戻れないと思ってしまうんだろう。
 でも、私は這いました。一生懸命這いずりました。ゴミの中を抜けて、酷く冷たい床を這って、必死に光に向かいました。だって、戻りたかったから。もう戻れないかもしれないけれど、でも、私は一生懸命、あの暗い廊下を這って、私が元いたはずの所まで、帰りたいと思いました。
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