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【第一話】白い部屋
しおりを挟むどこか遠くから聞こえる、連続的な心電図のモニター音。耳を塞いでも聞こえてくるそれは、次第に微弱なものへと変化していった。室内の静けさが一定の音だけを際立たせて胸を押し潰す。どこまでも白い天井は眩しすぎるほどの照度でベッドを差し、彼の肌をより白く照らし出した。無機質な部屋を両断するように鳴ったエイシストールのアラームは、薄暗い廊下のどこから響いていたのだろう。
単調な音程が全ての終わりと絶望の始まりを告げる。白い部屋の中で蹲る背中。縋り付くように伸ばされた手を、握り返してくれる者はもういない。
* * *
頬に触れた指先が動き、瞼の上を軽く押す。目頭から目尻へ、アイラインを撫でた親指は涙を追っていたのか。久喜理人は身を起こし、煩わしげにその手を払った。
寝起きでぼやけた脳を叩き起こすために軽く頭部を振る。数度瞬きを重ねた後に開けた視界は、白い壁とタイルを映し出した。見慣れない部屋に見慣れない家具。それらはただ白く、一切の生活感を感じさせない。空調の音すら聞こえない部屋の中で、天井に埋め込まれた巨大な鏡は異空間をより際立たせた。
昨夜は終電で帰宅し、軽く酒を煽ってから自宅のベッドで就寝したはず。それが今は見慣れない純白の服に身を包み、硬い床の上に転がっていた。部屋の中心にはローテーブルとソファ、そして清潔なシーツに包まったベッドが設置されている。ガラス扉を挟んだ向こう側ではバスルームも確認できた。簡単に言ってしまえば、ちょっとお高めのラブホのような部屋。無論、このくそ忙しい月末にわざわざ一人でラブホに泊まる理由はない。
安酒がまだ残っているのかと、理人は乱暴に髪を掻き乱す。次いでに軽く頬を抓ろうとすれば、横へ付いた男がそれを静止した。
「起きた、理人?」
「……一色さん?」
見上げた顔は馴染みあるもので、ほっと胸に安堵が芽生える。
綴一色、理人の務める広告代理店の顧客、兼、学生時代から付き合いのある友人でもあった。正しくは義兄を介して知り合った友人なのだが、なんの縁か社会人になった今も関係が続いている。毎週水曜日は一緒にジムへ通い、多ければ週に二回ほど食事を共にする。冷め切った関係の義両親よりも近しい仲だ。
顔見知りの存在があれば、この奇怪な状況への緊張感が緩和する。理人は立ち上がると改めて周囲を観察した。目に映る物の全てが白く、自然音が遮断された空間。不気味さを挙げればいくつでも見つかるのだが、だんとつで異彩を放っていたものは真っ赤に染まった大型のディスプレイ。壁に掲げられたそれは静かに時を刻む数字を表示していた。
「ここ、どこなんですか?」
理人は部屋の中心に立つ一色に並び、浮かび上がっては消える文字列を見据える。
「わからない。昨夜は自宅で寝たはずなんだけど……理人は?」
「俺も同じです。金曜の夜だから一回だけ抜いて寝落ちしました」
「珍しいな、二回目は不発?」
「人妻ものならいけるかと思ったんですけどね」
繁忙期で連日終電帰り。昼休憩すら惜しむ激務の中、自宅に辿り着けただけでも褒めてもらいたい。新規開拓のエロサイトは思わぬ暴発を招くも、しっかりと下着を取り替えて就寝したのであれば賞賛ものだ。
目前に表示された時間が正しければ、今は午前十時過ぎ。最低四時間は寝れたはず。しかしそれでも継続的な疲労感は拭えないのか、理人は瞬きを繰り返しとろんとした瞳で一色を見上げた。
「これ、前に流行ったセックスしないと出られない部屋ってやつかな」
「俺はてっきりデスゲームかと思いました」
「流行に乗り遅れた感が半端ないなあ」
互いに掲げた予想はどちらであっても、好ましい結果は生みそうにない。
理人が何気なくタッチパネルへ手を伸ばすと、不穏な音を立てて画面が切り替わった。おどろおどろしい動きで始まった導入ムービーはアスペクト比が大外れ。ホラー映画さながらのドッキリ演出を狙ったのか、ここで金管楽器の不発音は音響スタッフの腕を疑う。表示されたフォントも癖が強すぎて読み込めない。開始早々に見せつけれらた素人臭さ。これは侮れないなと冷や汗を浮かべたところで、横から肩を小突かれた。
「それで、なにをしないと出れない部屋だって?」
「デスゲームかセックス」
「どっちも入れてきたかあ」
主題のブレたイベント行事は大抵大転けする。それを見通すかのように、ユーザーインターフェースもくそもない画面はフリーズした。
「俺まだ触ってないですよ」
「見てたから知ってる」
ここまで大掛かりなセットを用意しておきながら、運営の手緩さに不安を覚える。それは一色も同じなのだろう。余程のことがないかぎり笑顔を絶やさない彼も、今は憂慮を漂わせている。
「どうしますか?」
「とりあえず二度寝する?」
「でもなんかラジオ体操みたいな曲が始まったんですけど」
「寝るなってことかあ」
腑抜けた参加者に喝を入れるため、絶妙なところで入った背景音楽。再起動した画面は爆音で「ジャ~ン!」と激しい音を響かせ、お決まりのブラックスクリーンを表示した。別会社のOSを無理矢理ぶち込んだことによるシステムエラーか、不安定なファンと共にデスクトップ画面がもっさりと立ち上がる。
肝を冷やすような待機時間の後に浮かび上がった「問い合わせ中」のアイコン。凶と出るか吉と出るか。それはこれから繋がるであろう、カスタマーサポートの担当次第。
『ご連絡ありがとうございます、カスタマーサポートです。ご用件のキーワードを入力してください』
「出た、自動音声。デスゲームの運営も人員削減に走ってるんですね」
「世知辛い世の中だな」
自動で繋がってくれたことはありがたいが、直接サポートに繋がらないところは減点対象だ。理人は「んんっ」と喉を鳴らし、スピーカーの近くに口を寄せる。
「ちょっと突っ込みどころ満載なので、担当者に繋いでください」
『入力が確認できませんでした。キーワードを絞って再度お試しください』
「担当者に接続」
『当社ではセクシャルハラスメント防止ポリシーを掲げております。人の尊厳や名誉を傷つける行為、または性的指向に基づくハラスメントを含む広範な行為は禁止され――』
「違う違う、そんな卑猥な意味じゃないって」
さすがAI、近年の社会問題にも敏感に対応する柔軟さ。慌てて否定した理人を下げ、今度は一色がスピーカーへと向き合った。
「担当者と話がしたいんだけど」
『只今お電話が大変混み合っております。時間を置いてからまたご連絡ください』
「せめて待つ選択肢を与えて欲しいなあ」
「一色さん、消費者センターに連絡しましょう」
『担当者に繋いでおります』
「消セン出した途端の急変」
「あからさま過ぎる」
組織の大きさは知らないが、一人の客を大切にできない排他的な企業はいずれ廃れていく。社員を束ねる立場にある一色も気持ちは同じなのか、美しい目元を歪ませ、静かな怒りを滲ませていた。
『大変お待たせいたしました。カスタマーサポートデスクの清水が担当させていただきます。付属機器が作動しないとのことで、ご不便をお掛けしております』
「いえ、お姉さんのせいじゃないので。それより、ちょっとこのよくわからない状況なのですが」
『ご安心ください。こちらで確認が取れております。お客様のご利用の施設は二つのオプションが設定されておりますが、どちらをご希望でしたでしょうか?』
断続的な接続音の後に繋がった先は、物腰の柔らかそうな女性だった。少し高めで耳障りのいい声色。親しみを抱かせる話し方だが、きっかりと一線を引いている。プロフェッショナルさを見せつけられた二人はふむっと顎に手を置き、互いの顔を見据えた。
与えられた選択肢は二つ。スクリーンに表示されたオプションはどう足掻いても変わることはなさそうだ。
「一色さん、どうします?」
「僕が選んでもいいの?」
「選ぶもなにも、一つしかないじゃないですか」
不安を覚えながらも、一歩踏み出して触れたアイコン。案の定、フリーズした画面は独断で通信を断ち切り、悠々自適な速度で再起動を始めた。
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