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 意識を取り戻したヴァネッサは、慣れ親しんだ視界の高さに驚愕し瞬時駆け出した。
 足に纏わりつくドレスが鬱陶しい、己を飾る宝石が煩わしい、美しさを引き出すための高いヒールですら面倒で仕方がなかった。
 全てを捨て去り、汗を払う事すら忘れて駆け続けた先にネスは倒れ伏していた。

「ネス、ネス。私ですわ」

 彼をここに横たえてから随分と時間が経った。荒かった筈の息は静かで、呼吸をしているかどうかすら怪しかった。
 地べたに膝をつき、彼の口元へと顔を近づける。ほんの微かに、ともすれば見過ごしてしまう程の微量な風がヴァネッサの頬を撫ぜた。
 なんの役にも立たない魔力でも、多少は傷口を塞げるかもしれない。そう思って水の魔法を使ったヴァネッサは意想外の事に瞠若した。
 水滴程度の魔法しか使えなかったはずが、以前の自分よりも随分と魔力が強くなっている。

「これなら、医者にかかるまでの時間を稼げるかもしれませんわ」

 急に入れ替わってしまい一驚しているだろう彼に、ヴァネッサは深謝した。傷口を塞ぎきるまでには至らなかったが、いくらか呼吸が安定してきている。
 一つ安堵の息をつき、ドレスを引き裂いたヴァネッサは、その布でネスをそうっと包み込む。
 宝石よりも大事に抱き上げたネスをほんの少しも揺さぶらないように気を付けながら、記憶にある中で最短の医院へと歩みを進める。
 人間しか診たことのない医者は面食らっていたが、髪を結うのに使っていた髪飾りを手渡して、無理を言って診てもらった。
 処置をしてもらったネスは血色がよくなり、すうすうと穏やかな息をして眠りこけていた。
 医者からネスを受け取ると、彼を抱えて近くの広場へ向かいベンチに腰掛ける。じっと見つめていると、意識を取り戻したらしく瞼が震えた。

「ネス? 起きましたの?」

『にゃー』

 彼がなんと言っているのか、人に戻ったヴァネッサには分からなかった。ただ柔らな音が耳から離れなかった。
 眠りに入ったネスをこっそりと屋敷に連れて帰り、暫くの間面倒をみたが、回復した彼はただの野良猫として路地裏へと戻って行く。

「ねえネス。貴方、黒猫と知り合いなのでしょう? だったら、彼にありがとうと伝えて下さらない? 彼が居なければ貴方を助けられませんでしたの」

『にゃーん』

 一鳴きしたネスは、もう振り返らなかった。
 もう二度と交わらないであろう道を物寂しく思いながら、ヴァネッサはネスに背を向けて帰路へと着いた。
 その後、癇癪も贅沢も無くなったヴァネッサは、別人のように魔法の授業に打ち込み、貴族に馬鹿にされない程度の魔力を手に入れた。
 淑女の鑑とさえ呼ばれるようになった彼女に数多の男達が求婚したが、野良猫を飼っても良く、それに危害を加えず、同じように猫が好きで、むしろ配偶者よりも猫と結婚したいと豪語するような変態でなければ結婚しないと宣った。
 血統書付きならばいざ知らず、蚤や病気を持っているような獣を妻よりも愛したいと思える男は少なかったが、これらの条件をクリアした、ヴァネッサよりも十五は年上の伯爵家の男性と結婚。
 一男一女を儲けた彼女は、最愛の家族たちと共に笑顔の溢れる日々を過ごした。
 今日も彼女の屋敷には、笑い声と猫の鳴き声が響き渡っている。
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