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第1部
父さんのところに帰して
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次に梛央が目を覚ました時、天鵞絨の光沢のあるカーテンがベッドの周りをぐるりと取り囲んで引かれていた。
部屋全体の様子が窺えない、まるで隔離された薄明るい空間。
体を起こそうと頭を持ち上げた途端、鋭い痛みが走り、梛央は顔を歪める。痛む頭に手をあてると包帯だろう布が巻かれていた。
自分はいったいどうしたのだろう。
晃成と口喧嘩になって、まさか叩かれるとは思わなくて勢いで家を飛び出して。そしたらいきなり車に連れこまれて。頭をドアに打ち付けられて……。
どうして怪我をしたのかを思い出した梛央は着せられていた寝間着の前をかき寄せて体を丸める。
恐怖に支配されて体を自由にされて、晃成の声が聞こえて、車から飛び出して、晃成に向かって車が突っ込んできて。咄嗟に車と晃成の間に飛び込んで……。
あのあと晃成はどうなったのか。無事でいるだろうか。自分がいなくなって心配しているだろう。晃成に会いたい。会って自分の無事を伝えたい。
「父さん……」
晃成を呼ぶと、叩かれたことよりも心配をさせて申し訳ないという思いが溢れてきて、梛央の瞳からぽろりと涙がこぼれる。
勝手にピアノをやめたことを晃成は怒ったのではないかもしれない。
やめる相談をしなかったことを怒ってるのかもしれない。
晃成に自分のことを知ろうともしないで、と言ってしまった。
自分のことを知ってもらう努力をせずに、勝手にだめだと言われると決めつけて内緒でピアノをやめてダンスと歌を始めてしまった。
怒られて当然のことをしたのは自分なのに。
「ごめんなさい、父さん……」
泣きながら晃成に詫びる梛央に、
「お目覚めになられましたか」
天蓋カーテン越しに穏やかな壮年の声が届いた。
布越しで姿は見えなかったが、梛央は突然の声に身を強ばらせる。
「来ないでっ。父さんのところに帰して」
シルクのような手触りの寝具や天蓋つきの豪奢な寝台。どう見ても病室ではなくて、梛央は不安に駆られて布越しに訴える。
「私はサミュエルと申します。ここはシルヴマルク王国の聖域の森と精霊の泉を管理するシアンハウスで、私はこちらで家令を務めております。受け止められないかもしれませんが、あなた様は今朝方、精霊の泉に突然落ちていらっしゃいました。その時はお一人だったとうかがっております」
「シルヴマルク王国? 精霊の泉? ここは日本じゃないの? どうして僕がここに? どうやって? 父さんは……」
自分の身に起きたことでも受け止められない梛央に、知らない国の名前や精霊という言葉は許容量をはるかに超えたものだった。
「日本という地名は私の知る限りシルヴマルク王国内でもダールベック大陸でも聞いたことがございません。いろいろと困惑されておられるでしょうが、まずはお体をお休めください。さきほど頭の傷を診ていただいたお医者さまより痛み止めと熱さましになるお薬をいただいております。水と、お口直しの果実の甘露煮も一緒にお持ちしました」
天蓋の端から水差しと薬の載ったサイドテーブルが差し出されると梛央はまたびくついたが、見えたのは男の手だけだった。
「あとでお食事をお持ちします。それまでに何かご用命があるときは寝台のわきの紐をおひきください」
「……いらない。一人にして」
梛央が拒絶すると、かしこまりました、という声とともに気配がなくなる。
怪我の治療をしてもらい、休ませてもらい、親切にしてもらっているのだという感覚はあるものの、梛央は自分の置かれている状況すらまだ受け入れられないでいた。
シアンハウスの広い庭園には色とりどりの花が朝露に濡れて輝きながら咲き誇っている。
ヴァレリラルドは朝の静謐な空気の中で、愛し子に贈るための花を慎重に選んでは慣れない手つきでハサミで茎から摘み、メイドに渡していた。
メイドが受け取った花はすでに花束にするには十分な数になっていた。
「何も殿下自ら花を摘まれなくとも。他にすべきことがあるでしょうに」
侍従のシモンが後方で苦言を呈するが、ヴァレリラルドは聞こえないふりをした。
波風を立てるのを好まないヴァレリラルドはシモンの助言を素直に受け入れているが、愛し子に花を贈りたい気持ちには水をさされたくなかった。
「何も侍従自らが殿下にむかって嫌味を言わなくてもなぁ。俺が王都を離れている間に王城では侍従の方が主人より立場が上になったのか?」
ヴァレリラルドのそばに付き従って護衛するケイレブがシモンに聞こえるように言うと、少し離れたところで待機している近衛騎士たちは明るい表情になる。
侯爵家の三男であるシモンは気位が高い。侍従としての役割を品格のある所作で務めるのは立派で有能なのだが、時として自分の美意識をヴァレリラルドに押し付けるところがあった。
それをよしとしなくとも、侯爵家出身の侍従に意見するわけにもいかない近衛騎士たちにとって、冒険者の護衛というオブザーバーからの言葉はありがたかった。
「ケイレブ殿。いくら陛下に目をかけられているとはいえ思いあがった言動は慎んでください」
「すまんすまん。俺は昔から大雑把な性格だから嫌味とかが苦手なんだ。だから貴族たちの側にいることが我慢できなくて騎士団をやめることになったんだが、それが陛下にはおもしろかったらしくてな。大事な王太子の護衛を任されることなった」
悪びれず笑うケイレブ。
「ここへの滞在は休養なんだ。休養の楽しみとしてケイレブにいろいろ教わるといいと父上が言っていた。シモンは仕事熱心だけど、ここにいるあいだはシモンも休養していていいよ」
ヴァレリラルドに休養をするように言われて、シモンは不満げに口を閉ざした。
部屋全体の様子が窺えない、まるで隔離された薄明るい空間。
体を起こそうと頭を持ち上げた途端、鋭い痛みが走り、梛央は顔を歪める。痛む頭に手をあてると包帯だろう布が巻かれていた。
自分はいったいどうしたのだろう。
晃成と口喧嘩になって、まさか叩かれるとは思わなくて勢いで家を飛び出して。そしたらいきなり車に連れこまれて。頭をドアに打ち付けられて……。
どうして怪我をしたのかを思い出した梛央は着せられていた寝間着の前をかき寄せて体を丸める。
恐怖に支配されて体を自由にされて、晃成の声が聞こえて、車から飛び出して、晃成に向かって車が突っ込んできて。咄嗟に車と晃成の間に飛び込んで……。
あのあと晃成はどうなったのか。無事でいるだろうか。自分がいなくなって心配しているだろう。晃成に会いたい。会って自分の無事を伝えたい。
「父さん……」
晃成を呼ぶと、叩かれたことよりも心配をさせて申し訳ないという思いが溢れてきて、梛央の瞳からぽろりと涙がこぼれる。
勝手にピアノをやめたことを晃成は怒ったのではないかもしれない。
やめる相談をしなかったことを怒ってるのかもしれない。
晃成に自分のことを知ろうともしないで、と言ってしまった。
自分のことを知ってもらう努力をせずに、勝手にだめだと言われると決めつけて内緒でピアノをやめてダンスと歌を始めてしまった。
怒られて当然のことをしたのは自分なのに。
「ごめんなさい、父さん……」
泣きながら晃成に詫びる梛央に、
「お目覚めになられましたか」
天蓋カーテン越しに穏やかな壮年の声が届いた。
布越しで姿は見えなかったが、梛央は突然の声に身を強ばらせる。
「来ないでっ。父さんのところに帰して」
シルクのような手触りの寝具や天蓋つきの豪奢な寝台。どう見ても病室ではなくて、梛央は不安に駆られて布越しに訴える。
「私はサミュエルと申します。ここはシルヴマルク王国の聖域の森と精霊の泉を管理するシアンハウスで、私はこちらで家令を務めております。受け止められないかもしれませんが、あなた様は今朝方、精霊の泉に突然落ちていらっしゃいました。その時はお一人だったとうかがっております」
「シルヴマルク王国? 精霊の泉? ここは日本じゃないの? どうして僕がここに? どうやって? 父さんは……」
自分の身に起きたことでも受け止められない梛央に、知らない国の名前や精霊という言葉は許容量をはるかに超えたものだった。
「日本という地名は私の知る限りシルヴマルク王国内でもダールベック大陸でも聞いたことがございません。いろいろと困惑されておられるでしょうが、まずはお体をお休めください。さきほど頭の傷を診ていただいたお医者さまより痛み止めと熱さましになるお薬をいただいております。水と、お口直しの果実の甘露煮も一緒にお持ちしました」
天蓋の端から水差しと薬の載ったサイドテーブルが差し出されると梛央はまたびくついたが、見えたのは男の手だけだった。
「あとでお食事をお持ちします。それまでに何かご用命があるときは寝台のわきの紐をおひきください」
「……いらない。一人にして」
梛央が拒絶すると、かしこまりました、という声とともに気配がなくなる。
怪我の治療をしてもらい、休ませてもらい、親切にしてもらっているのだという感覚はあるものの、梛央は自分の置かれている状況すらまだ受け入れられないでいた。
シアンハウスの広い庭園には色とりどりの花が朝露に濡れて輝きながら咲き誇っている。
ヴァレリラルドは朝の静謐な空気の中で、愛し子に贈るための花を慎重に選んでは慣れない手つきでハサミで茎から摘み、メイドに渡していた。
メイドが受け取った花はすでに花束にするには十分な数になっていた。
「何も殿下自ら花を摘まれなくとも。他にすべきことがあるでしょうに」
侍従のシモンが後方で苦言を呈するが、ヴァレリラルドは聞こえないふりをした。
波風を立てるのを好まないヴァレリラルドはシモンの助言を素直に受け入れているが、愛し子に花を贈りたい気持ちには水をさされたくなかった。
「何も侍従自らが殿下にむかって嫌味を言わなくてもなぁ。俺が王都を離れている間に王城では侍従の方が主人より立場が上になったのか?」
ヴァレリラルドのそばに付き従って護衛するケイレブがシモンに聞こえるように言うと、少し離れたところで待機している近衛騎士たちは明るい表情になる。
侯爵家の三男であるシモンは気位が高い。侍従としての役割を品格のある所作で務めるのは立派で有能なのだが、時として自分の美意識をヴァレリラルドに押し付けるところがあった。
それをよしとしなくとも、侯爵家出身の侍従に意見するわけにもいかない近衛騎士たちにとって、冒険者の護衛というオブザーバーからの言葉はありがたかった。
「ケイレブ殿。いくら陛下に目をかけられているとはいえ思いあがった言動は慎んでください」
「すまんすまん。俺は昔から大雑把な性格だから嫌味とかが苦手なんだ。だから貴族たちの側にいることが我慢できなくて騎士団をやめることになったんだが、それが陛下にはおもしろかったらしくてな。大事な王太子の護衛を任されることなった」
悪びれず笑うケイレブ。
「ここへの滞在は休養なんだ。休養の楽しみとしてケイレブにいろいろ教わるといいと父上が言っていた。シモンは仕事熱心だけど、ここにいるあいだはシモンも休養していていいよ」
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