曇り空の日時計

関谷俊博

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曇り空の日時計

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曇耶が電柱の陰を指さした。
「アリスがいる」
僕は沙耶が指さした場所を見たが、何も見えなかった。
「アリスって何?」
「小さい頃に飼っていたウサギ」
「ウサギ…」
僕は言葉に詰まった。
「小さい頃の話なんだろ?」
「うん、そうだよ。だからかな。こんなふうに姿を見せても、今のアリスはすぐに消えてしまうんだ。」
「小さい頃のアリスは、どうなったの」
沙耶は首を傾げた。
「それがヘンなんだあ。ある朝、起きたらアリスは家からいなくなっていたんだよ」
「いなくなった?」
僕は気味が悪くなった。
「どうして?」
「さあ、何でかなあ。だけど、それからだよ。こんなふうにアリスが見えたり、声が聞こえるようになったのは…あれはやっぱりアリスのお化けなのかもしれない。アリスは死んじゃったのかなあ」

鈴木沙耶とは高二で初めて同じクラスになった。うちのクラスには「鈴木」が二人いたから、みな自然と二人を下の名前で呼ぶようになった。
顔は日本人形のように整っていたが、沙耶が「キモい」とか「メンヘラ女」とか噂されていることは、高一の頃から伝え聴いていた。
だけど、こうして同じクラスになり、隣どうしの席になってわかったのだけれど、沙耶自身はその噂を気にしている風ではなかった。
沙耶は児童擁護施設から高校へ通っており、母親は存命という話だったが、擁護施設に引き取られた経緯については、わからない。
ただ僕自身、そんな噂は気にならなかったので、すぐに沙耶と話すようにもなったし、帰る方向も同じだったので、共に帰宅部である都合上、一緒に帰るようにもなった。

季節は六月だった。街はすりガラスを一枚へだてたように灰色にくすみ、空気は淀んで湿っていた。
「どうしたの、そのアザ」
登校してきた沙耶を見て、はっと驚いた。頬に大きな青アザをつくっている。
「転んじゃった」  
沙耶はペロッと舌をだした。
「そう。気をつけなよ」
「うん。わかったよ」 
だけど沙耶は、それからも度々、顔にアザをつくってきた。 
「そんなに良く転ぶのかい」
不思議に思って、僕は沙耶に尋ねた。
「へへ」
沙耶は悪戯っぽく笑った。
「ほんとはね。自分で自分を殴っちゃうんだ」
「えっ! どうして!」
「わからない。だけど自分で自分を殴ると、何故か心が落ち着くんだよ」

 その日の昼休み。容器に入った液剤を、沙耶が喉に流しこんでいることに、僕は気がついた。
「薬かい?」
僕が尋ねると、沙耶は頷いた。
「うん。お医者さんからもらったお薬だよ。気分が落ち着くから必ず飲みなさいって」
「そう」
「だけどほんとはね。あまり飲みたくないんだ」
沙耶は顔を歪めた。
「どうして?」
「アリスが飲むなって言うの」
「えっ!」
「薬を飲むと、あたしに会えなくなるから、寂しいって」
沙耶はまた「へへ」と笑った。
「だから時々、飲んだふりして、中身だけ洗面所に流しちゃうんだ」

雨が毎日のように降りつづいた。紫陽花の花に散りばめられた水滴は、ガラス玉のように虹色に輝いていた。
沙耶はもう一週間も学校を休んでいる。誰かに頼まれた訳ではなかったが、沙耶のいる児童擁護施設を、僕は訪ねてみることにした。
僕は予め電話を入れて、訪問する旨とその趣旨を告げた。
柏木という女性職員が対応するという話だった。
児童擁護施設「鳥が森すみれの家」は街の高台にあった。建物の壁面はクリーム色に塗られ、こぢんまりとはしているが、温かく落ち着いた佇まいだった。
玄関に入ってすぐ左が事務室で、受付で声をかけると、すぐに小柄な若い女性が出てきてくれた。
髪を後ろで束ね、皺ひとつない白いシャツは清潔そうだ。
「電話した香川です」
僕が名乗ると
「柏木と申します。こちらで相談員を兼ねて臨床心理士をしています」
女性は礼儀正しく頭を下げた。
柏木さんは施設を案内してくれたが、突き当りのロビーは思いの外広く、開放的な雰囲気があった。
施設を見学した後、事務室の奥にある接客室で、柏木さんと僕は話をした。 
接客室といっても、事務室の一角をパーテーションで仕切っただけのものだ。
「沙耶は病気なんですか」
僕は柏木さんに尋ねた。
「はい」
柏木さんはコクリと頷いた。
「病名としては統合失調症で、幻聴や幻覚の症状があります。これは母親の虐待が原因かもしれません。沙耶が施設に来た理由もそうでしたから。症状が落ち着かないので、今は学校を休ませているのです。更に原因はわからないのですが解離を起こしています」
「解離…それは何ですか」
僕は柏木さんに尋ねた。
「人はあまりにも辛い目にあうと、その記憶を心の奥深くに閉じこめてしまうことがあるのです。当然のことながら、本人は何も憶えていません。それが解離です」
「そんなこともあるのですね」 
僕は小さくため息をついた。
「ええ。何かのきっかけで思いだすこともあるのですが…。解離は自己を護ろうとする心の働きでもあるのです。思い出したはいいが、それを受け止められない場合もある得るのです」
僕は柏木さんに好感を持った。僕の質問には、誠実にきちんと答えてくれる。ペンキ職人が、少しの塗り残しもなく、壁を塗っていくようで、心地良かった。
「沙耶の解離の原因は何なのですか」
「あなたもお気づきではないでしょうか。たぶん沙耶には、小さな頃に飼っていたウサギ、アリスにまつわる何か忌まわしい体験があるのだと思います。憶測に過ぎませんが」
最後に柏木さんは、僕にこう提案してきた。
「これからは外でお会いできないでしょうか。施設でたひたび会っていれば、沙耶も不審に思いますし、聞かれたくない話もあるのです」
「どこでお会いしますか」
僕は尋ねた。
「駅前に栞という喫茶店があります。そこはいかがでしょうか」
僕は柏木さんと、スマホのメールアドレスと電話番号を交換して、施設を後にした。

それから三日後。沙耶は登校してきた。
沙耶は少し痩せたようだった。肌はすきとおるように青白く、それが彼女の美しさを際立たせていた。ムダなものが全て削ぎ落とされた感じがした。
一時限目は美術だった。僕らは美術室へ移動した。
題材は自由課題だったので、僕は沙耶に尋ねてみた。
「何を描くの」
「アリス」
キャンバスを前に、沙耶は答えた。
「きみが飼っていたウサギだね」
「そう。アリスはね。死んだ父さんに縁日で買ってもらったウサギだったんだ」   
木炭を使った下描きが始まった。
「あれ、ヘンだな」
沙耶の声に、ぼくはキャンバスを覗き込んだ。
「どうして、こんな絵を描いちゃったのかなあ」
ぼくはゾッとした。キャンバスに描かれたウサギの喉には、包丁が刺さっていた。 

その日の放課後。僕と沙耶は校庭北側の芝生に座っていた。
沙耶の抱えている病について、彼女がどう感じているのか、僕は以前から尋ねてみたかったのだが、教室の中ではさすがにそれはしづらかったのだ。
雨は降っていなかったが、幕をおろしたように、ぶあついグレーの雲が、垂れこめている。
僕らの目の前には日時計が据えられていたが、針は時刻を示してはいなかった。
「これじゃ時間がわからないね」
僕は言った。
「今日は曇ってるから」
沙耶が答えた。
「あたしは曇り空の日時計なのかなあ」
「どういうこと?」と僕は尋ねたが、それには直接答えずに、沙耶は言った。
「あたしの病気、目に見えない病気だけに誤解も受けるんだ」
「どんな誤解?」
「甘えている。逃げている。そんなことを言う人もいる…」
沙耶は哀しげに目を伏せた。
「だけどお医者さんは言ってるよ。心の病気って精神論で片づけられ勝ちだけれど、れっきとした脳の病気なんだって」
「そうか…」
「他のみんなは、前へと進んでいるのに、私だけは同じ時と場所を、グルグルとまわっているんだ。あたしの時計は時を刻まないんだよ」
「だから曇り空の日時計…」
突き刺さるような痛みが、胸に走った。
「そう…みんなにどんどん置いていかれるような気がして、哀しくなるんだ」
消え入りそうな声で、沙耶は言った。そのとき僕が感じたのは、深淵のような絶望と哀しみだった。

そんなある日の下校途中だった。
「あたし、思い出したんだよ」  
沙耶が僕に言った。
「思い出したって何を?」
「小さい頃のこと。あたしはママとデパートのおもちゃ売場に来ていて、あたしはアリスにそっくりなウサギのぬいぐるみに夢中になってるんだ」
「そう…」
「だけど気づくと、ママはいなくなっていて、あたしはママって叫ぶんだけど、ママはどこにもいないんだ。あたしは泣きだすんだけど、それでもママは来ないんだよ」
言葉が出なかった。
「そのうちデパートのお姉さんがやってきて、あたしの名前をきいて、あたしはちゃんとうちがどこかわかっていたから、デパートのお姉さんとうちに帰ったんだ」
沙耶の心の闇は、どこまで深いのだろう。
「そしたらママが恐い顔ででてきて、どこへ行ってたのって怒鳴るんだ。デパートのお姉さんには、何度も頭を下げてた。あたしが悪い子だから、ママは怒って、そんなことをしたんだね」
沙耶の言葉が哀しみとなって、ナイフのように胸に突き刺さる。
「最近、いろんなことを思い出すんだよ。どうしてかなあ」

「忘れていた小さな頃のことを思い出すというのは、沙耶があなたのことを信頼している証拠ではないでしょうか」
柏木さんはそう言うと、コーヒーカップに口をつけた。
場所は柏木さんが指定した「栞」という喫茶店である。沙耶の言葉が気になったので、僕は柏木さんに連絡を入れたのだ。
「子どもが健全に育つ為には、無条件に信頼できる誰かがいることが必要なのです。沙耶はそれを知らないまま、ここまで来てしまった。私も努力はしたのですが、力不足でした」
柏木さんは哀しそうに首をふった。
「ただ記憶が蘇ったことは一概に悪いこととも言えないのです。解離の状態から抜け出そうとしている。そう捉えることも可能な訳ですから」
「そうですか…このまま沙耶は回復していけるのでしょうか」
暫く天井を見て、柏木さんは考えていたが、やがてこう言った。
「それには条件があります」
「どんな条件ですか」 
重ねて僕は尋ねた。
「その悲惨な体験を、本人が受け入れることができれば、の話です」 
「受け入れることができなければ、沙耶はどうなるのですか」
「人格が崩壊します」
柏木さんは淡々と言った。
「言葉は悪いですが、沙耶は廃人になるのです」

日曜日の朝。僕がぐずぐずとベッドに未練を残したままでいると、スマートフォンの着信音が鳴った。
「はい」
まだ起ききらない掠れた声で僕が出ても、しばらく電話は無言だった。やがて沙耶の絞り出すような声が聞こえてきた。
「ママが死んだの…」
「えっ」
「交通事故…いまから柏木さんと行ってくる」
すぐに電話は切れた。

一週間後。僕はまた栞で柏木さんと会っていた。今回、連絡してきたのは、柏木さんの方からだった。どうしても僕に伝えたいことがあるという。
僕の分もコーヒーを注文すると、柏木さんは口を開いた。
「沙耶には黙っていますが、母親は自殺でした。バスタブの中で手首を切ったのです。そしてテーブルの上に、二冊の日記がありました」
 大きな黒い鞄から日記を取り出すと、柏木さんはテーブルの上に置いた。
「年号と日付からみて、こちらが学生の頃の日記」
 柏木さんは、右側の日記に手を置いた。確かに右側の日記の方が、表紙が色褪せている。
「そしてこちらが、沙耶の母親になってからの日記です」
「沙耶はこの日記を読んだのですか」 
僕は尋ねた。柏木さんは首をふった。
「読んでいません。この日記の存在すら知りません」
「何故ですか。自分の母親の日記です。沙耶にはこの日記を読む権利があると思いますが」
柏木さんの顔がくもった。
「書いてある内容に問題があるのです」
柏木さんの言葉はひどく乾いていた。
「この日記を読んで、私は怖ろしくさえ感じました。あなたなら信頼できる。そう思ったからお見せするのです」
「いったい何が書いてあるのですか」
「とにかく読んでみてください。こちらが沙耶の母親の学生時代の日記です。長いので読んでいただきたい箇所には、付箋が貼ってあります」
僕は日記を開き、読み始めた。

6月6日(火)
いつものように私だけ、洗面所での夕飯。味噌汁に小さな黒いものが浮いているので、顔を近づけてみたら、ゴキブリの子どもだった。トイレに味噌汁を流して、そのことを母に話したら「食べ物を粗末にするな」と殴られ、ベランダに正座させられた。とにかく今はお腹が空いた。 

6月15日(木)
「子どもができたら父さんは帰ってくると思ったのに、帰ってこない。おまえなんか産まなければ良かった」と母は言った。父が他の女の人の所にいることを、私は知っている。ときどき母は「もう嫌だ。死にたい」と言うこともある。早く死ねばいいのに、と思う。

6月19日(月)
私が宿題をするときは、いつも母が隣に座っている。私の背中に包丁を突き立てて「早く終わらせないと刺すからね」と言う。「誰かに話したら、もっと酷いことをするからね」と言うので、このことは誰にも話せない。
 
7月4日(火)
毎日が辛いので死ぬことにした。カッターナイフで手首を切ったら、血がどくどく出てきて、途中で怖くなったから一人で病院へ行った。手首に包帯を巻いて帰ってきた私を見て母は「うふふ。そんな簡単には死ぬないわよ」と笑った。

僕はため息をついて、日記を閉じた。
「最後のページもご覧になってみてください」
僕が再び日記を開くと、見開きのページ一面に「消えろ!」と書かれていた。
「沙耶の母親も、母親から虐待を受けていたんですね」
僕が暗い声で言うと、柏木さんは頷いた。
「そうです。このように児童虐待は連鎖することがあるのです。世代間連鎖と呼びます。この連鎖にはまると、底なし沼のようになかなか抜け出せなくなるのです」
柏木さんは悲しげな顔で、僕の目をじっと覗きこんだ。
「沙耶の母親は虐待者であるだけでなく、被虐待経験者でもありまし。そして被虐待経験者が解離をそのままにしておくと、自分が虐待するときも解離を起こすことがあるのです」
「どういうことでしょうか」
「今度はこちらの日記を読んでみてください。沙耶の母親が母親になってから書き始めた日記です」

5月21日(木)
学生の頃つけていた日記を、また始めることにした。自分が沙耶にしていることは、自分でもわかっているつもりだ。 
けれども気づくと、自分の母親と同じことを繰り返している。
母親が本当はどういうものか、私は知らずに育った。
沙耶にどう接していいのか、わからない。これでは子どもが子どもを育てているようなものだ。
 
5月26日(火)
沙耶の顔を見るたびに、怒りがわいてきて、あの子を殴ってしまう。本当に沙耶が悪い子に思えてきて、懲らしめなければと思ってしまうのだ。

5月29日(金)
最近、沙耶を殴っていると、頭の中が真っ白になってしまうことがある。後から思い返そうとしても、その間のことは何も憶えていない。いまに沙耶に手をかけてしまうのではないか。私は自分が怖い。

6月9日(火)
また記憶の脱落。気がつくと私は血だらけになって、包丁を握っていた。私の前には喉をかき切られたアリスが横たわっていた。沙耶には特に変わったところはない。気づいてはいないようだ。アリスは庭に穴を掘って埋めた。

「アリスを殺したのは、沙耶の母親だったのですね」 
僕は日記を閉じた。あまりのことに強い衝撃を受けていた。脈拍が速まるのを感じた。
「そして、そのことを沙耶の母親も沙耶自身も覚えていない」 
「そうです」
柏木さんは頷いた。
「アリスを殺したとき、母親は解離していました。そして当人である沙耶も解離していたのです」  
「まるで生き地獄です。救われない」
吐き気がした。悲しみが石のように胸に沈んでいく。
「この日記を読んだら、沙耶は心の奥に閉じこめたアリスの死の記憶を思い出すのではないでしょうか」
「私もそう思います。ですからあなたにだけお見せしたのです」
柏木さんは悲しげな目つきで天井を見あげた。
「虐待から立ち直る為には、母親も苦しむ一人の人間だったと気づいて、その事実を受け入れることが必要なのですが、問題は複雑です」
「沙耶はこの事実に耐えられるでしょうか」
「それは私にもわかりません。この日記を見せて良いものかどうか、本当に迷います」
自分の手のひらを見つめながら、虚ろな声で柏木さんは言った。

その夜、僕は眠れなかった。
どうすることが沙耶にとって、いちばん良いことなのか…。

「ですからアリスが殺される箇所は伏せてコピーをとり、それを沙耶に読んでもらったらどうでしょうか」
翌日。僕と柏木さんは再び「栞」で向かいあっていた。連絡を入れたのは、僕の方からだった。
僕の提案に柏木さんは躊躇しているようだった。
「たしかにリスクは減りますが、それでも危険は伴います。私としては、そのような賭けに出ることは…」
柏木さんの言葉を遮って、僕は言った。
「だけど、このままでは沙耶は前に進めないのです。彼女の時間は止まったままなのです」
「わかりました。やってみましょう」
柏木さんは一つ、小さなため息をついた。
「香川さんにお尋ねしてもいいでしょうか」
「はい」
「沙耶のことに、香川さんはどうしてそんなに懸命になれるのですか」
有無を言わせない口調だった。嘘はつけなかった。
「それは…」
僕は答えた。
「僕が沙耶に対して、好意以上のものを抱いているからだと思います」

翌日。沙耶は学校に来なかった。
柏木さんが沙耶に日記を読ませたことが予測できた為に、僕の心は乱れた。
あの日記を読んで、沙耶はどうなったんだろう?
耐え難い焦燥感が、じわじわと滲み出てくる。
居ても立っても居られなくなった僕は、担任に「気分が悪い」と言って早退することにした。
「鳥が森すみれの家」へと向かいながら、僕の心は急いた。
「沙耶に用事があります」
僕は受付にいた職員に頼んだ。
事務室に柏木さんはいなかった。
やがて、沙耶がエレベーターを降りてきた。
「歩きながら話してもいい?」
沙耶は言った。
「ここじゃなく外で話したいんだよ」
 
街の大通りを肩を並べて歩いた。顔が幾分青ざめてはいるが、今のところ沙耶にいつもと変わらない。
「ママの日記を読んだよ。柏木さんが見せてくれたんだ」
「そう」
もちろん僕は、そのことを知っていた訳だが、立場上、知らないふりをすることにした。
「ママは日記をつけていたんだ。学生の頃の日記と、ママがママになってからの日記。どちらにもママの心の内が綴られていたんだ」
 「そうなんだね」
「ママも母親、あたしにとっては、おばあちゃんだけど、その人に酷いことをされてたんだね」
僕は胸が痛んだ。母親の日記を沙耶に読ませたのは、本当に正解だったのだろうか。
「あたし、忘れてたんだ!」
突然、沙耶が顔を両手で覆って蹲った。
「あたしが忘れてたから、アリスはお化けになっちゃったんだ」
沙耶は地面に両手を着いて、吐くような格好で、泣いていた。声は高く裏返って、まるで風の中にいるように震えている。
「ママがアリスを殺したんだ…笑いながら包丁で刺したんだ…」
やはり沙耶は思い出してしまったのだ!
「あたしが悪い子だったから、アリスは死んだんだ!」 
そう叫ぶ沙耶は、無惨なほど痛々しかった。
「何言ってるんだ、沙耶!さあ、立ちなよ!」
僕が腕をつかむと、沙耶はよろよろと立ちあがった。
「アリスは、あたしを恨んでる」
「そんなことない!」
「あたしが悪い子だから、アリスは殺されちゃったんだ」
「沙耶はどこも悪くない!」
「あたしの中にアリスがいるかぎり、あたしは幸せになれないんだよ。ごめんなさい…ごめんなさい…アリス…」
沙耶はまた道端に座りこみ、自分の両肩を抱いてガクガクと震え始めた。
「あたしが殺したんだ…あたしが殺したんだ…あたしが殺したんだ…」
沙耶の呼吸は速く荒くなっていく。
「あたしが殺したんだ…あたしが殺したんだ…あたしが殺したんだ…」

「アリスが殺されてしまったのは、自分のせいだと沙耶は言っていたのでしょう」
僕は柏木さんと「栞」で、また向かいあっていた。あの後、沙耶は気を失い、救急車で病院に緊急搬送された。
「ええ。言っていました。自分が悪い子だから、アリスは殺されてしまったんだと」
胸がつぶれる思いだった。
「そう。だから沙耶は自傷行為、自分で自分を殴っていたのです。自分自身を罰する為に」

沙耶は一週間程で退院し、登校もし始めた。
人格の崩壊は免れたが、沙耶はおどおどして酷く怯えていた。
「あたしがもし結婚して子どもができたら、その子にも同じことをしちゃうのかな」
下校途中、沙耶はつぶやいた。
「そんなのヤダよ」
ふりむくと、沙耶の頬を涙がつたっていた。
「そんなことはないさ」
何の根拠もなかったが、僕は言った。
「そんなことは絶対にない」

「たぶん一進一退を繰り返しながら、ゆっくりと治していく以外にないのでしょうね」 
柏木さんは言った。僕と柏木さんは、今日も「栞」に来ている。
「だけど私は悲観はしていません。あなたのように沙耶の味方になってくれる方がいれば、あの子は大丈夫だと思っているんですよ」
柏木さんは僕の心をさぐるように、じっと目をのぞきこんできた。
「香川さんは、これからも沙耶の味方でいてくれますか」 
柏木さんは言った。
「もちろん」
僕が答えると、柏木さんは目を細めて微笑んだ。

柏木さんとの約束通り、僕は今でも沙耶と一緒に下校している。沙耶に寄り添うことしか、僕にはできないのだ。
僕は沙耶にこう尋ねる。
「聞こえるかい。アリスの声」
沙耶は黙って耳をすませていたが、首をふる。
「ううん。聞こえない。風の音だけだよ」
「それなら僕にも聞こえる。風に吹かれて、電線が鳴っているね」

曇り空のもと、日時計の影は見えない。時は止まったかのように思える。だが実際には着実に時は刻まれているのだ。
だからぼくは待ちつづけよう。雲の切れ目からひと条の日が差すその朝を。願いつづけよう。ふたたび日時計が時を刻み始めるその日々を。
それはきっと、そう遠くない、いつか…。
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