夏の破片

関谷俊博

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「麻里さんと離れなければ、僕の人生も変わっていたかもしれません。良くそう思うんです」
僕が言うと麻里さんは頷いた。
「そうね。だけど時は巻き戻せない」
麻里さんは又淋しそうに笑った。
「誤った方向に廻り始めた歯車は止まらなかった。私の意思とは無関係に教団は暴走を始めたの。実際の教団の運営は、主人が仕切っていた。主人に勧められるがままに整形も声帯手術もしたわ…顔も声も経歴も全て変えた方がいいって…」
「だけど今の麻里さんの顔は、僕の良く知っている麻里さんですよ。高校時代の麻里さん、そのままだ」
「そうね。やっぱりこっちの方がいいでしょう」
「ええ、ずっといいです。僕が憧れていた、あの麻里さんです」
僕は言った。
「もう行かなくちゃ」
一度は背中を向けて歩き始めた麻里さんだったが、ふと立ち止まると振り返った。
「ねえ、キスしたことある?」
麻里さんは悪戯っぽく笑った。
「ありますよ、もちろん」
僕は答えた。
「だけど初めてのキスに勝るものはありませんでした」
麻里さんは顔を歪めて泣きそうになったが、無理やり笑顔をつくった。
「さよなら…トモヒロ…」
麻里さんは柔らかく微笑んだ。

気がつくと僕はまた池袋の雑踏にいた。死ぬまで麻里さんを忘れることはできないのだろうな、と僕は思った。僕は求めつづけるしかないのだろう。プールのカルキの匂いや、夕立ちが来る前の微かな雨の気配を。夏祭りやソーダ水の泡の酷く冷酷な残滓を。
ばらばらに砕け散った夏のかけらをかき集めて、アドレッセンスの夏を追いつづけるしかないのだろう。
だがアドレッセンスは余りにも遠い。



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