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チェシャ猫の弁明
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僕は猫である。名前はチェシャ猫。ご存知の通り「不思議の国のアリス」に登場する猫である。「チェシャ猫」が僕の名前を指しているのか、猫の類型を指しているのか、そこは問わないことにする。そこに拘ると話が前に進まなくなるし、もともと僕には名前なんてなかったのだ。
ここで僕が弁明を試みたいのは、例の「ニヤニヤ笑い」についてである。「不思議の国のアリス」によれば、僕はアリスに、帽子屋と三月ウサギの行方を教えた後で「ニヤニヤ笑い」を残して消えたことになっている。もちろん、これは「笑わない猫」(a cat without a grin)を「猫のない笑い」(a grin without a cat) に言い換えたキャロルの言葉遊びである。
しかし、いくら言葉遊びとはいえ、姿を消した後に「ニヤニヤ笑い」だけを残していくというのは失礼千万な話だと思うのだ。いま、この場を借りて、僕はきみたちに弁明を試みたい。
さて、真実を伝える前に、ここで量子力学の話をすることを、僕に許してほしい。少し退屈かもしれないが、この説明を省略してしまうと、後で何が何だかわからなくなってしまうのだ。どうしても必要な前知識として聞いてほしい。量子力学を確立したボーアは、こう述べている。
実験を開始したとき、その結果はまだ決まっていない。結果を測定した瞬間に結果は確率的に決まる。
えっ? 難しいって? それなら別の例え話をしよう。
僕が今、きみの右後ろに寝そべっているとする。だけど、きみが前を向いて僕を見ていない時、僕が右後ろに寝そべってのいるのか、左後ろに寝そべっているのか、実は決まっていないのだ。きみが振り返って、僕を観測してくれた瞬間に、僕の位置が決まるのだ。
もう少し詳しく説明するとこうなる。
きみが前を向いている間、僕は右後ろと左後ろ、両方に五十%の確率で寝そべっているのだ。きみが振り返って僕を見てくれた瞬間、僕が右後ろに寝そべっている確率は五十%なのだ。
このような法則性をボーアは「実験開始時には実験結果はまだ決まらない。結果を測定した瞬間に、結果は確率的に決まる」とした。
この考えを気にくわなかったのが、かのアインシュタイン。「実験結果を測定した瞬間に、結果は確率的に決まる」とするボーアの考えに対して「神はサイコロをふりたまわない」といって批判した。
ボーアの考えを気にくわなかったのは、アインシュタインだけじゃない。シュレーディンガーっていう人も「シュレーディンガーの猫」と呼ばれる思考実験をして、ボーアを批判している。こんな思考実験だ。
猫を箱に入れたとするだろ。もちろん中は見えない。そして、この箱には「一時間以内に五十%の確率で崩壊する放射性原子」と「原子の崩壊を感知すると毒ガスを出す装置」も一緒に入ってるんだ。
すると一時間後には「生きている状態と死んでいる状態が、半分半分で重なりあった猫」という不思議な存在が出てきちゃうじゃないか?
果たして猫は生きているのか、死んでいるのか? こんな馬鹿な話があるかよ!
シュレーディンガーが言っていることは、もっともだと思う。だけど、数字を扱う人は、どうしてこうも猫が好きなんだろう。キャロルも生涯、数学教師だったし。
難しい話が続いたので、ここで少し話題を変えて「不思議の国のアリス」の成立過程をみてみよう。
元々「不思議の国のアリス」は、ただ一人の少女への贈り物だった。少女の名は当時十歳のアリス・リデル。一八六二年のその日、ピクニックにアリスたちを誘ったキャロルは、テムズ川をボートで下りながら、即興で作った話をアリスに聴かせた。この物語を気に入ったアリスは、書き留めておいてくれるように、キャロルにせがんだ。
キャロルは内容を膨らませて執筆を続け、一八六四年の末に、手書きの本をアリスにプレゼントする。この本が「不思議の国のアリス」の元型となった「地下の国のアリス」である。
ところが「地下の国のアリス」では、まだ僕は登場しない。知人に勧められたキャロルは「地下の国のアリス」を更に加筆・修正する。そして一八六五年に出版されたのが「不思議の国のアリス」。ここで初めて僕は登場することになる。
つまりテムズ川でキャロルが話をした時点で、或いは「地下の国のアリス」をキャロルがアリスに贈った時点で、僕はまだアリスと出逢っていないのだ。以下は「不思議の国のアリス」で、僕がアリスと初めて出逢ったときの会話である。
「ねえ、此処から私がどの道を行けばいいのか教えてくれる?」
「それは、きみが何処へ行きたいかによるなあ」
「何処だっていいわ」
「それならどの道だって構わないじゃないか」
「何処かへ辿り着きさえすればね」
「えっ、それならちゃんと辿り着けるよ。歩き続けてさえいれば」
僕が至極真っ当に論理的な話をしていることが理解できるだろうか。非論理的なのはアリスの方なのだ。僕はアリスと出逢うのは初めてだったし、何処へ行きたいのかもわからなかった。以下、僕とアリスの会話は次のように続く。
「この辺にはどんな人が住んでいるの?」
「こっちには帽子屋が住んでいて、あっちには三月ウサギが住んでいるよ。好きな方を訪ねてみてごらん。どっちもマトモじゃないけどね」
「私、マトモじゃない人の所には行きたくないわ」
「うん。だけど仕方ないよ。この辺りにいるのは、みんなマトモじゃないんだ。僕もそうだし、きみもそうだよ」
僕としては精一杯の親切のつもりだった。アリスが何処へ行きたいのかはわからないけれど、必要な情報は伝えてあげようと考えたのだ。それにこの文章を書いたのはキャロルだから、その最終的な責任はキャロルにある。僕の知ったことじゃない。
話は変わるが、キャロルがロリータ・コンプレックスだったという説がある。キャロルは写真が趣味で、アリス・リデルの少女ヌードも撮影しているのだが、アリスを本当に性的対象として見ていたかどうかはわからない。だけど「地下の国のアリス」を贈る際、その巻頭に「親愛なる子へ。あの夏の日の思い出を、クリスマス・プレゼントとして贈る」と書いているほどだから、この小さな友人を愛していたのは確かなことだと思う(どのように愛していたかはわからないにしても)。
その愛すべきアリス・リデルを、キャロルは「マトモじゃない」と言い放っている。まあ、僕にしてみれば、こんな非論理的な会話をするアリスは「マトモじゃない」と思ったという解釈も成り立つ訳だけれど、この文章を綴ったのはキャロルだから、これはキャロルが考えたことなのだ(僕が「マトモじゃない」のは後々わかる)。
では何故、キャロルはアリスを「マトモじゃない」と考えたのだろう。この気持ちを僕は理解できる気がする。たぶんキャロルは自分を「マトモじゃない」と感じていて、アリスも「マトモじゃない」と考えることで、特別な関係を作りたかったんじゃないだろうか。キャロルには吃音というコンプレックスがあった。そして生涯、独身を通した。だけど、これは僕の憶測に過ぎないので、キャロルに敬意を払い、これ以上は述べない。
本題に戻ろう。
先程の「シュレーディンガーの猫」の話の続きだ。「実験開始時には実験結果はまだ決まらない。結果を測定した瞬間に、結果は確率的に決まる」。このボーアの主張を、シュレーディンガーが思考実験で批判したことは、先に述べた。だが「シュレーディンガーの猫」の矛盾を解きほぐす画期的な論文が、一九五七年に発表される。当時、プリンストン大学の大学院生であったエヴェレットが著した「並行宇宙論」である。
エヴェレットは論文の中で、こう主張する。観測することによって一つの現実は確定するが、もう一つの現実はまた別に存在しており、無限に分岐していく。つまり、観測は並行世界、パラレルワールドを生み出すのである。かくして「シュレーディンガーの猫」の問題は解決する。猫が生きている世界と、猫が死んでいる世界が、並行して別々に存在するからだ。
ここまで長々と説明してきたのだから、もう僕の正体を明かしてもいいだろう。
僕は、あらゆる並行世界、パラレルワールドを自在に往き来することができる猫なのだ。
「ニヤニヤ笑い」をする「チェシャ猫」が登場する「不思議の国のアリス」が存在する並行世界もあれば、「ニヤニヤ笑い」をしない「チェシャ猫」が登場する「不思議の国のアリス」が存在する並行世界もある。そもそも「不思議の国のアリス」という物語が存在しない並行世界だってあるかもしれない。並行世界が無限に存在するならば、パラレルワールドを自在に往き来できる猫がいる世界が存在してもいいだろう?
そして、これは小説にも言える。きみが「不思議の国のアリス」で、僕が登場する場面を読んだ瞬間に、パラレルワールドが発生する。つまり無限の小説展開が発生するのだ。
これは現実にも適ったことだと思う。現在、読むことができる「不思議の国のアリス」は、あらゆる可能性の中の一つに過ぎない。全く異なるストーリーを持つ「不思議の国のアリス」もあり得るのだ。
僕とキャロルが出逢ったのは偶然だった。これまで訪れたことのない並行世界ヘ行こうとして、辿り着いた先が、たまたまキャロルの書斎だったって訳だ。キャロルは「不思議の国のアリス」加筆・修正の真っ最中だった。
それが誰であれ、突然現れたらきっと驚くだろうと思ったから、僕は笑いながら出現することにした。
僕としては友好的であることを示す精一杯の笑みだったのだけれど、肝を潰したキャロルには「ニヤニヤ笑い」にしか見えなかったらしい。
「うわぉ!」
突然、目の前の壁から顔を出した僕に気づいて、キャロルは椅子からずり落ちた。
「き、き、きみは猫の亡霊か?」
「そのようなものではありません。ただの猫です」
礼儀正しく、僕は答えた。
「と、と、とてもそうは思えないが…笑う猫は初めて見た。何故笑っているのかね?」
そこが「猫が笑わない世界」だなんて、もちろん僕は知らなかった。僕はその質問を無視して、キャロルに尋ねた。
「ねえねえ、なに書いてるの?」
「しししし、小説だ」
激しくドモりながら、キャロルは答えた。
「へえ、小説。その小説に僕を登場させてくれないかな」
僕としては、ちょっとした悪戯心のつもりだったのだ。
「き、きみは何て名前だ?」
「名前はまだないんだけど」
「な、な、名前がなくては、小説には登場させられない」
「ここはチェシャ州でしょ。だからチェシャ猫とでも呼べばいいよ」
そして綺麗さっぱり、僕は別の並行世界へと消えた。「ニヤニヤ笑い」なんて残さなかったはずだ。
「不思議の国のアリス」で「ニヤニヤ笑い」を残して消えた「チェシャ猫」は、僕をモデルにした虚構の「チェシャ猫」だったのだ。あたかも「不思議の国のアリス」の「アリス」が、アリス・リデルをモデルにした虚構の「アリス」だったように。
「不思議の国のアリス」で、僕が消えた後にアリスが見た「ニヤニヤ笑い」が何だったかって? それは僕にもわからない。そもそもが虚構内の出来事だし、自分の「ニヤニヤ笑い」を見ようとしても、既に僕は消えていたのだ。
ただ、量子力学の最新の研究では、量子とその性質を分離できることが実証されており、研究者たちはこの現象を「量子チェシャ猫」と呼んでいる。つまり「チェシャ猫」である僕と、その性質である「ニヤニヤ笑い」を分離することが、粒子の世界では可能であるということだ。
僕は晩年のアリス・ハーグリーヴズ(結婚して姓を変えていた)の元を訪れたこともある。
「こんにちは」
僕がテーブルから、にょきっと顔を覗かせても、アリスは驚かなかった。その時にはもう、夢と現実の区別がつかなくなっていたのかもしれない。
「あら、久しぶりね。チェシャ猫ちゃん。懐かしいわ。だけど、ニヤニヤ笑いはどうしたのかしら?」
「ニヤニヤ笑いは虚構内だけにしたんですよ。この世界の猫は笑わないって学んだんです」
「とても賢いのね。チェシャ猫ちゃん」
アリスは何度も頷きながら、眼を細めて僕を眺めた。
「そういえば、コロンビア大学から名誉博士号を贈られたんですね、アリス・ハーグリーヴズ博士。おめでとうございます」
「やめてちょうだい。そんなこと、もうどうでもいいことよ」
アリスは口元に笑みを浮かべた。
「この歳になってみると、私の人生は、あのテムズ川の緩やかな流れのようなものだった気がするのよ」
「あなたは二人の息子さんを戦争で亡くしていますよね。それでも?」
「それでもよ」
ハーグリーヴズ夫人は再び微笑むと、優しく僕の喉をくすぐった。
「お別れなのね。チェシャ猫ちゃん」
「ええ。お別れです」
「名残惜しいわ。でも、さよならね。チェシャ猫ちゃん」
「さよなら」
僕はアリス・ハーグリーヴズの元からゆっくりと消えた。
そして一九三四年十一月、アリスは三男キャリルと妹ローダに見守られながら、静かに息を引き取る。享年八十二歳だった。
僕の弁明も終りに近づいたようだ。この話は弁明だから、出来うるなら、多くの人に読まれることを僕は望む。
現実の僕も虚構の僕も、並行世界のあらゆる場所に出現する。時代を超えて、膨大な数の書物や映画に僕が登場するのも「不思議の国のアリス」の読者によって、小説世界が無限に分岐し続けているからだ。
ところでこの弁明だが、いま、きみが読んでいるこの物語の作者の前に現れて、僕は頼みこんだのだ。僕の弁明をしてほしいって。キャロルの時と同じだ。僕は今も自在に並行世界を駆け巡っている。
ここで僕が弁明を試みたいのは、例の「ニヤニヤ笑い」についてである。「不思議の国のアリス」によれば、僕はアリスに、帽子屋と三月ウサギの行方を教えた後で「ニヤニヤ笑い」を残して消えたことになっている。もちろん、これは「笑わない猫」(a cat without a grin)を「猫のない笑い」(a grin without a cat) に言い換えたキャロルの言葉遊びである。
しかし、いくら言葉遊びとはいえ、姿を消した後に「ニヤニヤ笑い」だけを残していくというのは失礼千万な話だと思うのだ。いま、この場を借りて、僕はきみたちに弁明を試みたい。
さて、真実を伝える前に、ここで量子力学の話をすることを、僕に許してほしい。少し退屈かもしれないが、この説明を省略してしまうと、後で何が何だかわからなくなってしまうのだ。どうしても必要な前知識として聞いてほしい。量子力学を確立したボーアは、こう述べている。
実験を開始したとき、その結果はまだ決まっていない。結果を測定した瞬間に結果は確率的に決まる。
えっ? 難しいって? それなら別の例え話をしよう。
僕が今、きみの右後ろに寝そべっているとする。だけど、きみが前を向いて僕を見ていない時、僕が右後ろに寝そべってのいるのか、左後ろに寝そべっているのか、実は決まっていないのだ。きみが振り返って、僕を観測してくれた瞬間に、僕の位置が決まるのだ。
もう少し詳しく説明するとこうなる。
きみが前を向いている間、僕は右後ろと左後ろ、両方に五十%の確率で寝そべっているのだ。きみが振り返って僕を見てくれた瞬間、僕が右後ろに寝そべっている確率は五十%なのだ。
このような法則性をボーアは「実験開始時には実験結果はまだ決まらない。結果を測定した瞬間に、結果は確率的に決まる」とした。
この考えを気にくわなかったのが、かのアインシュタイン。「実験結果を測定した瞬間に、結果は確率的に決まる」とするボーアの考えに対して「神はサイコロをふりたまわない」といって批判した。
ボーアの考えを気にくわなかったのは、アインシュタインだけじゃない。シュレーディンガーっていう人も「シュレーディンガーの猫」と呼ばれる思考実験をして、ボーアを批判している。こんな思考実験だ。
猫を箱に入れたとするだろ。もちろん中は見えない。そして、この箱には「一時間以内に五十%の確率で崩壊する放射性原子」と「原子の崩壊を感知すると毒ガスを出す装置」も一緒に入ってるんだ。
すると一時間後には「生きている状態と死んでいる状態が、半分半分で重なりあった猫」という不思議な存在が出てきちゃうじゃないか?
果たして猫は生きているのか、死んでいるのか? こんな馬鹿な話があるかよ!
シュレーディンガーが言っていることは、もっともだと思う。だけど、数字を扱う人は、どうしてこうも猫が好きなんだろう。キャロルも生涯、数学教師だったし。
難しい話が続いたので、ここで少し話題を変えて「不思議の国のアリス」の成立過程をみてみよう。
元々「不思議の国のアリス」は、ただ一人の少女への贈り物だった。少女の名は当時十歳のアリス・リデル。一八六二年のその日、ピクニックにアリスたちを誘ったキャロルは、テムズ川をボートで下りながら、即興で作った話をアリスに聴かせた。この物語を気に入ったアリスは、書き留めておいてくれるように、キャロルにせがんだ。
キャロルは内容を膨らませて執筆を続け、一八六四年の末に、手書きの本をアリスにプレゼントする。この本が「不思議の国のアリス」の元型となった「地下の国のアリス」である。
ところが「地下の国のアリス」では、まだ僕は登場しない。知人に勧められたキャロルは「地下の国のアリス」を更に加筆・修正する。そして一八六五年に出版されたのが「不思議の国のアリス」。ここで初めて僕は登場することになる。
つまりテムズ川でキャロルが話をした時点で、或いは「地下の国のアリス」をキャロルがアリスに贈った時点で、僕はまだアリスと出逢っていないのだ。以下は「不思議の国のアリス」で、僕がアリスと初めて出逢ったときの会話である。
「ねえ、此処から私がどの道を行けばいいのか教えてくれる?」
「それは、きみが何処へ行きたいかによるなあ」
「何処だっていいわ」
「それならどの道だって構わないじゃないか」
「何処かへ辿り着きさえすればね」
「えっ、それならちゃんと辿り着けるよ。歩き続けてさえいれば」
僕が至極真っ当に論理的な話をしていることが理解できるだろうか。非論理的なのはアリスの方なのだ。僕はアリスと出逢うのは初めてだったし、何処へ行きたいのかもわからなかった。以下、僕とアリスの会話は次のように続く。
「この辺にはどんな人が住んでいるの?」
「こっちには帽子屋が住んでいて、あっちには三月ウサギが住んでいるよ。好きな方を訪ねてみてごらん。どっちもマトモじゃないけどね」
「私、マトモじゃない人の所には行きたくないわ」
「うん。だけど仕方ないよ。この辺りにいるのは、みんなマトモじゃないんだ。僕もそうだし、きみもそうだよ」
僕としては精一杯の親切のつもりだった。アリスが何処へ行きたいのかはわからないけれど、必要な情報は伝えてあげようと考えたのだ。それにこの文章を書いたのはキャロルだから、その最終的な責任はキャロルにある。僕の知ったことじゃない。
話は変わるが、キャロルがロリータ・コンプレックスだったという説がある。キャロルは写真が趣味で、アリス・リデルの少女ヌードも撮影しているのだが、アリスを本当に性的対象として見ていたかどうかはわからない。だけど「地下の国のアリス」を贈る際、その巻頭に「親愛なる子へ。あの夏の日の思い出を、クリスマス・プレゼントとして贈る」と書いているほどだから、この小さな友人を愛していたのは確かなことだと思う(どのように愛していたかはわからないにしても)。
その愛すべきアリス・リデルを、キャロルは「マトモじゃない」と言い放っている。まあ、僕にしてみれば、こんな非論理的な会話をするアリスは「マトモじゃない」と思ったという解釈も成り立つ訳だけれど、この文章を綴ったのはキャロルだから、これはキャロルが考えたことなのだ(僕が「マトモじゃない」のは後々わかる)。
では何故、キャロルはアリスを「マトモじゃない」と考えたのだろう。この気持ちを僕は理解できる気がする。たぶんキャロルは自分を「マトモじゃない」と感じていて、アリスも「マトモじゃない」と考えることで、特別な関係を作りたかったんじゃないだろうか。キャロルには吃音というコンプレックスがあった。そして生涯、独身を通した。だけど、これは僕の憶測に過ぎないので、キャロルに敬意を払い、これ以上は述べない。
本題に戻ろう。
先程の「シュレーディンガーの猫」の話の続きだ。「実験開始時には実験結果はまだ決まらない。結果を測定した瞬間に、結果は確率的に決まる」。このボーアの主張を、シュレーディンガーが思考実験で批判したことは、先に述べた。だが「シュレーディンガーの猫」の矛盾を解きほぐす画期的な論文が、一九五七年に発表される。当時、プリンストン大学の大学院生であったエヴェレットが著した「並行宇宙論」である。
エヴェレットは論文の中で、こう主張する。観測することによって一つの現実は確定するが、もう一つの現実はまた別に存在しており、無限に分岐していく。つまり、観測は並行世界、パラレルワールドを生み出すのである。かくして「シュレーディンガーの猫」の問題は解決する。猫が生きている世界と、猫が死んでいる世界が、並行して別々に存在するからだ。
ここまで長々と説明してきたのだから、もう僕の正体を明かしてもいいだろう。
僕は、あらゆる並行世界、パラレルワールドを自在に往き来することができる猫なのだ。
「ニヤニヤ笑い」をする「チェシャ猫」が登場する「不思議の国のアリス」が存在する並行世界もあれば、「ニヤニヤ笑い」をしない「チェシャ猫」が登場する「不思議の国のアリス」が存在する並行世界もある。そもそも「不思議の国のアリス」という物語が存在しない並行世界だってあるかもしれない。並行世界が無限に存在するならば、パラレルワールドを自在に往き来できる猫がいる世界が存在してもいいだろう?
そして、これは小説にも言える。きみが「不思議の国のアリス」で、僕が登場する場面を読んだ瞬間に、パラレルワールドが発生する。つまり無限の小説展開が発生するのだ。
これは現実にも適ったことだと思う。現在、読むことができる「不思議の国のアリス」は、あらゆる可能性の中の一つに過ぎない。全く異なるストーリーを持つ「不思議の国のアリス」もあり得るのだ。
僕とキャロルが出逢ったのは偶然だった。これまで訪れたことのない並行世界ヘ行こうとして、辿り着いた先が、たまたまキャロルの書斎だったって訳だ。キャロルは「不思議の国のアリス」加筆・修正の真っ最中だった。
それが誰であれ、突然現れたらきっと驚くだろうと思ったから、僕は笑いながら出現することにした。
僕としては友好的であることを示す精一杯の笑みだったのだけれど、肝を潰したキャロルには「ニヤニヤ笑い」にしか見えなかったらしい。
「うわぉ!」
突然、目の前の壁から顔を出した僕に気づいて、キャロルは椅子からずり落ちた。
「き、き、きみは猫の亡霊か?」
「そのようなものではありません。ただの猫です」
礼儀正しく、僕は答えた。
「と、と、とてもそうは思えないが…笑う猫は初めて見た。何故笑っているのかね?」
そこが「猫が笑わない世界」だなんて、もちろん僕は知らなかった。僕はその質問を無視して、キャロルに尋ねた。
「ねえねえ、なに書いてるの?」
「しししし、小説だ」
激しくドモりながら、キャロルは答えた。
「へえ、小説。その小説に僕を登場させてくれないかな」
僕としては、ちょっとした悪戯心のつもりだったのだ。
「き、きみは何て名前だ?」
「名前はまだないんだけど」
「な、な、名前がなくては、小説には登場させられない」
「ここはチェシャ州でしょ。だからチェシャ猫とでも呼べばいいよ」
そして綺麗さっぱり、僕は別の並行世界へと消えた。「ニヤニヤ笑い」なんて残さなかったはずだ。
「不思議の国のアリス」で「ニヤニヤ笑い」を残して消えた「チェシャ猫」は、僕をモデルにした虚構の「チェシャ猫」だったのだ。あたかも「不思議の国のアリス」の「アリス」が、アリス・リデルをモデルにした虚構の「アリス」だったように。
「不思議の国のアリス」で、僕が消えた後にアリスが見た「ニヤニヤ笑い」が何だったかって? それは僕にもわからない。そもそもが虚構内の出来事だし、自分の「ニヤニヤ笑い」を見ようとしても、既に僕は消えていたのだ。
ただ、量子力学の最新の研究では、量子とその性質を分離できることが実証されており、研究者たちはこの現象を「量子チェシャ猫」と呼んでいる。つまり「チェシャ猫」である僕と、その性質である「ニヤニヤ笑い」を分離することが、粒子の世界では可能であるということだ。
僕は晩年のアリス・ハーグリーヴズ(結婚して姓を変えていた)の元を訪れたこともある。
「こんにちは」
僕がテーブルから、にょきっと顔を覗かせても、アリスは驚かなかった。その時にはもう、夢と現実の区別がつかなくなっていたのかもしれない。
「あら、久しぶりね。チェシャ猫ちゃん。懐かしいわ。だけど、ニヤニヤ笑いはどうしたのかしら?」
「ニヤニヤ笑いは虚構内だけにしたんですよ。この世界の猫は笑わないって学んだんです」
「とても賢いのね。チェシャ猫ちゃん」
アリスは何度も頷きながら、眼を細めて僕を眺めた。
「そういえば、コロンビア大学から名誉博士号を贈られたんですね、アリス・ハーグリーヴズ博士。おめでとうございます」
「やめてちょうだい。そんなこと、もうどうでもいいことよ」
アリスは口元に笑みを浮かべた。
「この歳になってみると、私の人生は、あのテムズ川の緩やかな流れのようなものだった気がするのよ」
「あなたは二人の息子さんを戦争で亡くしていますよね。それでも?」
「それでもよ」
ハーグリーヴズ夫人は再び微笑むと、優しく僕の喉をくすぐった。
「お別れなのね。チェシャ猫ちゃん」
「ええ。お別れです」
「名残惜しいわ。でも、さよならね。チェシャ猫ちゃん」
「さよなら」
僕はアリス・ハーグリーヴズの元からゆっくりと消えた。
そして一九三四年十一月、アリスは三男キャリルと妹ローダに見守られながら、静かに息を引き取る。享年八十二歳だった。
僕の弁明も終りに近づいたようだ。この話は弁明だから、出来うるなら、多くの人に読まれることを僕は望む。
現実の僕も虚構の僕も、並行世界のあらゆる場所に出現する。時代を超えて、膨大な数の書物や映画に僕が登場するのも「不思議の国のアリス」の読者によって、小説世界が無限に分岐し続けているからだ。
ところでこの弁明だが、いま、きみが読んでいるこの物語の作者の前に現れて、僕は頼みこんだのだ。僕の弁明をしてほしいって。キャロルの時と同じだ。僕は今も自在に並行世界を駆け巡っている。
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