殉教

関谷俊博

文字の大きさ
1 / 1

殉教

しおりを挟む
「吉江。訳してみろ」
クラス担任で英語教員の大谷が言うと、
「は、は、はい」
吉江は、ピョンと勢い良く、立ち上がった。
クスクスという笑い声が、クラス中に広まった。
「あ、あの…」
顔を真っ赤にしたまま、吉江は固まってしまった。
「もういい。座れ」
大谷は苦り切った顔で言った。
「す、すみません」
「じゃあ、菱川。訳してみろ」
「はい」
菱川は、すらすらと、訳し始めた。
「よし。完璧だ。座れ」
「はい」
菱川は、何事もなかったかのように、腰をおろした。
吉江は、ポケットから出した白いハンカチで、流れ落ちる汗を、しきりにぬぐっている。
何度も瞬きしながら、まだ顔を赤くしていた。
この吉江というヤツ。
分厚い黒縁眼鏡に、七三分け。後ろ髪には、なぜか寝癖が、いつもピンとはねている。
高二のクラス替えで一緒になったが、さえない。まったくさえない。
「なあ、吉江。その黒縁眼鏡、どうにかならないのか?」
俺は吉江にそう提案したことがある。
「どうにかって?」
「もっと普通のがあるだろう」
「これに慣れてるから、他のにすると落ち着かないんだよ」
そんな答えが返ってきただけだった。

次の休み時間。
菱川のまわりで、笑い声があがっている。
菱川のまわりには、いつも人が集まる。
クラスの人気者。
それが菱川の立ち位置だ。
だけど、俺は何故か、菱川のことが好きになれなかった。
頭の回転も早い。勉強も体育も良くできる。それを鼻にもかける様子もなく、冗談も言うから、女子の受けもいい。
だけど、それだけだ。
菱川は、風見鶏のように、まわりの空気を読んで、クルクルと回っているだけなのだ。
空っぽだ、と俺は思った。
空っぽの風見鶏。
まわりのヤツらは、果たしてそれに気づいているのだろうか?

学校の外で、俺が吉江と会ったのは、その週の日曜日。俺が近くの教会の前を通りかかったときだ。
教会から出てくる吉江と目があった。
「なんだ、吉江。クリスチャンなのか?」
「うん」
「めずらしいな。信じるようになったきっかけとか、何かあるのかよ?」
「きっかけは別に何もないよ」
吉江は、学校とは大違いの、明るくはきはきした声で言った。
「親がそうだから、ぼくも自然に教会へ通うようになったんだ。良かったら神楽くんもおいでよ」
「いや、俺はいい」
俺はかぶりをふった。
「せっかく誘ってくれたのに悪いけど、俺はたぶん神を憎んでるのさ」
「憎んでいる?」
「ああ。神っていうのが、本当にいたらな」

あくる日。登校途中。
身をすくめるようにして、俺の前を歩いている生徒がいた。
吉江だった。
あいつは、いつもああして、肩をすくめて登校しているのだろうか。
吉江のすぐ後ろから、俺は教室へ入った。
すると、机の前で、吉江が立ちすくんだ。
吉江の机には、チョークで、こうなぐり書きがされていた。
「汚ないヤツ! 風呂入れ!」
吉江は、少しの間、悲しそうな顔をしていたが、やがてポケットからハンカチを取り出すと、そのチョークの文字をふき取った。
「吉江…」
一部始終を見ていた俺に、怒りが込み上げてきた。
「誰だよ! こんなことしたやつは!」
こんなことをしたヤツも馬鹿だが、こんなことをされて黙っている吉江も吉江だ!
「俺が先生に言ってやる!」
「いいんだよ」
吉江はさみしそうに笑った。
「こういうのには慣れてるんだ」

その日の授業が終わり、俺が学校を出ようとしたときだ。
校門のすぐわきに、若い男が立っているのに、俺は気がついた。
目線は宙をさまよい、何かぶつぶつとつぶやいている。
そのほとんどは聞き取れなかったが、その一言だけは、はっきりと聞こえた。
「ジゴクヘオチロ…」
やはり、この世界は狂っている、と俺は思った。

それに気づいたのは、あくる日の二時限めの休み時間だった。
机に座った吉江の足元を見て、俺は、はっとした。
吉江は、何も履かず、靴下のままでいるのだ。
「おまえ、上履き、どうしたんだよ?」
「ないんだ」
吉江は悲しそうな顔をした。
「おかしいな。昨日帰るときは、ちゃんとあったんだよ」
「おまえ…」
俺の心に怒りが込み上げてきた。
「嫌がらせだよ! おまえ、いじめられてるんだよ! わからないのか!」
こっちをちらちら見ながら、くすくす笑いあっている生徒がいるのに、俺は気づいた。
菱川たちだ。
きっとあいつらがやったんだ。
「ぼくだって、誰がやったのかは、だいたいわかっているよ」
吉江は肩をすくめた。
「こんなのは、まだいい方だよ。トイレに入っていたら、上から水をかけられたこともあるんだ」
「だからって、おまえ…」
「菱川くんは勉強も良くできて、先生たちに受けもいいもの」
確かに菱川は、先生たちの受けもいい。
「言ったところで、まともに取り合ってはくれないよ」
「おまえ、そんなんだから、いじめられるんだ」
俺は言った。
「もっと自己主張しないと、生きていけないぜ」
すると、吉江はさみしそうに笑った。
「どこへ行っても、ぼくは評判が悪いんだ」
自分に言い聞かせるように、吉江は言った。
「これ以上、悪くなることはないから、ぼくはこれでいいんだよ」

その日。俺は吉江と一緒に帰った。
俺は吉江と少し話がしたくなったのだ。
「神を憎んでいるって、神楽くんは言ったよね?」
俺の目をのぞきこんで、吉江は言った。
「ああ、そうだ」
「それは何故なの?」
話してみる気になったのは、自分の気持ちを吉江に伝えたかったからか。
「もっとガキの頃の話だ。お袋が病気になって余命宣告を受けた」
吉江は黙って、俺の話を聞いていた。
「医者が言うには、あと三ヶ月の命だという。子供ながらに俺は祈ったよ。神さま、助けてってな。今のおまえと同じように、祈ったんだ」
「そう」
「だけど神は何も答えてくれなかった。三ヶ月もたずに、お袋は亡くなったよ」
「だから神様を憎んでるんだね」
「そうだ。そして、俺は力が欲しいんだ」
「それは、どんな力なの?」
「この不完全な世界の馬鹿げた出来事に耐えていく力さ」
「不完全な世界…」
吉江はつぶやいた。
「教会では、この世界をつくった神様は、完全だって教えられたよ。確かにこの世界には、納得できない出来事がたくさんあるけれど…」
「この世界の成り立ちそのものが、狂っているのさ」
俺は言った。
「命は他の命を喰らって、やっと命をつなぐことができる」
「神楽くんが言っているのは、食物連鎖のことなのかな?」
「そうだ。良く考えてみたら、まるで地獄だろ。命は他の命を喰らって生きる。ここはそういう世界なんだ」
「そこまで考えたことはなかったよ。ぼくは哲学的な頭は持っていないんだ」
「この世界はよほど出来の悪い神がつくったんだろう。そうでなければ、こんなふざけた世界になるはずもないからな」
「神楽くんは本当にそう思っているの? この世界は出来の悪い神様がつくったって」
少し考えて、俺は答えた。
「前にも言っただろう? もし神というのが本当にいたらな」

二日後。吉江の上履きはまたなくなっていた。
昨日、吉江は、新しい上履きを学校へ持ってきたはずだった。
それに気づいた俺は、吉江に言った。
「吉江。おまえ、どうして黙っている! 神がなんとかしてくれるとでも思っているのか!」
まったくお人好しにも、ほどがある。
「おまえが信じる神を、俺はどうしても信じることができないね」
俺は吉江に言った。
「神が何かしてくれたか? おまえを助けてくれたか? おまえが苦しんでいるとき、一言でも声をかけてくれたか?」
俺は何故か吉江にいらだっていた。
「教会に行くのもやめろ。いくら祈ったって、神は知らん顔じゃないか。そんな神を祈って、何になる?」
すると、吉江は困った顔をした。
「やめることはできないんだ…」
「どうしてだよ!」
「この眼鏡と一緒だよ」
「眼鏡?」
俺は、あんぐりと口を開けた。
「どこが眼鏡と一緒なんだよ!」
「祈ることがずっと習慣になってるから、祈らないと何だか落ち着かないんだ」

その日の体育はランニングだった。
男子は校庭十周。女子は八周。やはり吉江は周回遅れになった。
クラスの全員が走り終えても、吉江はまだ走っていた。
顎を突き出して、ヨタヨタと走っている吉江を見て、みんなが笑った。
そのときだ。
一人の男が校庭に入ってきたのに、俺は気づいた。
他の生徒も気づいたようだ。
女子生徒たちが、悲鳴をあげた。
あの男だ。
いつか校門に立っていた、あの男。
男の手にはナイフが握られていた。
「みんな、逃げろ!」
体育教師の荒井が、声をあげた。
みんな悲鳴をあげて、散り散りばらばらに、逃げ始めた。
「ははは!」
男は笑っていた。
「ジゴクヘオチロ!」
男はナイフを振りまわしながら、獲物を狙っている。
一人逃げ遅れている生徒がいた。
菱川だ!
地面に腰を落としたまま、動けないでいる。
男は、奇声をあげて、菱川に襲いかかった。
「ジゴクヘオチロ!」
菱川の顔は恐怖にひきつり、声も出ない。
そのとき、一人の生徒が、菱川の前にとびだしてきた。
「吉江!」
吉江は、動けないでいる菱川を突き飛ばすと、自分も男のナイフから逃げようとした。
だが遅かった。
男のナイフは、吉江のわき腹に、深々と突き刺さった。
吉江は、その場に、どっと倒れ伏した。
校舎から出てきた教師たちが、こちらへと走ってくる。教官室から、他の体育教師たちも、とびだしてきた。
男はもうそれ以上、何をする気もないようだった。
そこに立ちつくして、男は繰り返し、叫んでいた。
「ジゴクヘオチロ…ジゴクヘオチロ…ジゴクヘオチロ…」
男は、体育教師たちに、取り押さえられた。
ナイフは、吉江のわき腹に、刺さったままだ。地面に、血だまりが、染みのようにひろがっていく。
俺は吉江に駆け寄った。
「弱ったな…よけられると思ったんだけどな…」
「おまえ…」
「やっぱりぼくは何をやってもダメだな…」
「吉江!」
俺は吉江の手を握りしめた。
「神楽くん…痛いよ」
「吉江!」
救急車が着くまでのあいだ、俺は吉江の手を握ったままでいた。

やがて、救急車が到着して、吉江は搬送されていった。
吉江は大馬鹿ものだ、と俺は思った。ふざけた神を信じたあげく、自分をいじめた菱川をかばって、刺されてしまった。
その夜。俺は眠れなかった。
本当にそうなのだろうか…。
吉江を突き動かした力…菱川の身代わりとなった力…。
その力は、神の力ではなかったか…。

翌朝。教室はざわめいていた。
やがて、青ざめた顔で、クラス担任の大谷が教室に入ってきた。
教壇に立つと、沈痛な面持ちで、大谷は言った。
「吉江くんが今朝亡くなりました」

しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

主人公の恋敵として夫に処刑される王妃として転生した私は夫になる男との結婚を阻止します

白雪の雫
ファンタジー
突然ですが質問です。 あなたは【真実の愛】を信じますか? そう聞かれたら私は『いいえ!』『No!』と答える。 だって・・・そうでしょ? ジュリアーノ王太子の(名目上の)父親である若かりし頃の陛下曰く「私と彼女は真実の愛で結ばれている」という何が何だか訳の分からない理屈で、婚約者だった大臣の姫ではなく平民の女を妃にしたのよ!? それだけではない。 何と平民から王妃になった女は庭師と不倫して不義の子を儲け、その不義の子ことジュリアーノは陛下が側室にも成れない身分の低い女が産んだ息子のユーリアを後宮に入れて妃のように扱っているのよーーーっ!!! 私とジュリアーノの結婚は王太子の後見になって欲しいと陛下から土下座をされてまで請われたもの。 それなのに・・・ジュリアーノは私を後宮の片隅に追いやりユーリアと毎晩「アッー!」をしている。 しかも! ジュリアーノはユーリアと「アッー!」をするにしてもベルフィーネという存在が邪魔という理由だけで、正式な王太子妃である私を車裂きの刑にしやがるのよ!!! マジかーーーっ!!! 前世は腐女子であるが会社では働く女性向けの商品開発に携わっていた私は【夢色の恋人達】というBLゲームの、悪役と位置づけられている王太子妃のベルフィーネに転生していたのよーーーっ!!! 思い付きで書いたので、ガバガバ設定+矛盾がある+ご都合主義。 世界観、建築物や衣装等は古代ギリシャ・ローマ神話、古代バビロニアをベースにしたファンタジー、ベルフィーネの一人称は『私』と書いて『わたくし』です。

きたいの悪女は処刑されました

トネリコ
児童書・童話
 悪女は処刑されました。  国は益々栄えました。  おめでとう。おめでとう。  おしまい。

生贄姫の末路 【完結】

松林ナオ
児童書・童話
水の豊かな国の王様と魔物は、はるか昔にある契約を交わしました。 それは、姫を生贄に捧げる代わりに国へ繁栄をもたらすというものです。 水の豊かな国には双子のお姫様がいます。 ひとりは金色の髪をもつ、活発で愛らしい金のお姫様。 もうひとりは銀色の髪をもつ、表情が乏しく物静かな銀のお姫様。 王様が生贄に選んだのは、銀のお姫様でした。

冷遇王妃はときめかない

あんど もあ
ファンタジー
幼いころから婚約していた彼と結婚して王妃になった私。 だが、陛下は側妃だけを溺愛し、私は白い結婚のまま離宮へ追いやられる…って何てラッキー! 国の事は陛下と側妃様に任せて、私はこのまま離宮で何の責任も無い楽な生活を!…と思っていたのに…。

冤罪で辺境に幽閉された第4王子

satomi
ファンタジー
主人公・アンドリュート=ラルラは冤罪で辺境に幽閉されることになったわけだが…。 「辺境に幽閉とは、辺境で生きている人間を何だと思っているんだ!辺境は不要な人間を送る場所じゃない!」と、辺境伯は怒っているし当然のことだろう。元から辺境で暮している方々は決して不要な方ではないし、‘辺境に幽閉’というのはなんとも辺境に暮らしている方々にしてみれば、喧嘩売ってんの?となる。 辺境伯の娘さんと婚約という話だから辺境伯の主人公へのあたりも結構なものだけど、娘さんは美人だから万事OK。

【完結】兄の事を皆が期待していたので僕は離れます

まりぃべる
ファンタジー
一つ年上の兄は、国の為にと言われて意気揚々と村を離れた。お伽話にある、奇跡の聖人だと幼き頃より誰からも言われていた為、それは必然だと。 貧しい村で育った弟は、小さな頃より家の事を兄の分までせねばならず、兄は素晴らしい人物で対して自分は凡人であると思い込まされ、自分は必要ないのだからと弟は村を離れる事にした。 そんな弟が、自分を必要としてくれる人に会い、幸せを掴むお話。 ☆まりぃべるの世界観です。緩い設定で、現実世界とは違う部分も多々ありますがそこをあえて楽しんでいただけると幸いです。 ☆現実世界にも同じような名前、地名、言葉などがありますが、関係ありません。

さようなら、たったひとつの

あんど もあ
ファンタジー
メアリは、10年間婚約したディーゴから婚約解消される。 大人しく身を引いたメアリだが、ディーゴは翌日から寝込んでしまい…。

処理中です...