森の娘

関谷俊博

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森の娘

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樹からは樹々の香りがした。
軽やかでみずみずしい樹々の香り。軽やかな、それでいて豊かで奥深い森の香りだ。
静かでも人をひきつけてやまない樹に、その香りはふさわしい気がした。
樹、香水か何かつけてるの?」
僕はそう尋ねてみたことがある。
「香水?」
樹はかぶりを振った。
「何もつけてないわ」
「そう」
「おかしな沙月くん」
樹は柔らかく微笑んだ。

二ヶ月前に僕の両親は離婚した。
妹は母が引き取ったが、僕のことは父も母も引き取りたがらなかった。
主に経済上の理由からだが、この事実は僕を少なからず傷つけた。高二にもなってと思うかもしれない。だが両親に自分が必要とされていないという現実。
うすうす気づいてはいたが、こうして目の前に突きつけられてみると、それは鋭いナイフのように僕の心をえぐった。底なし沼のように僕は深く混乱し、気持ちは荒んだ。
そして僕は施設から、高校へ通うようになった。
そんなときだ。僕が樹と出逢ったのは。

樹に出逢ったのは、四月になってすぐの始業式の日だった。
高二になってクラス替えがあり、たまたま隣に座ったのが樹だったのだ。
簡単な自己紹介をすませ、樹が再び自分の席に腰をおろしたとき、どこか懐かしい爽やかな匂いが香った。
僕は不思議に思って、樹の横顔を盗み見た。
それに気づいた樹は、感じの良い微笑みを浮かべながら、こう挨拶してきた。
「これから隣どうし、よろしくね。沙月くん」
そのときは、それが樹々の香りだとは気がつかなかったのだけれど。

樹の匂いが樹々の香りであることに気づいたのは、施設に戻り、娯楽室でテレビを観ていたときだった。
テレビに映し出された森の風景を見たとき、僕に幼いころの記憶がよみがえってきたのだ。虫とりアミを持って、森にわけ行っていったときの記憶…こもれびの輝きと豊かな森の匂い…。
僕は思わず声をあげそうになった。
樹にどこか懐かしさを覚えるのも、このせいだった。だけど何故、樹からは森の匂いがするのだろう?

学校でも施設でも、僕は親しい友人をつくらなかった。声をかけられれば話はするが、それだけだった。
高一のときに同じ組だったクラスメイトとも一定の距離を置いた。もちろん部活動なんてしなかった。
僕の気持ちを言葉にすると、がっかりさせられるくらいなら、最初から当てにしない方がいい、というものだった。親しい友人をつくらなければ、裏切られることもない。
そう。僕は人を信じることが、できなくなっていたのだ。
当然のことながら、僕は孤独な人間になった。

五月の季節がきた。
ふくよかな風が街を吹きぬけ、樹々の若葉はやわらかく黄金色に輝いた。
そして、哀しいほど、空は青く澄みわたっていた。
ゴールデンウィークにも何の予定もない僕は、街を当てもなくさまよった。すきとおった寂しさだけが、胸を満たしていた。
目の前にはパチンコ店。入ってみようとも思ったが、金がなかった。
そのとき、パチンコ店の自動ドアが開いて、男女の二人連れが出てきた。
出てきたのは、父ともう一人、知らない女の人だった。その若い女の人の腰に腕をまわして、父は歩き始めた。
見なかったことにしようと思ったが、父の姿から僕は目を逸らすことができなかった。
僕を必要としなかったのに…。
忘れようとしていたのに、僕はあらためて父が許せなくなった。
僕には気づかずに、父と女の人は脇を通り過ぎた。
その時だった。
「あら」
背後で声がした。さわやかで豊かな樹木の香りが、風に運ばれてきた。
「沙月くん」
振り返ると樹が立っていた。
 「どうしたの? 顔色が悪いわ」
森の匂いがまた香った。それもいつもより濃く。すっと身体が軽くなるのを感じた。
「いや、何でもないんだ」
僕は頭をふった。
「そう…じゃ、私は行くわね」
ふわりと笑うと手を振って、樹は去っていった。

樹の身体からは森の香りがする。
このことについて、クラスメイトは誰一人、何も言わなかった。かと言って、確認した訳ではなかったけれど。
もしかして僕にだけ、香る匂いなのだろうか。
これもまた、不思議なことだった。

五月最後の日曜日、僕は駅前の商店街にきていた。
施設の部屋にいるのが堪らなくなって、出てきたのだけれど、僕はもう後悔し始めていた。
ここに来ている人たちは皆、笑顔だった。僕が置かれている境遇とは、かけ離れた人たちだった。
深い穴に落ちこんだような孤独を、僕は感じない訳にはいかなかった。
そんな僕に追い打ちをかけるように、ある光景が矢のように僕の目にとびこんできた。僕は雑踏の中でも、はっきりとその二人を見つけだすことができた。
肩を並べて歩いているのは、母と妹だった。母と妹は楽しそうだった。デパートの袋を両手にさげて、笑い合っていた。
僕にしてみれば、見たくない光景だった。
幸せそうな母と妹の姿。
頭の中で、心の声が鳴り響き始めた。
誰も僕を必要としていない…誰も僕を必要としていない…誰も僕を必要としていない…。
胸が張り裂けそうで、息苦しかった。
誰も僕を必要としていない…。
母と妹から逃げるように、僕は駆けだした。行くあては、どこにもなかったけれど。

いつのまにか、僕は公園の前まできていた。
肩で息をしながら公園に入ると、僕はベンチに腰をおろした。公園は親子連れでにぎわっていた。
隣のベンチには、本を読んでいる人がいる。それが樹であることに、僕は気がついた。
隣のベンチまで行くと、僕は樹の前に立った。僕に気づいた樹は、そっと本を閉じた。
『私は森のお医者さん』と表紙に書かれた本だった。
「珍しい本を読んでいるんだね」
僕は樹に声をかけた。
「樹医になるのが夢なの」
恥ずかしそうに樹はうちあけた。
「女の人で樹医っているの?」
「少ないけどいるわ。私、その一人になろうと思うの」
また森の匂いが香った。ただの偶然だろうか。
何かあるたびに、樹はそばにいて、いつもは淡い森の香りが、強く濃く香るのだ。
「どうかしたの? 沙月くん」
樹が心配そうに僕を見た。
その言葉がきっかけとなって、僕は心の内を樹に話していた。
これまで誰にも打ち明けることのなかった苦しみと寂しさを。
僕の境遇について樹は何も言わなかった。
「可哀想」とも「気の毒ね」とも言わず、黙って僕の話に耳を傾けていた。
やがて樹は「そうなの」と一言だけ言うと、立ちあがった。
「私、もう行かなきゃ」
まだ話し足りない気もしたが、確かに心が軽くなっていることを、感じない訳にはいかなかった。

樹の身体から森が香るのは何故だろうか?
そして、僕が深く傷つけられたと感じたときに、待ち受けていたかのように樹と出会うのは何故だろうか?
不思議に思って、樹の家まできたものの、僕は家の前で立ちつくしていた。
さて、どうしようか…。
僕が迷っていると、玄関のドアが開いて、背の高い男の人があらわれた。
「あの、もしかして樹に用があるんじゃありませんか?」 
男の人は僕に尋ねてきた。
「いえ」
いきなり言われて、僕は動揺した。
「用という用がある訳じゃないんですが…」
けれども男の人は、わかっている、といったふうに深くうなずいた。
「樹はいま出かけていますが、良かったら少し話しませんか。そこの喫茶店で」

僕と男の人は、喫茶店のいちばん奥まった席に、向かい合わせに座った。
男の人は葛城宏明といった。聞けば樹の父親だという。
どうして樹に用事があるとわかったのか、僕は葛城さんに尋ねてみた。
葛城さんは言った。
「樹が関わる人は大抵そうなんです。みんな、心のどこかに傷を負っている。失礼ですが、あなたもそうなのではありませんか?」
逆に尋ねられて、僕はうなずかざるを得なかった。
そのときウェイターがオーダーを聞いてきたので、葛城さんはコーヒーを二杯、注文した。
「樹さんのお父さんなら、わかるかもしれません。僕が深く傷ついたとき、樹さんは必ずその場に居合わせるのです」
「ええ、わかります。これまでに何度も同じようなことがありましたから」
ウェイターがやってきて、コーヒーを二杯、テーブルに置いた。
「それはどうしてなんでしょうか?」
「そこまでは…わかりません」
「わからない?」
「はい。樹は間違いなく私たちの娘ですが、血はつながっていないのです」 
「血がつながっていない?」
「ええ。樹はまだ赤ん坊の頃に、児童養護施設から引き取った娘なのです」
葛城さんは、そこでコーヒーを少し、口にした。僕は続きの言葉を待った。
「森のなかで泣きもせずにいたそうです。施設の職員は、そう言っていました」
「そのことを樹さんは知っているのですか?」
「いえ」
葛城さんは頭をふった。
「知りません。たとえ血はつながっていなくとも、樹が私たちの娘であることに変わりはない訳ですから」
「そうですよね」
葛城さんが僕の父親だったら良かったのに…。僕はふと思った。
「私たちには子どもがいなかったので、娘として育てましたが…」
葛城さんは、そこで少し言い淀んだ。
「何と言ったら良いのでしょう」
葛城さんは言葉を探しあぐねているようだった。
「心の痛みを感じとる能力のようなものが、娘にはあるようなのです」
葛城さんが言わんとしていることが、何となく僕にはわかった。
「あの娘はそのことを、決して口には出しません。相手に近づいていって、そっと寄り添う。ただそれだけです。それだけで相手は癒されていくのです。本当に不思議な力です。あの娘は森の精霊なのかもしれません」
「葛城さんは本気でそう信じているんですか」
「ええ」
葛城さんは良く日に焼けた顔で笑った。
「世の中にそんなことが一つくらい、有ってもいいじゃないですか」

葛城さんによれば、樹はいま森にいるという話だった。赤ん坊の頃に発見されたその森に、樹は何故か定期的に出かけていくのだという。
葛城さんは地図まで描いて、その森の場所を教えてくれた。
地図を見ながらたどり着いた森は、糸を引くようにまっすぐな道が、沢に沿って奥へとのびていた。
森の中は青く軽やかな風が流れていて、心地よかった。こもれびは煌めきながら地面に落ちて、網の目の光彩を描きだしていた。
小鳥たちのさえずりは聞こえていたが、静かで落ち着いた森だった。
この森の匂いだ。僕はそう確信した。樹の匂いだ。
懐かしい故郷に戻ってきたように、僕の心は浮き立った。
そして、やはり樹はそこにいた。
「あ、沙月くん!」
太い樹の幹に耳をつけて、樹はじっとしていた。
「くるような気がしていたの」
「樹、何してるの?」
僕は樹に尋ねた。
「樹のささやきを聴いていたの」
樹は樹の幹から身体を離した。
「沙月くんもやってみて。きっと聴こえるから」 
その太い樹の幹に、僕は耳を当てた。
「聴こえる?」
口もとに笑みを浮かべて、樹が尋ねた。ソーダ水の泡がはじけるような微かなさざめき。
「聴こえるよ」
僕は答えた。
樹は森そのものだ。僕は思った。奥深い豊かなこの森そのものだ。
樹の香りは森にとけこみ、僕は森に包まれていた。






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