なつおと

宇田いちご

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なつのおと

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ーカララン、コロロンー
もうだいぶ時間が経ってしまった。外気に晒されたそのグラスは、暑そうに汗をかいている。しゅわしゅわと楽しげなその小さな世界の中で、ひとかけらの氷河がゆっくりと融解する。僕はその景色を深い、深い世界の底で眺めている。
まるで、小さい頃、初めてプールの底から世界を眺めたあの時のような感動を思い出しながら——


 「ぶはっ!」

水面から勢いよく顔を出した僕は、久しぶりに外の空気を吸い込んだ。何度か呼吸を繰り返すと、塩素の独特の匂いが鼻から抜けて、僕はようやく生きている実感を得られた。

「まーた練習サボってたの?コーチに叱られるよ?」

そういって及川涼香は僕の顔を覗き込んできた。

「プールには入ってるんだから、別にいいだろ...。」

涼香は僕、山内健太の幼馴染で、小、中と同じ学校で水泳を続けてる仲だ。

「それに、今水泳部には僕とリョーカしかいないんだし。せっかくプールが空いてるのに何もしないのはもったいないからな。水の中で休憩してたんだよ。」

そんな適当な言葉が、口からこぼれ落ちるように出た。

「ふふっ。何それ。まぁ、それならコーチに見つかっても平気だね。」

プールサイドから身を乗り出した涼香は、光る水面を見つめて、横顔をてらてら光らせながら楽しそうに笑う。

普段は、色の薄いセミロングの茶髪をさらりとおろしているが、今は頭の後ろでお団子を作っている。
教室では、前髪で目元が隠れているせいで気づかないが、目が大きくて顔が小さい涼香の笑顔は、どこかあどけなさが残る。

僕は、その表情にドキリとする。この心臓の高鳴りが、涼香に届いて欲しいとも、知られたら困るとも思う。

 二人の間に短い沈黙が流れた。

「リョーカも泳ごうぜ。僕も泳ぐからさ。」

僕は空いてしまった間を埋めるように、涼香に言った。

「うん。いいよ。じゃあケンちゃん、私と勝負しようよ。端まで行って先に向こう側の壁にタッチした方が勝ちね。私が勝ったらアイスおごってもらおうかな~」

「え~...。リョーカ僕より速いじゃん...。」

「細かいことは気にしな~い!ほら、やろう。」

半ば強引に僕を誘うと、涼香は早速飛び込み台の上
で準備していた。

「わかったよ...。その代わり、僕が勝ったら...」
そこまで言って、僕は口ごもった。特に何か言おうと思っていたわけではなく、心の奥底で小さい僕が、もっと大事な事があるだろう、と問いかけてくるような、奇妙なわだかまりを感じたからだ。

「ん?なに?」

涼香は準備体操をしながら不思議そうに僕を見た。

「いや、なんでもない。僕が勝ったら、話を、聞いて欲しいんだ。涼香に。」

「うん。わかった。いいよ。」

涼香は笑って頷いた。

 僕らは隣同士のレーンに立って、飛び込む準備をしている。スタートは涼香の合図で始まる。

「ゲットセット」

勢いに任せて涼香に言ったさっきの言葉は、何かつっかえていたものが取れたような、そんな感覚を僕の中に生んだ。今なら速く泳げる気がした。

「ゴー」

僕らは放たれた魚のように一斉に飛び込んだ。水の中にいる間は、隣に競争相手がいることは問題ではなくて、ただ、手を動かして、力の限り水をかき分け前に進んでいくことだけに集中する。

 ——勝った!——

指先がプールの壁に触れた瞬間、勝ちを確信して僕は水の中から顔を上げた。すると、隣にはすでにゴーグルを外して勝ち誇った顔をしている涼香がいた。

「ふふん。私の勝ちだね。」

「マジかよ。勝ったと思ったのになぁ。」

口ではそんなふうに言ってみたが、終わってみれば僕が涼香に負けたことは、悔しいというよりむしろ、妙にしっくりくる結果に感じた。本当は涼香が勝ってくれて、僕がどこからか勇気をひねり出す必要がなくなってホッとしているのかもしれない。

(カッコわるいな...僕...)

そんな自己嫌悪に陥りながらも、プールサイドに上がった。僕の後に続いて涼香も水から体を引き上げた。

「でも、ケンちゃんさっき勝ったら話聞いて欲しいって言ってたよね?あれってなんだったの?」

どきり。濡れた体が外気に晒されたからだろうか、全身にヒヤリとした感覚が走る。

「あ、あぁ...。それは——」

「きゃあ!!」

言いかけた時、涼香が足を滑らせた。

「涼香、危ない!!」

僕はほとんど反射的に涼香の腕を掴んで引き寄せようとしたが、僕らは重力に負けてプールの中に落ちた。

ざぶん——コポコポコポ——。

 水の中では、全ての音はまるでエコーがかかったみたいに遠くに聞こえる。
体がスローモーションのようにゆっくりと沈んでいくのを感じても、僕がすぐに地上を目指さなかったのは、涼香と目があったからだ。
ゴーグルをしていないのにも関わらず、涼香の表情がはっきりと見える。僕は今どんな顔をしているだろうか。
僕らの頭上には日の光を浴びた水面がゆらゆらと光って、僕らを照らす。
その光景があまりにも綺麗で、心を奪われていたせいか、僕は涼香の腕を掴んだままなことに気づかなかった。
 僕のちっぽけな後悔や、ありったけの恋心が水の中に溶けていく。僕と涼香は水を通じて一つになったような気がした。
 そして僕は、このロマンティックな、それでいてゆるやかに流れるこの時間を愛おしく、懐かしく感じていた。まるで、初めてプールの底から世界を眺めた時のような、言葉では表せないあの感動を——


 「ぷはっっ!!」

 目を覚ますとそこには見慣れた天井が広がっていた。当然、涼香の姿はどこにも見えないし、そもそも僕がいるのは紛れもなく地上だった。
 熱気をはらんだ風が、どこかの家の風鈴をチリーンチリーンと鳴らす音が聞こえる。それらはけたたましいセミの鳴き声と混ざり合って、夏らしいハーモニーを奏でていた。

「夢...かよぉ~...」

現実世界に一気に戻された僕は、つい情けない声が出た。
 8月に入って二週間が過ぎて、ぼちぼち宿題に手をつけようとしたところでどうやら寝てしまったらしい。
机の上には数枚のプリントと、飲みかけの炭酸水が入った氷グラスが置かれている。窓を開けたままにしていたせいか、グラスの表面に結露ができていて、まるで汗をかいているみたいだった。窓から差し込んだ光を、グラスが反射して、きらきら光る様子を見て僕は、夢の中での出来事を思い出した。

「うわぁ...あんな夢見るとか...重症だな....僕...。」

顔が急に熱くなったように感じて、僕は一人悶絶していた。
 夏休みももう後半に差し掛かるこの時期は、毎年、休みの長さにうんざりしながらも、もうすぐで夏休みが終わってしまう寂しさを感じて、どうも前向きな気持ちになれないのが常だ。
 でも、こんな夢を見てしまったら、こう言わざるを得ないだろう。
 僕は、なんだかむず痒くて、グラスに入った気の抜けた炭酸を一気に飲み干した。

「はやく夏休み終わんないかなぁ...」

氷が半透明な世界の中でカラン、と音を立てた。













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