上 下
10 / 96

10話

しおりを挟む
「さぼん、ですか?」
 貴重な、それも屋敷でしか嗅いだことのない匂いで気付いた。
「ああ、これがないと落ち着かないのでな。母上が持たせてくれたのだ」
 どこまでも、お坊ちゃんだ。
「晴明殿でしたか。いつも、湯浴みの度になんの匂いかと気になっていて、ある日母上に尋ねたのです。そしたら、富子様がお持ちのさぼんの匂いだと」
「母上は、香が好きでな。さぼんも、香の強いものを自分で作っておるのだ。これも、母上の特製。お前も、使ってみるか?」
 葛葉は、さぼん等使ったことが無い。
「そんな貴重なもの、よろしいんでしょうか?」
「ああ。さぼんくらい、使ったことがあるだろ? 強い匂いがあるだけで、たいして変わりはしないがな」
「お恥ずかしいのですが、名前しか存じません」
 晴明は、きょとんとした。出会った時からそうだ、葛葉とは価値観というか生活感が違うように思う。
「お主は、どんな生活をしてきたんだ……」
「どんな、と言われましても。比べる対象がわかりませんから」
 それもそうである。
 晴明は、さぼんの使い方を葛葉に教えてやった。
 葛葉が風呂から上がる頃には、晴明はすっかり深い眠りへと落ちていた。
 翌朝、式神が朝餉を運んできた。朝の身支度の時も、葛葉は出来る限り晴明の手伝いをした。
 夜まで、時間がある。食事をゆっくり終えたところで、泰親に晴明だけが呼ばれた。
「昨晩は、ゆっくり眠れましたか?」
 泰親は、相変わらず不気味にくすくすと笑っていた。
「お陰様で。夕餉に続き、朝餉も絶品でした。礼を言います」
「富子さんから、若様をよろしくと頼まれておりますから」
 泰親という男は、富子の事をよく知っていると思った。
「母上とは、どのようなご関係で?」
「疑うような仲では、ございませんよ。古い友人です」
 本当だろうか。
「さて、本題に入りましょうか。鬼退治なるものが、口実と言うのは既にご存じでしょう?」
 晴明の顔が、え? となった。
「あら、本来の目的をお忘れになりましたか。それとも、純粋に信じてしまいましたか」
 所詮は子供か、と泰親は思う。が、想定内である。
「葛葉を亡きものにするのが、この旅の本来の目的でしょう。そこを見失ってはなりませんよ。彼女に酷く苦しめられた幼少をお過ごしになられた、その復讐がようやく出来るのです。しかし、私が見たところ、仲良くなってしまわれたのでは? いけませんねえ」
 晴明の背中に、ぞっとした悪寒が走った。知らない間に、身体が震える。
「冷えますか?」
 泰親は、わかって聞いた。
「まあ、案じなさい。やはり貴方には出来そうにありませんから、私が変わって差し上げます。それに、これは富子様の願いでもありますから」
 この村に、単純な鬼などいないのかもしれない。本当にいるのは、人の面を被った鬼だ。
 泰親との話を終えると、晴明はとぼとぼ小屋に戻った。泰親が言うには、今夜鬼の姿をした式神を出すという。そして、混乱に乗じて葛葉を喰い殺すのだと言う。
「晴明殿、おかえりなさいませ」
 葛葉も出掛けていたのか、丁度小屋に入るところで鉢合わせた。
「ああ、お主も何処かへ行っておったのか?」
「はい。祠というものが気になりまして。この先の広い場所に、5つの祠が五芒星を描くように設置されておりました。けれど、どれも破壊どころか動かしたような形跡も見当たらなくて。霊気もそれなりに感じましたし。おかしいですね」
「作り直したのではないか?」
「さあ、最近の物ではないように見えましたが」
「左様か」
 2人は、足を洗うと小屋の中へと上がった。夜まで時間があるので、ひと眠りする事にした。
 空に一番星が瞬く頃、夕餉が運ばれてきた。相変わらず、ご馳走だ。今夜の酒は、控える事にした。
 食事を終えたところには、空に満月が浮かぶ。ギラギラと不気味なほど輝くそれは、眩しいとさえ感じた。同時に、晴明に恐怖を感じさせた。
「鬼が不安でしょうか? 盗賊には勝てませんが、鬼でしたら私も戦えますから」
 葛葉が少しでも落ち着かせようと、晴明に話しかけた。そうではないのだ。目の前で知った人が死ぬところを見なければならない、それは本来自分がしなければならない事かと思うと、自分の立場が怖くて仕方なく思えた。
「頼もしい女子だな」
 晴明が顔を背けた時、その先に泰親の式神が現れ、ぺこりと頭を下げた。
「どうやら、時が来たようだ」
「はい」
 何も知らない葛葉は、晴明と式神の後を歩いた。
 着いたのは、枯れた村との境界線。そして、そこに泰親がいた。
 2人を見つけると、泰親はくすくすと笑った。
「そろそろ、鬼が来ますよ」
 まるで、大道芸の見物だ。と、晴明は思う。苦虫を噛み潰したような顔で、その様子を見守った。

 ズシーン……
 ズシーン……

 闇と静寂の向こう側で、不気味な音が響く。
 そして、葛葉が気付いた。
「あれは、鬼ではない。式神の類だ。誰か、操る者がいる筈だ」
 晴明が、はっとした。暗闇に隠れて、泰親の顔が曇る。
「……ほほう。おかしな事を仰いますね。この村には、私以外おらぬ筈ですが?」
 だが、葛葉は自信ありげに答えた。
「いや、間違いない。魑魅魍魎のような邪気がない。霊体のような、霊気ではない。強いていえば、生きてる者に近いのだ 」
「では、気の違った人間と?」
「そうでもない。なんというか、生きている者と同じ霊気を持った人形のようなのだ」
 これは、予想以上に厄介だ。と、泰親は顔を歪めた。それを葛葉は、見逃さなかった。 
「どうされましたか?」
「いえ、誰が何の目的で。と、思いましてね」
 なんとか、誤魔化した。

 ズシーン……
 ズシーン……

 と、響く足音はこちらに向かってくる。
(では、葛葉。その腕前、とりあえず見せて頂きましょうか)
 今夜は殺せない気がした。だから、泰親は葛葉のその実力を見てみる事にした。
 目の前で足音が止まると同時に、ギラギラと輝く満月の光が隠されるように暗くなった。黒い巨人のような影が3人を見下ろしていた。
「これが鬼か」
 呟きながら、晴明は思わ腰を抜かして尻餅を付いた。
 3人を覗くその鬼の顔は、まさに化け物。暗闇でも分かるどす黒さに、血走ったようなギョロギョロと動く目玉が付いおり、蒸気の様なものが見える口には不揃いで鋭い歯が伸びていた。そこから流れ落ちるヨダレと悪臭。半裸に、動物の皮の様なものを纏ってはいるが、その処理も雑なので臭くて汚い。
 鬼の手が動くと、その鋭い爪が夜空に向かって振り上げられた。
(逃げねば!)
 と晴明が思うと同時に、それは振り下ろされ座り込みながらも瞬時に交わした晴明の横を掠めた。
「晴明殿!」
 葛葉の悲鳴にも似た声が響くと、その声に反応して鬼が葛葉の方を見た。
「さて、葛葉さん。如何なさいますか?」
 葛葉は泰親のからかいを無視して、口の中でもごもご呪文のようなものを唱えた。 
 直後、鬼に落雷が落ちる。
「ほほう。なかなか、乱暴ですね」
 丸焦げになった鬼が倒れると、その身体はサラサラと砂のように崩れて消えた。
「やはり、傀儡か。このような物、観勒殿が破れないことも無いとは思いますが……。私の買い被りすぎでしょうか?」
 泰親は、少しカチンときた。が、ここは堪えた。この娘は気に入らない、寧ろ嫌いだと思う。早くも、何やら勘づいている。
「おやおや、手厳しいですねえ。ですが、これが傀儡であるならば、主人が見つからない限りまた現れる事でしょう。私には出来ませんでしたが、葛葉さんにはその主人を見つけることが出来るのではないでしょうか」
 葛葉の言葉が止まる。暫くの間を置いて、泰親を睨みつけながら「そうかもしれませんね」と言い放った。
しおりを挟む

処理中です...