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63話

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「皆と会ってきたのか」

 葛葉は玄関先で足を洗う蜃に、手拭いを差し出しながら言った。

「ああ、随分と変わっていたよ」

「そうだな。お前が里を離れていた時間は長い、本当に長かった」

「母上は、ここで独りで?」

「ああ、もう何年にもなる。数年前に、玄武も早々に家を出た。あやつは、一刻も早く ここを出たかったようだよ」

 葛葉が寂しそうに苦笑いを見せた。

「そうか……でも、俺はこれからここに居ようと思ってるよ。母上も寂しかろう」

「そうか。しかし、私のことは気にせずとも良いぞ」

「言う割には、随分嬉しそうだけど」

 葛葉ははっとして、自分の頬を両手でパンパンと挟むように叩いた。

「母として、嬉しいに決まっておるではないか! 私は、良い息子を持ったものだ。しかし、お前もいい歳だ。嫁を世話せねばなるまいし」

 もじもじと下を向きながら話す葛葉の背中を、足を洗い終わった蜃が立ち上がりながらも、すれ違いざまポンポンと叩いた。

 ふと、葛葉の中で晴明にされたような錯覚が混み上がってきた。

「俺は、嫁を娶るつもりはないよ。今もこれからも」

「し、しかしだな!」

「母上、この話はここで終わりましょう。これ以上続けるなら、俺はこの屋敷を出ていく。何を言われても、嫁を娶るつもりはないから」

「…………」

「腹が減ったけど」

 話題を変えるように、蜃が言った。

「お前がいつ帰ってくるかもしらん、多めに作るのも勿体ないので何も用意しとらんではないか。帰る前に式神くらい飛ばせばよいものを。近くの飯屋に持ってきてもらおうか」

「じゃあ、酒も」

「酒はある」


 暫くして、近くの飯屋が適当に見繕って食事を運んできてくれた。それに合わせて、葛葉はとっておきの酒も出した。

「これは、玄武が」

「夢路か」

「なんじゃ、知ってるのか」

「美味い酒ですよ、散々呑ませてもらった」

 葛葉は渋い顔をした。

「呑兵衛どもめが」

 蜃はゲラゲラと笑った。

「ところで」

 と、葛葉が切り出した。

「蜃。麒麟から黄龍の事は聞いたか?」

「旬介の事ですか?」

「ああ。私は、今でも眠れなくなる事がある。あの子には、本当に申し訳ない事をしたと思っておる。私が悪いのだ」

「あれは、麒麟なりの選択なのだろ? そう聞いたが」

 葛葉は、渋るようにしてから話した。

「最終的には、そうだ。だか、私がその選択をさせたようなものなのだ」

「というと?」

「少し、聞いてくれるか?」

 コクリと頷いた蜃を確認してから、葛葉は先程まで茶を飲んでいた湯のみに酒を注いでから一気に飲み干した。葛葉の顔が、ほんのり赤く染まった。

「あの忍(男)は、里の者の帰りの荷車に隠れておった。そして、こそこそとこの里を探っておった。ある程度の情報を集めると、この里を出るために森に入ったのだ。しかし、あの森はお前も知っての通り魔が住む。それがこれまでこの里が守られてきた要因でもあるのだが……忍は、魔に捕まった。魔は私の結界だった。邪を持つものは、あの森を抜けられん。行きは里の者と共だったから抜けられたが、出る時はそうもいかん。それに私は気付いて、麒麟に話した。あの男を生かして帰す訳にはいかない、それはこの里に閉じ込めてしまえばいいと思った私の甘さと反して、麒麟は一人前の領主だったのだ」

「それで、何故麒麟は男の村ごと葬ったのだ?」

「私が悪いのだ。男には、きっと家族も仲間もおるであろうと言ったから。この里で暮らせばいいではないかと、それも私の甘さだ」

「……それで、麒麟はならば男と共にその家族も全て葬るべきだと」

「ああ。男を生かしておくことはできる。けれど、それで男は納得するのか。ましてや相手は忍びだ。命を捨てる覚悟でおろう、と。家族がいるならば、男の事を知られれば仇討ちされぬとも限らぬ。それに、仲間がおるのであれば、もうそれらが動いておるかもしれんと。麒麟は私を振り切り手を染めた。他の子達もそうだ。麒麟の声に動いた。誰にも私の甘さは届かなかった。私だけが、かつてこの里で捨てられた子を救おうとしていた頃の娘のまま止まっていたのだ」

「例え俺であっても、麒麟と同じ道を選んだと思うよ」

 葛葉は泣いた。

「だが、それは母上に言われたからではない。それが使命だと思ったからだ。父上の意思を俺達は継いだだけ。これからは、麒麟の代わりに俺が背負おう」

「私は……私はどうすれば良いのだ」

 蜃は指先で顎の先を撫でながら、顔を傾げた。

「そうだなあ。隠居でいいのではないか?」

 葛葉が泣き顔を上げて、きょとんとした顔で蜃を見た。

「隠……居……と?」

「ええ。いつまでもいつまでも、年寄りがのさばっていては邪魔だ」

「年……寄りとは、母に向かってなんじゃと!」

 今度は真っ赤な顔で拳を振り上げる葛葉の手を、蜃は笑いながら止めた。

「元々、母上がこう言ったことを考えるのは不得意だったろ? いつも父上の仕事だったし、父上が亡くなってからは俺の仕事だった。いつしか、誰から言われなくてもそんな感じだったではないか。それをやむなく、麒麟が変わっていただけなのだから」

「そう言われてしまえばそうだが、そうだがな! 私も私なりに考えておるのだ」

「端から母上は蚊帳の外だ」

「むっ」

 グウの音も出ない。

「そうと分かったら、今夜は飲みましょう。勘違い隠居記念だ」

「全く、お前と言うやつは」

 不満げに、たいそう不満げに、葛葉は口を尖られながら酒を飲んだ


 里の時は過ぎていく。

ゆっくりと緩やかに、そしてかつて生きるために棄てられた幸せとは程遠い筈の者達が、何処よりも幸せに暮らす場所。

 これからもそうであれと、葛葉は心から思った。


 今は領主となったかつての子供達が過ちを犯した場所は、誰にも入られないよう隔離するかのように二重の封印で閉じ込められた。そして、何も知らせなかった教訓を踏まえ、晴明の眠る墓であり魔が集い鎮められている場所として語り継がれた。

 祠は災いを封じた象徴とされた。

 本当の事を知るのは恵慈家と関わり合いのあるものだけとなるが、その子供達、里の者達には 決して近付いてはならない禁忌の場所として伝えられた。近付けば魔物に食われてしまう。鬼に連れていかれる、と。よくある教訓お伽噺のようではあるが、それは子供の心に深く刻まれて行った。

 無論、行き場のない外から来たもの達もこの掟を強く守ったし、守らせた。

 皆が協力して、この里は守られてきた。


 晴明の墓の傍から啜り泣きが聞こえる。呻き声が聞こえる。

 生克五霊獣の法で縛られた富子と泰親の苦痛の声であったが、それらがお伽噺を現実に変えていたのだった。


 今日も闇の中、啜り泣く声が聞こえた。

 それは新月の夜の事だった。外から来たであろうぼろ布を纏ったみすぼらしい女が、痩せこけた子を抱いてふらふらと歩いていた。女には啜り泣きが啜り泣きには聞こえず、人がいる、助けが居るようにしか思えなかった。それほどまでに、参っていた。

 いよいよ、終わりだと思った時、女は黒い影を見た。

 知らぬ間に富子の声に惹かれ、女は禁忌を破っていたのだ。

 女はもう見えない目で闇の中富子に子を差し出し言った。

「せめて……せめてこの子を」

 赤ん坊は泣く力も残っていないようだった。ほっといても直ぐに死ぬだろう。このまま受け取っても、どれだけ生きれるかもわからない。

 富子は思った。

『 この赤子を喰ろうて、少しでも力にしてやろう』

 子を受け取ると同時に、その母親は事切れた。

「富子さん、この子を生贄にしては」

 かぶりつこうと歯をむき出した富子を止めたのは、泰親であった。

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