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1話

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 エレベーターもない、古びたアパートの一室に彼女は居た。そこは黴臭く、今時裸電球が一つぶら下がっているだけの部屋だった。家具はなく、不気味にも棺桶に似た箱が無造作に置かれている。
「ゴシックな趣味でもあるのかい?」
 私が冗談交じりに問うと、絵を描きながら彼女は上目遣いで、私に棺桶の上に座るよう指示した。
「ごめんなさいね。人なんて滅多に来ないから、椅子も用意してないの」
 棺桶の上に座り、改めて見渡すと、床には絵の具で汚れたパレットや古い絵の描かれたキャンパスが幾つも転がっていた。
「全部、君が描いたのかい?」
 彼女は、笑いながら頷いた。
 彼女と出逢ったのは、先月末。行きつけのバーでだった。薄暗い店内に浮かぶ青白い顔の彼女は、不気味なまでに美しく、思わず年甲斐もなく私は彼女に声を掛けてしまった。
 ウィスキーに浮かぶロック氷を指先で沈めながら、彼女は呟いた。
「たまには、酔えたらいいのにな」
 不思議な女性だ。彼女は、お酒を幾ら呑んでも酔わないらしい。試しにウォッカを二瓶程ご馳走してみたが、本当に彼女は顔色一つ変えなかった。
 この不思議な女性に興味を持った私は、彼女が普段何をしているのか知りたくなった。なんと質問しようか考えていると、彼女から教えてくれた。
「普段は、絵を描いて暇を潰しているのだけど、貴方は何をしているの?」
 私は、答えた。
「私は、小説を書いているよ。売れなくてね、最近まで新聞でコラムを書いていたのだけれど、その仕事ももう終わりだ」
 私は、大きく溜め息を吐いた。
 思い付いたかの様に、彼女が口を開いた。
「人を探してるの。貴方、新聞に物語を書く事は出来るのかしら?」
「人を探しているのなら、物語より呼びかけた方がいいんじゃないのかい?」
 私がそう提案すると、彼女は寂しそうに首を左右に振った。
「呼びかけて見つかるなら、彼女はもう見つかってる。彼女は、隠れているだけなんだ。僕に怒って。だから、僕の気持ちを伝えないと、彼女は戻って来ないと思う」
 先程まで可愛らしかった彼女の声が、“彼”に変わった。彼の方が自然で、私は彼女に失礼な質問をぶつけてしまった。
「君は、女性? 男性?」
 彼女は、はっとして口元に手を当てた後、息を飲んでから小さく答えた。
「どちらでも、あるかな」
 と。
 益々この奇妙な女性に興味を抱いた私は、彼女兼彼の希望である新聞への連載小説を承諾する事にした。新聞社には、まだコネがある。何とか無理を言ってお願いすれば、内容によっては掲載して貰える筈だ。
 そして、私は書くために必要な彼女の物語を聞く為、彼女の住むアパートに呼ばれたところだった。
「そうだ、物語を始める前に、貴方(きみ)にあるものを見せないと」
 彼女は絵を書くのを止め、私を棺桶から立たせた。彼女が棺桶の蓋をずらずと、中には金髪の息を飲むほど美しい人が眠っていた。死人にしては綺麗すぎるが、生きているとは思えない。人形かとも思った。
「これはね、僕なんだ」
 彼女に出逢ってから初めて、ゾクッとした悪寒が背中に走った。
「貴女(きみ)は、一体?」
 彼女は棺桶の蓋を直し、その上に腰掛けた。再びそこへ私を座らせると、ゆっくりと語り始めた。
「ニンニクも十字架も太陽の光も平気だけど、ヴァンパイアなんて呼ばれた事もある。だけど、そんな限定的なものじゃない。酒だって呑むし、美味しい食べ物は大好きだよ。血だって滅多に飲まない」
「滅多にと言うと、飲むこともあるのかい?」
 私は、恐る恐る問うた。もしかしたら、彼女が私を餌にする為に自分をこの部屋に呼んだのではないかと疑ったからだ。
 彼女は膝の上で頬杖を作り、きょとんとした顔で私の方へ顔を向けた。
「僕等はね、血を飲むと特殊な能力を発揮する事が出来るんだ。でも、もう二百年近く口にしていないよ。そんなに美味しいものではないしね」
 彼女が近くに置いてあったA4サイズの小さなキャンパスを手に取り、私に渡した。そこには中世ヨーロッパ、もしかしたらもっと昔かも知れない頃の建物の絵が描かれていた。
「シャルル・アンリ・バシュロ・ナルカン。僕の名前だ。その絵は、僕が描いた僕の居た劇場だよ」
 私は、ポケットから手帳と愛用の万年筆を取り出すと、シャルルの話を書き留める準備をした。シャルルも私の準備が整うのを待ってから、少しずつ話始めた。
 遠くを見つめるように話すシャルルの横顔は、美しくも懐かしさに悲しさを含んだ儚さを秘めていた。


*****


 あの空は、今でも覚えている。
 ブルーは金色の光をキラキラと反射させながら、まるでサテン地のように地上を覆っていた。
 この日は、明日から暫く公演される恋愛歌劇“月の影法師”の練習に、皆張り切っていた。
「あぁ、王子様。この私を強く抱き締め、あの月に返さないと、そう誓ってくださいませ。私は月の影法師、不覚にも貴方を愛してしまいました」
 幸か不幸か……。
 僕シャルル・アンリ・バシュロ・ナルカンは、この劇団で女形を専門に務める売れっ子俳優であった。
「深く、深く、それはあの夜の闇よりもか?」
「そうでございます。夜の闇の暗さより遥かにお慕い申しております」
 十五世紀、ルネサンス時代。これが、僕が人間として生きた時代であった。
 何故、僕が女形を専門に俳優業をしていたか。
 自分で言うのもおかしな話だが、僕は醜いくらいに美しい。金色に緩やかなカーブを描く、長く綺麗な髪。硝子細工の様に透き通る、白く繊細な肌。眼はエメラルドの済んだグリーンをし、唇はミニ薔薇のごとく淡くピンクに色付いている。
 どれも、国一番ではないかと評判高かった母の容姿をそのまま受け継いでいた。
 そんな僕が女を演じれば、どんな紳士もご婦人も、僕の魅力に目を逸らせないでいた。僕が舞台に立つというだけで、劇場は溢れるばかりの観客に恵まれたのだ。
 だが、僕は望んで俳優になった訳ではなかった。美しい母に、売られたのだ。
 この頃、母はもう死んでしまってはいたが、生きていた頃は無名から有名まで、画家や芸術家達が競ってモデルにと訪れたものだ。しかし、結局は誰もがその美しさを残せないと、キャンパスを破って帰っていった。母はそれを笑いながら見送るのがお気に入りだった。
 僕が十五歳くらいの頃、それまで母を見ていた芸術家達が、母ではなく僕を見るようになった。美しい母にそっくりの僕に、芸術家達は若いだけの理由で目を移したのだ。
 それを機にか、母は酒を煽るほど呑み始め、終いには酒代欲しさに売春婦にまでなった。母を抱きたがる男は多かった。多い時には、一日に五人もの知らない男が、母の寝室に出入りしていた。
 母の欲しがる酒の量は増え続け、日を増すごとに暴言や暴力も激しくなっていった。
「アンタが女だったらまだ使い用があったものを!! アンタの父親なんか誰かわからないけどね、ろくでなしの子がっ!!」
 時に鞭が顔に跳ね上がり、青く腫れ上がった顔を隠して過ごした。母は、それを見て笑うのが、気に入っていたようだった。きっと自分の美しさを奪われたと、母は思っていたのだろう。僕の顔を、執拗に責めた。
 元々、優しい母ではなかったが、暴言や暴力を振るうような母ではなかっただけに、僕は絶望に打ち拉がれた。
 その三年後、幼い頃ソバッカスと呼ばれていた村のそばかす娘が、急に美しくなった。同じ村の僕と彼女はお互いを良く知っていたが、彼女が僕に送る特別な感情も流し目も、僕が最後の最後まで気付く事はなかった。
 そのソバッカスと母に“魔女狩り”の御触れが来た。この時の処刑では、他に三人の村娘が連れて行かれた。
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