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3話

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 ダミアンは、優しく笑う。
「気に入った?」
「僕には、勿体ないくらいだ」
 ふと、彼の表情が悲しげに揺れた。
「悲しくて繊細で、脆く、儚く、実に美しい。憂いのヴェールがそれに拍車をかけている。それがきっと君の美しさ。そして、このカップも同じだよ。父への祈りは届かなかったのだから。そう言えば、月の美しさも君の美しさとよく似ている気がするよ」
 ―― 月?
 月の美しさとは何か。
 暗闇に独り、冷たく白く揺れる。寂しくないかと問い掛けたら、きっと月はこう答えるだろう。
『星達が歌ってくれるから、寂しくなんてないんだよ』
 なら……
 今の僕に、星達の歌に変わるものは存在するのだろうか?
「さぁ、カップを出して」
 ダミアンが、ワインボトルのコルクを抜いて言った。僕がカップを差し出すと、彼は銀色のそれに血液よろしく真っ赤なワインを並々と注いだ。
 そして、新たに箱から取り出したもう一つの同じ銀のカップにも、ワインを同様に注いだ。
「明日の成功を祈って」
 無邪気に笑うダミアンの顔が、蝋燭の炎によって暗闇に浮かびあがる。
「うん、成功を祈って」
 唇に触れた銀のひんやりとした感覚も、鼻腔いっぱいに占めた葡萄の香しさも、喉を通る濃厚な甘みとずっしりとした渋みも、その笑顔には敵わない気がした。
 その晩はかなり遅くまで二人で語り合った。声を潜めるのが困難な程笑い合い、そして何よりも楽しかった。


*****


 ――これこれこれ

 そこいく紳士の方々

 そこいくご婦人の方々

 少し足を止めて行かれませんか?

 ワタシは人形

 お金の増える人形

 さぁさぁ

 如何なさいましょう?

 男になりましょうか?

 女になりましょうか?

 全ては貴方方の望むがままに

 一つお辞儀で銀貨が増える

 二つお辞儀で金貨が増える

 三つお辞儀で何をくださる?

 ワタシハニンギョウ

 オカネノフエルニンギョウ

 キレイナニンギョウ

 ミニクイニンギョウ

 アクマノニンギョウ


*****


 翌朝も、雲一つない青空だった。
 僕は、朝から風呂に入った。この時間が一番好きだ。
 この時代の風呂は、気になった時に入るのが常識だ。よく風呂に入る者と言えば、スポーツマンくらいしかいなかった。
 また、当時はペストという悪魔の病気が大流行していた。風呂によく入る者が感染する、等という迷信が流れるくらい、人々は風呂に入らなかったのだ。だから、僕は普段人目を忍んで身体を拭く程度で我慢するようにしていた。
 ペストの影響は脅威だった。とある田舎町では、家主が逝ったあと魔除けと称して死体を軒先に飾る風習があったそうだが、それも厳しく廃止されたと聞く。香水や酢がペストに効くとか、魔術やお守り、札、挙句には鞭打ち苦行を行う者まで出てきた程だ。
 この時はまだ、僕の居た場所にはペストの影響は無かったのだが、皆噂話にはよく注意していた。
 風呂から出ると、僕は他の団員に連れられ、別の部屋で舞台用に着飾ってもらい、濃い化粧を施される。
 月の影法師の舞台は十三世紀。と言う事で、ブリオーと呼ばれる表着にベルトを締め、マントを着付けた代表的な衣装になる。それにウインプル(ベール)を身に纏えば、妖艶な姿がより一層引き立つのだ。解らなければ、トランプのクイーンの姿を思い描けばよい。
「シャルル」
 ダミアンが呼んだ。振り返ると、彼もまたブリオーにマントを身に着けた、王子の姿となっていた。
「あら、王子様」
 僕は、ほんのちょっぴり声のトーンを上げながら、スカートの端を持ち上げて軽く一礼した。
 ダミアンが笑みを浮かべながら掌を差し出すので、僕はお決まりごとの様にそこへ手を置いた。
「マダム、シャルル。では、こちらへ」
 ダミアンもお決まりごとの様に、僕の手の甲へ紳士的なキスをくれた。
 舞台裏からそっと覗く観客達の世界は異様だ。僕には、一生縁のない世界。この中に、僕のお辞儀を見る為に集まった人間が何人もいるんだと思ったら、不謹慎にも気分が悪くなる。
 ……ボクハ、ミセモノジャナイヨ……
 ……ボクハ、ニンギョウデモナイヨ……
 そう僕の中の何かが囁くが、所詮お金の増える人形でしかないのが、現実だ。芝居が好きでなかろうが、人形は人形なりに踊らなければいけない。誰よりも美しく、誰よりも華麗に。いかにお金を頂けるかが、重要になるのだ。
 この時代の劇場と言えば、まだ美術にしろ小道具にしろ時代考証に対していい加減であった。劇場舞台は野外劇場を生かした形をしており、平土間の上には屋根がなく、四方から観客が眺めれるようにと真ん中まで突き出した張出舞台となっていた。
 舞台下は人気が高く、僕が歩き周れば周る程高価な席となっていた。また、尤も見晴らしの良い席は、王宮の人間や貴族、金持ちが座る事が殆どで、ご婦人にしろ紳士にしろ揃って皆僕に魅入ったものだ。だから、時折観客に目線を送りつながら台詞を歌えば、それなりに金貨を投げられる事もあった。
 余談だが時代は1446年頃。イギリスにてウィリアム・シェイクスピアが誕生したのが1564年であり、彼が劇作家として活動したのが1590年以降の事。しかし活動といってもシェイクスピアの名を聞く迄には、暫く時間を要したと思う。
 それから1592年より1594年の間、ペストが酷くなり全劇団閉鎖命令が下されたと記憶する。
 後に話す事とはなるのだが、僕はこの時代既に劇団から身を引いていたため詳しくは知らないが、敢えて言うならば、僕が人として戯曲で踊り狂っていた時、まだシェイクスピアもレオナルド・ダ・ヴィンチも生まれていないかった訳だ。
 話は逸れたが、この“月の影法師”が僕にとって最後の戯曲となったのだった。
 粗末な幕が上がると同時に観客達が拍手で迎える。日の光に反射して、俗世はドレスに施された金の刺繍や、身に纏う宝石が眩しい程に煌めきを見せた。
 僕等は何もないボロ板の床を、さも白薔薇の庭だと思い込んで、それらしく練り歩かなければならない。
「あぁ、月が微笑みを浮かべて私に自由をと語り掛けるその優しさを、星が瞬きを歌いながら私に安らぎの夜(よ)を示してくれる。私は月の影法師。月の影であり、陽に嫌われた存在。月と星だけが私を美しく照らし、闇が私を愛して離さない」
 くるくるくると、金の髪を揺らしながら舞台の上を行ったり来たり。やがて観客から向かって左側より、ダミアン王子が現れる。
「どの乙女とて、私の心を満足させてはくれない。美しさもやがて薔薇の様に枯れるもの。終わりなき愛などあるのであろうか? 我が財を我が家を狙う女共に興味などない。許される事であるならば、この身を蝶と成り、白薔薇を抜けて愛しき蝶を見つける旅へと立ちたいものだ」
 同じ舞台でありながら、違う世界を演じる。
 今見れば、子供のごっこ遊びの様に見えるかもしれない。
 照明もなければ大道具どころか小道具すら殆どない。
 それらしい衣装を纏ったら、むき出しの舞台上で劇作家のお気に召すステップを紡ぎ、並べて立てられた詩を歌うだけ。
「再び太陽が昇り始めます。私は行かなければ。行かなければ」
「あぁ、醜い太陽よ。この美しき暗闇が、いつまでも続く事を願っているというのに。おぉ、神よ。何故貴方は私の願いを聞き届けてはくれないのだ?」
「これは永遠の別れでは、ございません。また明日お会いしましょう。月が昇る頃、この薔薇の道で私は待っております」
 これでも当時は数少ない楽しみの一つであり、誰もが夢中になって目を見張る娯楽だったのである。
 月の影法師の初舞台は、沢山の拍手喝采に包まれ幕を閉じた。文字通りの大成功であった。

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