ネコと勇者と魔物の事情~ペットはじめました by勇者~

東風 晶子

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37-2.王国軍の撤退

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 切っ先を喉元に突きつけられた相手は、そう言ってうっすらと笑みを履く。
 フードを深く被った華奢な姿。全身を覆う鼠色のローブは、一見したところ魔法使いのひとりであるようにも見えた。その証拠に、ガレオスの傍らにいた魔法使いはよくわかっていない様子でぽかんとしている。

「何者だ」

 ガレオスの誰何すいかに、相手はフードを僅かに持ち上げ、いとも簡単に己の顔を晒す。
 少女のような端正な容貌が目を引いた。僅かに弓形に歪んだ唇は淡く色づき、こちらを見返す双眸は光の加減か金色にも見える。
 フードの隙間から髪がひと房流れ落ちて、その色にガレオスは息を呑んだ。
 空を映した水色。その、人が持ち得ない色彩の示すところはひとつだ。

「あなた方の敵ですよ」

 金色の瞳を細め、相手は言う。

「ああ、大人しくしていてください。本来ならば私はここにおりませんからね」

 人差し指を唇に当て、視線をやった先には硬直した魔法使いがいる。何らかの魔法をかけられたらしく、小刻みに震えたきり声も出せないようだ。陸にあげられた魚のように口を開閉させていたが、やがて諦めたのか口を噤む。

「何の用だ」

 問いかけたのは、相手がこちらに話があると踏んでのことだった。殺すつもりならば気づかれる前に行動に移しているだろう。魔法使いが動きを封じられていることといい、油断ならない相手であることは容易く理解できる。
 ガレオスの緊張を孕んだ問いかけに、魔物は視線を寄越す。

「貴方が指揮官と見込んで申し上げます。今すぐ兵を引き、ここから立ち去りなさい」
「……何だと?」
「退却を勧告しているのです。降伏など面倒なだけですからね。全滅か退却、この二択しかありませんよ」

 それは当然覚悟していたことだった。そもそも魔物相手に降伏など意味がない。
 だが、相手が退却を勧めてくる意味もわからなかった。この状況で相手にとっての利点などどこにあるというのか。

「先ほどの攻撃で格の違いはお分かりでしょう。私たちにとってあの程度のことは息をするより容易い。あなた方の勝機は、万に一つもありません。――私は引き際を教えて差し上げているのです。全ての兵を失いたくはないでしょう?」
「……」
「現実は見えておいでとお見受けしますが?」

 ガレオスの雄弁な沈黙を正しく理解したらしい魔物は、軽く首を傾げて問いかけてくる。
 言われるまでもなくガレオスにもわかっていた。相手の言葉が的を射ていることも、現状が八方塞がりなことも。
 しかしそれでも、一縷の望みと何より重い責任が彼にはあった。

「ああ、私を殺したところでどうにもなりませんよ。攻撃したければどうぞお好きに。まあ人間ごときに私をどうこうできるとは思えませんが」

 唇に楽しげな笑みを閃かせ、魔物は言う。金色の双眸が輝きを増し、その奥に暗い炎が揺らめいて見えた。
 ガレオスは相手の本性が紛れもない魔物であることを再認識する。「人に似た魔物」の情報は幾つか聞き及んでいたが、これほどまでとは予想外だった。外見上は人と変わらない。けれどその奥には、これまで戦ってきた魔物と同じ獰猛な力を感じるのだ。
 目の前の相手と剣を交えることになれば、悲惨な事態が待っているだろうことは予想がついた。

「本来ならば、ここであなた方を一掃してしまうほうが楽なのですが……我が主の怒りは買いたくありませんからね。私としても余計な力を使わずに済むのなら、それに越したことはない。あなた方が大人しく退却するならば攻撃は止めさせます。後はお好きに、どこへなりとお帰りなさい」

 どうしますか、と有無を言わさぬ口調で相手は畳み掛けてくる。
 ガレオスは相手の言葉の中からいくつかを拾い、記憶した。

「退却するならば、攻撃をしないと」
「ええ。一切しません。こちらからは」

 降りかかる火の粉は払う、と魔物。
 ガレオスの胸中は既に七割方退却に傾いていた。魔物の言葉を信じるなど馬鹿げている、とも思っていたが、それでも不意に示された可能性に揺れてしまう。
 国のためと言っても、できることなら皆生きて帰してやりたい。勝利が目前にみえている状況ならまだしも、手も足も出ない状況では。
 けれどそれ以上に彼の胸に引っかかっていることがある。城内に突入しているはずの、勇者たちと黒鷺部隊だ。ここで退却することは、城内で戦っている彼らを見捨てることになってしまう。

「ああ、因みにそちらが寄越した勇者ですが」

 まるでガレオスの思考を読んだかのように、魔物が口にした。手をローブの懐に滑り込ませ、無造作に何かを取り出す。

「随分あっけない幕切れでしたよ」
「……っ!」

 その手のひらからガレオスの足元に放られたのは、何の変哲もない首飾りだ。
 青い石を鎖で繋いだだけの、ごく簡素なそれには見覚えがあった。王国軍で支給された護符である。ガレオスもまた同じものを身に着けていた。
 ただガレオスのそれとは違い、大きく罅割れた石は元の色がわからないほどに染まっていた。表面を覆っているのは赤い色彩だ。転がった地面までも染めるほどに真新しい、鮮やかな血色。

「勇者というのは皆ああいうものなのですか? 実に脆い」

 ガレオスは突きつけた剣を振るった。避けられる距離ではなく、ガレオスとしては首を落とすつもりで加えた斬撃だった。
 だが衝動的な剣の下に、骸はない。

「人間にしては悪くない動きですが、その程度では斬れませんよ」

 灰色の影は、先ほどから僅かに離れた場所に移動しただけだった。傷を負うどころか焦る様子もない。

は大目にみて差し上げます。さて改めて伺いましょう、指揮官殿。退却か全滅か、貴方の判断を」

 笑みの消えた唇が紡ぐのは、悪魔の囁き。
 その言葉にガレオスの頭は急速に冷える。激情に動かされている場合ではない、と理性が冷静に囁いた。
 全軍の指揮官はガレオスであり、兵士の命運を左右するのも指揮官の判断ひとつにかかっている。軍隊は二分され、それぞれに魔法の補助があるもののそう長くは持ちそうにない。加えて城からは強力な魔法攻撃。こちらも、そう幾度は防げそうになく。
 兵士たちの希望であった勇者も、ガレオスの優秀な部下も、失われた。
 戦況は良くない。
 否、最悪だ。
 ならばガレオスのとる行動はひとつだった。

「……退却しよう」
「良い心がけです」

 魔物がぱちんと指を鳴らすと、ガレオスの傍らの魔法使いが大きく喘いだ。

「き、きさま……っ、大佐、いけません。奴の甘言に乗っては……」

 必死に空気を貪りながらもそう言い募る魔法使いに、ガレオスは視線を向けないまま首を振る。
 確かに、甘言といってもいいだろう。相手が言葉通り攻撃してこないとは思わない。むしろ罠の可能性が大きい。
 だが、そうだとしてもなお。むしろそうならば尚更。

「退却だ」

 このまま戦い続けても被害が増えるばかりだ。城の中で勇者が戦い、その時間稼ぎであるならば必要な犠牲かもしれないが、そうでないのならば。

「大佐……!」
「全員退却だ。カディスに退くと伝えろ」

 ガレオスの強い口調に、魔法使いは体を強張らせ、頭を垂れた。そのまま、魔物を気にしながらも伝達に向かう。
 その姿を見送って、魔物は軽く息をついた。

「さて、では私もこれで失礼いたしましょう。これよりこちらから仕掛ける攻撃はないものと思って頂いて結構です。ただ……そうですね、速やかな退却をお勧めします。あまり長居されては私も責任はもてませんからね」

 フードを再び深く被りなおす寸前、その金色の双眸と目が合った。
 金色の目がすうと細められ、唇が囁くように言葉を紡ぐ。

「また日を改めて、おいでなさい」

 ガレオスには、声に喜色が滲んでいるように感じられた。その真偽を図ろうと眉を顰めた時、突然前方から強風が吹き上がる。
 思わず腕で顔を庇ったが、それは一瞬のことだったらしい。一陣の突風が行き過ぎると、目の前にあったはずの魔物の姿は忽然と消えていた。
 周囲を見回すが、姿どころか痕跡すら見つからない。気配らしい気配も感じないところをみると、恐らく魔法の類で移動したのだろう。
 抜き身の剣を下げたまま、しばし城の方角を眺めていると、声がかかる。

「大佐」

 喘ぎながら近づいてきたのは、ガレオスの副官だ。
 魔法使いから話を聞き、指示を仰ぎにきたものらしい。

「伝令は」
「はい、送りました。城門の方へは魔法使いから既に。……あの、お伺いしてもよろしいでしょうか」
「何だ」
「この状況では、退却とはいえ身動きがとれません。いかがいたしましょう」

 頭上からは未だ魔法の矢が降り注いでいる。退却の命令は伝わっているだろうが、そうおいそれと動ける状態でないことは一目瞭然だ。

「心配ない。じきに、止む」
「は……はい」

 疑問符を浮かべながらも首肯した副官を見遣り、ガレオスは自嘲する。魔物の言葉などと思いながらも、結局はそれを信じるしかない。向こうがこのままやめてこないのであれば、次の策を考えておく必要があるだろう。だが、ガレオスには相手の言葉が嘘ではないという、確信めいたものがあった。
 相手はこちらを「退却」させたいのだ。全滅させるだけの力を持ちながら、そうはせずに交渉に来たのがその証拠である。たとえそれが脅迫としか思えないものであっても。
 その思惑までは見当もつかなかったが、今このときに重要なのはそこではなかった。
 速やかに退却し、無駄な犠牲を避けること。

「攻撃が止み次第、カディスに戻る。準備させておけ」
「はい。黒鷺部隊と勇者様は」
「……後ほど合流する」

 副官の位置からは、くだんの護符は見えていないらしい。
 足元に転がるその「証拠」を、ガレオスはそれとなく体で遮った。
 まだ知らせる必要はないだろう。
 幸い、知るのは魔法使いとガレオスだけである。兵士にとって、否、人間にとって希望である存在を、奪われたと知るのはまだ後からでもいいはずだ。
 見上げた先、魔物の言葉通り魔法攻撃がぴたりと止んだ。

「よし、退け」

 合図で防壁が解かれる。同時に、兵士たちが続々と本隊に引き返し始める。
 どの顔も当惑したような表情が浮かんでいる。それもそうだろう。いきなり攻撃がやみ、攻勢に転じるどころか撤退の指示が出たのだから。

「カディスに戻り、再度立て直す」

 副官に聞こえるように呟いた。
 それは勇者が生存しているという嘘を補うための偽りであり、同時にガレオスの本心でもあった。
 勇者も部下も喪われた。本来ならばこのまま王都に帰還しても問題はない。
 彼らは王の剣であり盾。王国軍の本分は国を守ることであり、その対象は「人間」に限られている。魔物討伐は彼らにとってイレギュラーな任務なのだ。例え当代勇者が軍幹部の身内だとしても、そこに責任を感じるのはガレオス個人の感情にとどまる。
 だが、このままおめおめと帰りたくはなかった。勇者への負い目もあったが、それ以上に犠牲となった部下を思うと、敵わないまでも一矢報いたかった。それが敵の雑兵一匹であろうとも。
 そんな彼の気持ちが、彼の嘘を真実めいたものにしていた。
 彼の傍に控えた副官は、カディスに帰還したその時まで、ガレオスの嘘に気付くことはなかったのである。


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