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1巻
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人生は自転車のようなもの、と言った人がいた。
倒れないようにするには、走り続けるしかないという意味だそうだ。
人生はマッチ箱のようなもの、と言った人もいた。
重大に扱うのはバカバカしいが、重大に扱わないと危険だという意味だそうだ。
芝居のようなものと言った人もいた。
重い荷物を背負って遠くへ行くようなものと言った人もいた。
川の流れのようなものと言った人もいた。
タマネギのようなものと言った人もいた。
誰もが何かに置き換えて、みんなに何かと言いたがる。
結局、人生は何とでも言えるものなのだろう。
人生は、エレベーターのようなものだと思う。
上がることもあれば、下がることもある。
目的の階まで一気に進むこともあれば、一階ごとに止まってドアが開くこともある。
知らない誰かが乗り込んで、一緒に行くこともある。
親しい誰かと途中の階で、別れてしまうこともある。
そして、最初に階数ボタンを押した時から、既に行き先は決まっているのだ。
七月七日の日曜日。今にも雨が降り出しそうな、薄灰色の午後二時だった。
市内を巡るバスは病院の前に停車すると、短いブザーとともにドアを開ける。
湿気を含んだ生温い外の風が入り込むのを感じて席を立つが、他に降りる者は誰もいなかった。
すぐ近くの通用門から病院の敷地へ入ると、チャコールグレーの広い駐車場を右手にアスファルトの歩道が伸びている。
その奥に見える建物の、四角い消しゴムを組み合わせたような外観も、白黒二色のモノトーンな景色を印象づけていた。
色の少ない世界だった。
色そのものは同じでも、見えかたは体調や感情によって変化する。
隣に愛する人がいれば、雨の中でも周りは色鮮やかに映る。
でも、病院に向かって一人で歩いていれば、そうはならない。
曇り空がそのまま心に影を落としていた。
休診日の今日は正面玄関が閉鎖されているので、裏手へと回り時間外入口から院内へと入る。
外来患者のいない一階は外よりもさらに暗く、一直線の廊下は奥で暗闇に呑まれていた。
受付で渡されたストラップつきの面会許可証を首から提げて、廊下の途中で角を曲がりエレベーターホールに着く。
手術用、搬入用ではなく、一般用と書かれたドアの前で呼び出しボタンを押して、箱の到着を待った。
ドアが開くと中年の男が、老婆を乗せた車椅子を引いて、うしろ歩きで箱から出てきた。
男がこちらに向かって会釈する。
短く刈り込んだ白髪まじりの頭に、老いと介護の疲れが強く感じられた。
老婆は眠っているのか、もうあまり起きていないのか。
車椅子を引く振動に合わせて、うつむいた頭がぐらぐらと揺れていた。
きっと母と息子なのだろう。少し上を向いた鼻の形がそっくりだった。
二人と入れ替わりにエレベーターへと乗り込んで、右手の操作盤から『5』と表示されたボタンを押す。
ごとん、と病院ならではの遅い動作でドアが閉まると、重い音を立てて箱が上昇を始めた。
背筋を伸ばして、顎を上げて、ドアの上部にある階数ランプが進むさまを見つめる。
あとはもう、立ち尽くして待つばかりだった。
市岡守琉は、病院の匂いが嫌いだった。
ところどころに汚れと傷が見える白い壁、温かみのない昼白色の照明、慌ただしく歩く医師や看護師。
外よりも大人しく神妙な顔つきの若者たち、勝手知ったる他人の家のように我が物顔の老人たち、推理小説の最初のページにあるような、不自然に入り組んだ小部屋に分けられた院内の見取り図。
多くの見慣れない科目を示した誘導サイン、壁に貼られた厚生労働省からの案内や、地域の医療センターからのお知らせ、警察による高齢者詐欺への注意喚起ポスター。
院内に漂う消毒液の匂い、プールの塩素とオキシドールを混ぜたような、鼻を突く刺激臭、洗いたてのシーツのような洗剤と布の匂い、隠しきれず、かすかに届く汚物の匂い。
そして、多くの病と死の匂い。
それらをまとめて、病院の匂いと呼んでいる。
鼻で感じるものだけではない。
目に映る光景、耳に届く音、通りがかる人々までも含まれている。
雰囲気と呼ぶと掴みどころのない気配のように思えるから、やはり匂いと呼ぶのが相応しかった。
病院の匂いは、異世界の匂いだった。
大きな怪我をして痛い思いをしたとか、大病を患って苦しい思いをしたから嫌いになったのではない。
むしろ逆に、馴染みがない場所ゆえに、いつも強い違和感を覚えていた。
二一年の人生で、病院を訪れた機会は数えるほどしかない。
赤子の頃は知らないが、記憶にあるのは、小学一年生の秋に高所から落ちて左膝を縫った時と、中学三年生の夏に傷んだ牛乳を飲んで当たった時の二回だけ。
学校の保健室へも、定期的な予防接種と身体測定以外には入ったこともなかった。
――こいつは俺に似て頑丈だからよ。
ふと、かつて聞いた父の声が頭に響く。
小学四年生の冬、インフルエンザが流行して学級閉鎖になった朝。
隣家のおじさんから、マー君は風邪もひかずに元気だね、と褒められたあとの返事だった。
忘れずにいるのは、その言葉に大きなショックを受けたからだ。
父に似ている。
それはお前も大人になると、太ってだらしがなくなって、顔も浅黒く脂ぎって、口や鼻から臭いタバコの煙を吐いて、酒を飲んでは人や物に当たり散らす男になるぞと宣告されたように思えた。
父がどこか得意気で、髭だらけの顔に照れたような笑みを浮かべていたのも覚えている。
この人は何がそんなに嬉しいのか、小学生に分かるはずもない。
ただ、それは父との感性の違いに気づいた最初の出来事だった。
エレベーターが五階に到着する。
消化器内科病棟は明るく人の姿も多い。
日曜日の面会時間は、病院という場に気を遣いながらも、賑やかな声が飛び交っていた。
生死という、希望と絶望が入り混じって社交ダンスに興じる場。
それもまた病院の匂いの一つだろう。
廊下を進んで三つ目の病室に入る。
六人部屋は他に見舞いの者もおらず静かだった。
外出しているのか、手前両側のベッドには入院患者の姿もない。
それを横目に奥へと進むと、窓際左側のベッドを囲む薄緑色のカーテンをそっと開いた。
白い柵付きのベッドには、父が枯れ木のように横たわっていた。
上半身をわずかに起こしたベッドの上で、こちらを出迎えるように顔を向けている。
しかし両目は閉じた線になっており、昼寝中の穏やかな呼吸音が聞こえていた。
五一歳とは思えないほど老け込んだ顔をしている。
頭髪の減った頭と痩けた頬からは頭蓋骨が透けて見えるようだ。
両鼻から両耳へかけて酸素吸入用の細い透明のチューブが渡っている。
掛け布団から出た左腕にも、肘に点滴の針が刺さっていた。
――マー君! 親父さんが『酔春』で倒れたぞ!
三日前の深夜。電話を取るなり慌てた口調でそう告げられた。
かけてきたのは、実家の隣に住む小中学校時代の同級生。
風邪もひかずに元気だねと褒めてくれたおじさんの息子だった。
久しく会っていなかったが、電話番号を長く変えずに使い続けていたので連絡が取れたようだ。
『酔春』というのは地元の繁華街に古くからある居酒屋で、近所の者なら誰でも知っている店だ。
父はそこで酒を飲んでいるうちに意識を失ったらしく、単なる酔い潰れではないと気づいた顔馴染みの店主が、慌てて救急車を呼んでくれたそうだ。
病床に眠る父をそのままに、側に置かれた籠から使い終わったタオルと下着を回収して、洗い替えのパジャマとタオルに交換する。
ベッドの柵に付けられた『市岡新太郎様』というネームプレートを見て、父の名前を改めて心に留めた。
居酒屋で倒れたのは不幸中の幸いだろう。
一人で暮らす実家なら二、三日は誰にも発見されなかったはずだ。
あの日、ほどなくして病院で意識を取り戻した父は、目の前の医師と居酒屋のおかみさんに向かって、悪い悪い、ちょっと飲み過ぎたなと、頭を掻いて苦笑いした。
もちろん、それで場が和むはずもない。
冷めた雰囲気のまま、側に立つこちらには目を合わせようともしなかった。
そして翌日に再び目を覚ました父は、早速家に帰ろうとして看護師たちを困らせたらしい。
息子にも近い歳の者たちを相手に押し問答をしていたが、やがて体力の衰えを思い知ったらしく、再びベッドに戻っては苦痛にもがき耐えていたそうだ。
そんな話を笑顔の看護師たちから聞かされた。
父がご迷惑をおかけして……と謝らざるを得ない理不尽さに苛立った。
――アルコール性の慢性肝炎、肝硬変の疑いもありそうです。
横分けの白髪頭に口髭をたくわえた初老の医師からそう告げられても、全く驚かなかった。
頑丈さを自慢にしていた父の体が壊れるとすれば、まずそこしかないと思っていたからだ。
肝臓は体に取り込んだ糖や蛋白質や脂肪などを溜めてエネルギーにする機能と、アルコールやアンモニアなどの有害な物質を分解して排出する機能がある。
その肝臓が弱ると体にエネルギーが供給されなくなり、有害な物質も分解されず体内に蓄積されるのだ。
結果、栄養不足になって体が弱り、血液も濁って酸素不足に陥る。
肌や目の白い部分が黄色くなって、腹に水が溜まって、意識も混濁するそうだ。
肝臓が弱る要因は、先天性の場合も含めて複数あるが、父のケースは明らかに過度の飲酒によるアルコールの影響だった。
長年にわたり身体の処理能力を超える量を摂り続けてきたせいで、肝臓は絶えず炎症を起こし続けていた。
肌や喉のかぶれなら小さなものでも気になるが、肝臓の炎症は重症化するまで自覚症状がほとんどない。
不調を感じた時点で既に病状はかなり進行しており、倒れたとなると取り返しのつかない事態が想像できた。
そして肝硬変とは、その取り返しのつかない事態を示す病名だ。
炎症を起こし続けていた部位が、ついに固まり完全に機能しなくなることだ。
こうなると、もう飲酒を止めても回復しない。
手術で硬化した部分を切り取って、残りの部分だけで生き延びるか、それも無理なら他人の肝臓を移植してもらうしかないだろう。
どちらも極めてリスクの高い処置になる。
そして今の父には、手術に耐えられるほどの体力はなかった。
――こんなになるまで、どうして放っておいたんだ!
がんがんと、頭の中で声が響く。
医師の発言ではない。守琉自身の思いだった。
自業自得と言うのは簡単だ。
誰も酒を飲めと強要していない。
漏斗を口に突っ込んで、無理矢理に流し込んだわけではない。
自らの意思で酒を飲み、良くないことだと知りつつも飲み続けて、予想通りに体を壊したのだ。
そう、予想通りだった。
誰もがこうなると分かっていた。
それなのに酒を断たせようとはしなかった。
気づいていながらも、結局は壊れてゆく父を見放したのだ。
たった一人の身内ですらも。
「……早く行かないと、間に合わなくなる」
ふと、父が苦しそうな寝言を言って顔をしかめる。
呼吸が乱れて上下する胸の速度がわずかに速まった。
守琉は体を固めてじっと様子を窺う。
起こすべきか、ナースコールを押すべきか。
だがすぐに呼吸は落ち着き、表情もほっとしたように弛緩した。
酒焼けと黄疸の混じった顔色は、葬式で見る遺体よりも体調が悪そうに見える。
これでもいくらか持ち直したと医師が言っていた。
早く行かないと、間に合わなくなる。
今、父はそう言った。
今さらどこへ行くのか、何に間に合わなくなるのか。
何か悪い夢でも見たのだろうか。
しかし、この現実以上に悪い夢などあるのだろうか。
取り替えたタオルと下着の入った紙袋を持ち上げると、足音を立てずにベッドから離れて病室を出る。
寝付いている父をわざわざ起こす必要はない、というのは自分への言い訳に過ぎない。
本当は、顔を合わせて会話するのを避けていた。
来た時と同じ廊下を引き返して、エレベーターの箱に入ると、今度は『1』と表示されたボタンを押す。
ごとん、とドアが閉まって箱が下降する。
父との距離が再び遠ざかっていった。
肝硬変とは象徴的だ。
日々痛めつけていると患部は炎症を起こし、それでも刺激を繰り返していると、やがて凝り固まって取り返しがつかなくなる。
親子のこじれた関係も、それと同じようなものだろう。
小さな諍いや行き違いで傷つけあって、いつの間にか修復できないほど壊れてしまう。
治療法はあるのだろうか。
切り取って、捨ててしまう以外に。
ドアが開くと一階に到着している。
階数のボタンを押した時から決まっていた未来。
廊下を戻って面会許可証を返却して病院の外へ出る。
モノトーンの景色は、来た時と何も変わっていなかった。
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