ランチのこぐまさん

藤沢なお

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ランチのこぐまさん

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  大隈おおくまさんは小柄な人だ。かといって細身ではなく肉付きはかなり(特にお腹まわりが)いい。僕が入社三年目で配属された営業一課では皆、彼のことを『こぐまさん』と呼ぶ。だからそういう苗字なのだろうと思い込み、配属早々やらかしてしまった。

  先方からの電話に、

「担当のこぐまに代わります」

と伝えた僕は、子機を手渡した先で、

「お待たせ致しました、担当の大隈です」

と名乗るのを聞いた。

  そこで『こぐまさん』は苗字ではなく愛称であることに気付いたのだ。

  今年で三十路みそじの、双子のパパだという隣の先輩はクスクスと笑いながら、

「大隈さん、あの風貌ふうぼうだからね」

と言い、電話を終えた当の大隈さんも、

「ほら俺って名前負けしてるからさ、いいよ
  君も。俺のこと『こぐま』って呼んでよ」

と僕の勘違いを気さくに許してくれた。

  先輩が言うあの風貌とは、丸顔に太い眉、外回りで日焼けした色の濃い肌、ワイシャツの袖からのぞくもっさりとした腕毛などを指すらしい。

  確かに見た感じ熊っぽい。
  それもやや小さめの。

  こぐまさんの席は僕の右斜め前なので、自然と視界に入ってくる。年齢こそ五十代のいいおじさんだが、中途採用らしく役職には付いていない。実家暮らしの独身で、好きな映画はスターウォーズ。

「ちゃららちゃーん♪」

  機嫌がいいときはオープニングテーマを、気分が堕ちているときには、

「でーん、でーん、でーん……」

ダース・ベイダーの曲を口ずさむ。

  何かにつけ「あーしまったぁ」とか「うんうん、そうだよなぁ」など、とにかく黙っていられないようで心の声が駄々だだれだ。明るく話しやすい人柄のため、いつも一言二言誰かしらに声をかけられる。冗談を交わすなどして、その場の空気を和ますコミュ力も持ち合わせているようだった。

  そんなこぐまさんには様々な逸話がある。中でもほっこりするのは昼食前の光景だ。営業という仕事柄、昼休憩を取る時間帯は各自任せで特に決められてはいない。その日、先輩と外で昼食を済ませてから会社に戻ると、こぐまさんを含め同年代の男性……おじさん三人がちょうど話をしているところだった。

「どの店に行く?」

「今日は月曜だから、
 きらりあんの定食が安いよね」

「あーでも俺、パスタがいいなあ」

  三人はランチに何を食べようかと相談していた。

「パスタがいいって、こぐまさんはどうせ
  いつものスタミナ納豆パスタでしょ」

「そんなことないよ。
  たまに麻婆マーボパスタも食べるじゃないか。
  あーでも、やっぱり和食もいいかなあ」

「じゃあ、きらり庵にしようよ。
 それじゃまた三十分後に」

 話がまとまったようで、おじさん二人は自席に戻っていった。一人は同じ一課のいいさん。もう一人は二宮にのみやさんといって営業二課の人。二課は一課と同じフロアに入っている。とはいえ、ここから二宮さんの席はだいぶ離れているのだが。

 三十分後、こぐまさんの席に再び集まったおじさんたちは、連れ立って社外に出ていった。彼らの後ろ姿を目で追う僕に、

「仲がいいんだよ、あの三人」

先輩が詳しく教えてくれる。

  飯田さんと二宮さんは元々同期で、こぐまさんは営業部門が二つの課に分かれたタイミングで中途入社してきたのだそうだ。三人は年齢が近いこともあり馬が合ったらしい。もうかれこれ二十年の仲だという。

  昼食前の仲睦まじい光景は、ほぼ毎日で繰り広げられており、たまに時間があうと一課の鈴木課長も加わることがあるそうだ。こぐまさんを中心にきゃっきゃと嬉しそうにランチの算段を講じるおじさんたち。そのはしゃぎようはまるでランチを楽しむ女子高生のよう。見ているこちらもほっこりする。

  そこで、この光景に名前を付けてみた。

  JKランチ。

  こぐまさんの下の名前が『じょうじ』というのでそれも相まって、イニシャルっぽくもあり気に入っている。だけど先輩に話すと、

「本当は大隈おおくま譲二じょうじだから違うけどね」

と苦笑いされた。

 そのJKランチを日々見守るなか、こぐまさんのことが次第にわかってきた。
  どうやらこぐまさんは、食べ物の好き嫌いが多いようだ。

・野菜は好きだが肉と魚に少々難あり。
・挽肉は食べられるけど固まりは苦手。
・つまりハンバーグや肉団子は無理。
・焼き魚はOKでも刺身といった生はNG。
・鶏肉も出来れば避けたい……などなど。

  熊の割には草食を好むようだ。

  こぐまさんが外回りで不在の時は、

「今日はこぐまさんがいないから、
 猫飯ねこめしていのマグロ丼にしよう」

普段こぐまさんが一緒だと気を遣って食べられないものを、飯田さんと二宮さんの二人で食べに行くこともあるらしい。しかも本人には内緒にしておいてと口止めまでされる(それならわざわざ言わなきゃいいのに)。

  そんな微笑ましいJKランチに、なんと今日、僕と先輩がお呼ばれした。飯田さんと二宮さんが揃って出張で不在だったので、多分話し相手が欲しかったのだろう。

「君たちまだならどう?
  たまには一緒に昼メシ食おうよ」

  こぐまさんが誘ってくれたのだ。

「どこか行きたいトコある?」

  尋ねられた先輩が、

「先月オープンしたプラントベースフードの
  お店が気になっているのですが」

と言うと、好奇心旺盛なこぐまさんが、

「へえ~、何それ?  どんな店なの?」

興味津々といった様子で返してきた。

「なんでも『植物由来』という意味で、
 肉や魚の代わりに野菜がメインの料理を
 出す店らしいですよ」

  先輩がそう答えると、野菜好きなこぐまさんは二つ返事でOKした。

「行こう行こう。そりゃあぜひ試さなきゃ」

  かくして僕たち男三人は、JKランチを味わうために社外へとり出した。


 青空を背景にオフィスビルが立ち並ぶ。大勢の人や車で行き交う喧騒の中を、僕は先輩とこぐまさんの後についていった。途中、先に昼食を済ませた社内の人ともすれ違い、会釈をしつつ店を目指して歩いていく。

  信号待ちをしている間、こぐまさんは午後の陽射しを仰ぎ見るとゆっくり目を細めた。上着を脱ぐと右肩にひっかけ、再びのっそり歩き始めた姿は、やっぱり熊に似ているなぁと思う。

  国道を越え通り沿いに進み、ファストフード店の向かい側に店はあった。以前は老夫婦が営むカフェだったという。

「ああ、思い出した。
 ここのコーヒーうまかったんだよ……って
 あれ?  でも新しい店なんだよね?     
 外観は変わってないよ」

  店の前に出ている黒板メニューにはイタリア語だろうか『Buono! pianta』と白いチョークで書かれてあった。そのすぐ下にはおいしそうなハンバーガーのイラストと、『ランチやってます♪』という文字が続いている。

「まあ、とにかく入ってみよう」

  店に入るとカランコロンとカウベルの形をしたドアベルが鳴り、

「いらっしゃいませ。お好きな席にどうぞ」

女性の声に出迎えられた。

  ほとんどの店でランチが終わる二時を過ぎているせいか僕たち以外に客はいない。テーブル席が奥に三つ、入口近くに一つ、あとはカウンター席があるくらいで、こぢんまりと落ち着いた雰囲気だ。一番奥のテーブル席にこぐまさんと向かい合わせで僕と先輩が腰掛けると、こぐまさんは店内を見回した。

「あれぇ?  なんか内装も変わってないよ。
 多分、前の時と同じじゃないかなあ」

  壁にはベージュとオレンジの明るい色をしたレンガがはめ込まれ、天井からはレトロなペンダントライトがぶらさがっている。

「先代が守ってきたお店の空気感を
 変えたくなかったんですよ」

  女性はそう言うと水の入ったグラスをテーブルに並べた。年齢としは僕と同じぐらいだろうかあごの先で揺れる短めのボブが可愛らしい。

「ボーノ・ピアンタへようこそ。
  こちらがメニューになります」

  茶色い革張りのメニューブックを三冊、僕たちにそれぞれ手渡した。

「ねえねえ、このお店ってなんか
  野菜がメインって聞いたんだけど、
  お勧めみたいなのはあるの?」

  早速、こぐまさんが尋ねる。

「はい、ございます。こちらの
  ランチメニューはいかがでしょうか」

  女性は失礼致しますと言うと、こぐまさんが手にしているメニューブックの一番最初のページを開いた。

「和洋中のお料理を少しずつ、
  お楽しみ頂けるお得なセットになります」

  すぐに料理のイメージ写真が目に飛び込んできた。卵とレタスがえるハンバーガーにマグロとサーモン、イカの握りが一貫いっかんずつ、あとは白い……ああ、白湯パイタンスープのようだ。

「えっ、これってぜんぶ野菜なの?
  このハンバーガーも?」

  こぐまさんが目を見開く。

「はい。当店の料理は、すべて植物由来の
  食材でお作りしております」

  きっと何度も同じ質問をされるのだろう、女性は流暢に答えた。

「おいしそうですね」

  先輩の言葉に僕も頷く。

「じゃあこれを三つで」

  こぐまさんが注文した。

「かしこまりました。それでは、
『ボーノ・ピアンタ特製ランチセット』を
  三つで承ります」

  メニューブックを一冊残し、女性が厨房に入ったあと、オーダー頂きました~と明るい声が響いた。

 こぐまさんはメニューをぱらぱらめくり、

「うわっ、見てよ。こんなのもある」

指を差したのは、唐揚げと餃子。

「マジかぁ……これ全部野菜だってさ」

  それから、窓からのぞく向かいのファストフード店を見ると、こうぼやいた。

「俺さ、肉とか魚が苦手なんだよね。だから
  ああいう店に行っても食べられるのって
  ポテトぐらいしかないんだよ」

  確かに。ハンバーガーもチキンナゲットも駄目なら、ポテトやサラダぐらいしかないだろう。


「お待たせ致しました」

 ほどなく三人分のランチセットが運ばれてきた。

  お盆の上には、綺麗に盛り付けられた料理と、はしの横には名刺サイズのカードが添えられていた。

「そちらに、食材の説明が書かれております
  ので、宜しければお読み下さい。それでは
  ごゆっくりどうぞ」

  女性が立ち去ると僕たちは料理を眺めた。

  右の皿にはハンバーガー。バンズの間に卵とレタス、トマトにチーズ、そしてハンバーグがはさまれている。
  左側には小さい寿司下駄が置かれ、上には赤、白、橙と三種の握りが乗っている。その奥には湯気が立ちのぼる温かい白湯スープ。見慣れた料理であるものの、植物由来という初めての食事を前に、僕たちはごくりと喉を鳴らした。

「君たちさぁ……食品サンプルじゃあないん
  だから。眺めてないでほら、食べようよ」

  先陣を切ったのは、こぐまさん。手にしたハンバーガーを大きな口でかぶりつく。

「うん、うん!」

 顔を上げ、もぐもぐ咀嚼そしゃくしながら言った。

「うまいよ、これ。肉じゃないみたい」

  いや、実際にそれ肉じゃないです……とはさすがに言えない。僕たちもバンズをつかんで食べてみた。

  ガブリ。

  ……ほんとだ、おいしい。紛れもなくハンバーガーの味がする。黄色い卵もどきはスクランブルエッグにしか見えないし、このハンバーグもジューシーで肉としか思えない。

「じゃ、お次はスープを……」

  こぐまさんは一旦、食べかけのバーガーを皿の上に戻すと、白湯スープの器を手に取った。レンゲですくった汁をズズッとすする。

「あー、いいねぇ。滋味じみぶかいってやつ?
  みわたるなぁ」

  続けて具を口に含み、み締めた瞬間。

「ん!?  この肉、超うまいじゃん!」

  いや、だからそれ肉じゃないです……と、脳内でつっこみをいれる僕に反して、

「その肉のようなものは『大豆ミート』と
  いうらしいです」

食材の説明が書かれたカードを手に、先輩が丁寧に読み上げた。

「さきほどのハンバーグも、
  同じ『大豆ミート』で作ったようですね」

「えっ『大豆ミート』って何?
  ミートって肉じゃん」

「えっと……大豆を肉に似せて作った
  加工品で、低カロリーなうえに
  タンパク質が多い……と書かれています」

  先輩の話を聞いて、

「ふーん、まぁ、肉じゃないわけね」

  こぐまさんはひとまず理解したようだった。それからスープの器をお盆に戻すと、

「じゃあ次、これいってみよう」

  寿司下駄の上からマグロの握りのようなものを箸でひょいと掴み、口の中へ運ぶ。

「何これ……マグロじゃないみたい」

  はい。ですから植物由来の何かでしょうね……と声には出さず心の中でつぶやいてから僕も試した。

  ……うまい。口に入れた瞬間、柔らかくてとろける。食感はまさにマグロそのものだ。

「で、これもその、なんとかミートなの?」

  こぐまさんがそう疑問を投げると、

「いや、これはこんにゃくのようです」

と先輩が答え、間髪入れずに、

「えっ、じゃこれって、
  刺身こんにゃくじゃん!」

こぐまさんが声をあげる。それでも先輩は、

「いえ、そうではなく、こんにゃく芋を
  使用した加工品だそうです」

と穏やかに返した。

「へー、こんにゃく芋かぁ……
  上手く作ったもんだねぇ」

  こぐまさんは感心したように言うと、グラスの水を一気に半分ほど飲み、さらに質問を続けた。

  じゃあ、この横にあるイカとかサーモンみたいのもそうなの?  えーっ、じゃハンバーガーの卵は?  ねえ、このパンは何で出来てるの?

  自分では一向に手元のカードを読む気がないらしい。その都度、先輩がカードの内容を説明する。


  それにしても初めて食べた『植物由来』はおいしかった。野菜がメインというので精進料理のようなものを思い浮かべていたけれど見た目にも満足できる新しい味わいだった。

  先輩がこぐまさんの相手をしてくれたおかげで、僕はゆっくり食事を堪能できたわけだが、先輩はさぞわしなかったことだろう。


  食後、ランチサービスのホットコーヒーを飲みながら、まったりとくつろぐなかで、

「いやぁ、うまかったね、あの肉」

  こぐまさんは満面の笑みを浮かべ嬉しそうに言う。

  入店してからこの三十分ほどで、何度自分がつっこみを(脳内で)入れたかは覚えていない。だけどよくわかったのは、こぐまさんは食べているときも黙っていられないということだった。そして心のままつぶやくその言葉に、思わずこちらもつっこまずにはいられなくなるという、本当に不思議な人だ。

「いい店を教えてくれて良かったよ。飯田さ
  んと二宮さんにも教えてあげなきゃ」

  ある意味、いつもこぐまさんと一緒にランチを過ごすおじさん二人を尊敬してしまう。

  うーん。楽しい人ではあるのだが……。

 肘上ひじうえまでまくられたシャツの袖からのぞく、こぐまさんのもっさりとした腕毛。それを見つめながら、やはりJKランチははたから眺めているのが一番だな、と僕は思うのだった。
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