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本編
しおりを挟む始まりは、今しがたそこらへんの道路脇で摘んできたものと思しき、少し土の付いたタンポポだった。
身に余るランドセルに今にも取り込まれそうな程背丈も幅も小さな少年は、その頬を限界まで赤く染めて首を真上に逸らせる。かち合った丸い瞳は頭上の太陽に反射して、その呼吸の度にキラキラと彩度を変えて輝いた。まるで挙手でもするように突き出された腕の先、俺の眼下には、茎を掴むには不必要な程に強く力の込められた拳が見える。
泣いているようにも錯覚する震え声で、彼は言った。
「あなたのことが好きです」
「あ、ありがとうございます……?」
既にへにょりと萎れかけている生暖かい黄色の花を受け取って、わけが分からないながらも俺は咄嗟に礼を告げたのだ。
……だからだろうか。
あの時の俺と同じ高校の制服を纏った今も、かの少年が同じことを続けているのは。
「好きだ。柚季」
「……どうも」
受け取った花の懐かしい感触に、俺は漏れ出そうになるため息をそっと飲み込んだ。
1.飴玉
「好き。柚季」
「はいどうもありがとう冬治君。あと何回も言ってるけど柚季『さん』な」
「柚季、これあげる」
「俺の言葉は何か不思議な力で掻き消されたか???」
相変わらずランドセルにのしかかられている冬治が差し出してきたのは、袋に果物の絵が描かれた飴玉二つ。
「どっちがいい?」
「んじゃどっちも」
「えっ」
「やりぃ~、俺のモン~!!」
冬治が焦った顔をしたのにも構わず、俺は早々に少年の小さな手から無情にも飴を二つ掠め取った。プラプラと両手の指先に1つずつ摘まんで見せびらかし、冬治がどんな反応をするのかジッと待つ。8歳の子供相手に17歳の高校生がやるような事ではないが、それを咎めるような人はここには居ないのだった。
冬治ははじめの数秒こそ、二つとも取られてしまった飴玉を名残惜しそうに見ていたが、すぐに下手くそな笑顔で「いいよ。柚季にあげる」と言ってのける。どっちが年上か分かったもんじゃねーな。誰かの…いや俺の中の良心が嫌味たらしくそう言ったのが聞こえた。
「…んで、どっちがいい。冬治」
「……、…こっち」
「お前リンゴ好きな」
「好き。でも柚季のことはもっと好き」
「俺今彼女いるからサ」
「いつわかれる?」
「不吉なこと聞くんじゃありません」
2.絆創膏
「柚季、好き」
「どもっす。…でもそれはお前が使えば??」
今日の冬治のプレゼントは絆創膏。それも傷口に貼ったら膨らむ系のちょっと良いヤツ。現在進行形で足からダラダラと真っ赤な血を流している人間に渡されても反応に困る代物だ。
「こけた?痛くねーのそれ」
「痛いけど」
「痛いんかい」
「……いたいぃ」
「今かい。そんで泣くんかい」
じわっと瞳をなみなみ潤ませだした冬治の目を制服の裾で拭ってやれやれと拭ってやってから、近くの自販機に金を喰わせる。ガードレールによいしょと座らせて、さっき出て来た水を患部にぶっかけた。何を言うわけでもなく冬治は既に自分の靴と靴下を脱いでいる。準備の良い奴。
ハンカチなんぞ常備していない俺に代わり、冬治がそれをランドセルの中から得意げに取り出した。しょうがないからせっせと水滴を拭いてやり、最後に渇いた小さな足裏を、しゃがんだ俺の膝の上に乗せてやる。「柚季、王子様みたい」だと?もっと言っていいぞ。
「さっきのくれ」
「でもこれ、柚季にあげるやつ」
「つまり俺の物だから、どう使うかも俺の勝手だな」
「……、」
不服そうなのを無視して、冬治から奪ったキズパワーパッ〇先輩で彼の傷を覆い隠す。これで数分後には、餅のように白く膨らむ謎現象が起きることだろう。ふぅ、と一仕事やり終えた顔をして、俺は冬治がえっちらおっちらと靴下をはくのを見守った。
「返事は?」
「あ?」
「こくはくの返事」
「あー、俺怪我人と付き合う心の広さ無いのよね。ゴメンネ」
ぷくっと分かりやすく頬を膨らませた冬治は、その勢いに任せてガードレールから飛び降りる。あ、尻に白い線付いてら。黙っとこ。
「あした2個持ってくるから!」
「いや要らんし」
3.紙飛行機
「これ、俺が折ったすごい飛ぶヤツ。飛ばしてみてもいいよ」
「ワーウレシイナー」
「あと好き」
「はいありがとう。でも今日は風が強いから無理」
何かの裏紙で作ったらしいシンプルな紙飛行機を何だか期待の籠った目で渡されたので、仕方なく受け取った。ついでのように言われた告白を自分でも訳の分からない適当な理由で断りながら、俺はほんの軽い動作で紙飛行機を前につい、と投げて、
「あっ…」
直後、ビュンと吹いた風が最大限運行をアシストしたことで、冬治のうたい文句の通りすんごい飛ぶらしい紙飛行機君は空高く舞い上がってどこかに行ってしまった。
わあ、冬治の言う通りめちゃくちゃ飛んだねー。凄いねー。だけで済まされないのが小学生男児とのコミュニケーション。俺ってばわかっちゃってんだよね。ほら、だって冬治こっち見てるもん。え?もしかして無くした??せっかくあげたのに飛ばして無くした??って顔で呆然とこっち見てるもん。飛ばせって言ったのはお前のくせにね。あ、嘘です嘘です。俺が集中して飛ばさなかったのが悪かったです。ちょ、探そ探そ。
「いや木の上は無理じゃん。高ぇーもん。届かねーもん俺。しかもヤベーくらいキレる爺さん居る家の木だし」
「ぴんぽんしたけど居なかった」
「おっと次からピンポンするのは俺に確認してからにしてね冬治君??」
「棒見つけた」
「聞いてるかな冬治君??」
爺さんが中に居ないのは不幸中の幸いであるが、塀越しの木のてっぺんに引っかかった飛行機を救出するには圧倒的に高さが足りない。それは冬治が見つけた木の枝と俺の最大限の跳躍をもってしても、やる前から結果が見えている無謀な挑戦だった。
「うん。無理だな」
基本諦めは早い方である。まあ紙だし。作ろうと思えばもう一回そのゴッドフィンガーで同じくらい飛ぶ飛行機生み出せるでしょあんさん。そんな思いを視線に込めて冬治を見やると、彼はへそ辺りの服を両手で柔く握りしめ、まるで今生の別れを告げるような目でその木の上の紙をジッと見つめてから「またつくる」と少しだけ口角を上げた。
……ああもう!!
「もっ、ちょっとで、とどく…っ!柚季せのびしてっ」
「これ以上伸びませんー!お前こそ俺の肩で立ったり飛び跳ねたりしてみてくださいーー!ていうか軽すぎますー!ちゃんと毎日ご飯食べてくださいーー!」
「たっ、食べてますー!柚季はもっとせをのばしてくださいー!」
「あ゛あ゛ん!?お前みたいなチビガキにだけは言われたくねーんだよ!!こちとら成長期ぞ!?お゛!?」
「おちる!!おちるっっ!!」
生意気な事を言う子供をガクガクと揺さぶる。がはは。主導権は肩車をしている方の俺にあるのだ。…なんて遊んでいる場合じゃない。いくらこの枯れ木のように細っこい冬治の体重が軽いと言っても、ずっと負荷をかけられていると疲れもする。
一生懸命俺の頭上で棒を振り回す冬治だが、その先端は未だ目的のブツに掠りもしない。…家から物干し竿持ってくるか…?そんな事を考え出した時、
「コラーーーッッ!!」
「っっ!!」
「おわっ!!出たなジジイ!!」
キレ散らかし爺さんが帰宅したらしい。庭木に悪さをしていると思われたんだろう、急に街中に響いた怒声に俺達は2人して身体をビクつかせ、冬治は持っていた棒を思わず投げてしまったようだった。しかしそれは幸運なことに目的の紙飛行機にぶつかり、そして偶々強めの風も吹いたことで再び空へと飛び立っていく。
「「あっ!」」
「お前ら何処の学校だー!!そこを動くんじゃないぞーーっっ!!」
「って言われて動かねー奴がいるかよ!」
叫ぶ爺さんの声を背に受けながら、俺は急いで冬治を降ろすとそのまま腕を引いた。
「逃げるぞ!」
「…っ、うん!!」
悠然と空を駆けるその飛行機を、今度は見失わないように走って追いかける。
下らない悪事を働いて逃げる時のある種の高揚感と、もう少しで求めていた物が手に入りそうな期待感が入り混じって自然と笑いが溢れた。それは隣を走る冬治も同じようで、大口を開けて笑っている。相変わらずまだぎこちなさの残る笑い方だが、まあ楽しそうなのは伝わるのでよしとしよう。何様だ俺は。
「めっちゃ飛ぶなこの紙飛行機!」
「俺っ、毎日折れるよ」
「毎日は要らね」
4.彼女と
今日は運悪く彼女との帰宅中に冬治と鉢合わせてしまった。
遠目で俺を確認して嬉しそうに駆け寄ってきていたその顔が徐々に怪訝に変わっていくのは中々面白かったが、面倒な事態は好きじゃない。
「だれ」
「えー!!何この子!柚季君の知り合いの子?可愛い~~!」
「近所のガキ」
「子供好きなんだ?意外~!良いパパになれるねぇ?」
「うっせ」
「あいたっ」
露骨な揶揄いに彼女の頭を軽く小突くと、コロコロとした明るい笑いが返ってくる。
同時に服の裾が下へと引かれる感覚がして、俺はそちらへと視線を向けた。案の定、不機嫌そうに唇を尖らせる冬治が背中に引っ付いている。
「今日は構ってやれねーから帰れ」
「…やだ」
「えー?可哀想じゃん。ねーねー、お姉ちゃんが遊んであげよっか?」
彼女が俺の背を覗き込んで冬治の頭を撫でようとすると、冬治はそれをパチンと軽く手で弾いて拒絶した。「…いい」と恨みがましげな声で小さく告げた後、再度俺の後ろに隠れる。「…懐かれてんじゃん」と少し羨ましそうな目で見られて、俺は調子に乗って背後の小さな頭を撫でてみたが、弾かれるどころか寧ろ背中にしがみつく力が増した。おいおいケツに顔を埋めるんじゃ無い。
「好き」
「ありがと。でも彼女が居るんだなー今目の前に」
「……今日は四つ葉のクローバー見つけてきたのに」
「マジ?ラッキーじゃん」
「やだめっちゃ健気……。可愛い~♡」
「全然ラッキーじゃない!!柚季のバカ!!アホ!!ひも!!ぎゃんぶらー!!さんまた!!」
「事実無根!!」
「三股???」
ちなみにこの彼女とは3ヶ月で別れた。
5.なんでも券
「柚季、好き。付き合って」
「あざっす。でも俺今傷心中なので…。んで何この紙?」
「これは『何でも言うこと聞いてあげる券』。柚季にあげる」
「マジ?じゃあ願いを一万個に増やして下さい」
「えっ」
「えっ、何でも言うこと聞くんだろ?
何して貰おっかなー?俺の分のピーマン食ってもらって~、俺の代わりに宿題してもらって~、」
よくある意地の悪い願いを告げ、冬治の嫌がりそうな事を選んで言うと、想像通り彼は何故そんな残酷な事を思いつくのだとばかりにその顔を青ざめさせる。
「うん…、でもいちまん個は…」などとおろおろ視線を左右に揺らして焦りを浮かべる小学生を見て、悪い高校生の俺は漏れ出る笑いを必死に堪えた。
「え??一万個に増やすの無理なの??じゃあ何が出来んの??」
「えっ」
きっと10人中10人が腹立たしいと評すような煽り散らかした顔で冬治を見下ろす俺に、彼は律儀にもえっと、えっと、としばし考えを巡らせた後、
「ちゅ、ちゅー…とか」
……相当にませたガキらしい。そして相手を選ぶ趣味とセンスが残念らしい。自分で言うのも何だが。
照れと期待を込めてチラチラ向けられる視線が小憎たらしいったらない。この『何でも券』で俺が「2度と目の前に現れるな」とか言う可能性を考えていないのかね冬治君は。いや普通考えないわ。考えるのは俺みたいな捻くれ野郎だけですわ。
俺は、モジモジしている冬治と視線を合わせるべくしゃがんでから言った。
「じゃあ一万回ちゅーする?」
「えっっっ!!!!」
「嘘だわ」
「えっっっ……」
6.卵
「柚季の『ゆ』と『てんてん』を抜いたら?」
「おっと変化球。馬鹿だからわかりませーん」
「す?………ッす??」
「す?」
「す!?」
「すぅ~?何?すじこ?」
「すじこって何」
「イクラの集合体」
「いくら?」
「イクラは分かっとけよ。あれだよ。魚卵。赤い魚の卵」
「今日ニワトリの卵持って来たよ」
「鶏卵??」
「柚季、好き」
「ども。でもイクラ知らない奴はちょっと」
「知ってる!ぎょらん!」と聞き齧った単語で必死に訴えかけてくるが、絶対によく分かっていないので俺は一貫してNOを返した。今度回転寿司で本物見ような。
「それにしても何で卵?施設からくすねてきたか?夕飯抜かれるぞお前」
「違う!学校で、飼育係だから持って帰っていいよって」
「あー…、そういや俺が居た時も飼ってたな鶏。やったじゃん」
「よしはるが要らないって言うから、俺が全部貰った」
「よしはる誰?」
「友達」
「えっ、お前友達居たんだ」
いつの間にやら冬治も人並みに小学生生活を満喫しているらしい。当たり前、と少しだけ胸を張った小学生に「あらそれはゴメンナサイ」と雑な謝罪を送って、ランドセルの中から出てきた卵を1つ受け取った。
よく割れずにここまで来れたなお前達…。ランドセルを大きく左右に揺らしながら背負い直す冬治を見て、俺は戦慄しながら思った。
その後、折角の新鮮な卵だからと卵かけご飯で生のまま素材の味を楽しむ気で居たのだけれど、
ゴツン、と殻を割って見えたのは、ガチガチに固まった弾力のある白身。
「……茹でてるって言えよ…」
7.軽石
「とーじくーーん」
「柚季!!」
学校からの帰り道、偶然見かけた小さな後姿に俺は気の抜けた声をかける。秒で弾かれたように振り向いた冬治は、遠目でも分かるくらいにその表情を喜色に染めていた。遠心力で勢いよく後ろに回ったランドセルに身体を引っ張られてよろけているのが面白い。それと、今日俺に会う予定が無かったからか、何も渡すの持ってない!ってな感じで慌ててズボンのポケットを裏返しだすのも笑えた。いやだから別に毎回何か渡してくれなくてもいいんだが。
俺がダラダラ歩くことによって徐々に冬治との距離が縮まると同時、冬治の陰に隠れた位置に居た冬治と同じくらい小さい子供に気付く。初対面にも関わらず俺への怪訝な顔を隠そうとしないその少年を、俺は一瞬で『生意気なガキ』だと結論付けた。
「アンタ誰」
「宇宙人のギムネマシルベスタだ。一発で覚えろ」
「さっきは柚季って呼ばれてた」
「それは地球での仮の名だ」
「…冬治、多分コイツ『かくせいざい』とかやってる」
「失礼だなヨシハル君」
「!?何で僕の名前っ!?!?」
「宇宙人だからこの世の全てがわかっちゃうのだ」
「…!!?」
俺のふざけ倒した言葉を真に受けたのか、口を開け愕然とした顔をするヨシハル君。吹き出しそうになる笑いを堪えながら、そんな素直な彼を余裕のある表情で見返していられたのは数秒の事。次の瞬間彼は自身のランドセルにぶら下がっていた防犯ブザーを躊躇なく鳴らそうとしたので、すかさず「どーどー!!」と馬相手にするように落ち着けた。ヨシハル君は「フーッ!フーッ!」とまるで動物じみた興奮状態だったのできっとその対応は間違っていない。
危なっ。今時のガキ危なっ。冬治関連の登場人物ヨシハル君ぐらいしか知らなかったから、あてずっぽうで言ってみただけなのに。冬治はブザーとか鳴らしたこと無いぞ。いや、というか持ってないのか?それはそれで危なくないか?今度渡してやろう。
「柚季、一緒に遊ぼう」
「え、ヤダよ疲れる。俺一応受験生なのよ?」
「でも勉強しないでゲームばっかりやってるって柚季のおかーさん言ってた」
「………俺よりもあの悪魔の言うことを信じるのかお前は」
一緒に遊ぼうって言った時、隣のヨシハル君は「は???」って信じられないものを見るような目でお前の事を見たがちゃんと気付いてるか冬治。あとババアは許さん。
現実逃避をするように思わず空を仰いでいると、制服の上着がクイッと引っ張られる感覚。
犯人の冬治は「柚季しゃがんで」と服を引っ張りながら俺を地面に近付けて、それから俺の耳元で手を添え内緒話をするように囁いた。
「好き」
同時に手に「これ、道に線が引ける石。あげる」と、多数の細かい穴が開いた軽石を握らされる。
「あんがと。でも勉強してないとか言われたのがショックだったのでお断りします」
「え、違った?」
「本当だけど?」
訳が分からないと言った風な顔をする冬治に、「気持ちの問題よ。気持ちの」なんて中身の無い返事をしながら、俺はしゃがんだそのままの体勢で貰った軽石を使って歩道にビッと白い横線を引く。懐かしいな。俺も昔はこれで近所の道路という道路にうんこの絵を描きまくって拳骨を落とされまくっていたわけだが、今時の小学生もそんな遊びに興じるんだろうか。好奇心から問いかけようとして、
しかし、突如強い力で踏み抜かれた片足の激痛へと全意識が持っていかれる。
「冬治に近寄るな宇宙人!!」
「ぃっってぇええーーッ!?」
「柚季ーー!?」
「僕と冬治を宇宙に誘拐するつもりだな!そうはいかないぞ!!……っ、そんな怖い目で睨んでも怖くないからな悪者め!悪い宇宙人めっ!ぼっ、僕がやっつけてやる!!」
「義春、柚季は悪者じゃ、」
「やってくれたなクソガキィ……」
この生意気なクソガキに、高校生の怖さを思い知らせてやらねばならぬ…。
俺はゆらりと立ち上がり、身構えるヨシハル君の細腕をぐわしと掴んだ。
っていうかやっぱり俺が宇宙人だって信じ込んでる??純粋過ぎない??
「やめろ!触るなバカぁあ!!離せええ!!!」
「活きの良い子供だな~。頭からバリバリ食ったらどんだけ美味いかなあ~?ヒャッヒャッヒャッ」
「い゛や゛あ゛あああ!!!!」
涙目でガチビビりするヨシハル君を速やかにコンクリートの地面へ転がしつつ、俺は彼のわき腹を全力で擽った。いくら身をよじっても、もう無理だと懇願しても無駄だ。恨むなら、子供といえど手加減などしない大人げない俺相手に攻撃を仕掛けた見る目の無い自分自身を恨むんだなぁっ!!
報復を終え、息絶え絶えに地面に転がるヨシハル君を満足げに見下ろしていた俺に、不機嫌そうな冬治が告げる。
「柚季…。次から俺が1人じゃない時は近付かないで」
あれ?危険人物認定された?
8.キャラメルと防犯ブザー
「制服じゃない…、柚季学校サボってる!」
「違うっつの。この前言ったろ、俺もう大学生なの。制服とか着なくていいの」
「大学生…」
相変わらずランドセルを背負ったままの冬治は、眉を寄せて俺の言葉を繰り返す。
大学とか言われても、想像ついてないんだろうな。
「もう今までと同じようには会えねーな」
「え?何で?」
「だって俺花の大学生ですし。人生の夏休みですし。遊び倒すのは当たり前として、帰り時間も小学生と被ったりしねーの」
「……、やだ」
やだじゃないよ。それでどうにかなるのはイヤイヤ期までだよ。
膨らんだほっぺを人差し指で刺すと、プシューっと空気が抜けた後に鬱陶しそうに弾かれた。むっすりと黙る冬治にやれやれと息を吐いて、次いで彼の手に握られていた有名な黄色い菓子箱が目に入る。
「何それ。キャラメル?どうせ俺にくれる用のだろ?ホレ」
「やだ」
「……。あ、そだ。これやる」
完全に拗ねているらしい冬治に、俺は菓子を請う手をすごすごと引っ込めた。そして入れ替わるように差し出したのは、いつだか渡そうと思って忘れていた防犯ブザーだ。ペンギンを模した丸っこいシルエットをしたそれは、俺が「冬っぽいな」とかそんな適当な理由で選んだものである。
お椀のようにした両手で受け取ったそれをまじまじと見る冬治に、「危ない時にそれ鳴らせよ。周りが助けてくれるからな」などと使い方をレクチャーする。するとそれを聞いているのか居ないのか、俺の親切な説明を遮って冬治は言った。
お前さては取扱説明書とか読まないタイプだな??
「これ鳴らしたら、会える?」
「そんな機能は無い」
「会いに来て」
「やだ」
「柚季はやだ禁止」
「何で俺だけ…。理不尽な世界…」
冬治は両手で大切そうにブザーを握りしめながら、俺を見上げる。
「柚季、会いたい」
この懇願も、いつもの告白みたいに適当に躱せたらいいのに。
9.アイス
「……何だよ。アイス溶けるぞ」
折角買ってやったのに、冬治はその手にある半分のパピコを熱で死なせながらポカンと俺を凝視する。
「耳に、穴が空いてる」
「空いてなきゃ聞こえませんし~」
「耳たぶに!」
興奮気味にそう叫んだあと、冬治は縁石に座る俺の横にピットリと張り付き、興味津々ですと言った風に耳に開いた二つ目の穴をジロジロ眺める。この間開けたピアスの穴である。今は何もつけていないのによく気付いたなコイツ。
興味は尽きないらしく、存分に観察した後は不躾にも指で挟んで「コリコリする」だとか感想を述べ始めた。
それよりも早くアイスをお食べなさいな。
「ピアス、俺から貰ったら嬉しい?」
「いや別に。お前センス死んでそうだし」
「えっ……」
「ていうか、そんなの選んでる暇あんなら宿題進めろよ。夏休み終わるぞ」
「……。……手伝って、柚季」
「もはや風物詩だなこれ」
「しゃーねーなぁ、久しぶりに冬治の施設行くかー」と提案すると、冬治はアイスを吸いながらピクッ!と嬉しそうに背筋を伸ばしてこちらを見た。
「2人きりがいいっ」
「えー……。じゃ、俺ン家来る?」
「行く!好き!」
「どうも。だが宿題を一人でやれ」
10.酔っ払いと
「そんでぇ、桜見てぇ、さっきまで飲んでた!!んなははは!!」
「お酒臭…。昼にお酒飲むのは駄目って先生が言ってた」
「あぁ?バカにすんなコラァ。その先生も大学生の時は食っちゃ寝飲んじゃ寝………お前誰?」
「冬治!これで4回目!」
「ん~~~??」
酩酊の中、目の前の子供に顔を近づけて凝視する。
…おーおーおー。子供らしいクリッとした大きな目と、形の良い鼻、口。全人類が好むように計算されたかのような整ったパーツ配置。将来とんでもねえイケメンになることが約束された勝利の顔面だなオイ。一個ぐらいその要素分けろ。
酒のせいか何でも面白おかしくて仕方がなかった最高の気分から急転直下。醜い嫉妬に代わった感情で大人げなくほぼガンを付けるように睨みつけていると、その子供の丸みを帯びた頬がどんどん赤く色付いていって……、あれ?
「なんだ冬治じゃん」
「…っ、冬治だよ!」
「ぶはっ!!冬治だよ!だって!そんな顔真っ赤にして~、1人で満開か?それとも紅葉?名前は冬なのに?……んははっ!!赤!!あっはっは!!冬治だよっ!!あっはっはっは!!」
「……、」
「つめたくすんなよとおじー。団子いるかぁ?お??」
顔は赤いくせに不満そうにそっぽを向く冬治の肩を抱いて、俺はご機嫌取りをするかのように花見の余りで貰った団子を彼の口に無理矢理押し付けた。うりうりと唇をこじ開けんばかりにドリルさせていると、鬱陶しそうな、仕方なさげな顔で小さな口が開く。
生意気な奴め。本当は構って貰えて嬉しいくせによお~~。だって冬治は俺の事が、……あ?そういえば今日はいつもの言われてないな。
「恒例のやつ、どぞ!」
「ふぁひ??」
「団子詰め放題か!!あはははは!!早くのみ込め!!」
ごくんと顎辺りが動いたのを確認して、
「いいぞ!」
「何が?」
「だから早く言えって!とーじはぁ~~??おれの事がぁ~~??」
「……好き?」
「んふっ、んはははっ」
「…え??どういうこと??そういうこと??」
「んぁ~…何?んふっ」
「どっち??いいの??柚季??返事どっち??」
「ねみぃな………え?誰?」
「冬治っ!!!!」
翌日、二日酔いで10割死んでいる俺に、やたらもじもじとした冬治は言った。
「………次いつお酒飲む?」
「……あ゛??」
暗にずっと死んどけって言ってる??
飲んだ後の記憶は明日に持ち越さないタイプの俺だった。
11.彼女と2(ツー)
「誰」
「アンタこそ誰」
おっと既視感。やめとけ冬治。そいつは前の女よりも、…色々と強いぞ。
「近所のガキです。ホレ帰った帰った」
「やだ!好き!」
「はいチ〇ルチョコありがとう。そして今此処に俺の彼女が居ますのでゴメンネ」
「は?告られてんの?……相当イカレた男の趣味してるわねこの子供」
「それは俺も思うけどブーメランって知ってる?」
「今のうちに矯正しとかなきゃ手遅れになんのよ」
「胸に刺さるわぁ…」
「ねぇ。私達が今から何するか教えたげよっか」
「……?」
「いやそれはやめとけって」
自称イカれた男の趣味をしている俺の彼女が、制止も聞かぬまま敵意剥き出しの冬治に耳打ちをすると、
冬治は俺の顔を見上げながら、それはもう可哀想なくらいに真っ赤になっていった。
「あ、知ってんだ。最近の子供マセてんね」
「おいマジでやめろお前。 冬治、」
声をかけようとしたが、その瞬間冬治は野生動物の如き俊敏さでビュン!!と逃げていく。
「はは、かーわい」
「……、」
「一人の少年を魔の手から救った私にヒーローインタビューとか、ど?」
「まだ救えてねーだろうから今はいいわ」
彼女は「は?」と呆けた後、走り出した俺の背中に「捕まっちまえショタコンー!!」と罵声を浴びせた。
耳が痛い。しかし断じて俺はショタコンではない。
*
「…っ、ハアッ、冬治、おまっ、走るの速…っ!!」
「……ゆずき、」
「ハアッ、…あー……、えっと、アイツの言ったことはまあ…、アレだけど、ハア、少なくとも今日は何も無くなったから、…ハアッ、…とりあえず立て!何かハアハア言ってる俺が不審者みたいになるからっ!!」
冬治は、行きつけの公園で膝を抱えて蹲っているところだった。なんとなく目が潤んでいるような気がして、多少なりとも罪悪感が募る。
何言い訳っぽいこと言ってんだ俺。いやでも小学生に、…何かあれだろほら、教育に悪いだろ。俺は冬治の将来を心配してだな……いやそれなら秋穂ちゃん(彼女)の言う通り俺から引き離した方が確実にいろんな面で良いとは思うんですが、とそこまで考えたところで、足元から「ゆずきぃ…」と弱々しい声が聞こえてそちらに視線を向ける。
んで、何でコイツ立たないの?
その理由は、彼の中心で布を押し上げているナニかが、言葉よりも明確に示していた。
……あーはい、そっちが勃っちゃったわけね。
*
にゅちっ、にゅっ、ぬちゅっ、
「…っ、ゆずきっ、ぁ、なんかっ、なんかくる…っ、」
「だーから目瞑んなって。次からは自分でやんだからちゃんと覚えろよ。…こうやって上下に、…おい!聞け!」
「む、りぃ…っ!」
あの、違う。違うからこれは。
いやだって冬治が「どうすればいいかわかんない。教えて」って泣くからさあ!?放置も出来ねえじゃん!!不可抗力。これは保健体育の授業です。待ってお巡りさん。俺の頭の中のお巡りさん待って。手錠持って近づいて来ないで待って。情状酌量の余地ありかと!!
廃れた公衆便所の個室で、俺は冬治のポークピッツを無心で擦っていた。碌に掃除もされていないそこは至る所から排泄物の匂いが漂う最悪の空間である。早く出たい。
俺が小学生の時ってどんな形だったっけ、なんて現実逃避をし始めていると、冬治は一際大きくビクン!と震えてから、俺の手に吐精した。
お疲れ様ですっ!
はーっ、はーっ、と息を荒げながら、俺にもたれかかって射精後の余韻を堪能していた冬治は、しかし数秒後ハッ!!と我に返ったように背後の俺を振り返る。そして次の瞬間、限界まで目を見開いた真っ赤な顔で「う、うわあああ!!!」と叫び、容赦なく俺を突き飛ばして走り去って行きやがった。
俺の手には、まだ温かい冬治の体液がある。
……あーこれは、冬治、俺の魔の手から完璧救われちゃったやつだな。流石にこれはもう、金輪際俺のとこには来なくなるだろ。
……とか思ってたら、翌日にまたポップコーンが作れそうなくらい真っ赤な顔して近寄って来ました。
待って???馬鹿なの????
「だっ、誰にでもやってるの。…あんなこと」
「あんなことって」
「あっ、あんな…っ、あんなことはあんなことだろ!!……~~っ答えろ!!」
妙に攻撃的ィ…。
「…まあ、男は自分とお前のだけだけど」
「じ、じぶ…じぶん、と、」
ワナワナと震えて、また真っ赤になって走り去っていく。
俺掴まんねーよな…??
ちなみに彼女にはその日の内に振られてしまった。「アンタ気持ち悪い事してるね。流石」とか言われたが。流石ってなんだよ。照れるぜ。
12.はじまりのはじまり
高校に入ってすぐ。遊ぶ金欲しさに始めた最初のアルバイト先はコンビニだった。
学校や家族親族などといった、今までの小コミュニティーとはまた異なる社会という大海。己が後数十年生きるであろう地獄の縮図を垣間見ることの出来る場所。数多の接客をこなした末、俺はコンビニエンスストアという空間をそう結論付けた。
例えばほら、夜も更けた頃に1人でここに来る死んだ目の幼児だって、学校に通ってただけじゃ絶対に見れなかった地獄の一端だろ。
レジのカウンターから頭の先っちょだけしか出てないぐらいのチビガキは、細い枯れ木みたいな右手から皺くちゃの紙幣を、左手から運転免許証を出して決まった番号を告げる。タバコである。
つまり、あの、ほら、そういうアレだ。だーれにもないしょでーだ。……初めてのお使いにしちゃヘビーすぎるんだぜ。
さーてどんなクズ親がこんなことやっ散らかしてんのやら…とカウンターに出された免許証の写真を見ると、そこには正にエリート街道まっしぐら!と言わんばかりのいけすかないインテリ男が仏頂面で収まっていた。
ほーんほんほん。お堅い顔してお主も悪悪~。
「子供には売れねーから、次パパと一緒に来な」
「……」
子供は特にこれといった渋りも見せず、カウンターに出したものを回収してから出ていった。中々に素直。うるさく泣かれなくて良かった。自動ドアの開閉を眺めて思うのはそれだけだった。
そして翌日、子供は明らかに先日より具合の悪そうな状態で再来した。
ぎこちない手つきで、右手からは昨日と同じ……とは言えないぐらい皺しかない、そして少し血っぽい何かが付いた控えめにいって触りたくない紙幣を。左手からは変わらず運転免許証を提示される。
サイズの合ってない服の半袖からチラッと、絶対にホクロなんかじゃないと断言できる赤黒い小さな丸がいくつも見えた。
……いい大人なんだから買ったタバコをそんなとこで消すんじゃありませんよ本当に。マジでやめてくれ。俺このバイト始めてから段々人間不信になってきてんだから。高校生は夜10時までしか働けないにしても、その10時までの間でこの世の煮凝りみてえな奇人変人も飽きるくらい見てんだよ俺は。もうこれ以上人間の闇を見せないでくれ。
そんで多分これ、服の下、絶対火傷だけですんでねえな…。青褪めた子供の顔を見て、何となく悟る俺。
「…………お釣りでーす」
「……」
ガキにタバコ売っちゃったよ。
秒で指が年齢確認ボタン押しちゃったよ。っべーこれ犯罪かな。いや俺じゃないよ?指が意志持っちゃったからさ。人差し子がごめんな?まあ何かあれば責任はあのヒステリック店長が負うだろ。黙っとこ。
とか思ってたら、あの被虐待児のタバコ購入に関しては何かバイト全員の暗黙の了解だったみたいだ。ガキがボコボコにされてんの見るの気分悪いし、定期的に相談所?に誰かしらが連絡してるらしいが、特に問題なしで通ってるらしい。どんな隠し方??魔法使いの家系か??まあ何はともあれ共犯者がいて良かった。死なば諸共だな。口裏合わせて店長に責任取らせようぜ。
*
「好きな食べ物何?」
「……」
いつもの如く紙幣と免許証を出した子供に、商品のタバコと一緒に持っていたリンゴの飴玉を分けてやる。気まぐれな俺の質問にはきょろりと骸骨のように落ち窪んだ目玉がこちらを見ただけで、言葉での返答はなかった。
急な異世界転生とか、そんな劇的な変化を求めてるわけじゃないけど。崇高な目的意識などなく、変わり映えしない日常をただ生きているだけの俺にとって、この可哀想な子供の存在は丁度いい刺激だった。
助けてやれるような能力も覚悟も、責任を取る気だってさらさら無いのに。その場しのぎの一方的な善意で、良いことをしてやっているというくだらない優越感に浸るのが気持ちよかったとか、そんな感じ。
出会った当初からぼーっとどこを見ているのか分からない虚ろな目をした子供に、俺は会う度お菓子を渡して話しかける。何となく餌付けみたいで面白かった。
食い物の力か、最初は無言だった子供も日を追うごとにひとつずつ言葉を返してくれるようになり、最近では俺が偶に目立つ怪我の治療をしてやる事もあるくらいだ。
「怪我、学校の先生とかに何も言われねーの」
「……わかんない。…覚えてない」
「ほーん」
「へん?」
「あ?何が?」
「覚えてないの、へん?」
「別にぃ?俺だってお前の歳の頃の事とか碌に覚えてねえし」
言った後に「ん?それはちょっと違うか??」となったがまあどうせこの会話も忘れてくれるだろう。背中の青痣に湿布を貼ってやりながら、俺はそんな適当な事を思った。
「今日はなんでまたこんな事になってんだよ」
「………ほんとの、子供じゃない」
「そなん?」
「わかんない…」
まあどんな理由があっても子供に青痣出来るまで手上げる奴は総じてクズだから、言ってる事まともに聞かなくていいと思うけど。
というか今思ったが、この子供との会話、もしかして無言だったのが「わかんない」に変わっただけでは??……反応があるだけいいか。
「守ってくれる人とか居ねーの?お母さんは?」
「わかんない」
「わっかんないかー。ご近所さんとかは?」
「わかんない」
「お前逃げたくねーの?痛いの嫌じゃね?」
「…わかんない」
俺の知っている一般的な子供達が絶対見せないであろう、当初から変わらない光のない目。
俺はポケットからリンゴ味の飴を取り出すと子供の手に握らせた。別に俺は飴が大好きぺろぺろ野郎ってわけじゃないが、何となくコイツは他の菓子より飴への食いつきがいいような気がするからつい選んで買ってしまうのだ。
何かの選択肢になるほど眼前の子供が自身の意識に食い込んでいる事には、随分前から気付かないフリをしていた。
「リンゴが欲しいとすんじゃん」
子供は、早速飴を頬張りながらコテン、と首を傾げる。
「『リンゴが欲しい』って言い続けたら叶う…とはならねーけど、言い続ければ周りも知ってくれるだろ。言わなくても、例えばお前がリンゴの飴ずっと選んでたら『リンゴ好きかな。手に入ったらあげよっかな』とか思われて、知らん間にリンゴが手に入るわけ」
「??」
「……まあそれは大分都合の良すぎる例えだけど。
……お前が逃げたくなったその時は、逃げたいんだって周りにコソコソ言え。一回じゃ駄目でも言い続けろ。そしたらまあ…、俺が近くに居る時は、お前のクソ親父一発ぐらいはぶん殴ってやるから」
既に情は湧いていたんだと思う。そりゃそうだ。何度も顔合わせて話してんだ。寧ろ何も思わないって方がどうかしてる。
──しかしこの日を境に、子供はぱったりとコンビニには来なくなった。
……1週間そこらでソワつく俺は一体何なんだろうか。
いやだって、下手すればアイツ毎日来てたし。少なくとも俺がシフト入ってた時は、タバコありなし関係なく来てたし。
先輩らにも聞いてみると、やはりあの子供はどの日にも訪れていないらしい。
*
「…流石にこれは気持ち悪いぞ俺……」
何回も同じ免許証を見ていたので、自然と住所は頭に入っていた。アイツの親父の顔だって。
ちょっと様子を見るだけ。近くに行くだけ。もしかしたら親父が改心して、もうたばこパシリから解放されただけかもだし。子供が無事なのを見て……ってどう見りゃいいんだ。
色々言ったが、つまるところやっているのはストーカー行為である。やべぇよ…運転免許証の住所覚えて「来ちゃった♪」とか恐怖以外の何物でもねえよ……。……早く帰ろ。
そこは静かな住宅地だった。俺はなんとなく近くの自販機の影に身を潜めながら、明かりのついた一軒家を見つめる。
住所的にはあそこだよな。……家を訪ねるのは流石に何なんだって感じだし。キモイし。逮捕もありえるし。
毎度囚人との狭間を攻めている俺である。
自分のやっている事に改めてドン引きしながら、帰るか……と物陰に隠れるのを辞めたところで、
何やら少しばかりドタバタ騒がし気な音がして、件の家の玄関の扉が勢い良く開いた。
中から出てきたのは、あの子供だ。
一瞬、本当に同一人物かを疑ってしまった。
顔が腫れていて、左目はほぼ開いてないような状態。何故か髪はビショビショに濡れていたし、季節感を無視した薄っぺらい服は襟の部分が伸びきっていて、そこから斑らに変色した肌がはっきり見える。足元だって、素足のままで──、
その時、子供と目が合った。
彼は青紫に腫れた目を限界まで大きく見開き、次いで何かを告げようとするかのようにその唇を動かす。
しかしそれが音として俺に伝わる前に、子供は扉の奥からぬっ、と出てきた大人の腕によってその身を絡めとられ、瞬く間に家の中へと逆戻りしていった。
バタン!!直後に閉められた扉の振動がこちらにまで伝わり、まるでそれが引き金となったかのように、ドッ、と自分の心臓があり得ないくらい速く動き出す。
もたつく足を動かして俺はその扉に近付いた。
数秒間中でドタバタと何かが暴れるような音がして、その後一気シンと静まり返る。 ゾッ、と全身に鳥肌が立った。
怖いもの見たさか。反射的に手がドアノブへと伸びていた。鍵が閉められていなかったらしいそこは案外簡単に開く。
目線の先には散々免許証の写真で見て来たひとりの男と、その足元で血を流して横たわる子供。
……え?死??
男が「誰だお前」なんて言いながら近付いてくるが、俺はピクリとも動かないその子供から目が離せないでいた。
なんだこれ。
待てって、なあ。本当に現実かよ。
こういうのって普通さ、もっと、勇気のある奴とかさ、お優しいヒーローみたいな感じの奴が遭遇するべき場面じゃねえの?
役割とか、あんだろ。
俺みたいなのはそれを遠目で見て、やべーやべーってゆっくり立ち去って、普通に飯食って寝て忘れる。そんな感じじゃん。そんな感じだっただろ今まで。
まだ間に合う。「あ、間違えましたすみません」って言って、扉閉めて振り返らず全速力で走れば逃げ切れる。だってヤバい奴じゃんコイツ。自分の息子殺すとか、いや、どう考えたってヤバいって。関わらない方がいいって。
こんな、たかがコンビニでちょっと顔合わせてただけの関係で。今日は家の近くまで来たけど、特にどうしようとかまでは考えてなかったし。
名前だって、知らねえようなガキなのに。
頭の中では、まるで走馬灯のように次々と今までの事が思い出されていた。
小さな口で飴を頬張るとうまく喋れなくて、黙り込んだまま困ったように汗をかく姿。
俺が食べてた激辛チキンをちょっと食べさせて辛さに悶えているところを笑ったら、3日口をきいてくれなかった時の事。
楽しい時、笑うのを堪えているように引き結ばれる口元が偶にフッと解かれる瞬間、ぎこちないながらも中々愛嬌のある顔をするところ。
齢一桁代にしてこの世に絶望したかのような暗い瞳が、自動ドアをくぐって微かに光を宿す一瞬。
……全部、まだ途中なんだ。
コンビニが一番楽しい場所でどうするよ。楽しいことも、幸せなことも、まだまだ全然、これっぽっちだってコイツは知らない。
ここで終わって良い筈がない。
誰かが潰して良い権利なんてない。
俺の人生の中でいえば、ちょっと話した程度の名前も知らない子供。
そう、俺はまだ、
アイツの名前すら聞けちゃいねーんだよ。
気付けば俺は、間近で怒鳴り散らす男を全力でブン殴っていた。
派手に倒れたそいつを足蹴にしつつ乗り越えて、倒れ伏す子供へと一直線に駆け寄る。
「おいっ!!大丈夫か!?」
何度か声をかけると、目を開けて反応したので意識はあるようだ。
良かった。生きてる。
……生きてた。
救急車を呼ぼうと慌ててズボンの尻ポケットからスマホを取り出すと、
その暗い画面に、背後で立つ男が反射した。
……おいおいおい。空気読んで倒れててくれませんか。俺の初心者パンチはそんなに弱っちかったですかそうですか。
幽鬼のようなおどろおどろしい雰囲気で佇みこちらを睨む男の手には包丁が握られていた。
嘘、そんなつよつよ武器さっきも持ってた??
俺は弾かれたように子供を抱えて、そのまま近くの扉へと逃げ込む。トイレだった。…うん。大丈夫。ほらトイレって地震の時頑丈とかよく言うし。外に繋がる窓も、……まあ小さくて通り抜けられはしないけど新鮮な空気美味しいし。あ、鍵とかついてるし。
気付いて閉めた直後、ドアノブがガチャガチャとけたたましく動く。
どわあああ!!ビビらせんなアホッッ!!!
激しくドアを叩く音、絶えずかけられる怒鳴り声、最終的にはタックルしてドアを壊そうとして来やがる。俺は必死でそこが開かないように背中で塞ぐよう押さえつけた。
っべー。やべーやべー。頭真っ白。ポルターガイスト現象ってこんな感じかな。俺もうホラー見れねーよ。じゃなくて。
どうしよう。どうする。これ、中から引き摺り出されるのも時間の問題な気がして来た。しかもスマホはドアの外だ。落とした。何で手の平に瞬間接着剤で引っ付けてなかったんだ俺の馬鹿ーー!!
外からのタックルのタイミングで揺れながら、最悪の事態に冷や汗が止まらない。
殺されるのか?あの頭のおかしい親父に、俺と、この子供が。
入って来た時と同じ、トイレの床に尻餅をついた姿勢のまま固まっている子供を見下ろす。
……そりゃそうだ。怖くて動けねーよな。……俺だってそう!!!
……ん?でも待て??コイツの小ささなら、あの唯一の小窓もくぐり抜けられるのでは…??そんで救けとか呼びに行けちゃうのでは??
一筋の希望が見えたところで、目があった先の小さな口がどんどんへの字に曲がっていく。
……待ってくれ。
眉間にゆっくり皺が寄っていって、眉も目もどんどん顔の中心に集まっていった。
ねえ待って。ホント待ちなさいってちょっと。お願いだから元の配置に戻って。ほら、解散!!顔のパーツ解散っっ!!
ひっ、ひっ、と段々呼吸もおかしくなってきて、3、2、1、……俺は片手で顔を覆う。
「あっ、わ、ぁ…ぅああ゙あ゙ぁ゙あ゙~~~!!!」
「アーーーッ!!!嘘だろ俺も泣いていーい!?!?」
「なぁ゙あ゙ぁああ゙~~~!!!」
背後からのゴリラタックルに負けない勢いで、前から足元に抱き着かれてのギャン泣き。怒声を掻き消す程の泣き声は、まるで地上で破裂する打ち上げ花火のごとし……。
そういえばコイツがこんな風に感情を露わにして泣くところなんて初めて見た。良いこと……なんだろうけど今はどうでもいいっていうか寧ろ悪いわ。ほんとごめん。でも今優しい慰めとか求められても無理。何で泣いてんだお前とか思っちゃってるわ。だって今俺も命の危機ですから。俺だって恥も外聞も無くギャン泣きしたい気分ですから。
…そしてね、後ろからのタックルが無くなって何か不穏な衝撃に代わってるんだわ今。何かドスドスいって…………これ包丁刺してんじゃない!?ご勘弁ご勘弁もう最高にご勘弁~~~!!何もう!?ドア貫通して突き刺さったらどうしてくれんだ!!ギャってなって死ぬだけ!?嫌だが!?
「ぼん゙どい゙~~~ッッ!!ゔえ゙ぇあ゙あ~~!!!」
「あ゙!?ボンド!?」
こっちはこっちで泣き止まねえし!!頼むよ!!わんわん泣いてるだけじゃ窓から出たところで状況説明できねえだろうが!!俺だけ死んでたまるか!!俺のズボンも子供の涙でまるでお漏らしみたいに濡れて、ヤダ恥ずかし…、って言ってる場合か!!
「ぉお゙でっ!!ひっ、ぎょ、会いっ、…ゔ、にげっ、…はっ、に゙、げっ、はぁっ、」
「よよよよーっしよしその調子だ!動けるな動けるよな、あのな、泣き止んだらそこの小窓から出て誰か呼ん、」
「お、ぉ、ぢゃ!ふ、ふぎっ、ぎでっ!ぎでぐれでっ、ぎであぅゔあ゙ああ゙ぁ゙~~!!!
「誰かあぁあーーー!!??助けて下さーーーーい!!!」
駄目だった。一瞬いけるかと思ったけど泣き止ませるの無理。俺は諦めが早い方なんだ。
自力で何とかしようと力の限り小窓に向かって助けを求める俺。すると直後、いきなりドア側が騒がしくなって、いつの間にか包丁を突き刺す衝撃も無くなっていることに気付いた。
数分後、落ち着いた雰囲気を感じて恐る恐る扉を開けてみると、男は複数の屈強な警察官に取り押さえられているところだった。
どうやら様子がおかしい事を察知したご近所さん達が警察を呼んでくれており、中から聞こえた尋常じゃない子供の泣き声に、これはただ事じゃない!と乗り込んできてくれたらしい。
…コイツの泣き声も案外無駄じゃなかったようだ。……ぐしょ濡れの下半身と鼻水のオプションくらいは目を瞑ってやる…。
はあ~~…、疲れた。
極度の緊張感と恐怖からの解放ゆえにドッと疲労が押し寄せて、俺は今更震えだした足をそのままに、ずるずると壁を背で這って床に尻を付いた。すると、今まで足に引っ付いていた子供が今度は首に腕を巻き付けてくる。
うげ、締まる…もっと優じぐ…っ!!
前面に突き刺さるその骨と皮ばっかりの身体の感触は最悪だったが、生温かい子供体温に何故か酷く安心させられてしまって。俺はその脆く小さな身体を潰してしまわないように、柔らかく抱きしめ返した。
それからどうなったかはよく知らないままだ。だって俺結局は他人だし。子供は病院に連れていかれて、そのまま施設とかに入ったんじゃねーかな。
一応両親に「もう一人子供とか育てたり出来んの?」とは聞いたが、母親には「ついに孕ませたか」と唾を吐かれ、父親からは「えっ、えっ、兄弟欲しいの…?えーどうするママ?」と頬を染められた。色んな意味で腹立つなコイツら。
コンビニのバイトももう辞めた。多分俺接客とか向いてない。まあそれはやる前から分かってたけどな。社会の闇見んのも飽きたし。当分はキラキラしたもんだけ見ていたいわけ。
あ、そういえば名前結局聞き損ねた。
「──あなたのことが好きです」
その機会が訪れるのは、案外早かったわけだけど。
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