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47 耆婆扁鵲

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 雪玲しゅうりんが去って一カ月が経った。

 銀の皇帝、羽林大将軍として采配を揮う天佑は変わらず忙しくしていたが、その顔からは笑顔が消え、常にピリピリとした雰囲気を纏っている。

 後宮へも相変わらず顔を出すことはなかったが、あまりの鋭い雰囲気に右丞相も娘の昇格を言い出せず。側近たちでさえ、銀の皇帝への進言を憚るほどの緊張感が漂う中、天佑へ客が尋ねてきたとの報告が上がってきた。

「……羽林大将軍への謁見希望だと? それを忙しい俺に言う理由は明確にあるんだろうな」

 冷気を纏ったような低く不機嫌な声が銀の仮面の奥から響く。なぜわざわざ些事を報告に来たとのだと明らかに機嫌が悪化した。

 ただの下っ端の宦官は、一生接する機会がなかったかもしれない皇帝を前に、青白い顔をしている。

 天佑の悪かった機嫌がさらに悪化するのも致し方ない。影狼が見かねて宦官へ苦言を呈した。

「突然訪ねてきた者が大将軍に会えるわけがなかろう……。官吏や宦官は揃いも揃ってなぜおまえに直接報告をさせようとしたのだ?」

「ええ、も、もちろん、このような面会依頼は通常全てお断りしています。で、ですが……その方が、潘雪玲さまからのご紹介だと申すので、上に報告したら皇帝に報告するべきだと。そのまた上が他に相談ということを繰り返した結果、関係各所にたらい回しにされ、とうとうここにいる次第で……」
「……何だと?」


 身なりを整え、天佑が急いで向かった謁見室には、中年の男性が一人いた。

 知的な文官という雰囲気で品がある。すらっとしていて体格が良いように思ったが、近づいてみるとそうでもない。凛とした雰囲気がそう見せるのだろうか。

 謁見室の中でも一番狭く、かつ質の良い部屋を選んで案内させ、影狼と一角を近くに控えさせる。

(大切な客人が圧を感じて居心地が悪くなってはいけない)

 天佑は羽林大将軍として、最大限の配慮をしながら対面した。


「お待たせして申し訳ない。羽林大将軍の龍天佑と申します」

 男は天佑の挨拶を受けると、名を名乗った。

「……秦越人と申します。さっそくですが、本題に入りましょう。雪玲の頼みで参りましたが、皇宮は好きではない。できれば早々に帰りたい」

 その物言いに影狼と一角は眉を顰めたが、天佑は気にせず問いかけた。

「……雪玲の頼みとは、……一体どのようなことでしょうか」
「大将軍が霊力を持つ神医を探しているから、助けてやって欲しいと頼まれたのだ」


 ◇ ◇ ◇


 龍安堂へ案内した秦越人は、昏睡状態の天誠を見るやいなや医者の顔に変わった。望診と切診で丁寧に状態を調べると、天佑へ告げた。

「雪玲から蒼の霊薬を預かっているとか。霊薬を飲ませた後、三日間金針を打ち続ける。私が出てくるまで何人たりとも近づかないでほしい」
「……その御方はやんごとなき身分の方だ。二人きりにするわけにはいかない」
「やめろ、影狼。先生、護衛だけでも外に配置させてもらえないだろうか。もちろん入室は絶対にしないと誓う」

 雪玲が寄こした医者なのだ。疑う余地もない。

 妥協案を提示した天佑を秦越人はじっと見つめた。

「……よかろう」


 こうして三日後。

 今か今かと待ち構えていた天佑たちの前、ようやく龍安堂の扉が開かれた。疲れた顔をした秦越人が姿を現す。

「秦先生! 状況は……」
「……やんごとなき御方は目を覚まされた。短時間であれば話しても構わない」
「「「!!!!」」」

 室内に駆け込んだ天佑の前に、横たわったまま目を開けた天誠の姿があった。

「兄上……」
「……天女かと思ったら天佑か……おまえ、やつれたな」
「……兄上こそ。それに、誰のせいだと?」
「ふっ、迷惑を掛けた……私は生き延びたんだな……。これが天命だと言うのなら、皇帝として為すべきことをせよということなのだろう……」

 秦越人の徹底した管理の元、鍼や投薬、薬膳、運動療法が施され、皇帝は驚異的な早さで回復した。金針を打ってから一カ月後に、秦越人はもう自分は必要ないと言い出し、皇宮を去ることになった。

 謁見室の玉座には仮面をつけていない天誠が座り、その傍らには天佑の姿がある。あるべき姿に戻った瞬間だった。

「秦越人、此度はまこと大儀であった。そなたは朕の命の恩人であり、青龍国を救ったのと同義である。伏せっていた事実を内密にしていた関係でおおやけにその労をねぎらうことはできないが、望む物があれば、その願いを全て叶えよう」

 臣下の礼を取りながら、秦越人は言った。

「何も望む物はございません。私は既に全てを手に入れております。ただ、……大将軍にお願いがございます」

 皇帝と天佑が顔を見合わせる。

「私に、ですか……? 私にできることであれば尽力いたします」
「難しいことではありません。縁を大切にしていただきたいだけでございます。……合縁奇縁あいえんきえん、人と人の巡り合わせは縁ですから」

 そういうと、秦越人は一切の褒美や報酬を受け取らず、皇宮を後にした。

(……雪玲との関係を聞きたかったが……いや、聞いたら未練が残ってしまうな。聞かなくて正解だった)

 皇帝や天佑たちも謁見室を後にしようとしたところに、医官たちが押しかけて来た。

「陛下! 一カ月もの間、私たちはお側に近づくこともできませんでした。どこの馬の骨ともわからない男に玉体を委ねるなど、御医を軽んじていらっしゃいます!」
「私たちにはひと言の挨拶もなく……! 一体どんな高名な医者が来たというのですか! ひと目、その方に会わせてください!」
「そうです! その男に会わせてください! 私たちはその流医に劣らないということを証明してみせます!!」

「静まれ」

 霊力が乗った皇帝の穏やかな声に、御医たちが口を閉じる。

「おまえ達が寝る間も惜しんで朕の病状へ向き合っていたことには感謝している。朕もそなたたちに紹介したかったが、神医は既に去られた」
「……陛下、せめてお名前だけでもお教えいただけないでしょうか」

 皇帝はふむ、と考えるとそれで納得するのなら、とその名を伝えた。

「神医の名は秦越人と言う。驚異的な知識があり、神がかった手腕であったということは身をもって保証しよう」

侍医たちはその名を聞いた途端、天を仰いで涙を流しはじめた。

「な……そんな、まさか……」
「ああ、生きておられるのですか……、そうか、きっと功徳を積まれたから仙人になられたのだ……! 確かに、あの御方なら神医というのも納得できる……」

 御医たちが泣きながら跪く。つい先ほどまで矜持を傷つけられたと騒いでいた者たちだ。その変わりように皇帝や天佑たちは呆気に取られた。

「な、……何なんだ? どういうことだ?」

 おいおいと泣く姿に困惑していると、一人の御医が答えた。

「ううっ、秦越人さまは……数百年前に亡くなった伝説の名医でございます。民を慈しみ多くの病を治してくださった彼は妬みによって暗殺され……、非業の死を遂げたのでございます」
「医療の礎を築いてくださった名医でございます。かの方は、別名、扁鵲へんじゃくとも呼ばれていらっしゃいます」

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 ※耆婆扁鵲きばへんじゃく・・・耆婆と扁鵲にちなみ、名医を指す。

 ※扁鵲・・・春秋戦国時代の伝説的な名医で医学の祖。姓は秦,名は越人。死んだ太子を蘇らせた逸話などがある。あらゆる分野の医術に通じたが、その才能を妬んだ秦の太医令によって暗殺された。

 ※耆婆・・・ジーヴァカ。釈迦の弟子の一人で古代インドの名医。頻婆娑羅王の王子。
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