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第二章 天使時間の歯車

2-26 在原 環について

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 そうして僕と彼女は空間から出る。明確な目標も決まったから。

 「でも、歯車を探すって言っても、そこまでわかりやすいものでもなければ場所は絞りづらいのでは?」

 「大丈夫。空さえ見てれば当たりをつけられる、と思う」

 その言葉を聞くのと合わせて空を見つめてみるけれど……。

 「……暗すぎる」

 「そう、だね」

 夜の時間の中天使の歯車が回りだしたのならば、その中で空を見ることはできない。そもそも、いつもの視界とは異なって、赤と青の波に揺らめく景色しか存在しない。街灯の明かりが明かりとして機能しない状況で、僕はどうやって歯車を探せばいいだろうか。

 「それなら、明るくするだけ」

 そうして、彼女は声を発する。視界が暗くて、その光景は見えないけれど、どこか肉を切る音が耳に響いて、雫の音が確実にこだましている。

 「Enos我、 Dies希うTaratiris光の Dhiorr球体を

 聞き慣れたような、そうでもない言葉が聞こえて、そうして目の前に現れるのは。

 「……赤……、青……のまとまり?」

 Dhiorrというからには、球体のようなものを想像するが、目の前にあるのは、青と赤の光が螺旋を繰り返す綺麗なまとまり。でも、光としては心もとないのが正直な感想ではある。

 「……天使の時間だと、きちんと発動しない、のかも」

 「なるほど?」

 もしかしたら、ここが現実の時間軸であれば、何かそれらしい球体が出来上がるのだろうけれど、目の前にあるのはそんなものではない。

 天使の時間というのは、非現実的な時間であるがゆえに、更に起こる非現実的な事象が不安定になるものなのだろうか。

 「……もっと、早くしてみる」

 「……早く?」

 彼女は、また言葉を紡ぐ。淡い赤と青の螺旋に照らされているから、彼女が手元に持っていたナイフを認識して、そうして肌に線を描くのを視認する。 

 「Enos我、 Dies希うEiriaracht波動を

 そうして、目の前に起こる非現実的事象は……。

 「風?」

 「うん、風」

 視認はできないものの、身体にあてられる風を感じるのだから、目の前にあるのは風なのだろう。

 でも、それでどうしようというのか。そう思いながら、赤と青の螺旋を見ていれば。

 赤と青の螺旋は、──加速しながら回転を続ける。どういう原理で回転しているのかはわからないけれど、見る間に螺旋を視認することはできなくなる。赤と青が混ざりあって、出来上がるのは……、光の球体のようなもの。

 「……なるほど」

 最初に詠唱したものは、光の球体だったのだろう。本来の姿がこれだというのならば、先ほど風の魔法を発動したのにも、心なしか納得する。

 天使の時間とは、通常の時間軸とは異なって、垂直に立つ時間軸。つまり、それはほかの物体は動こうとしないほどに遅くなっているといってもいいだろう。知らんけど。

 そこで光の球体をいつも通りに発動しても、天使の時間軸から見れば遅くなっている魔法は、加速することでしか、本来の姿を見せることはできない。だからこそ、風の魔法を使用して早く回転させたのかもしれない。

 「はい、たまきくん。──

 「……へ?」

 一瞬、何を言われたのかわからない。

 「光の球は、ただの光の球だから投げることも動かすこともできない。だから環くんが反発してくれないと、これはそこにあるだけ」

 「……うん?」

 ……だから、どうしろというのだ。

 「ええと、僕が持ち運べばいいってこと?」

 「……察し悪いね、たまきくん」

 「……なんかごめんなさい」

 僕の謝罪を聞き取るや否や、彼女は僕の左手を取って、目の前にある光の玉を──打ち上げた。

 ──反発する感覚。

 テニスラケットで打ち上げたように、光の球は大きく飛び上がり、周囲の暗がりが一瞬で照らされる。そこまで大きな光でもなかったはずなのに、だんだんとその明るさは月光の淡さを濃く上書きをして──。

 「──なんだ、あれ」

 そうして照らされた光が映し出すのは、──大きいという言葉で表すには途方もないほどに、巨大な巨大な、回っている歯車。

 「なんで、僕はあれに気が付かなかったんだ?」

 「しょうがないよ。夜だったら尚更見えない、から」

 でも、それにしたって、見過ごすことはないほどの巨大な天体物。あまりに大きすぎて距離感が図れない。すぐそこにあるような気もするし、あまりにも遠くにあるような気もする。

 「……こんなものを、どうやって止めればいいんだ?」





 「たまきくんは、体質について知らなすぎるね」

 「体質?」

 これまたよくわからない言葉を投げかけられる。

 「たまきくんは、もっと自分のことをよく知るべき」

 天音さんはそんなことを言うけれども、そう言われてもよく理解することができない。

 自分のことをよく知る、というのは、どういうことだ。

 自分のことをよく知っているのは、自分だけではないのだろうか。

 この吸血鬼事件の犯人のように、後天的に魔法使いになった存在。そして、誰にも共有することができない劣等感を抱いているだけの愚劣な存在。それ以上に、表しようがあるのだろうか。

 「──天音さんは、僕について何か知っているんだね」

 そうでなければ、彼女がそんな言葉を吐くわけもない。そうでなければ、彼女が僕に対していろいろと目を見張ることもない。

 「それなら、教えてよ。──僕は、なんなんだよ」

 敵意を殺意に切り替えるほどの劣等感。こんなものが自分の中に存在するのも信じられないほどに、今の自分はどこか非現実的だ。それでいて魔法使いの象徴ともいえる魔法を使えない存在なのも、どうしようもないほどになりそこないだ。

 自分がどういう存在なのか、そんなの自分自身でも知りようがないのに、なぜ、彼女は僕のことを知っているように言葉を紡ぐのか。

 「──天使の時間が終わったら、話してあげる」

 「……さいですか」

 とりあえずは、目の前のトラブルについて対処をしなければいけない、ということなのだろう。

 でも、それが終われば、彼女から言葉を聞くことができる。

 



 自分が歪んでいる存在なのは、どこまでも自覚しているつもりだ。それなのに、その歪んでいる原因について、どう歪んでいるのかを自覚することがいつまでもできていない。

 ここ最近の自分はおかしいのだ。どこか自分ではない感覚が拭えない。本当に自分という存在は在原 環なのか、その不安定感が拭えないままで生きているのが気持ちが悪い。歩く足元が崩れそうな感覚を覚えるほどに。気持ちが悪い感覚を覚えずにはいられない。 

 自分でその正体を掴むことができないのだから、その不安感をぬぐうことはいつまでもできない。その不安感が増していくだけなのだから、僕はずっとこのままなのかもしれない。

 劣等感が語りかけてくることなど、本来はありえないはずだ。そんなの、聞いたことも見たこともない。それなのに、僕の中にある劣等感は語りかけ、心を占有し、身体を支配する。それでもいいと自分を思うこともあって、誰かが自分の代わりに生きてくれていれば、それでいいような、安心感を覚えるのが気持ち悪くてしようがない。自分という存在を否定するわけではないが、自分の存在を否定することなく、存在を消してしまえたらどれだけ楽なのだろうか。

 前を向くと意識をしても、劣等感がそれを阻害する。まるで劣等感こそが真なる在原 環とでも言わないばかりに。お前がそうすることは間違っているとでも宣言するように。

 僕は在原 環なのだろうか。俺が在原 環なのだろうか。そんな心の迷いだけが、心を侵食していく。心を侵食すればするほど、自分が乖離していく感覚を味わう気持ちが、心底怖くて仕方がない。

 そんな不安感を抱いて生きるのが、どうしようもない程に怖いのだ。その正体に気づくことも怖い感情が渦巻いてしまう。でも、その正体を自分で気づく構成は世界には出来上がっていない。だとするのならば、自分ではない他人に、その正体を看破してもらうしかない。どこまでもおかしい存在である在原 環という違和感の正体を、誰かに突き詰められなければ、僕は前に進めない。



 「だいじょうぶだよ」

 天音さんの声が、響く。

 「きっと、わたしがあそこにいるのも、君のためだ、って思うから。わたしは君に話さなきゃいけないことが沢山あるから」

 そんな不安をかき消すように、彼女は言葉を紡いでくれる。

 ──それなら、それでいい。

 それなら、尚更天使の時間を終わらせなければいけない。

 僕はため息をつく。

 「約束、だからね」

 「うん、絶対だから」

 そんな会話を紡いで、二人で巨大な天体物を臨む。

 ──結局、僕は僕でできることをやるだけなのだ。
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