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第9話 鬼嫁の離婚依頼
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「夫と別れたいんです」
その日はしとしとと雨が降っていた。
須崎莉奈と名乗るその女性は、七夕を数日後に控えた、七月初旬にやって来た。
「夫は須崎慎吾。歳は私と同じ二十五歳で、人間です」
「人間?」
客間の座布団の上に綺麗に正座した莉奈という淑やかな女性は、出された冷茶に口を付けると、静かにそう切り出した。その言い方にひっかかりを覚え、優奈は首を傾げる。
答えたのは新だった。
「鬼だよ」
相変わらずコーヒーを啜りながら新は言った。相変わらずの浴衣姿で、しかも片膝を立てている。所作の一つ一つにまで礼儀正しさが滲み出ている莉奈とは正反対の行儀の悪さだった。
「こいつは鬼だ。この事務所に来る時点で人間じゃないのは明らかだろ。いい加減覚えろ」
呆れる新に、優奈は思わずムッとする。分かってはいるが、優奈はあやかしや妖異といった人ならざるモノとは無縁の世界で生きてきた時間の方が長いのだ。そう簡単に認識は変えられない。それに――
「あのう、何か……?」
「あっ、ごめんなさい。鬼の方に会うのは初めてで……その角とかないし、どこからどう見ても人間の女の人にしか見えないので」
まじまじと莉奈を見てしまった優奈は、慌てて手を振る。そんな優奈に莉奈は口元に手を当て微笑んだ。
「あら、でしたら変化は上手くいってるのですね。昔は変化が下手で下手で、よく人前で角や牙が出てしまい、それは困ったものだったんです。ほら」
と言って莉奈は、額の上部に二本の艶やかな白い角を生やし、手の爪を長く鋭くしてみせた。白角には、角度によって美しい地模様みたいなものが見える。
優奈は思わず「おお!」と感嘆の声を上げた。一様に『変化』といっても、豆狸の航のようにポンッと姿が変わるわけではないらしい。摩訶不思議な妖術などの類いというよりは、肉体を変化させているといった感じだ。
新がコト、と音を立ててマグカップを座卓に置く。
「その角と血の匂い……鬼藤の娘か」
「さすが妖崎さま。ご存じでしたか」
莉奈は人間の姿に戻ると、しかと頷いた。
「仰るとおり、須崎は人間の夫の姓……旧姓は鬼藤といいます」
優奈は新を見た。
「鬼藤って有名なんですか?」
「京都に居を構える、古い鬼の一族だ。いつから続いてるんだったかな……戦国、鎌倉、平安……詳しくは知らんが、あの酒呑童子や茨木童子なんかとも縁があるんじゃなかったか?」
記憶を辿っているのか、知らんけど、が後ろに続きそうな言い草で、新は首を傾げる。
優奈は思わず胡乱げな目を向けた。
「……新さん、そんなに長生きしてるんです?」
「さすがにそんなに生きてねぇよ。……多分」
多分ってなんだ、多分って。
内心でツッコミを入れつつも、優奈は莉奈に向き直る。いつまでも話を脱線させているわけにもいかない。
「それで、今回はその、旦那さんと離婚したいとのことですが……」
おずおずと切り出した優奈に、こくりとどこか緊張した面持ちで頷いた。膝の上で重ね合わせた左手の薬指には、銀色の結婚指輪が輝いている。
莉奈は少しの間黙っていたが、やがて静かに口を開いた。
「……そんな、大仰な理由ではないんです。最初は……作ったご飯が美味しくない。そんな些細なことでした」
やや俯き気味に視線を落としつつも、居住まいを正し、ぽつりぽつりと語っていく。
「私も人並みには家事が出来ますが、働いている手前、凝ったものは作れませんし、失敗する時だってあります。なのに……」
「家事は主に莉奈さんが?」
「はい。彼もいくらかはやってくれますが、私より仕事が忙しいので、必然と私がになっています。それ自体には不満はないのですが……面と向かって美味しくないと言われてしまうと……」
きゅっと唇を引き結ぶ。
「それからは、夫の些細なことが気になるようになりました。行き先を告げずに出かけるとすぐに『どこにいるの?』とか、『どこに行っていたの?』と聞いてきたり……ちょっと顔色を悪くしていると何かあったのかとしつこく聞いてきたり」
語調が、微かに強くなる。
「そんないつもいつも元気そうな顔ばっかりしていられるわけじゃないじゃないですか。仕事の疲れもありますし、女性は貧血にもなりやすかったりしますし……この間なんて体調不良で仕事を休んだのに文句を言ってきたんです。調子が悪いのに、家の事をいつも通りに出来るわけないじゃないですか」
それらは本当に些細なことだ。
流せばいい。いちいち気にして全てに突っかかっていたら、人間関係なんて円滑に回るわけではないのは、家庭のみならず、職場だって同じだ。
けれど流せることばかりではない。
そういう不満は積もり積もって、いつの日か爆発してしまう。
――結婚してみたら、付き合っていた時と全然性格が違う。なんていうのはよくある話だ。
莉奈と夫・慎吾も、そういう話かもしれない、と今までも何度か離婚問題に携わってきた優奈は考える。
きっと、理想の恋人と理想の夫は違う、という事だろう。……生まれてこの方、結婚話どころか恋人すらいたことのない優奈には、実感も何もないが。
「あれ、でも入籍前に同棲していらしたんですよね。その頃は、そういうのはなかったんですか?」
優奈は傍らに置いていた問診票を見直す。話が始まる前――お茶の準備をしている間に、個人情報と合わせ依頼内容など記入してもらったものだ。
そこに書かれた情報によると、入籍は今年の一月。その前に半年くらい同棲していたらしい。つまり、かれこれ一年近く二人は一緒に暮らしていることになる。
莉奈は戸惑いながらも、肯定を返した。
「なかった、と思います。でも、私も結婚に向けて舞い上がっていたのかもしれません……恋は盲目なんて言いますし」
沈黙が僅かに客間を満たした。
「それで……彼に別れを切り出したんです。離婚して欲しいって。そしたら、彼、すごく怒って……」
莉奈はぎゅっと、膝の上の手を握り締める。
「それで、私、怖くなって、実家のマンションに避難したんです。でもそしたら、今度は彼、私の後を付けたり、先回りしたりするようになって……」
「なっ、ストーカーじゃないですか!」
咄嗟に優奈は身を乗り出しかけた。
「警察には相談されたんですか?」
「いえ……警察の方は、実際何か被害がないと動かないと聞くので……それに、私もあまり事を大きくしたくはなくて……」
そうは言いつつも莉奈は身を震わせ、心の臓を抑えるようにぎゅっと両手を握り締めている。
その様子に、胸が痛んだのは一瞬。
「分かりました!」
威勢のいい一言共に、優奈は座卓の上に身を乗り出す。そして茶托と湯飲みを揺らした勢いそのままに、両手でガシッと包み込むように莉奈の手を握った。
「その依頼、お引き受けいたしましょう!」
「ほ、本当ですか?」
目を丸くする莉奈に、意を決した優奈は努めて明るく返事をする。
「はいっ! 困ってる女性を放っておくなんてできません。ね、新さん!」
振り返った先。めんどくさそうに頭を掻いた新は嘆息一つ零して、それから鋭い視線を莉奈に向ける。
「本当に別れていいんだな?」
その念押しに、莉奈は無言でこくりと頷く。
事態が急転したのは、翌日のことだった。
その日はしとしとと雨が降っていた。
須崎莉奈と名乗るその女性は、七夕を数日後に控えた、七月初旬にやって来た。
「夫は須崎慎吾。歳は私と同じ二十五歳で、人間です」
「人間?」
客間の座布団の上に綺麗に正座した莉奈という淑やかな女性は、出された冷茶に口を付けると、静かにそう切り出した。その言い方にひっかかりを覚え、優奈は首を傾げる。
答えたのは新だった。
「鬼だよ」
相変わらずコーヒーを啜りながら新は言った。相変わらずの浴衣姿で、しかも片膝を立てている。所作の一つ一つにまで礼儀正しさが滲み出ている莉奈とは正反対の行儀の悪さだった。
「こいつは鬼だ。この事務所に来る時点で人間じゃないのは明らかだろ。いい加減覚えろ」
呆れる新に、優奈は思わずムッとする。分かってはいるが、優奈はあやかしや妖異といった人ならざるモノとは無縁の世界で生きてきた時間の方が長いのだ。そう簡単に認識は変えられない。それに――
「あのう、何か……?」
「あっ、ごめんなさい。鬼の方に会うのは初めてで……その角とかないし、どこからどう見ても人間の女の人にしか見えないので」
まじまじと莉奈を見てしまった優奈は、慌てて手を振る。そんな優奈に莉奈は口元に手を当て微笑んだ。
「あら、でしたら変化は上手くいってるのですね。昔は変化が下手で下手で、よく人前で角や牙が出てしまい、それは困ったものだったんです。ほら」
と言って莉奈は、額の上部に二本の艶やかな白い角を生やし、手の爪を長く鋭くしてみせた。白角には、角度によって美しい地模様みたいなものが見える。
優奈は思わず「おお!」と感嘆の声を上げた。一様に『変化』といっても、豆狸の航のようにポンッと姿が変わるわけではないらしい。摩訶不思議な妖術などの類いというよりは、肉体を変化させているといった感じだ。
新がコト、と音を立ててマグカップを座卓に置く。
「その角と血の匂い……鬼藤の娘か」
「さすが妖崎さま。ご存じでしたか」
莉奈は人間の姿に戻ると、しかと頷いた。
「仰るとおり、須崎は人間の夫の姓……旧姓は鬼藤といいます」
優奈は新を見た。
「鬼藤って有名なんですか?」
「京都に居を構える、古い鬼の一族だ。いつから続いてるんだったかな……戦国、鎌倉、平安……詳しくは知らんが、あの酒呑童子や茨木童子なんかとも縁があるんじゃなかったか?」
記憶を辿っているのか、知らんけど、が後ろに続きそうな言い草で、新は首を傾げる。
優奈は思わず胡乱げな目を向けた。
「……新さん、そんなに長生きしてるんです?」
「さすがにそんなに生きてねぇよ。……多分」
多分ってなんだ、多分って。
内心でツッコミを入れつつも、優奈は莉奈に向き直る。いつまでも話を脱線させているわけにもいかない。
「それで、今回はその、旦那さんと離婚したいとのことですが……」
おずおずと切り出した優奈に、こくりとどこか緊張した面持ちで頷いた。膝の上で重ね合わせた左手の薬指には、銀色の結婚指輪が輝いている。
莉奈は少しの間黙っていたが、やがて静かに口を開いた。
「……そんな、大仰な理由ではないんです。最初は……作ったご飯が美味しくない。そんな些細なことでした」
やや俯き気味に視線を落としつつも、居住まいを正し、ぽつりぽつりと語っていく。
「私も人並みには家事が出来ますが、働いている手前、凝ったものは作れませんし、失敗する時だってあります。なのに……」
「家事は主に莉奈さんが?」
「はい。彼もいくらかはやってくれますが、私より仕事が忙しいので、必然と私がになっています。それ自体には不満はないのですが……面と向かって美味しくないと言われてしまうと……」
きゅっと唇を引き結ぶ。
「それからは、夫の些細なことが気になるようになりました。行き先を告げずに出かけるとすぐに『どこにいるの?』とか、『どこに行っていたの?』と聞いてきたり……ちょっと顔色を悪くしていると何かあったのかとしつこく聞いてきたり」
語調が、微かに強くなる。
「そんないつもいつも元気そうな顔ばっかりしていられるわけじゃないじゃないですか。仕事の疲れもありますし、女性は貧血にもなりやすかったりしますし……この間なんて体調不良で仕事を休んだのに文句を言ってきたんです。調子が悪いのに、家の事をいつも通りに出来るわけないじゃないですか」
それらは本当に些細なことだ。
流せばいい。いちいち気にして全てに突っかかっていたら、人間関係なんて円滑に回るわけではないのは、家庭のみならず、職場だって同じだ。
けれど流せることばかりではない。
そういう不満は積もり積もって、いつの日か爆発してしまう。
――結婚してみたら、付き合っていた時と全然性格が違う。なんていうのはよくある話だ。
莉奈と夫・慎吾も、そういう話かもしれない、と今までも何度か離婚問題に携わってきた優奈は考える。
きっと、理想の恋人と理想の夫は違う、という事だろう。……生まれてこの方、結婚話どころか恋人すらいたことのない優奈には、実感も何もないが。
「あれ、でも入籍前に同棲していらしたんですよね。その頃は、そういうのはなかったんですか?」
優奈は傍らに置いていた問診票を見直す。話が始まる前――お茶の準備をしている間に、個人情報と合わせ依頼内容など記入してもらったものだ。
そこに書かれた情報によると、入籍は今年の一月。その前に半年くらい同棲していたらしい。つまり、かれこれ一年近く二人は一緒に暮らしていることになる。
莉奈は戸惑いながらも、肯定を返した。
「なかった、と思います。でも、私も結婚に向けて舞い上がっていたのかもしれません……恋は盲目なんて言いますし」
沈黙が僅かに客間を満たした。
「それで……彼に別れを切り出したんです。離婚して欲しいって。そしたら、彼、すごく怒って……」
莉奈はぎゅっと、膝の上の手を握り締める。
「それで、私、怖くなって、実家のマンションに避難したんです。でもそしたら、今度は彼、私の後を付けたり、先回りしたりするようになって……」
「なっ、ストーカーじゃないですか!」
咄嗟に優奈は身を乗り出しかけた。
「警察には相談されたんですか?」
「いえ……警察の方は、実際何か被害がないと動かないと聞くので……それに、私もあまり事を大きくしたくはなくて……」
そうは言いつつも莉奈は身を震わせ、心の臓を抑えるようにぎゅっと両手を握り締めている。
その様子に、胸が痛んだのは一瞬。
「分かりました!」
威勢のいい一言共に、優奈は座卓の上に身を乗り出す。そして茶托と湯飲みを揺らした勢いそのままに、両手でガシッと包み込むように莉奈の手を握った。
「その依頼、お引き受けいたしましょう!」
「ほ、本当ですか?」
目を丸くする莉奈に、意を決した優奈は努めて明るく返事をする。
「はいっ! 困ってる女性を放っておくなんてできません。ね、新さん!」
振り返った先。めんどくさそうに頭を掻いた新は嘆息一つ零して、それから鋭い視線を莉奈に向ける。
「本当に別れていいんだな?」
その念押しに、莉奈は無言でこくりと頷く。
事態が急転したのは、翌日のことだった。
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