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第20話 死亡
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野々宮の自宅は、優奈の自宅最寄り駅と同じ鉄道沿線にある。
といっても、事務所がある地域は駅から離れると途端に田んぼと畑ばかりで、車が必要になる場所だ。故に野々宮は、車通勤をしていた。
「ここが、先生の自宅……」
スマホの地図アプリを頼りに目的地に辿り着いた優奈は、少し年季を感じさせる二階建て一軒家を前に、ぽつりと呟く。
野々宮の自宅は、夜の中に沈んでいた。
室内から灯りはなく、玄関灯もついていない。カーポートの下に野々宮の愛車はなく、中に人がいる気配もない。静かな住宅街に点在する外灯の光が、ほんのり反射して家の輪郭を浮かび上がらせている。
優奈は地図アプリを落として、息を整えた。駅から歩くこと十数分。逸る気持ちそのままに早足で歩いてきたせいか、息が上がっていた。
深呼吸をして、それから閉ざされた門扉に手を掛ける。意を決し、敷地内へ踏み込もうとし、
「え――?」
目に入ったそれに、優奈は困惑の声を上げた。
道路沿いの塀――そこに取り付けられた『野々宮』の表札の下の、郵便ポスト。
そこには何通もの新聞とポスティングされた広告が、ぐちゃぐちゃに詰め込まれていた。
瞬間、優奈はゾッと、全身の血の気が引いていくのを感じた。
『ルールというのは、決めてしまえば案外と楽なものなんだよ』
脳裏に野々宮の柔らかい声が蘇る。
それは、野々宮の口癖みたいなものだった。
野々宮法律事務所に勤めてどれぐらい経った頃か。野々宮から初めてその台詞を聞いた時だった。
めんどくさそうだ、と言う優奈に野々宮は『そうでもないよ』と言って、丸い顔に出来た何本もの皺を深めて笑った。
『たとえば……そうだね。優奈くんは、お風呂はシャワーじゃなくて湯船かな? あ、セクハラじゃないから、そんな冷めた目で見ないで。訴えようとしないで。……コホン。えっと、僕は湯船派なんだけど、お風呂に入ったら必ず出る時にお湯を抜いて、すぐに浴槽を洗うようにしているんだ。確かに地震とか急な災害を考えたら残り湯は溜めたままの方がいいんだろうけど、僕は朝慌ただしくするのが嫌いだから、お風呂を出て髪を乾かしたら次はお風呂を洗うって決めてる。そう決めておけば、いつ洗おうかなんて考えなくてもいいだろ?』
うーん、そういうものかなと思案する優奈に、野々宮は例を付け加える。
『他にも、靴下は爪先を上にして干すとか、家に帰ってきたら必ず郵便受けをチェックするとか。簡単に言えばルーチン化してしまうんだ。そうすれば、いちいち細かい判断をしなくて済むだろ?』
もしルールがめんどくさくなったらどうするんですか?
なおもそう言って同意を示さない優奈に、野々宮は答えた。
『そういうときはルールを見直すんだ。あるいは、それに対してルールを定めることをやめる』
いいんですか?
そう尋ねると、野々宮はいいんだよと笑った。
『大切なのは、今の自分にルールが合っているかどうかってことなんだ』
だって、と野々宮は言う。
『生まれてから死ぬまで、ずっと同じ自分でいることなんてできないだろう?』
野々宮はそういう、きちんとした人だった。
ものを語るときはいつだって理路整然と、それでいて相手の受け答えを聞きながら、分かりやすく説明してくれる。実に弁護士然とした、人を思いやれる人だった。
そんな人が、何日も郵便受けをチェックしないなんてことがあるだろか?
あるいは夜逃げするにしても、新聞を止めないなんて――いや、そもそも夜逃げなんてするはずがない人だ。
多分、何か、優奈のあずかり知らないところで、何かが起きている。
頬を伝う冷や汗を拭うことも忘れて、優奈は急いで大家さんに電話をした。
野々宮の家の状況を伝え、それからやっぱりおかしいと、息を切らして伝える。
やがて大家さんは、強張った声で言った。
『……優奈ちゃん、警察に連絡しよう』
「えっ……?」
警察? 連絡?
予想だにしてなかった単語に、優奈は戸惑いとも驚きともつかない声を零す。
混乱する優奈に諭すように、大家さんは説いた。
『どう考えたって、最初からおかしかったんだよ。秀造ちゃんが何も言わず急にいなくなるなんて。警察にはアタシから事情を話しておくから』
「…………」
『何もなかったらなかったで、それでいいじゃないか。ね?』
「……わかり、ました……」
諭すような優しい声に、優奈はおずおずと頷く。
『遅くまでありがとうね。気を付けるんだよ』
そう言って電話は切れた。ツーツーツーという無機質な電子音の流れるスマホを眺めて、どれぐらい経ったか。優奈は半ば茫然自失としながらも、通話終了ボタンを押した。
(帰ろう……)
スマホをしまい、仕事用の鞄を肩に担ぎ直して歩き出す。瞬間だった。
カツ、と背後――驚くほど近くで発せられた誰かの足音に振り向き――
けれど振り返るよりも早く、首に回された誰かの手が、優奈の首筋を切り裂いていた。
といっても、事務所がある地域は駅から離れると途端に田んぼと畑ばかりで、車が必要になる場所だ。故に野々宮は、車通勤をしていた。
「ここが、先生の自宅……」
スマホの地図アプリを頼りに目的地に辿り着いた優奈は、少し年季を感じさせる二階建て一軒家を前に、ぽつりと呟く。
野々宮の自宅は、夜の中に沈んでいた。
室内から灯りはなく、玄関灯もついていない。カーポートの下に野々宮の愛車はなく、中に人がいる気配もない。静かな住宅街に点在する外灯の光が、ほんのり反射して家の輪郭を浮かび上がらせている。
優奈は地図アプリを落として、息を整えた。駅から歩くこと十数分。逸る気持ちそのままに早足で歩いてきたせいか、息が上がっていた。
深呼吸をして、それから閉ざされた門扉に手を掛ける。意を決し、敷地内へ踏み込もうとし、
「え――?」
目に入ったそれに、優奈は困惑の声を上げた。
道路沿いの塀――そこに取り付けられた『野々宮』の表札の下の、郵便ポスト。
そこには何通もの新聞とポスティングされた広告が、ぐちゃぐちゃに詰め込まれていた。
瞬間、優奈はゾッと、全身の血の気が引いていくのを感じた。
『ルールというのは、決めてしまえば案外と楽なものなんだよ』
脳裏に野々宮の柔らかい声が蘇る。
それは、野々宮の口癖みたいなものだった。
野々宮法律事務所に勤めてどれぐらい経った頃か。野々宮から初めてその台詞を聞いた時だった。
めんどくさそうだ、と言う優奈に野々宮は『そうでもないよ』と言って、丸い顔に出来た何本もの皺を深めて笑った。
『たとえば……そうだね。優奈くんは、お風呂はシャワーじゃなくて湯船かな? あ、セクハラじゃないから、そんな冷めた目で見ないで。訴えようとしないで。……コホン。えっと、僕は湯船派なんだけど、お風呂に入ったら必ず出る時にお湯を抜いて、すぐに浴槽を洗うようにしているんだ。確かに地震とか急な災害を考えたら残り湯は溜めたままの方がいいんだろうけど、僕は朝慌ただしくするのが嫌いだから、お風呂を出て髪を乾かしたら次はお風呂を洗うって決めてる。そう決めておけば、いつ洗おうかなんて考えなくてもいいだろ?』
うーん、そういうものかなと思案する優奈に、野々宮は例を付け加える。
『他にも、靴下は爪先を上にして干すとか、家に帰ってきたら必ず郵便受けをチェックするとか。簡単に言えばルーチン化してしまうんだ。そうすれば、いちいち細かい判断をしなくて済むだろ?』
もしルールがめんどくさくなったらどうするんですか?
なおもそう言って同意を示さない優奈に、野々宮は答えた。
『そういうときはルールを見直すんだ。あるいは、それに対してルールを定めることをやめる』
いいんですか?
そう尋ねると、野々宮はいいんだよと笑った。
『大切なのは、今の自分にルールが合っているかどうかってことなんだ』
だって、と野々宮は言う。
『生まれてから死ぬまで、ずっと同じ自分でいることなんてできないだろう?』
野々宮はそういう、きちんとした人だった。
ものを語るときはいつだって理路整然と、それでいて相手の受け答えを聞きながら、分かりやすく説明してくれる。実に弁護士然とした、人を思いやれる人だった。
そんな人が、何日も郵便受けをチェックしないなんてことがあるだろか?
あるいは夜逃げするにしても、新聞を止めないなんて――いや、そもそも夜逃げなんてするはずがない人だ。
多分、何か、優奈のあずかり知らないところで、何かが起きている。
頬を伝う冷や汗を拭うことも忘れて、優奈は急いで大家さんに電話をした。
野々宮の家の状況を伝え、それからやっぱりおかしいと、息を切らして伝える。
やがて大家さんは、強張った声で言った。
『……優奈ちゃん、警察に連絡しよう』
「えっ……?」
警察? 連絡?
予想だにしてなかった単語に、優奈は戸惑いとも驚きともつかない声を零す。
混乱する優奈に諭すように、大家さんは説いた。
『どう考えたって、最初からおかしかったんだよ。秀造ちゃんが何も言わず急にいなくなるなんて。警察にはアタシから事情を話しておくから』
「…………」
『何もなかったらなかったで、それでいいじゃないか。ね?』
「……わかり、ました……」
諭すような優しい声に、優奈はおずおずと頷く。
『遅くまでありがとうね。気を付けるんだよ』
そう言って電話は切れた。ツーツーツーという無機質な電子音の流れるスマホを眺めて、どれぐらい経ったか。優奈は半ば茫然自失としながらも、通話終了ボタンを押した。
(帰ろう……)
スマホをしまい、仕事用の鞄を肩に担ぎ直して歩き出す。瞬間だった。
カツ、と背後――驚くほど近くで発せられた誰かの足音に振り向き――
けれど振り返るよりも早く、首に回された誰かの手が、優奈の首筋を切り裂いていた。
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