婚約破棄も断罪もザマァもありませんが

9L

文字の大きさ
41 / 47

陛下に贈り物されました

 アイディアをまとめるために、蝋板に尖筆スタイラスを走らせる。蝋板というのは木枠で囲んだ板に蜜蝋を塗ったもので、簡単に言えば古代のメモ帳だ。尖筆は先端が細い針状になっている筆記具。反対側は平たくなっていて、こちらで蝋を削り落とすことで文字や絵を消すことができる。
 ──アルストリアに転生してから、私の中の本間海南は生身で古代の文化に触れることができるこの日々をちょっと楽しんでいた。実際にこの世界で生活してみると、ゲームでは細かく描かれていなかったことも多く、地球で知識だけあったようなことを体験できるのはなかなか興味深い。
 時間遡行前の生活でも、リーリエにとっては当たり前の事柄が、本間海南にとっては新鮮で馴染みの無いものだった。乗馬や馬車での移動とか、もちろん魔術もそのひとつ。
 この時代はまだ黎明期といったところだけれど、ブリューヴァルト王国では、魔術は結構生活に根差したものだった。いわゆる生活魔術だ。
 生活魔術というのは、生活に使えるちょっとした魔術全般を指す。たとえば火起こし、火加減の調整。換気や冷風、熱風による室温調整や衣類乾燥──これは濡れた身体や髪を乾かす際にも使われる。そして洗浄や消毒。それから怪我や頭痛腹痛の際の鎮痛──つまり「痛いの飛んでけ」というやつ。魔術というより超能力──念動力みたいなやつ、【物体操作】。軽い予知──天気予報や占いもあって、一家にひとり生活魔術の小加護を持った人がいればとても便利だけど、いなかったとしてもそれらの魔術は大体が魔道具として流通していた。
 もちろん、文字を書く魔術──というのもある。魔術の文字は空中にも壁にも地面にも、もちろん紙にも書けるけど、通常の記録には向かない。空中に書いた文字は数秒で霧散するし、物に書いた文字もすぐに消えてしまう。消えるといっても目に見えなくなるだけで、文字の痕跡が消えるわけではない。魔力を通せば再び可視化され、痕跡を消すには【消去】の魔術を使う必要がある。だから魔術の文字は普通、術式の【記述】に用いられる。
 私──リーリエには生活魔術の小加護もあるので【物体操作】もできるけど、だからといって尖筆を魔術で操って蝋板に筆記するのは、色々な意味で効率が悪い。筆のような軽いものなら、手で持って直接動かした方が魔力も体力も精神力も消耗が少ない。なんでもかんでも「魔術を使った方が楽」というわけじゃないのです。
「まあ、ロマンはあるけどね?」
 ファンタジーなフィクションでよく見るやつなので、本間海南としては憧れがあった。フォントのデザイン二十二文字目で躓いたので、気晴らしに尖筆を浮かせてみる。
 軽い魔力操作で宙を舞う尖筆。それを適切な角度で蝋板の上に下ろし、一本の線を引く──針状の先端ではなく、反対側の平たい部分で。
 本間海南はフォントデザイナーではないけれど、レタリングやカリグラフィーを趣味のひとつとしていた。古代の書体といえば、一番に思い浮かぶのはローマンキャピタルだ。紀元前1世紀頃からローマの碑文に使われていたという書体で、ローマンアルファベットの基礎となっている。
 もちろん、この世界で使われている文字はローマンアルファベットではないけれど、文字である以上は線で構成されている。刺繍の書体をデザインする上で、ローマンキャピタルの美しく均整のとれた可読性の高いデザインは大いに参考になった。
(この文字はちょっとOに似てるから難しい)
 いっそ直線で形を作ってみようかと思ったけど、それではこの文字に見えない。
「やっぱり曲線で、縦を太く、横を細く、かなぁ」
 などと唸っていると、背後でノックの音がした。
「どうぞ」
 椅子ごと身体を回して確認すると、扉を開けて入ってきたのはティアーナ様だった。
 彼女は今日の午後、隣のアレヤト村とは反対側にある集落付近で魔物が出たという報せを受けて、数人の兵といっしょにそちらへ魔物討伐に向かっていたはず。
「討伐は終わったんですか?」
「ええ、とっくに。もう夕食時でしてよ」
「へっ!?」
 言われて背後の窓の外を見ると、すっかり日が暮れていた。そういえば部屋も暗くなっている。
「全然気付かなかった……」
「それだけ集中なさっていたのでしょう。お疲れさまですわ」
「あ。今の響き、ちょっと関西弁でした?」
「ふふっ」
 ティアーナ様は前世を告白されて以来、私やゲートルード様の前ではちょっとしたボケというか、軽く冗談をおっしゃるようになっていた。前世の気質によるものだと思うけど、それは「ルプクル」のティアーナ様のイメージを損なうようなものではなかった。
 
 炊き出しの会場である広場には、相変わらず人々が大勢集まっていた。と言っても、人口からの比率で言えば、炊き出しを利用する人の割合は減ってきている。はじめの頃より集落の人口は増えているし、炊き出しに集まる顔ぶれも変わっているのに、人数はさほど変わっていない。
「商会創設から一ヶ月後には炊き出しを終了する計画だよ」
 広場の入口でばったり出会ったダイアルート陛下は、今日の夕食である肉料理──羊肉に香草を巻いて蒸し焼きにしたもの──を受け取りながらそう仰った。
「物流が安定してきたからですね」
「それに、今後は物がなくても食料を得られるようになるからね」
 商会の運用が始まれば、これまで物々交換が主流だった周辺地域の人々も、金銭による商取引に移行することになる。仕事の収入も、物ではなくお金で得られるようになるだろう。
 物々交換では消耗品のレートが高くなりがちだ。特別なときにしか使わないものよりも、毎日使うものの方が皆に必要とされるからだ。当事者間の需要と供給が見合わないと取引自体が成立しないという問題もあった。それに、需要と供給が噛み合っていても公正な取引とは言いがたい場面もあった。野菜がほしい大工さんが、家がほしい野菜農家さんに、家を建てる代わりに野菜をもらうというのは──どう考えても価値が釣り合っていない。基準が曖昧なのでトラブルに発展することも多く、実際この半年間、そういう争いの仲裁に入ることもよくあった。
 ──取引するものがお金に変わったところでトラブルが起こらなくなるわけではない──というかむしろ増えるだろうけど、明確な基準ができることで争いをおさめやすくはなるでしょう。
「そういえばここに来てからお金を見ていませんが、新しく造幣するのですか?」
「今のところは外貨や旧帝国貨幣が使われているけれど、将来的にはそうすることになるだろうね」
「貨幣が残っているのですね」
「もはや他国にとっては金属としての価値しかないものだけどね」
 ダイアルート陛下は少し寂しそうに笑い、懐から皮袋を取り出した。結ばれた紐をほどき、中から一枚の金貨を取り出す。
 表面には冠を被った男性の肖像、裏面にはアルス神の肖像が刻まれている。
「これは我が主、我が君、ヨアヒーム陛下が発行させた最後の金貨だよ」
 古代に限らず、皇族は自分で買い物をしないので、特に女性はお金を見たことがない人も珍しくない。シュヴァルツリヒト帝国の第七皇女リーリエも、お金に自分の手で触れたことはなかっただろう。
 もちろん、ドラグネスト帝国の第七皇女リーリエも同じだ。私の養育やその他の用途に使うための予算はあっただろうけど、自分でそれを管理していたわけじゃなかったし、ブリューヴァルト王国の侯爵令嬢となってからも、十二歳まではお金も財布も持ったことがなかった。
 ダイアルート陛下はそういう「リーリエ」の事情を考慮してか、金貨を私に差し出し、てのひらの上にそっとのせてくれた。
 サイズは50円玉くらい。厚みがあって少し重たい感じがする。金色の輝きは思っていたより赤みを帯びていて、技術的な問題か形は正円ではなく、縁が歪んでいる。
 リーリエの知識によれば、シュヴァルツリヒト帝国の貨幣は表に代々の皇帝の肖像が描かれていて、時代によって金の純度が異なるのだとか。
 よく見るとヨアヒームの肖像は、見覚えのある横顔だった。
「お父様」
 それは養父クォーツライトではなく、実父──ドラグネスト最後の皇帝。
 ──ヨアヒームとリーリエの父の間に血縁関係はないはずなのに、どうしてこんなにも似ているんだろう?
 じっと見つめていると、なんだか視界が滲んでくる。
「あ、あれ? 私……なんで」
 父のことなんて、ほとんどなにも覚えていないに等しいのに。
「リーリエ」
 ダイアルート陛下の指先が、私の目許に触れる。それは流れ落ちたものを優しく拭って、すぐに離れていった。
 
「それは君にあげよう」
感想 0

あなたにおすすめの小説

魔の森に捨てられた伯爵令嬢は、幸福になって復讐を果たす

三谷朱花
恋愛
 ルーナ・メソフィスは、あの冷たく悲しい日のことを忘れはしない。  ルーナの信じてきた世界そのものが否定された日。  伯爵令嬢としての身分も、温かい我が家も奪われた。そして信じていた人たちも、それが幻想だったのだと知った。  そして、告げられた両親の死の真相。  家督を継ぐために父の異母弟である叔父が、両親の死に関わっていた。そして、メソフィス家の財産を独占するために、ルーナの存在を不要とした。    絶望しかなかった。  涙すら出なかった。人間は本当の絶望の前では涙がでないのだとルーナは初めて知った。  雪が積もる冷たい森の中で、この命が果ててしまった方がよほど幸福だとすら感じていた。  そもそも魔の森と呼ばれ恐れられている森だ。誰の助けも期待はできないし、ここに放置した人間たちは、見たこともない魔獣にルーナが食い殺されるのを期待していた。  ルーナは死を待つしか他になかった。  途切れそうになる意識の中で、ルーナは温かい温もりに包まれた夢を見ていた。  そして、ルーナがその温もりを感じた日。  ルーナ・メソフィス伯爵令嬢は亡くなったと公式に発表された。

今更戻れと言われても遅いです!〜社畜の記憶が覚醒した冷遇夫人は、無能な元夫を完全無視して隣国の王太子と最速で黒字人生を掴み取ります〜

コルク傘
恋愛
「今日からお前は別棟へ移れ。この屋敷にはロザリアを迎え入れる」 地味で無能と蔑まれ、五年間も夫・ギルバート侯爵に冷遇されてきたエルザ。 愛人を本邸に連れ込むと言われ、幼い息子レオと共に追い出される途中で、不運にも馬車事故に遭ってしまう。 だが、死にかけた衝撃で目覚めたのは――前世の記憶。 それは、徹夜続きの修羅場をいくつもくぐり抜けてきた、超有能な国家公務員「特級政務官」としての最強の社畜スキルだった! 「未練? 悲しみ? そんな生産性のない感情に割くリソースは一ミリもありません」 夫への未練が綺麗さっぱり消滅したエルザは、病室で目覚めるなり、完璧なビジネスマイルで離婚届を突きつける。 焦る元夫、マウントを取ろうとする愛人を、圧倒的なロジカルハラスメントと超効率的な事務処理能力で完全論破! レオの親権と資産を最高効率でむしり取ると、ゴミのような元夫に見切りをつけ、さっさと国境を越えて隣国へ。 隣国では、エルザの規格外の有能さを見抜いた若き王太子・レイードに望まれ、国家の「特別政務官」に就任。 前世の知識を活かした新事業で隣国を大黒字に導き、天才的な才能を開花させた息子レオと共に、完全定時退社で極上のハイスペックスローライフを満喫することに。 一方、エルザという「真の頭脳」を失った元夫の侯爵家は、家計も領地運営も大炎上して完全破産。 今更「お前が必要だ、戻ってくれ!」と泥まみれで泣きついてきても、もう手遅れです。 業務の邪魔ですので、迅速に排除(タスク処理)させていただきます。 元社畜の有能夫人が、言葉ではなく「圧倒的な成果と完全無視」で元夫を地獄へ叩き落とす、最高にスカッとする逆転無双ファンタジー!

新 悪役令嬢を愛した転生者の母

猫崎ルナ
恋愛
悪役令嬢になるはずだった娘を出産した瞬間、前世の記憶を思い出しました。 どうやら私は乙女ゲームに登場する、公爵夫人らしいです。 いや、登場シーンはほぼないけどね? このままだと私は育児放棄をし、娘は悪役令嬢として断罪される模様。 …いやいやいや。 そんな未来、全力で阻止します! 娘を溺愛し、夫と仲直りし、使用人たちに慕われながら未来を改変していたら、なぜか攻略対象たちまで屋敷に集まってきて… これは悪役令嬢の母となった私が、愛する娘の幸せのために奮闘する物語。 ⚠︎これは以前書いたものを書き直したものとなっています。 以前と設定が変わったところがあり、そのまま書きづつけるよりもはじめからと…申し訳ないです。 1話目にある(短編版)は短編で出したものになっております。 連載版本編は2話目からになりますので、 最初の1話は読まなくても大丈夫です。

あの、初夜の延期はできますか?

木嶋うめ香
恋愛
「申し訳ないが、延期をお願いできないだろうか。その、いつまでとは今はいえないのだが」 私シュテフイーナ・バウワーは今日ギュスターヴ・エリンケスと結婚し、シュテフイーナ・エリンケスになった。 結婚祝の宴を終え、侍女とメイド達に準備された私は、ベッドの端に座り緊張しつつ夫のギュスターヴが来るのを待っていた。 けれど、夜も更け体が冷え切っても夫は寝室には姿を見せず、明け方朝告げ鶏が鳴く頃に漸く現れたと思ったら、私の前に跪き、彼は泣きそうな顔でそう言ったのだ。 「私と夫婦になるつもりが無いから永久に延期するということですか? それとも何か理由があり延期するだけでしょうか?」  なぜこの人私に求婚したのだろう。  困惑と悲しみを隠し尋ねる。  婚約期間は三ヶ月と短かったが、それでも頻繁に会っていたし、会えない時は手紙や花束が送られてきた。  関係は良好だと感じていたのは、私だけだったのだろうか。  なんて、か弱く嘆いてなんていられない、私は幸せになるために嫁いだのだから。 ボツネタ供養の短編です。 十話程度で終わります。

婚約破棄された令嬢は、“神の寵愛”で皇帝に溺愛される 〜私を笑った全員、ひざまずけ〜

夜桜
恋愛
「お前のような女と結婚するくらいなら、平民の娘を選ぶ!」 婚約者である第一王子・レオンに公衆の面前で婚約破棄を宣言された侯爵令嬢セレナ。 彼女は涙を見せず、静かに笑った。 ──なぜなら、彼女の中には“神の声”が響いていたから。 「そなたに、我が祝福を授けよう」 神より授かった“聖なる加護”によって、セレナは瞬く間に癒しと浄化の力を得る。 だがその力を恐れた王国は、彼女を「魔女」と呼び追放した。 ──そして半年後。 隣国の皇帝・ユリウスが病に倒れ、どんな祈りも届かぬ中、 ただ一人セレナの手だけが彼の命を繋ぎ止めた。 「……この命、お前に捧げよう」 「私を嘲った者たちが、どうなるか見ていなさい」 かつて彼女を追放した王国が、今や彼女に跪く。 ──これは、“神に選ばれた令嬢”の華麗なるざまぁと、 “氷の皇帝”の甘すぎる寵愛の物語。

『ここは乙女ゲームの世界らしいので全力で攻略します(※違います)』

りさ
恋愛
五歳で前世を思い出した公爵令嬢リリアは、ここが乙女ゲームの世界だと信じて疑わなかった。 だって目の前に現れた美少年が、どう見ても攻略対象だったから。 「あなた側近候補でしょ!」 初対面でそう言い放った相手は、実は王太子殿下。 もちろんリリアは知らない。 幼馴染だと思っている。 本人だけが。 黒魔術を探したり、神様を召喚しようとしたり、聖剣を求めて庭を駆け回ったり、スローライフのために畑を作ろうとしたり。 存在しないイベントを今日も全力で攻略中。 そんな勘違い令嬢リリアと、昔から彼女を面白そうに見守る王太子ルイ。 これは、乙女ゲームだと思い込んだ少女が、気付かないうちに本物の王太子の心を攻略していく物語。 なお、この世界は乙女ゲームではない。 そしてルイは側近候補でもない。 勘違い令嬢リリアと、そんな彼女に振り回される周囲がお送りする異世界勘違いラブコメディ! 『ここは乙女ゲームの世界らしいので全力で攻略します(※違います)』

【電子書籍化】悪役令嬢に転生しましたがモブが好き放題やっていたので私の仕事はありませんでした

蔵崎とら
恋愛
まさかの電子書籍化決定しました!発売日は4月25日です。 かなり大幅な加筆をしております。 詳細は活動報告をご覧ください! 権力と知識を持ったモブは、たちが悪い。そんなお話。 このお話は他サイトにも掲載しております。

良くある事でしょう。

r_1373
恋愛
テンプレートの様に良くある悪役令嬢に生まれ変っていた。 若い頃に死んだ記憶があれば早々に次の道を探したのか流行りのざまぁをしたのかもしれない。 けれど酸いも甘いも苦いも経験して産まれ変わっていた私に出来る事は・・。