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第一章 クジラと虎とフィルムカメラ

第一章 2 お聞く虎

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       * 2 *


 辺りは夜みたいに真っ暗に見えた。

 本当は太陽の光がいっぱい降り注いでるのに、あたしに見えているものはみんな薄暗くて、はっきり見ることができなかった。
 あたしは地面の上に座り込んでる。

 水溜まりの上に座り込んでるみたいに、お尻が濡れて気持ち悪かった。
 膝の上に乗せてるものがすごく重くて、その上熱くて、でもどんどん失われていく熱さを、あたしはどうすることもできない。

 喉が痛かった。

 あたしはずっと何かを叫んでいて、でも何を叫んでいるのか自分でもわからなくて、よく見えない膝の上に向かって叫んでるのはわかってるのに、何に向かって叫んでるのかもよくわからなかった。

 ――嫌だ。

 その思いだけが、あたしの中にあった。

 ――嘘だ。

 目の前で起きてることを、あたしは信じたくなかった。
 右腕で抱き寄せたものから熱いものがどんどん流れ出していって、左手を握り返してくれる力が、少しずつ小さくなっていくのを感じていた。

「やだ」

 あたしはただ、それを拒絶する。

 どうしてこんなことになったのか、わからなかった。
 どうしてこんなことにならなくちゃいけないのか、ぜんぜんわからなかった。
 どうしてもこんなことを、認めたくなかった。

 だからあたしはあふれ出してくるのを止めることができない涙を流しながら、それを否定することしかできなかった。

「――」

 腕の中で、音が聞こえる。
 聞こえているのに、よく聞こえない。よく聞こうと耳を近づけるのに、あたしの耳から入った音は、半分も頭の中に残ってくれない。

「僕はもう……。嘘、だ。シにたくない。イーリス――、シね……。僕はもっと、――生きたかった……」

 もう一度ちゃんと聞きたい。
 そう思うのに、彼の口から声が出てくることはなかった。
 あたしは、彼の言った言葉の意味を、理解することができなかった。

 ――こんなの全部嘘だ。

 そうとしか思えなくて、あたしはいま目の前にあるものを否定する。

「こんなこと、いらない」

 なくなってしまえばいいと思った。
 彼の身体が冷たくなっていくのと一緒に、あたしは寒さを感じるようになっていた。
 震え出しそうになるのを必死に堪えて、できるだけの力で彼の手を握る。

 ふと、暖かさを感じた。

 震えそうになる身体を背中から誰かが抱きしめてくれるみたいに、あたしは暖かさに包まれる。
 その暖かさは、あたしに力をくれてる、そんな気がした。
 だからあたしは、いまの想いを強くする。

 ――こんなこと、なくなってしまえばいい。

 こんなことが世界からなくなってしまえば、こんな気持ちになることはもうないと、あたしは思った。
 だからあたしは、それを世界から無くす。
 何かがくれている力に、あたしはあたしの想いを託す。

 ――全部全部、嘘。こんなもの、世界からなくなってしまえ!

 そうあたしが心の中で叫んだ瞬間、左手を握ってくれていた力が、くたりと失われた。


         *


「――?」
「――?!」

 耳に大きな声が聞こえてきて、あたしははっと目を開ける。
 夢を見ていた気がする。
 何か、とても大切な夢。
 でも目を開けた瞬間、あたしはそれをすっかり忘れてしまった。
 目を開ける一瞬前まで憶えていたはずのことが、煙のように霧散してしまった。
 頬杖を着いた手から頭を上げて周りを見てみると、いつの間にか授業が終わってたのか、クラスのみんなは帰り支度を進めていた。

「盛大に寝てたなぁ」
「うん。先生には気づかれなかったみたいだけど」

 机の前であたしに声をかけてきているのは、九重沙倉と篠崎マリエちゃん。

 陸上部の期待のホープで、ベリーショートの髪をしている沙倉とは一年のときから同じクラス。活発で裏表のない彼女とは一年のときにすぐに友達になって、いまでも仲の良い友達だった。

 背の高い沙倉とあたしはずいぶん身長差があるんだけど、それよりもさらにもう少し低いマリエちゃんは、この四月に同じクラスになった子で、背の高さに反して身体の成長は著しい。
 あたしがうらやましく感じるところは彼女にとってコンプレックスなのか、少し引っ込み思案なところはあるけど、結構明るくて、何だか中学の頃からの友達とおもしろそうなクラブをつくってる楽しい女の子だった。

 他にもクラスには友達はいるけど、ふたりとはとくに仲が良くて、休みの日に一緒にお出かけしたりしていた。
 確か六時間目の授業が始まったときまでは意識があったのに、いつの間に寝ていたんだろう。先生に気づかれなかったのは幸いだけど、苦手な数学を丸一時間聞いてなかったのは問題だ。後で復習しておかないと、授業に追いつけなくなる。

「……後で授業の内容、メールで送って」
「んー。アタシも数学苦手だから、参考になるかなぁ……」
「同じく……」

 ――頼りにならない友達だっ。

 なんて自分のことを棚に上げつつ思って、あたしはふたりの向こうにある席を見てみる。
 やっぱりそこには人は座ってないし、椅子の位置も変わってる様子はない。今日一日空席だったにも関わらず、先生もクラスのみんなも気にしてる様子はなかった。

「そうだそうだ、アイ。ちょっとマリエからおもしろい話を聞いたんだけどさ」
「うん。近くにある喫茶店に、占い師? みたいなことをしてる人がいるって聞いたの。何だかすごい人らしいんだけど、アイリスも行ってみる?」
「んー」

 机の上に広げてたスレート端末なんかを鞄に仕舞いつつ、あたしは返答に困る。
 あたしのことをアイとアイリスと、それぞれの呼び方で呼ぶふたりの期待の籠もった顔に、あたしは迷っていた。

「どうしようかなぁ」

 占いに興味がないわけじゃない。そんなに信じてるわけじゃないけど、マリエちゃんの言う「みたいなこと」っていうのがちょっと気になってたりしていた。それもなんで喫茶店にいるんだろう、と言うのも不思議でおもしろそうだった。

「おもしろそうだね」
「だろう?」

 まるで自分のことのように満面の笑みを浮かべる沙倉。
 お店の名前とか場所を聞いてるときに、がたんっ、と椅子が大きな音を立てた。
 放課後とは言えあたしたちがうるさくしていたからか、帰り支度を終えて立ち上がった曽我さんが、あたしのことを朝と同じように睨みつけてきていた。
 朝もそうだったけど、曽我さんがあたしを睨んでくる理由がわからない。

 何かを言うより先に、あたしの視線に気づいた沙倉とマリエちゃんが曽我さんに振り返る。
 三人分の視線を受けたからか、曽我さんは何も言わないまま鞄を肩に担いで教室を出て行ってしまった。

「なんだよ、アイツ」
「どうしたんだろうね? 泣いた後みたいな感じだったけど」
「わからないんだよね……」

 曽我さんのことがよくわからないまま、あたしは三人で教室を出て、昇降口に向かう。
 下校する生徒がひと段落して空き始めた昇降口で、下駄箱に携帯端末を近づけて小さな扉を開け靴を取り出して履き替える。

「それでどうする? アタシたちはこのままそのお店に行くつもりだけど」
「んー。今日はやめとく。また今度一緒に行こ」
「んじゃ、明日にでも報告するな」
「またね、アイリス」
「うん、また明日」

 校門を出て左に曲がっていったふたりに手を振って、あたしは家に帰るために右を見る。
 ふたりの誘いを断ったのは、今日は早めに帰りたかったから。占い師っぽい人には興味があったけど、また今度行くことにした。

 ――今日は早く帰って、それから……。
 右を見たあたしは、何でか首を傾げた。
「あれ? 何だったっけ?」

 すぐ右にあるものに手を伸ばそうとしていたことに気がついて、あたしの手は止まる。
 三人で出てきたんだし、鞄は左肩に担いでる。だからあたしの右には何もないことなんてわかってるのに、理由もわからずあたしは、右に手を伸ばしていた。
 思ってみれば今日早く帰りたかった理由もよくわからない。別に用事があったわけじゃないのに、なんで今度行こうなんて思ったのか、あたし自身わかってなかった。

 ――あの誰も座ってない席も、右側だったな。

 教室の空席も、あたしの右側にあった。
 たぶんたまたまなんだと思う。
 でも何でか、あたしの右側にはいつも何かがあったような気がしてる。
 ……誰かが、いたような気がしてる。
 思っていても、何かがあるわけじゃない。誰かがいるわけじゃない。
 不思議な感覚にとらわれながらも、もう沙倉もマリエちゃんも姿は見えない。仕方なくあたしは家に帰ろうと歩き始めた。




「んー」

 交通量の多い国道沿いを避けて、少し遠回りした川沿いの道。河川敷があるほど広くなく、鴨がゆったりと浮かんでいたり、鯉が群れを為して泳いでいたりする川沿いの土手の上を歩きながら、あたしはうなり声を上げていた。

 ――なんでだろう。

 どうしても右の空間が気になって仕方がない。
 何かがあった気がするのに、何かがあった記憶がない。
 あった記憶がないものがあるような気がする奇妙な感覚が、忘れようとしても忘れることができなくて、あたしは口を尖らせながら考え込んでいた。

 ――あたしは何を探そうとしてたんだろう。

 あの空席を見たときに思わずつぶやいちゃった言葉。
 あたしは何かを探さないといけない気がしたのに、その想いは一瞬胸の中が焼けついちゃうくらい強かった気がするのに、でもそれがいったい何なのか、はっきりしなかった。
 胸の中にわだかまっているのは、固く閉ざされた箱。
 実際にそんなものがあるわけじゃない。でも固く閉じて開けることができない箱が胸の中にあるような気がして、そんなもの捨ててしまいたいと思うのに、とても大切なものが入っているような予感もあった。

 眉根にシワが寄って不細工な顔になってるのはわかってるけど、あたしはうなり声を上げながら思い出そうと当てもない記憶を掘り返そうとしていた。

「何か悩み事かい?」

 川に近い右側から声がして、あたしは思わずそっちの方を見る。
 でも誰もいない。
 ランニングの人とか犬の散歩の人に声をかけられたのかと思ったけど、そうじゃなかったらしい。

 下に目を向けてみると、見事な毛並みをした虎が、あたしと並んで歩いていた。
 なんでこんなところに虎がいるんだろう、って思う。
 不思議と怖くはなくって、つやつやとした毛並みを撫でてみたくなるような、そんな親近感があった。
 いつも近くで見ていたもののような、親しみさえ感じる虎に、あたしは返事をする。

「うん、ちょっとね」
「ほう」

 ネコ科特有の瞳を縦に細めながら、雄らしい大きな身体の虎は、あたしに言う。

「悩みがあるなら聞いてあげよう。何でも話すといい」
「んー」

 虎に話したところで、どうにかなるようなことでもない気がする。
 あたし自身、右の空白に感じてる違和感が、どうして感じてるものなのかわからないんだから。
 と、そこまで考えたところで、疑問が浮かんできた。

 ――虎ってしゃべるんだっけ?

 犬がするようにお座りの格好で立ち止まった虎。
 意外と可愛らしく思える瞳をじっと見つめて、あたしはそれを訊いてみた。

「あなたってしゃべれるんだっけ?」
「何をおかしなことを言っている。こうしていま話しているだろう」

 言われて確かにその通りだと思う。
 ちゃんといまあたしと虎は意思疎通ができてるんだから、しゃべれるかどうかなんて疑問に思う必要がなかった。
 そう思うんだけど、なんだかもやもやとして気持ちが定まらない。
 事実が目の前にあるんだから疑問に思う必要なんてないのに、何となくすっきりしない気持ちがわだかまる。

「遠慮することはない。話したところで減るものではないだろう?」
「悩みだったら減ってくれた方が助かるんだけどね」

 すっかり聞く体勢で待ってる虎にあたしは話し始める。

「なんて言ったらいいのかわからないんだけど、教室の右側に空いた席があったのね。それからあたしの右側に、いつも誰かがいたような気がするんだけど、それが誰だったのかわかんなくって、先生は空席があるのに全員出席って言うし、そんな気がしてるだけで、あたしの右側に誰かがいた記憶はないんだよね」
「ふむふむ」

 話の先を促すように、虎は大きく頷く。
 目を閉じて、あたしは今日あったことを思い返す。
 誰にも気にされない右側の空席に感じる違和感。
 記憶にない右側にいたはずの誰かに対する不思議な感覚。
 そのふたつはたぶん同じもので、曽我さんに睨まれていたのも、それが原因のような気がしていた。

 ――はっきりしたことは思い出せないんだけどね。

 ちょっとため息を吐いて、それでも固く閉ざされた箱が胸の中にあるような感覚がなくなってくれなくて、あたしは目を開ける。

「何だかすごく不思議な感じがするし、それが何なのかはっきりさせたいと思うんだけど、手がかりがぜんぜんないし、あたしはどうしたらいんだろう? って思って」
「なるほどな」

 あたしの話を聞き終えた虎がもう一度大きく頷く。
 でもあたしのことを見つめてくるばかりで、何かを言ってくれる気配がない。

「どうしたらいいと、思う?」
「さぁ?」
「え?」

 首を傾げてる虎に、あたしも首を傾げるしかなかった。

「悩みを聞いてくれるって、言ったよね?」
「あぁ。だから悩みは聞いた。でも悩みの相談に乗るとはひと言も言ってないぞ」
「いや、それはそうだけど……」

 何おかしなことを言ってるのか、といった感じの澄ました顔の――と言っても虎の表情なんてわからないんだけど――虎に、あたしは話したことを後悔した。

「もっと悩んでみるといい」

 そう言った虎は腰を上げて行ってしまう。

「もっと悩んで、それでも答えが出なかったら、また悩みを聞いてあげよう。聞くだけだがな」

 言うだけ言って、虎は土手を走って行ってしまった。

「はぁ……」

 何だかすごく疲れを感じて、あたしは家に向かってとぼとぼと歩き始めた。
 話してみて、やっぱり不思議な感覚がはっきりあるのを感じた。
 胸の中に重苦しいものがしまい込まれてるみたいになってて、それをどうにかしたいと思うのに、どうすることもできない自分に気がついた。
 右側に手を伸ばして、そこにはない何かをつかんでみようとしてみる。
 もちろん何もないんだからつかめるわけはないんだけど、そうしたらそこにあるものに、触れられるような気がした。
 握った手のひらに感じたのは、まだ少し冷たさの残る空気だけだった。

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